004 帰り道には雨イベントが埋まっている。

 太宰を迎えての初の部活が終わり、文芸部一同は夕日に照らされる校舎を出た。西日に照らされ、六本の長い影が黄昏へと伸びる。


「私達は裏門からの方が近いから、ここでさよならね。」


「同じく――、部活初日ご苦労だった。」


 森部長と川端副部長に別れを告げ、残る部員たちは正門方向へと向かう。


 その途中の自転車置き場では、生徒たちの自転車が無造作に停められている。度々、綺麗に並べるように注意喚起が促されているが、駐車スペースが足りないのがそもそも乱雑に見える原因である。


 地元民の中原と谷崎は、大量に並んだ自転車の山から、なんとか自分のチャリを引っぱり出した。


「黄昏が教えてくれる別れの時――走れ、時の創生クロノジェネシス。」


 中原は愛車である、時の創成クロノジェネシス(ママチャリ)に跨ると、全力で立ち漕ぎしながら颯爽と立ち去っていった。


「お疲れさま~、またあしたね~。」


 同じく自転車通学の谷崎が、中原の後に続いて去っていく。


 夕焼けの下には、芥川と太宰の二人の影だけが残った。帰る方向が一緒だったことが判明し、二人は肩を並べて歩く。


「初日から大変だったな。疲れてないか?」


 芥川の問いに、太宰は「はい。とっても楽しかったです。」と言って笑った。


 笑った口元は少しぎこちないが、その分彼女の瞳には、確かな嬉しさや楽しさが映し出されていた。瑞々しく澄んだ黒い瞳は、オレンジ色の夕日と相まって、夕日が沈む前の海岸線のようにキラキラ光って見える。どこか遠慮がちだが、それでも本心で楽しかったということが伝わってくる笑顔だ。


「そっか、それならよかった。太宰は昔から小説とか好きだったの?」


 その問いに太宰は、少し答えに戸惑うような表情を見せた。


「そう……ですね……。私……小さい頃から、家で一人過ごす時間が多くて……。家には本がたくさんあって、だから好きだからというよりは、本を読む事しかすることがなかったんです。現実から目を背けるというか、閉じ込められた部屋から外の世界に行くための手段でした。」

          (※太宰は幼少期、ネグレクトを受けていたといわれる。)


 物心ついてから現在に至るまで、彼女には笑う機会がほとんどと言っていいほどなかった。人生における多くの時を一人で過ごし、共に過ごす人がいない代わりに本と共に過ごした。


 自身の過去を語る彼女の瞳に影が差したのを、芥川ははっきりと感じ取った。日が沈み切った夜の海のように、先ほどまでの輝きは消え表情もまた曇っていく。


「正直なところ、毎日不安でいっぱいなんです。今日だって、私はとても楽しかったですが、みなさんはどうだったのでしょうか。こんなつまらない人間が、文芸部に入れさせてもらって、小説なんて書いていいのでしょうか……。」


 肩をすぼめる太宰は、平常時以上にさらに気弱に見え、そのまま消えいりそうな儚さを感じさせた。そんな彼女を見て、芥川も以前は彼女と同じような状態であったことを思い出す。


「その気持ちはよくわかるな。……っていうか、俺も似たような感じだったし。」


「えっ……? 芥川先輩がですか?」


 意外そうな表情を示す太宰であったが、芥川もまた彼女と同じように暗く、深い悩みを抱えた時期があった。


 芥川がまだ幼い頃に、彼の母は精神を病んで発狂して死んだ。

    (※芥川の母は精神を患い、母の死後は叔父叔母夫婦の元で育つ)


 その当時の彼もまた、現実を直視できず本の世界へと逃げ込んだ。幸い叔父叔母夫婦は芥川に親切に接してくれたが、それでも芥川はいつしか自分も母のように発狂するのではないか――という不安や、母の愛を知らずに育った自分に欠如したものがあるのではないかと感じていた。


 当時の芥川は、学校をさぼる日も多く、部屋に一人籠って本を読んでいることが多かった。ある日のこと、それでは気が滅入って母のようになるのでは、と心配した叔母に「たまには外で遊んできなさい」と、やや無理やり外に放りだされることがあった。


 実際、芥川は精神を病んでいたのだろう。市内を流れる河川を見つめていると、思わず飛び込みたくなるような衝動に駆られる。


 何となく遠くに行きたくて、その日はただひたすら川沿いを下って歩いていった。歩き疲れて川沿いでしゃがみこんでいた芥川に、一人の男が話しかけてきた。


「そんな辛気臭い顔をしてどうしたんだい。何か嫌なことでもあったのかな?」


 ふと顔を上げると、人の良さそうな中年のおじさんの姿があった。髪型はしっかり七三で分けられ、よく手入れされていそうな紺のスーツを着ている。


「おじさん……誰。」


 見知らぬ人物に突然話しかけられたが、芥川は一切の感情を示さなかった。抑揚のない冷めた芥川の問いに、男は穏やかな声で答える。


「おじさんは、高校で文芸部の顧問をしているおじさんです。」


「文芸部……」


 文芸部という言葉を聞いて、わずかに少年の表情が変わったことに、中年男性は自慢の髭を撫でながら微笑んだ。笑うと目尻下がるその人の微笑みは、相手から邪気を消し去る性質を持つ笑みだ。


「ふふ、文芸部というのはね、小説を書いている変な人たちが集まる場所のことですよ。」


「変な人……? 文芸部の人が小説を書くってことくらい知ってる……。おじさんも、小説を書いてる変な人なの?」


「そうですね。学校の先生をしながら、小説家の先生もしてる変な人ですね。小説というものは、読むのも書くのもどちらも楽しいですよ。」


 小説からこれまで生きるための力や知恵を、多少なりとも与えられていた芥川は、小説家を名乗るこの男に少なからず興味を抱いた。しかし、ふと母が周囲から「変人」・「狂人」だと揶揄されて、精神を病んで死んでいったことが思い出された。


「……変人はきらいだ。」と、芥川は消え入りそうな声で呟いた。


「人と変わっていることは、決して悪いことではありませんよ。」


「……そんなの嘘だ。」


「嘘ではありません。」と、男はきっぱりと断言する。


「人と変わっているという事は、特別だということです。誰にも見いだせない独自の感性や価値観、それらは決して卑下するものではありませんよ。人と変わってることは、決して悪い事ではない。殊更、小説の世界において、人と違うというのは素晴らしいことです。」


 その言葉は芥川の胸に響いた。自分の母は決して悪い人間ではなかったのだと。そう思わせてくれる言葉が、芥川にとって大きな救いになった。


「それでも……変な人って呼ばれるのは……やっぱり怖い……。」


「それもまた悪い事ではありません。人と違うというのは、怖いものです。しかし、そういった色んな感情や価値観を持つからこそ、人という生き物は面白い。複雑な感情を持つ人間が、その気持ちを必死に言葉で紡ごうとする小説だからこそ、読んだ人の心までをも大きく揺さぶることができます。」


「ねぇ……、おじさん。僕にも……、小説は書けるだろうか。」


「もちろんです。小説を書くことに、免許も資格も何も必要ありませんよ。あるとすれば、自由に書を読み、自由に事を言ひ、自由に事を書かんと望む熱い心だけです。」    (※夏目漱石の実際の言葉から参考)


 その中年男性は、夏目という名の男であった。そういえば、最近読んだ小説の作者に、そんな苗字の人がいたような気がした。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「――それで家に帰ってから調べてみたら、夏目漱石って名の小説家だってわかっただよ。」


 帰り道を歩きながら、芥川は昔の思い出話を太宰に語った。その間、太宰は一切の言葉を挟まず、真剣な表情で聞き入っていた。


 夕焼けの空は赤く染まり、西に向かって小さな鳥の影がいくつか列となって飛んでいる。その小さな群れは、棚引く雲の影に隠れるように姿を消した。


「のどかな春の日を 鳴き尽くし、鳴きあかし、また鳴き暮らさなければ気が済まんと見える。その上どこまでも登って行く、いつまでも登って行く。雲雀はきっと雲の中で死ぬに相違ない。登り詰めた揚句は、流れて雲に入って、漂うているうちに形は消えてなくなって、ただ声だけが空の裡に残るのかもしれない。」

                      (※夏目漱石『草枕』から引用)


 芥川が諳んじたのは、夏目漱石の著書にある一節だった。


「夏目先生の小説の一節――『捉え方は読者に任せてます』と言って、先生は教えてくれないけれど、この雲雀は小説家を意味してる気がするんだ。」


「雲雀が……小説家を意味する。」と太宰は芥川の言葉を繰り返す。


「小説家は、書いて、書いて、また書き尽くさなければ気が済まない。どこまでも書き続けて、誰にも知られずひっそりと死んだとしても、書いた小説だけはこの世界に確かに残り続ける。」


 河川敷で夏目先生と出会い、芥川は小説を書き始めるようになった。芥川にとって、自分の書いた小説が後世に残ること――それが一つの生きる目的となった。目的が定まったことは、生きることに希望を見出すことでもある。


「小説を書きたいって思うなら書けばいいと思う。自分が変な人間だとか、つまらない人間だとか思うなら、なおのこと書いた方がいい。そこから何を得られるかは、自分次第だと思うけれど――きっと何か、素敵なものが残ると思うんだ。」


 話を聞いているうちに、太宰の瞳には涙が込み上げていた。瞳から溢れた涙がつっと彼女の頬を流れる。


「私は……本当に……つまらない人間です。全然友達いないし、根暗で、笑顔を作るのが苦手で、面白い話もできない、家族とすら上手く関われない、すぐに死にたがるような……そんなつまらない人間です。」


 太宰は溢れてきた涙を袖で拭いながら、嗚咽まじりに言葉を紡いだ。


「こんな私でも、何か見つかりますかね……?」


 太宰の問いに対し、芥川は持ち得る限りの心を込めて言葉を紡いだ。


「あぁ、きっと大丈夫だよ。自分に欠点を抱えてる人ほど、素晴しい世界を創造したり、誰かが創造したものを素直に受け止めたりできる。そんな謙虚に、懸命に生きる人が何も見つけられないはずはない。」


「芥川先輩……、ありがとうございます。私を励まそうと、色々な話をしていただきて……すっごく……、嬉しいです。」


(芥川先輩は、やっぱり思っていた通りの人だった……。)


 昨年の学祭――文芸部の部誌には、文芸部員たちの作品が掲載されていた。その中でも特に心惹かれた芥川の小説、その一節が思い出される。


『完全に自己を告白することは、何びとにも出来ることではない。同時にまた、自己を告白せずには如何なる表現も出来るものではない。』


 芥川が部誌で書いた小説は、孤独で空虚な人生を歩んできた主人公が、小説という媒体を通して人々と繋がり人生の意味を模索していく話だった。それはまるで自分のために書かれた小説だと思った。今まで読んできたどんな偉い人が書いた小説よりも、安っぽい紙で印刷されたその小説に心動かされた。 


 彼女が思い切って文芸部の扉を叩いたのは、一体どんな人がこの小説を書いたのか興味をもったからだ。


 芥川は、自分の母が発狂して死んだという辛い過去も、今の生きる希望を得るまでの経緯も、私を励ますために全て曝け出して語ってくれた。


 そんな彼に対する尊敬や憧れといった想いを確信するとともに、キュッと胸を締め付けられるような感じがした。鼓動がドキドキと速くなり、熱っぽいような妙な汗が滲んでくる。しかし、それは決して風邪を引いた時のような不快なものではなく、むしろ気分が弾むようであり、今まで感じた事のない甘美的な不思議な心地がした。


「どうした……? なんか顔が赤いけど……風邪でも引いてるのか?」


「ふぇっ!? えっ、え~と……。そ、そうかもしれないですね!」


 初めての感覚に、太宰は激しく取り乱していた。芥川に顔を覗き込まれ、その恥ずかしさも相まって、余計に顔が熱くなる。


 何とか頭を冷やさなければ――と、太宰は自分の火照った頬を手のひらで抑えた。


 そんな彼女に天が味方したのか、ぽつぽつ――と空から冷たい雫が二人の頭を打った。晴れた空に優しく降り注ぐ雨が、コンクリートに水玉模様を映し出す。


「おぉ、天気雨か。太宰、傘持ってるか?」


「いえ、すみません……。持ってないです。」


「そっか。っじゃあこれ貸してやるよ。入学早々で風邪引かないようにな。」


 芥川はカバンから青色の折り畳み傘を取り出すと、手際よく広げて太宰へと手渡した。


「えっ! 先輩はどうするんですか!?」


「走って帰るわー。っじゃあまたあした。」


 引き留める間もなく、芥川はくるっと背を向けて駆けだして行く。


「ちょっ……! 先輩が風邪引いたら……どうするんですか!?」


「大丈夫だっ、馬鹿は風邪ひかないらしい!」と返答し、芥川は足を止めることなく走り去った。


 降り続く雨の中、太宰は受け取った折り畳み傘を手に、芥川派の姿が完全に見えなくなるまでその場で佇んでいた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 ――後日、太宰は借りた傘を返すため、二年教室に足を運んだ。しかし、肝心の芥川の姿はない。近くにいた二年の生徒に尋ねたところ、芥川は風邪を引いて学校を欠席していた。


 その二日後、芥川はマスクをして学校に来た。見るからにまだ病み上がりで、あまり顔色はよろしくない。


「芥川先輩……、この間は傘、ありがとうございました……。」


「おぉっ、わざわざありがとう。クラスの奴から聞いたけど、俺の休んでる間、毎日教室まで来てくれてたらしいな。気を遣わせて悪かった。」


 呑気な様子で言う芥川に、太宰は俯きながら「……ばか。」と小さく呟いた。


「えっ?」


「……もう! すっごく心配したんですからねっ! 先輩は馬鹿じゃないから風邪引くんですよっ! ばかっ!」


 借りていた傘を押し付けるようにして返すと、太宰はそのまま走って教室を出ていった。


「おい、どっちだよ……。」


 芥川は病み上がりでまだぼんやりしている頭の中で、まぁ――きっと馬鹿なんだろう――と、深く息を吐きながら天を仰いだ。

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