11巻

「もう限界ですか?」

 血で化粧が施された、塗れた口で笑いかけられる。

 そのまま食した心臓を全て飲み込み、残る口の端から伸びていた太い血管を啜る。動脈たる血管は一瞬だけ鮮血に染まる。だが、残っていた鮮血を吸い終えた時、大動脈は青黒い色へと変化してしまった。血と体液を潤滑油に睦合う夢の時間に終わりを告げる。

「相変わらず、美味しいですね」

 声と共に血以外、何も身に着けていない仮面の方は、同じく何も身につけていない下腹部から降りて床に足を付ける。手を振るだけで赤いビロードを呼び出し、血に染まった身体を覆う。振り返りざまに唇を赤のビロードで拭き、乱れた髪を銀の留め金で纏める。

 一連の行動の最中でも、決して隙を見せない完成された血と白の美学に見惚れてしまう。

「今日は、このぐらいで。まったく褥で私に勝とうだなんて」

 血を拭き終わったとしても真っ赤な唇と同じ。真っ赤な瞳を使って身体を見下ろしてくる。胸と腹部に風穴が開いている身体は、本来ならば腹圧で中身が噴き出ているだろうが、顔を見せるのはわずかな血液のみ。

 わかりきっていた。

 この方と横になるという事は、文字通り、身体を捧げる意味でもあると。

「でも、可愛かったですよ。それに――――ここまで私を求めてくれるなんて。思わず、三回も食べてしまいました。ごちそうさまでした。ゆっくり休んで下さいね」

 声を出そうと喉を絞るが、やはり滲み出るのは血だけだった。息を求めるように開閉する喉に対して、微かに笑った仮面の方は唇で湧き出る血を飲み干して気道を開いてくれた。

「さぁ、どうぞ」

 血で詰まっていた喉を整えてくれた仮面の方は、再生させた心臓を掴んでくれる。

「‥‥愛してます」

「私もです。本当に‥‥心の底から」






「着替え、多過ぎますか?」

「三日間分だし、それぐらいじゃないか?」

 夜明け前。旅行カバンに大量の衣服を詰めたネガイが、自身の荷物と睨めっこをしていた。確かにネガイの言う通り、三日分の着替えにしては多く見えるが、若干意味が違う。

「制服に弾薬、それにレイピア。サイナがいるけど、どうしたって荷物が多くなるのは当然だし、そこまで気にしなくていいんじゃないか?俺だって、似たような感じだから」

「‥‥そうですね、そうですよね。ふふ‥‥本当に、あなたはいつも私を甘やかしますね。そんなに私をわがままにして、どうされたいんですか?」

「ネガイだって俺を甘やかすだろう?いいんだよ。俺達は、これで」

 ベットに座っているネガイの隣に行き、中身を減らそうとしていた鞄を閉じてしまう。

 不思議そうに灰色の髪を振り、こちらを覗く黄金の瞳に笑いかけると応えるように微笑んでくれた。お互い慣れない荷造りというイベントに四苦八苦しながら出した答えだった。

「後から、あれがない、これがないって焦りたくない。それに、そろそろ俺を構ってくれ。鞄に嫉妬させる気か?」

「仕方ないですね、本当に‥‥」

 俺の心を読めるネガイが、何も言わずとも胸で頭を受け止めてくれる。深い胸の奥底から聞こえる心音を頭蓋骨で確認し深呼吸をする。そのまま許可を取らずにベットに倒した。

 そして胸から一度離れ、ベットを腕で突いて見下ろす。長い灰色の髪を扇型に投げ出したネガイは、少し乱れたYシャツの第一ボタンを外して呼吸を楽にする。水分を湛えた瞳が艶っぽくて、官能的で、夜の艶姿を見せつけられる。

「まだ夜ですけど、もう直ぐみんな来ます。—――それまでに、一度しますか?」

「付き合ってくれるか?」

「ここでしなければ、人前でしてしまいそうなので。仕方なくです。さぁ、来て‥‥」

 言われるままに、伸ばされる手のままに、口でネガイの温もりを求める。首元に這わせた舌で肌をくすぐり慰撫した後、唇へ、そして舌に移動させる。甘い声で笑んだネガイが、やはり思考を読んだように舌を絡ませてくれる。止まらない注がれる唾液を飲み込みながら腰を引き寄せ、息が続く限り粘液の摩擦を続ける。お互いの唾液がひとまず尽きた頃、

「今度は私が上ですよ」

 抱き合いながら、寝返りを打ってベットに背中を付ける。腹部に跨ったネガイに、胸の傷を撫でられながらボタンを外される。温かいネガイの手が柔らかくて、心地いい。

「私よりも大きな身体をしているのに組み敷かれたいなんて、狂った趣向をしていますね。いつの間に、そんな被虐趣味に?」

「別にそんな趣味なんて持ってない—――ネガイが、俺をこうしたんだろう‥‥」

「そうかもしれませんね。だとすれば、あなたは私に教育されたと言えるかもしれません。本当に、あなたは私がいないと、何も出来なくなってしまったんですね」

「‥‥こんな俺を、愛してくれるか?」

「ええ、勿論。こんなあなたを私は愛しています。‥‥口を開けて下さい。私を受け入れて‥‥」

 迫ってくるネガイを受け止める為に口を開けて目を閉じる。そこに甘い花が被さってくる。香りも味も、感じる肌も暖かくてもはや中毒となっていた。

 けれど、固いワイヤーが少し痛かった。

「はい、これで終わりです。そろそろ着替えましょう」

「‥‥あと一回」

「ダメです。最近、自堕落が過ぎますよ。少なくとも、行事終わりまで我慢して下さい」

 ボタンを直しながら叱りつけられた。無念であるのは間違いないが、これ以上続けるのは時間的にも無理だった。

「後どれくらいだっけ?」

「時間通りなら、後30分ですよ」

 手を伸ばされながら聞くと、思った以上に時間ギリギリだった。もうすぐサイナ達が迎えに来てくれるので、それまでに荷造りを終わらせる必要があった。これから行われるのは、オーダー高等部の慣例行事のひとつ。

「最初はふたりきりが良かったかも。ネガイは?」

「‥‥そうですね。私もそう思いましたが、お互いまだまだ外を知りませんから。良い予行演習になるのでは?」

「それもそうか」

 玄関へと荷物を運び、インターホンが鳴るのを待っているとスマホが鳴った。

「おはようございま~す♪アーンドこんばんは~♪もう準備はいいですか?」

「おう。いつでもいいぞ。悪いな、ネガイだけじゃなくて俺まで運んでくれて」

「構いませんとも~♪そ・れ・に♪向こうでもお世話する気がしますし、これも演習のひとつですよ~」

「俺もそんな気がするよ。どうする?やっぱり、下に降りようか?」

「いい運び手を見つけましたから、今そちらに向かっていますよ♪では、下でお会いしましょうね」

 それと同時にインターホンが押される。なんの警戒もしないで扉を開けると、そこには襲撃科、整備科のふたりとイサラが立っていた。

「おはよーネガイさん!迎えに来たよ!」

 イサラの顔を見たネガイは、なんの躊躇もなしに近づき、暗いながらも朝の挨拶と共に廊下を歩いていく。自然な動作にあっけに取られていると、肩を揺さぶられて我に返る。

「運び手って、お前達か。いいのか?」

「まぁ、色々君には世話になってるし、それに向こうでの事で話もあるからね」

「—――面白そうじゃないか。付き合わせろ」

「言うと思ったぜ。じゃあ、俺達も出発だ。お前は、こっちの車だ」

 ふたりと悪い笑顔を見せあって、悪巧みを始める。こいつらは、俺の数少ない同性の友人にして悪友。危険で悪い仕事や作業を何度か手伝い、邪魔し合った関係だった。



「ごめんね。こっち、譲ってもらって」

「いいよ。そっちの方が、寛げるだろう?やっとイサラは復帰出来たんだ。骨休みのつもりで楽しめよ。向こうでな」

 通話を切り、助手席で足を延ばす。サイナの運転する車の時は、いつも助手席だったので、この席が自分の定位置になりつつあった。

「イサラさん、なんだって?」

「復帰出来たらしいけど、まだ本調子じゃないみたいだ。まぁ、まだ一ヶ月も経ってないのに、もう退院してる時点で、アイツの回復力は並みじゃないけどよ」

 運転中の襲撃科、ミヤトに眠気覚ましのメンソール飴を渡す。口に放り込んだ瞬間、相当の刺激だったのか、鳥肌を立てたのがわかった。

「大丈夫か?」

「う、うん‥‥大丈夫大丈夫‥‥お陰で目が覚めたよ。それで、どう思う?」

「あり得るだろうけど、お前達が動くほどか?何か、言ってない事があるんじゃないか?」

「まぁ、気付くか。データ渡すから、目を通してくれ」

 後ろの整備科、キドウがスマホにデータを転送してくる。それに目を通してわかった。確かに、これは集団が力を貸し合って対処するしかないと。

「通り魔か‥‥狙いは、男女問わないが、年齢や性別で見比べると僅かに女性が多い。これどこからの情報だ?見覚えないぞ」

「情報統制がされてるんだよ。その通り魔が頻発してる地域は、現在夜間の徘徊を制限して、オーダーや警察の人間がパトロールをしてるんだけど――――それでも、被害者が生まれる」

「情報統制してるからじゃないか?なんだって、そんな」

「あまりにも被害者が多過ぎるからだよ。それに、夜間の数分でしか行われない上に、通り魔に襲われた人の中には、そのまま気付かないで帰宅する人もいる」

「家に帰って、風呂に入ってから気付く、まぁ、気付かない奴はそのまま気付かないらしいけどよ。家族から背中に傷があるって、言われてやっと気付く程度らしいぞ」

 データには記されていたのは、通り魔は夜間のみで、昼間は子供ひとりで出歩いていても、“斬られない”。危険なのは夜だけで、昼間は安全とは。

「かまいたち‥‥」

 そう呟いた時、ふたりが無言で肯定した。

 かまいたちとは、妖怪の代名詞とでも呼ぶべき存在にして、自然現象のひとつ。妖怪としての側面は、つむじ風に乗り、人を切りつける。けれど、切られた側の人間は、切られた痛みに気付かず、血も出ない。残るのは、鋭い傷跡のみ。

 一説には、鎌鼬は三位一体となって風を起こし、切り裂き、傷薬を塗ると、されている。けれど、それは妖怪という存在を信じた場合だった。

「だけど、中には刃が骨や内臓付近まで達する人もいるらしい」

「—―重症患者がいるのか。数は‥‥5人か‥‥」

 血管裂傷による大量出血。現在、死人こそいないが、いつか即死レベルの切り傷に達する事が想定出来てしまう内容だった。重症に達しているのは、いずれも女性。若い女性だった。

「全員、今は意識こそ回復してる。勿論、輸血をして命に別状はないけど、話を聞ける状態じゃないし、何より聞いても何も覚えてないってとこだよ」

「んで、俺達が呼ばれた訳だ。どうだ?」

「‥‥ああ、これは俺達の仕事だ。最初に起ったのは、1ヶ月前。この短期間で、約28人。毎日、ひとり以上が襲われてるのか。意識があって、切られた事がわかった対象はいるのか?」

「いるにはいるらしいけど、それでも斬られたのは全員背後からだから、誰も気付かない。それも、いつの間にか背中とか足の服が斬られたって話で」

「いつどこで、斬られたかはわからないか‥‥」

 高速道路に乗った事で流れ込んでくる情報が過多した。暗い道路を明かりを付けて走る眼前のサイナの新たなモーターホームが、新車特有の滑らかな輝きを放っている。

「向かう場所は変わらないんだよな?この事を知ってるのは、俺達だけか?」

「一応、僕たちみたいに別の人間にも頼んでるらしいけど、僕たちとは別側面からの捜査だから、あまり関わる事はないかも。気になるかい?」

「邪魔をされたくないだけだ。何か飲むか?」

「今は大丈夫、だけど、そこに置いておいて」

 言われた通りに、レバーの後ろにあるカップホルダーにコーヒー缶を置いてから、横の窓を眺める。防音壁に囲まれた高速道路は、変わり映えがしないからつまらない。

「それで、向こうでは俺達で組むのか?」

「いいや、君は予定通り、ネガイさん達と。出来るだけ気づかれないように行動して。もっと言えば、彼女らを守ってね」

「—――了解だ。だけど、いいのか?そうなると、俺あんまり役に立たない‥‥おい、まさかと思うが」

「あ、それは全然違うよ。流石にいつか殺人でも起きかねない相手に、オーダーとはいえ何も知らない人を囮に使うなんて、もしそんな事をしたら、君に殺されちゃうよ」

「ていうか、そんな命令来たら、断るに決まってるだろ?全部暴露して命令してきたオーダー本部の評判、地に落としてやるよ」

「オーダー本部か。それだけで、既に信用は地に落ちてるんじゃないか?」

 そう軽口を伝えると、二人とも半笑いで頷いた。二人にとっても、オーダー本部とは現場に出てこないインテリ達か臆病者という感想を持っているだろうが、それだけじゃない。

 あいつらは、平気で一般人でもオーダーでも使い捨てる。

「出世したな。オーダー本部直々の命令とは—――お前達は、オーダー本部所属か?」

「まさか」

「んな訳ねぇーだろう」

 二人の事は信じてやりたいが、それでも二人ともオーダーだ。殺人こそ禁止されているが、殺人以外なら、何でもやりかねない事を、俺は知っている。場合によっては、拷問でも―――。

「すっかり人間不信になったようだね」

「悪いのは、俺か?」

「さぁ?どうかな。でも、君は正しいと思うよ」

「—―褒め言葉として、受け取っておいてやる。後で運転変われよ。俺もハンドルを握りたい」

「あはは、いいとも。って言いたいけど、もうしばらくは、この運転席を誰かに譲る気はないよ。やっと買えた僕専用の車だからね」

「前に赤い馬に乗ってた奴が言うのか?そう言えば、あれはどうしたんだ?」

「ん?秘密」

「相変わらずだな」

 当然の疑問を聞く俺が、まるでおかしいとでも言うように答えてきた。誤魔化しのプロなのか、それとも本当におかしいのは、俺とでも言いたいのか。どちらにしろ、深掘りする事は出来そうにない。

「それで、お前の足はどうしたんだ?もう向こうに運ばれてるのか?」

「俺のか?まぁ、そんな所だ。つっても何かあった時ようの足だからよ、乗らないように祈ってろよ」

 頭に腕を組んで歯を見せる。そうゆう状況になる事を心のどこかで想定しているようだ。

「その時は、また無理やり乗り込んでやるよ」

「それは勘弁してくれ―、また、先輩方にどやさられるだろうがぁ」

 卒業訓練の時だった。護衛対象をA地点に運ぶ筈だったコイツから、車ごと奪い取って、追い掛け回させた事があった。そして、追い掛け回した事も。

「本当本当。まさか僕たちから車ごと盗むなんて、襲撃科のお前がなにしてるかって、先輩からも先生からも、叱咤されたのに‥‥まぁ、君ならまたやりかねないね」




「これがサービスエリア‥‥沢山、人がいますね」

「そうだな。ただ、ここでひと休憩、食事とか取ってから長距離運転に備えるってドライバーが多いから、不思議な光景じゃないぞ。それに、ここみたいな大規模なサービスエリアを目的に来てる人達もいるだろうし」

 明るくなったサービスエリア内には、数え切れない人々が集まっていた。その中でも大量の紙袋を持った家族連れを顔で指し示して、伝えてみる。中学生くらいの兄妹を連れた夫婦が車に戻っていく。本当にここでの買い物の為に来ているようだった。

「ああいう光景は、普通ですか?」

「ああ、きっとな」

 ネガイと手を繋ぎながら巨大なサービスエリアの自動ドアをくぐる。中から伝わる冷気と、人々の熱気は、朝の高速道路という事を忘れさせるような光景だった。

 串焼きから肉まん、ソフトクリームやクレープ。それぞれの地方の特産品を思い思いの形にして、自身の強みを表現している。ここで話題になれば、東京のアンテナショップが賑わうという観点からか、販売店のウィンドウにはアンテナショップの場所を紹介している。サービスエリアという狭い場所で目に付かせ、自力でショップまで足を運ばせる。そして、いつか観光客として本店まで呼び込む。上手いやり方だった。

「何か買ってみるか?」

「はい、興味があります。だけど、私はよくわからないので」

「任せろ。俺も、詳しくないから」

「‥‥そうでしたね」

 人が多いところがあまり得意ではないネガイが腕にしがみつく。そんなか弱いけれど、オーダーの制服姿のネガイに、多くの目が集まるのがわかる。

「大丈夫か?」

「平気ですよ。あなたは?」

「俺も平気。ネガイがいるから」

「私も同じです。あなたがいますから」

 灰色の髪を流し、黄金の瞳で見つめられる。

 誰よりも人の目を引くネガイを独占できる。そう思うと、改めて俺はネガイの隣に居られるのだと確認出来た。危険な感情であるとしても手放せない独占欲に煽られ笑みが溢れる。

「そんな物欲しそうな顔をしてもダメです。みんな待ってますよ」

 先ほどまで後ろにいたネガイが腕を引いて駆けていく。

 口ではそう言いながらも、髪から香りを残し最初から気になっていたらしいクレープ屋を指し示した。施設に入ったと同時に目で追っていた店舗、或いはそもそもの目的地でもあったようだ。

「これを買いましょう」

 ならばと、頷いた後に二人分を注文する。そして────店員の技量に見惚れてしまった。

 薄い半生の生地を焦がさず破かず、一見すると頑丈そうにも見える外見を崩さず、生クリームや特産品である柑橘類を乗せて、包み込んでいく。制作時間は数秒足らずだというのに、ここまでの技量へと至るのに、一体どれほどの時間がかかるのかと想像してしまう。

「学祭以外で注文って、俺、初めてしたかも」

「そうなのですか?私は既に経験済みです」

「負けたな」

「問題ありません。一緒に経験していけば」

 包み紙越しのクレープをふたりで受け取って、みんなと決めていた合流地点に向かう。

 冷房の利く休憩所には既に身内が集まり、座席であるソファーに座って今後の予定を話し合っていた。珍しい取り揃えに映ったが、当の本人達は通常のコミュニティを築いている。

「残念だなぁ、マトイさんとゆっくり話せると思ったのに」

「ごめんなさい。だけど、今日と自由時間中には一緒に行動できますから、その時に」

 不思議とは言わないが、マトイとイサラが持ち寄った食べ物を間に話し合っていた。

 会話だけに集中しない真正のオーダーのふたりが、視界の隅に現れたクレープ片手の自分達を手を振って出迎えてくれる。

「他のみんなは?」

「このサービスエリア、最近新規オープンしたエリアがあってそこに行ってるみたい」

 そんな話をイサラの口から聞いて、聞き返した。「イサラはいいのか?」と。

「私はもう行ってきたよ。サイナも連れて行ったんだけど、なんか気に入った物があるらしくて、全員連れて買い物中みたい。みんな呑気だね。—―――今、私の事見た?」

「全然。それに、イサラはまだまだ呑気で良いと思うぞ。身体はどうだ?」

「あは、心配性だなぁ。私は全然平気。あの先生からもお墨付きを貰ったから完全復活」

 机で頬杖をついて答えてくれた。

 だけれど、やはり心配だった。イサラはただの人間なのに、ヒトガタや血の聖女といった諸人では決して触れてはならない深淵に飛び込んだ。その深淵は、どこまでもイサラを見つめる事になるのだから。

「マトイ、イサラには」

「大丈夫です。イサラさんは、もう多くは聞かないと言ってくれました」

「—――ありがとよ」

 軽く礼を言ってからソファーに座り、買ってきたクレープに口を付ける。

 果実こそ変わらないけれど、フレークやチョコといったトッピングの違いをふたりで差し出し合っていると、「ふたりって、いつもこうだね」「そうですよ。いつもこうです。ふふ、でもなかなか楽しいものなので、あなたもどうですか?」「考えておこうかな?」と言った会話をし始める。

 ふたりはそれぞれ違うけれど、甘味を食べていたので、試しに聞いてみる。

「病院帰りだと、甘い物が欲しくならないか?」

「そうそう!!あそこの病院、あんまりご飯が美味しくなくてさ!!」

「仕方ないとは言え、あれでは修行をしているのと代わりません。いずれ抗議文でも、送るべきでしょうか?」

「そうなのですか?」

 ネガイが不思議そうにクリームを口に付けて首をかしげた。

 そんなネガイに、マトイが自身の力で編み出した布で口を拭き「入院すればわかります。あそこから帰ってきた者は、甘味の虜になるから」と囁く。ふたりとも、こうなのだ。あそこに入院してしまえば、本当に誰でも甘い物を求めるだろう。

「覚えておきます。ふたりとも、クレープはどうですか?とても美味しいので案内しますよ」

「うん、お願い。実は気になってたんだ」

「私も一緒に」

 自身の甘味を食べ終わらせた二人は、ネガイに連れられてクレープの販売コーナーに戻っていく。微笑ましいと見えるかもしれないが、俺にはわかった。

 ふたりとも、味に、得に砂糖に飢えていると。

「他人事じゃないなぁ」

 まだ手元に残っているクレープを食べながら待っているとスマホが鳴った。

 けれど画面を見たら、一瞬で切れてしまい番号も非通知だった。――――違和感がある。このスマホはオーダー製の特注品。他所に番号が漏れる事は、あり得ない。ましてや非通知など、今まであった事もない。

「‥‥誰だ」

「油断し過ぎじゃないか?」

「—―アルマっ!」

「声を出すな、そして振り返るな。馬鹿者が」

 振り返って、顔を見ようとした瞬間、頭を抑えられて身動きが取れなくなる。けれど、この声はアルマだった。

「生きてたのか」

「――――そうだ。私は生き残った。これで、良かったのだろうか」

「不安か?」

「どうだろう。わからない」

「それでいいんじゃないか?俺の事、法務科からどこまで聞いた」

「いいや、断った。聞くのならお前自身の口から聞きたい。話は聞いているな?」

「鎌鼬の事だな」

「そうだ。皆、そう言っている妖魔の事だ。私もそれに関わる事になった。専門家として」

「頼もしいよ。じゃあ、一緒に車で」

「それは出来ない。先に私は調べる事がある。情報が集まり次第、必要があれば、お前に知らせる。それで十分だな?」

 まるで全てを一人で終わらせたがっているような言い方だった。そして先ほどから感じていたアルマの違和感に、ようやく気付いた。あまりにも協力的過ぎる。

 俺と決裂して戦闘状態になった本人にしては優し過ぎる。

「これは使徒絡みのオーダーか?」

「その可能性がある。我ら使徒は、触れてはならないものを狩る。邪魔をするな、そして私に情報をもたらせ。それだけだ」

 頭に回されていた腕が消える。

 その瞬間振り返るが、声は宙に佇むのみで視界には誰もいなかった。

「俺の目から消えた。夢に消えたのか‥‥」

 であるならば、近くにイミナ部長がいるのだろう。いくら、ただの人間には興味がないアルマでも、一時期オーダー街に攻勢を仕掛けてきた流星の使徒の一人。監視役がいるのは、当然だろう。

「よう、どうした?」

「どうされました?皆さんは、まだですか?」

 サイナと荷物運びらしいキドウが、ふたり揃って到着した。そして揃って、誰もいない筈のソファー背後へと振り返っていた俺を不思議そうに見つめてくる。返す言葉に困った為に、キドウが持っている紙袋を見つめた。

「それは?」

「私のですよ♪少し気になった物が沢山あったので、買い溜めました♪」

「買占めや止せよ。他のメンツは?」

 満足そうに頬を光らせているサイナが真横に座って、真向いにキドウが溜息をしながら座る。そんなキドウの視線を無視して、サイナは腕を取ってくるが「ん?」と呟き、こめかみの髪を嗅いでくる。

「いい香りですね。ネガイから?」

「まぁ‥‥そんなところ」

「むぅー怪しいですね?あ、ネガイさ~ん♪」

 クレープをそれぞれひとつ持ってきた3人に駆けて走っていくサイナは、何かを聞き始め手を確認して、また首を捻る。クレープの香りの所為で判断が出来ないらしい。

「お前、ここでも口説いてるのかよ?」

「ここでもってなんだよ。俺は一度もそんな事してない」

「あーはいはい。また無自覚な訳か」

「言っておくけど、向こうでの仕事関係だ。ミヤトが来たら、お前にも教えておきたいことがある」

 仕事熱心なキドウを黙らせるには、自身の関わっている仕事を思い出させる事が1番だった。



「オーダー法務科?それ、本当に?」

「まず間違いなく。口止めされなかったって事は伝えろって事だと思う。そっちは何かしらの接触はなかったか?」

「んや、俺には来なかったけど。そっちはどうだ?」

「こっちもだね。どうやら、この話は、根が深い問題みたいだね。被害者は一般人なのに、どうでもいい権力抗争でも‥‥あ、あはは‥‥ごめんごめん」

「俺も同じ考えだ。本部と法務科の権力抗争も縄張り争いも、どうでもいい。それに現場にいる俺達にとっては、そんなもの些事だろう。俺だろうが、お前達だろうが、解決すればそれで終い。わかりやすくないか?」

「‥‥ああ、そうだね」

 ようやく、重苦しい空気が去ってくれた。そして、それに拍車をかけるように、後ろの座席から食べ物の匂いがしてくる。

「まずは飯だ飯!!ろくに朝食ってないからよ」

「あんまり臭いを残すなよ。新車だぞ」

「どうせ、近々硝煙と消毒液の匂いに染まるんだ。これこそ些事だろうよ」

 遠慮なしにハンバーガーを袋から取り出し、缶コーヒーを開ける。自宅のように寛ぎ始めるキドウに、ミヤトと共に薄く笑う。

「俺にもくれ」

「僕にも頂戴。少しだけ、渋滞しそうだよ」

 2人分の和牛ハンバーガーを受け取り、片方をミヤトに渡す。先ほどから漂っていた甘いバーベキューソースが、唾液を呼び出して仕方なかった。包み紙を開けた瞬間、ファーストフード特有の濃厚な香りが噴き出てくる。一瞥もせずにそれに噛みつき、甘いソースと塩気がある牛パテを噛み千切る。

「美味いなぁ‥‥有名なのか?」

「おう。最近出来た牛肉直営店がやってるもんだ。なかなかだろう?」

「知らなかった。すごいね。僕なんて車の準備だけで手一杯だったのに」

 片手でハンドルを握りながら、サイナのモーターホームの後ろにつける。渋滞はしばらく続いているようで、上方にある電光掲示板が、この先の道を赤く塗っている。

「事故かな?」

「もしくは検問だろうな。やばい奴は隠すぞ」

 言うな否や、三人で見せ難い銃火器を座席シートの下やシートの中に放り込む。俺は魔女狩りの銃、ミヤトはいくつかのマガジン、キドウはナックルのような物がついた拳銃。それぞれ人には見せられない武装を持ち始めたようだった。

「板について来ちゃったよ」

「俺も、まさかこんな習慣が付いちまうとはなぁ。なんか、危ない奴に成った気分だ」

「オーダー以上に、ヤバい奴らなんかそうそういないだろう。安心しろよ、俺達はヤバくて危険な奴ら筆頭で、代名詞だろうよ」

 念のため、着ているYシャツやズボンを叩いて他にもないか確認する。オーダーが検問で引っかかるなんて日常だが、それによってこちらの時間を取られるのはつまらない。よって、武具を隠す。向こうだって、こちらの裏事情など百も承知なので一見して見つからなければ、それで通してくれる。筈。

「長くなりそうだけどよ。もしかして俺達オーダーの行事があるって知っててやってるのか?」

「可能性はあるかもね。ネズミ捕りのつもりかな?」

「冗談でも止めて欲しいぜ。点数稼ぎにしても、もう少し頭を使って欲しいってのによ」

 後ろのキドウは2人分の座席を使って横になり、スピードを出し渋るしかないミヤトもつまらなそうに肩をすくめている。検問の想像は正しかった。白いヘルメットと青い制服を着た警官達がオーダーと思わしき車の窓を叩いていく。

 そんな様子に全員で溜息を吐く。

「できるだけ午前中には着いてたいけど」

「その為に深夜に出発したんだ。今日一日を使うつもりでいるしかないな」

 ようやく朝日と言える日光は感じてきた。

 だが、きっと午前中は車内で過ごであろう事がわかる。事実として、こうなる事を想定して深夜に早く出発するのが恒例だったので、これも想定内と言えるかもしれない。遂には完全に車が停止して「サイドレバーを引け」とメガホンで言ってくる。

「待つしかないか。スマホだせよ」

「いいぞ。相手してやる」

「僕も参戦しようかな。大丈夫、見つからないようにするから。因みに、この車にはWi-Fiが付いてるから、遠慮なく使っていいよ」

 三人でスマホを取り出しゲームを始める。

 キドウから勧められて暇な時にやっていたが、これがなかなかどうして悪くない。だが時間的な理由で三人ともあまり自分のキャラクターの育成は出来ていなかった。

「お、外部からの参戦だ。受け入れるか?」

「いいんじゃないか。もしかしたら、身内かもしれないし」

 どこかの誰かと三対三の対戦を開始。キドウをタンク、俺をアタッカー、ミヤトをサポートの基本体制で対戦するが、アタッカー三人の向こうからダメージを受け続け撃破される。

「嘘だろ‥‥プレイ時間は多くないけど。技術はあったつもりなのに‥‥」

「うわ、向こうすごいねぇ。電撃戦のイロハを知り尽くしてる。三人の誰かが、襲撃科か制圧科の人間だね。しかも、かなりの腕だ」

「なら、こっちもアタッカー三人だぜ。向こうの腕はわかった。やるぞ――――」

 キドウの声に従い、三人でアタッカーを選び対戦を始めるが、こちらの手の内を知り尽くされているようにタンク二人とアタッカー一人の構成で敗北する。

「降参だ‥‥」

 その後も何度か三人で話し合って挑戦を続けたが、まるで歯が立たない。

 俺の敗北宣言にふたりが頷きゲーム盤から離れると、前のモーターホームから歓声が聞こえた。




「ん?そろそろかな」

「ようやくかよ。随分丁寧にやってるなぁ。先輩方がいたら、殴られるレベルのもたつきだぜ――――なぁ、なんか様子が」

「うん、なんだろう。違う制服だね」

 朝日を雲が隠し始めた時、モーターホームの前の車の窓を叩く警官と思わしき数人を発見する。周りの高速道路交通警察とは違い、青い制服ではなく、黒い制服、どこか明治時代の軍服を思わせる出立ちの数人が車を取り囲み始める。

「あの車、シズクの――――ちょっと行ってくる」

「何かあったら呼んで」

 ミヤトの申し出に頷いて外に出る。

 まだ涼しい気候の中、腰の武器に手を付けながらサイナのモーターホームを通り過ぎる。

 そこにはシズクが良く組んでいる情報科の人間が運転している改造ミニバンが止まっていた。そしてシズクとソソギが降りてくる光景に出くわす。

「シズク、彼が来てくれたから大丈夫。中で休んでいて」

「うんん。大丈夫」

 黒い制服を着た若い警官と睨み合うソソギから視線を受けて、急いで近づくが背の高いもうひとりの警官が間に入ってくる。間違いなく年上だが、それでもどこか青臭い。

 経験というものを感じさせない顔付きだった。

「検問中だ。車の中で待ってろ」

「俺は納税者だ。待ってろ?口の利き方に気をつけろ、ワン公」

 正直驚いた。

 舌打ちと同時に懐に手を入れて武器を取り出そうとするとは。あのカエルでも、ここまで気が短くなかった。なのに威嚇ではなく、ただの一言で殺そうとした。

「ここはオーダー街じゃない。だから俺からは抜けない」

「腰抜けが。結局オーダーなんて、ただの無法者」

「だが、戦闘行動を起こしたお前は別だ」

 懐にある拳銃を制服の上から殴りつけ、一瞬だけ息を詰まらせる。

 息を詰まらせながらも懐の拳銃を取り出そうとしたが、拳はそのまま拳銃を縫い付けているので引き出す事が出来ない。

 それを不満そうに顔で威嚇してきた呑気な素人に本職の膝をお見舞いする。

 腹に突き刺さった膝を横腹にずらし内出血を起こさせ跪かせる。内蔵と皮膚にダメージを受けた馬鹿は、恨めしそうになおも拳銃を引き抜こうとしてくるので――――――つま先の一撃を喉に叩き入れて意識を奪う。

「素人が‥‥」

 一瞥もくれてやらないで倒れた素人を跨ぎ、無表情のソソギと警官の間に入る。

「おい!!今取り調べ中だ!!引っ込んでろ!!」

「俺の身内に何か用か?用があるなら、俺を通せ」

「舐めるなよ、オーダー風情が‥‥何してる!?早くこいつを‥‥こいつを‥‥?」

 既に倒れている奴を見つけて怒鳴り声をやめてしまう。

 どうやらアイツが一番の使い手だったらしく一歩後ろによろけ、遂には腰の後ろにつけていた拳銃で車に傷をつけてしまう。その車も無論オーダーだった。

 中から制圧科と重武装科の剛腕達がぞろぞろと降りてくる。オーダーはオーダー街以外で、拳銃を抜くには大きな条件がある。身内を守る為の戦闘にはかなりの制約が付くが、自己の生命を守る為、そして自己の財産を守る為ならば例外だった。

「大丈夫か?」

「ええ、大丈夫。あなたが来てくれたから。本当にあなたはどこへでも来てくれるのね」

「いつもでも呼べよ。シズクも平気か?」

 先ほどから一言も話さないシズクに呼びかけるが、何も言わない。

「‥‥傷、痛むのか?」

「そんな事気にしてたの?もう傷は全然平気だよ。私が不満なのは、私だって一言言いたかったってだけ。取り敢えず中に入って、暑いし」

 不機嫌そうなシズクがミニバンの中に入り手招きをしてくる。後ろのモーターホームとシトロエンに軽く手を振ってから中に入ると、「あー暑かった‥‥」とシズクがミニバンの中で深呼吸をしながら座席に座る。

 サイナのモーターホームを真似たような内装で、車体に沿うようにふたつのソファーが設置されている。既視感と同時にある程度のグレード、クラスになるとこれは通常設備になるのだと勝手に理解する。

「邪魔するぞ」

 運転席の情報科の生徒に一言断ってからソファーに座る。

 しかしサイナとは違う設備も見受けられる。サイバーパンクとでもいうのか、モニターや液晶画面が車体の壁中に付けられている。最も目を引くのは後ろの両開きの扉に、二つに分けられる巨大な画面が設置されている事だった。

「いいな、この車」

「あ、ありがとうございます‥‥」

 始めて聞いた声に驚いていると、隣のカレンに顔を掴まれ目を強制的に合わせられる。

「私の心配はしてくれないの?」

「してるよ、してるから来たんだ。平気だったか?」

「無理やり入って来ようとしたから、ちゃんとこれを構えてたんですよ」

 自慢するように、既に抜いていたスプリングフィールドXDをスカートの中に戻す。慣れた手付きのそれを見せつけて、やはり満足気に微笑んだ。

「上手くなったな。これもイノリか?」

「聞かないで」

「揃いも揃って、身内が苦労かけるみたいで」

「だから、聞かないでって。そう思うなら、今度何か手伝って」

 顔を背けるように溜息をしているイノリに心の中で頭を下げて、正面に座ったシズクを見つめる。なぜ自分が見つめられているのかわからないシズクは、前髪や襟を直して作り笑いをする。

「ど、どう?私もツグミみたい?」

「ツグミと比べるなよ。シズクは、いつも可愛いよ」

「そ、そうだよね!!ヒーがそう言うなら、私はいつも可愛いんだよね!!」

「それで、何があった?」

「もう一回可愛いって言ってよ!!‥‥なんか、よくわからなくて」

 なんとなく気付いていたが本当に喧嘩でも吹っ掛けられていたような状況だったらしい。カレンと共に俺を挟んでいるソソギに聞いてみても同じような反応だった。

 全員で首を捻っていると、車が発進してしまう。

「あれ、どうしたの?」

「なんか、進めって‥‥」

 シズクが助手席に行き何かを話し合っているが、結局車は止まらずに高速の流れに乗ってしまう。念の為、キドウにメールを送って伝えておく。

「なんか、もういいって言われたみたい。検問の邪魔だからオーダーだけは直進しろって。やっぱり、あの辺り一帯オーダーだったみたい。ほら」

 シズクが指を差した方向は、両開きの扉に付けられた画面だけだった。だが、瞬時には画面が起動する。――――その光景に、またも驚かされた。画面に映されたのは、外の光景。壁を透視して後ろから追ってくるモーターホームの様子だった。自分の後ろにある壁を見ると、同じような光景。壁が消え去ったようだ。

「本当だ。全部、オーダーか‥‥」

 オーダーの車は基本、全て防弾ガラスなので分厚い上、現在この場にいるオーダーは皆一様に同じ方向を目指していた。

「本当に、オーダーだけを相手に検問してたみたいだな。イノリ、あの制服に見覚えは?」

「は?なんで私が答えないといけないの。自分で考えれば」

「そうだよな‥‥」

「もう、なんでそこで言い返さないかな?ごめんなさい。教えてあげるから、そんな泣きそうな顔しないで」

 足を組んでソファーに頬杖をしていたイノリが手を伸ばして目元を拭いてくれる。

 拭かれてわかった。本当に泣きそうになっていたようで水分を感じた。

「えっと、アイツらは多分特務課の人間。だけど正確には特務課見習いって感じ」

「学生って事か?」

「そう言えるかも。わかってると思うけど特務課は公安の後継組織。並みの権力じゃないエリートって所。まぁ、そのエリート様がこんな所にいるなんておかしな話なんだけど」

「見た事あるのか?」

「一度だけね。だけど仕事中じゃなかったから無視したの。だから、これ以上はわからないかな?はい、これで私の知ってる情報は終わり。次はあんたの番」

「えっと‥‥何が聞きたいんだ」

「決まってるでしょう。なんで、こっちに来たの?」

「え?」

「え?じゃなくて、何か目的があったんでしょう?」

 何を聞きたいのかわからず、質問の真意を測っているとイノリが目を丸くし数秒後に大きく嘆息をして頭を振る。最初から最後まで理解出来ずにいる自分は呆然とするしかない。

「嘘でしょう?本当に、ただただ心配だから来たの?」

「言ったでしょう?ヒーは、何所にでも何処からでも来てくれるの」

「おう、何処でも呼べよ。誰でも殺してやる」

「冗談に聞こえないんだけど。まさか本当に私が心配だから来るなんて。そんなに私が大事な訳?」

 強気になったイノリが足を組んで獲物を見つけた捕食者の笑みを浮かべる。

 牙を覗かせて自身の艶やかな足、影が顔を覗かせる短いスカートという罠を使って誘ってくる。そんな蠱惑的で手慣れたイノリの艶姿に息を呑むと、隣のカレンに頬を摘まれた。

「違います。この人は、私の為に来たんです」

「カレンにはソソギがいるじゃん。やっぱり今回『も』私目的で来たんじゃない?」

 真横のカレンとイノリが言い争いを始めてしまい、居場所がなくなってきた。肩身が狭くなっているとソソギに座席の隅へと連れ去られる。

「大丈夫、あのふたりはとても仲が良い」

「ふたりとも真面目だからな。気が合うのがわかる気がするよ」

「そうそう。一緒にダンジョン潜ったりしてるし、放っておいても大丈夫大丈夫」

 運転席側の座席でシズクとソソギの三人で話し込む。

 そんな俺達の様子に気付かず、ふたりはどちらの為に来たのかを言い合っていた。

「‥‥どっちの為じゃなくて」

「そうね。あなたは皆の為、延いては自分の為に来たのにね」

「ソソギもわかってきたね。そうだよ、ヒーは私達が誰かに取られるのを嫌がって、来てくれたの。大丈夫わかってるよ、本当に心配して来てくれたんだよね」

 誰かの為に来たように見えるが、その実、俺は自分の為に助けに来た。

 ふたりの推測はきっと正しい。少なくともあの場にはソソギがいた。であるならば俺の手助けなど不要だっただろう。

「迷惑だったか?」

「全然。あなたが来てくれて嬉しかった。ありがとう」

「迷惑なんかじゃないよ。ヒーがひとり仕留めたから、周りのみんなが助けてくれたんだよ。やっぱり私のヒーは、かっこいいんだからね」

「‥‥よかった。ふたりとも無事で。それで、本当に何も言われなかったのか?」

 いくら特務課とは言え、無理やり他人の車に乗り込むなんて強権、そうそう行える訳がない。何か、確固たる意志・目的があって乗り込もうとしていた気がする。

「私達も何が目的で捜査、検問をしているの?何故、私達の車なのか?と聞いたのだけど、結局何も言わなかった。無理にでも聞き出すべきだった?」

「いいや、向こうは行政がバックにいるんだ。余程の事がない限り手を出すべきじゃない」

 あの素人共を相手にした制圧科と重武装科は、自身の財産たる車両を傷つけられた。それは後々に使う仕事の損害に通ずるかもしれない――――だから、実力で排除できる。

 けれど、この車には乗り込もうとこそしていたが、結局乗れていない。

「勘違いしないでくれ。タイミングが良かった。あの場に俺がいなかったら、実力で排除出来なかったかもしれない」

「私では、力不足?」

「そうじゃない。あのままじゃあ、いつまでも押し問答が続いていた。最終的に公務執行妨害でも取られてたかもしれない」

 逮捕はオーダーだけの十八番ではない。

 無論、警察組織の向こうにとっても可能な権限である。

 もしかしたら、あれは向こうにとって望むところの状況だったのかもしれない。

「あのしつこさは、作戦だった可能性もあるのね」

「確かに、あの場にいたのがヒーで良かったかも。私達が下手に反撃したら面倒な事になってたかも。—――また、助けられたね」

「別にいいぞ。俺が困る訳じゃない。困るのはオーダーの上層部だ。好きなだけ困らせればいい」

「言えてるー。じゃあ存分に困って貰おうかな?」

 三人で笑いあって車に揺られているとスマホが鳴った。

 取り出して通話しようとするが、シズクに奪われてモニターから伸びているコードに接続される。瞬間的に車内のスピーカーからキドウの声が聞こえてくる。

「あー聞こえてるかよ?そっちはどんな感じだ?」

「もう高速の流れに乗ってる。そっちは?」

「少し様子見の為に待機してたけどよ。あの偉そうな奴ら、お前が叩きのめした奴を連れて護送車みてぇのに乗っけたら消えたぞ。丁度これから行く方向だ」

「まさか、追いかけて来てるのか?」

「こっちからは確認できねぇが、その可能性はある。用心しろよ」

「そっちは平気だったのか?」

「あの場にはオーダー校一年主力部隊がいたんだぞ?砲撃でもされない限り、平気に決まってるだろうが」

 つい笑ってしまう。確かに、あの場にいたのは例年では体験できない戦場を一学期で体験してしまった猛者ばかり。心配する方が異常で無礼だった。

「わかった、こっちの事は気にするな。もし何かあったら対処なり処分なりは、こっちでやる。後で合流しよう」

「おう、待ってるぞ。あ?ミヤトが用事があるらしいから、代わるぞ」

「やぁ、君の武器だけど、先に合流出来たらネガイさんに渡しておくよ。じゃあね」

 それだけの短い会話でわかった。ネガイ達の護衛をしてくれると。

 持つべきものは友人と、どこかの誰かが言っていた気がする。

 そう感じる一方で、一抹の不安を感じる。

「‥‥さて、どこまで信じていいものか」

 アイツらには色々と言われていない事がある気がする。

 そもそも何故俺を誘う事になったのか――――身内である自分から見ても、あの二人は凄腕で言い切れる猛者だ。そんな二人が眉唾な鎌鼬の件を話した。

 しかもオーダー本部からの仕事だと言って。

「—――シズク、仕事を頼みたい」

「話を聞いてから決めようかな?」

「オーダー本部の内部事情。一ヶ月前を起点に、これから向かう課外活動の地域に対しての人員配置。もっと具体的に言うと、これから行く場所に罠を仕掛けられていないか」

「面白そうじゃん」

 しなやかな動きだった。

 決して安定しているとは言い難い車内で、コンソールを壁から引き出して髪留めで茶髪を止める。前髪をまとめたシズクは、大人びた秘書のような姿となる。

 そして誰も理解できないシズクが独自に編み出してしまった言語を使う。車内中のモニターが青白く輝き、瞬間的にオーダー本部のサーバーに入り込む。

「少し待ってて‥‥」

 それだけの短い言葉で、シズクに何かが降りてきたのがわかった。

 外ではシズクの潜在能力を御せなかった。いや、そもそも誰もシズクを捕える事など出来なかった。――――人間離れした傑物。

 自分の意思ひとつで、世界の深淵する見通すシズクは、怪け物のひとりだった。

「見つけた。これかな?」

 自身の扉をオーダー本部サーバー内に作り出していた化け物は、ほんの数秒で世界の守り手の秘密に辿り着いた。

「—――これか」

 そこに映し出されたのはオーダー校一年の課外活動場所である一都市への人員の配置、そして物資の搬入。人員も物資も額面通り異常と言えるものだった。

 けれど、それだけじゃない。配置場所があまりにも的確だった。

「監視されてるね」

 この高速道路は勿論、先ほどのサービスエリア内への派遣、各々が予約した宿泊施設の借り占め。まるで暗殺計画でもしているような様子だった。

 誰かを追い掛け回し隙があれば確保する。捕縛であり誘拐の構えだった。

「初期配置に40人、予備人員に30人、総数70と数名。どこかに戦争でも起こす気かしら?」

 ソソギの冗談が冗談には聞こえなかった。

 映し出された人員の全てが紛れないオーダーの一員だからだ。あの天下りや隠れて紛れ込んだネズミ共とは違う。それぞれのプロフィールでわかった。彼ら彼女らは、皆プロだと。

「こんなの‥‥おかしい。一年の総予算にだって届くじゃない。一体、何を起こそうとしてるの‥‥」

 潜入学科であり情報部の捜査官だったイノリが絞るように声を出した。

 情報部で、日夜、異常犯罪から未成年たちを救ってきたイノリだからこそわかったのだ。

 これは異常な作戦計画書だと。

「―――聞かないといけなくなった。みんな、静かにしててくれ。俺の上司に聞いてみる」

 そう言った瞬間、皆がまた一様に黙りこくる。わかったのだ。自分達は、オーダー本部とオーダー法務科というこの日本を代表する深淵に同時に触れてしまったと。

「—―――聞こえますか?」

「ええ、それで、どこまでわかりましたか?」

 胸に付けている鍵に触れながら、念じるように声をかけると鍵から声が聞こえてくる。

 周りにもそれが聞こえているのか、全員が緊張感を保ったまま息を呑む。

「データを送ります」

 コンソールを受け取り、一部だがこのデータを撮影し過去に教えられた異端捜査部のサーバーに送信すると、「ほう、これは‥‥」と納得したような声を上げる。

「わかりますか?」

「今、私から言える事はありません」

「俺が触れてはいけない事ですか?」

 私からは言えない。異端捜査部部長としての言葉だった場合、その一員である俺には関係ないという事になる。トップ間の問題に首を入れるなという命令であった。

「彼女には会いましたね?それが答えです」

「自分のわかってる事からします」

「結構。そうしなさい」

 それだけで通信が切れてしまった。

「――――すごい迫力だね」

 冷房の効いた車内で、汗をかいたシズクはYシャツのボタンをひとつ外す。

 俺はもう慣れてしまったが面識のあるシズクやソソギ、カレンは勿論、イノリも息を吐いて汗を拭う。本来ならば自分も恐るべき相手なのだが――――夜は何処までも優しく導いてくれると知ってしまっていた。優しい布で包み込んでくれる彼女の笑顔が嬉しかった。

「あんた、ほんとに法務科の所属なんだね。よく、あんな人と仕事できるね」

「慣れれば優しい人だってわかるぞ。普段よりもだいぶ機嫌が良かった」

 違和感という程ではないが、声が軟化している気がした。

 言われた通り、果物をマトイを通して渡したのが良かったのかもしれない。

「それで、どうするの?何か手伝える事があるなら、私はいいよ」

「正直わからない。全部言うと長いんだけど、向こうで少しやる事があるんだ。だから」

「なら必要があれば呼んで。私だって言えない仕事のひとつやふたつあるし。最終的に何が必要になるかわからないって、よくあるもん」

 ただ単に鎌鼬と呼ばれる何かを仕留めて終わりなら、それで構わない。

 けれど、その先。オーダー本部が自身の手足を伸ばしている以上、俺の知識では届かない出来事が起こるかもしれない。だからこそアルマが派遣されて来たのかもしれない。

「それは法務科の仕事じゃないんでしょう?まさかと思うけど。オーダー本部?マトイは?」

「書類上はオーダー本部。だけど法務科からも手引きされてる。俺にとってはどっちからも使われるのはごめんだけど、今回は少し毛色が違う。早い段階で解決なり逮捕なりが必要になる。後でマトイに相談してみるよ」

 実際、流星の使徒であり魔に連なる者であるアルマが関わっている以上、ネガイとマトイに頼るしかない。オーダー本部から秘密裏にと言われているらしいが知った事じゃない。

「ふーん、まぁいいけどさ。興味あるから教えてくれない?多少長くてもいいから」

「‥‥わかった、シズク、これも映して」

 ふたりから渡されているスマホのデータを示して車体のモニターに映し出させる。

 両開きのドアのモニターに映し出されるデータを眺める四人は、皆一様に静かになってしまう。

「—―――鎌鼬。これ、ほんと?私達だって、ヒーだって危ないじゃん」

「データ通りなら、深夜の数分。そしてこれだけ見ると、一晩にひとりだけが対象。これを知っているのは、あなただけ?」

「少なくとも、あと三人。キドウとミヤト、それにアルマ。因みに流星の使徒の生き残り」

 その正体にソソギとカレンが腰を浮かすのがわかる。

 シズクとイノリはピンと来ていないので、「この傷をつけた奴」と胸の傷をYシャツ越しに示すと顔色を変える。

「何て言うか。あんたの話を聞いてると退屈しないわね。それで、なんでそんな奴がこれに関わってるの?犯人って訳じゃないんでしょう?」

「この事件は法務科にとってもオーダー本部にとっても異質らしい。俺達じゃあ知り得ない世界の住人、その道のプロに頼る事にしたって所」

「‥‥そう。司法取引‥‥」

 ソソギが微かに呟く言葉に頷いてしまう。俺もそう思っていた。

「それと、数人だけどオーダー校の生徒にも頼ってるらしい」

「私達にも言わないなんて、相手をだいぶ選んでるみたいね」

「そうか。ソソギにも来なかったのか」

 どうやら、俺の身内達の誰にもこの話はなかったようだ。

 オーダー本部の狙いはわからないが、まるで俺を一人にさせたがっている。

「—――本当に罠みたいね。やめちゃえば、そんな仕事。代わりに私が」

「イノリだって無事で終わる保証はないだろう。それに。もし本当にオーダー本部から仕掛けられた罠なら、まとめて踏みつぶさないと我慢できない」

 血が疼くのがわかる。組んだ足と足の肌に、血管の脈動が伝わるのを感じる。

 どれほどオーダー本部が俺を恨んでいるか知らないが、丁度いい。ここで自分達の立場を教えてやらないとならない。

「はぁ‥‥自信ばっかりあるのね。気が向いたら、私も少し調べてあげるから」

「私達も関わらせてもらう。カレン、手伝って」

 頼もし過ぎる四人からの申し出に、ただ頷き感謝するしかなかった。



「なる程。そんな事が――――」

「あの二人には内緒で頼む」

「わかっています。だけど良かったのですか?私達に話して」

「俺が誰を気にするって思ってるんだ?オーダーとネガイなら、天秤にかけるまでもない」

 胸を張って当然の真実を伝えると、ネガイは髪をかき上げる仕草で微笑んでくれた。

 ただ、その話を聞いてマトイだけは表情を曇らせる。

「悪い。怒ったか?」

「いいえ、ごめんなさい。あなたを怒った訳ではありません。私が気になっているのは、マスターとオーダー本部です。マスターの秘密主義は、今に始まった事ではありませんが、この規模のもはや作戦とでも言うべき計画を私にも黙っているなんて――――」

 腕を組んで、自身の胸を無自覚に乗せる不機嫌なマトイも、やはり美人だった。

 思わず、それに見入っていると不機嫌そうに頬を摘ままれる。

「いくら私が綺麗だとしても怒った姿を楽しむのはいただけません。後で覚悟して下さい」

「怒られてしまいましたね」

「ああ、怒られたな」

 ネガイとふたりで表情豊かなマトイを眺めていると、珍しくいじめられたマトイの指が強くなっていくのを感じる。そして形のいい唇がとがっていくのも。

「マトイはどう思う?」

「そうですね。一言で言うと、解せない、ですね。アルマさんでしたか?彼女を監視しているのはマスターでしょうが、私にも話さないなんて、やはり許せません。私だってもう完治してるのに――――どう、思いますか?マスター」

「まったく‥‥勝手に話しましたね。席を外しなさい。二人だけで話す事があります」

 不機嫌なマトイに問いに、鍵から伝わる声が応じて車両の外へと促した。

 それに不機嫌ながらも従う弟子は外へと出ていった。

「親子、いえ、家族と言うのでしょうね」

「そうだな――――あの二人は、家族だ」

「いいですね」

「ネガイにだっているだろう。俺じゃあ、不満か?」

「ふふ‥‥いいえ、いいえ‥‥。あなたは、私の家族です」

 マトイがいなくなった事により、積極的になったネガイが膝の上に乗ってくる。

 誰もいないサイナのモーターホームへ膝に乗ってきた時の振動が伝わり、少しだけ揺れるがすぐに痕跡が消える。きっと誰にもバレていない。

「行事終わりという提案は白紙に戻します。朝の続きをしませんか?」

「俺も、我慢出来なかった‥‥」

 腕でネガイを抱き込み、唇を押し付けるように唾液を貪る。

 先ほどの甘味がまだ残っていたのか、甘い生クリームと唾液を混ぜた粘度のある蜜が、ひと舐め事に正気を失わさせる。

「激しすぎます。—―――察して下さい。もっと私を求めて‥‥」

 背中を叩かれた瞬間に口を外したが、ふやけながらも自信に満ちた顔付きで両腕を頭に回される。ネガイと番になり、与えられる唾液の量が許容量を超えてしまい、口の端から零れてしまう。

「バレてしまいますね」

「嫌か?」

「いいえ。だけど、後で拭いて」

「もうバレてるよ」

 何故か、頬を叩き気味に離れたネガイが顔を背けながら乱れたシャツやスカートを直し、自身の首に垂れた唾液を拭いていく。

 振り返った時には、先ほどの形跡など完全に消えていた。

「目を離したら、すぐにこれですね。私だって、嫉妬するんですよ」

「ミ、ミトリ、治療科の同期達は、なんだって?」

「誤魔化してますね。皆んなも、個人的な友達同士で向かってるそうなので、向こうで合流しようとの事です。厳しい事こそ書かれてましたが、これは個々の結束を高める旅行なので、先生達も気にした様子ではありませんでした。あなたの探索科は、どうでした?」

 少しだけ刺がある無表情のミトリへ跪いて手を取って謝り続けると、ため息と共に困ったように笑ってくれる。許してくれたのだと安堵し、隣に座って声をかける。

「俺の所はそもそも自由だから。向こうでの実習だって、あって無きようなもの、あんまり厳しくは言われない。まぁ、少なくとも合流地点にはいろって言われてるけど。ネガイは?」

「私も似たようなものです。解析科はそもそも任意参加ですから、点呼さえありません」

 ネガイとは毛色が違うが、探索科は割と自由な学科だからか、ミトリの治療科の言葉を受け取ると、だいぶ厳しそうに感じる。やはり学科選びは自身の性格が大きく関与するという噂は、正しかったようだ。

「私やサイナさん、マトイさんは皆んな朝から夜まで実地訓練ですよ。少しだけ羨ましいかも‥‥」

「特段、用もないのに呼び出されるんだ。おかしく感じないか?それに、無い、とは言ってるけど、それをそのまま信じる奴は探索科の中にはいない」

 ミトリと共に行った学校内を探索して、命令された機能を持つ物を用意するオリエンテーション。それと同じ匂いがするのは俺だけではないようだ。この言葉を聞いたミトリは、目を開いて、隣のネガイを抱きしめる。

「頑張ってね。やっとだね‥‥」

「はい、やっとこれで私もみんなと同じ。ミトリと同じになれます」

 離れたミトリと両手の指と指を重ねて笑い合っている。そうだ、これは、やっとネガイがみんなと同じ事が出来る関門。であるならば、ある意味、俺達はあの時の苦労を味わえる。

「頑張るぞ。あの時よりも難易度が高いだろうから、昼夜問わず、歩き回るかもしれない」

「大変そうですね。—――ふふ、帰れないのなら、完璧に仕上げなければ」

「うん、面倒だからって、帰るのは却下だからね。あのね、この人最初から最後まで帰りたい、帰りたいって私にわがままを言って大変だったんだよ」

「詳しく聞かせて下さい。やはり、その時からミトリに甘えていたのですね」

 深く腰を下ろしたミトリは、あの時の無様な俺の仕草を事細かに話していく。あまりにも情けなくて、聞いてられなくなってきたのでモーターホームから降りる事にする。

「暑い‥‥」

 天候は、柔らかい朝日を覆い隠すような曇りとなり、湿気を感じるようになった。直射日光とは違う不快感がある。ここは目的地であるオーダー実地訓練所のある地方へと続く、高速道路の二番目のサービスエリア。先ほど通ってきたサービスエリアよりは小規模だが、ここも良くテレビや新聞に取り上げられる拠点のひとつだった。

「何か飲むか。そっちもどうだ?」

「‥‥やはり、異常な目だな」

 後ろにいるアルマに話しかける。振り返る事は、まだ許してくれていないので視線を送らずに前へと歩き続ける。後をついてくる固い革靴の音を感じながら、日よけとベンチ、自販機のある休憩所に向かう。

「そろそろ姿を見せてくれないか?」

「‥‥許可できない」

「許されてないからか?」

「‥‥いいや」

「—――傷、そんなにひどいのか」

 最後に会った時、アルマは胸から下腹部にかけて一刀の元に切り裂かれた。すぐに救護棟に搬送されたが、今の今まで姿を見せなかったという事は本当に死にかけていたのだと、想像に難くなかった。

「傷を恥じる事はしない。これは――――これは――――」

「そのままでいい。聞いてくれ。俺だって傷を恥じたりしていない。だけど、見られて気持ちのいい物じゃない」

 自分の胸に手を当てて答える。ここには、アルマ自身に付けられた傷がある。

「‥‥まだ、痛むのか?」

「痛くなんてない。本当だぞ?だけど整形でもしない限り、消えないって言われてる。別に償いなんて求めてる訳じゃない。だけど忘れないでくれ。自分のした事を。これからオーダーとして生きても、生きなくても」

「――――誓おう。私は、その傷を負わせた者として生き続ける。私も傷を負ったからわかる。傷は、本人もそれを見た者も、傷つける」

 今後、俺はオーダー以外の人間がいる場所で服を脱ぐことは出来なくなる。威圧感、恐怖感、そして嫌悪感。きっと外の人間はこれらを持ってしまう。それは正しい事だ。

「今更だが、言わせてくれ。――――ごめんなさい。あなたは私に手を差し伸ばしてくれたのに、私は、刃で返した。‥‥私、怖かったの。また‥‥また‥‥」

「忘れるな。その痛みは、きっと自分にとって大切な物になる」

 マトイから言い渡された言葉のひとつだった。痛みを忘れるな。その痛みは、きっといつまでもアルマを傷つける。報われる事などない。だけど、戒めとなる。

「その痛みはアルマしか感じられない。忘れるなよ、その痛みは、今のアルマが感じてる痛みだ」

「わかった‥‥もう、私は帰れない‥‥だから、私、誓います。この痛みは、絶対忘れない。—――振り向け」

 言われるままに振り向く。顔を上げながら、振り向いた先には――――誰だ?

「アルマ‥‥なのか?」

「‥‥その、やっぱり、おかしい?」

 長い金髪、青い瞳。鋭い白い顔付き。息が出来なかった。晴れていく空から降り注ぐ日光が、白いYシャツを照らし。アルマの肌をなおも白く見せる。だが、徐々に赤く染まっていく顔がその白さに映えさせられ、艶やかな桜色に変わっていく。仮面の方が使っている桃色の石に似た色となったアルマは自身のスカートを掴み、顔を背けながら伸ばしていく。

「あまり、見ないでくれ‥‥。こういう服を、人に見せるのは初めてなんだ‥‥」

 この羞恥心すら、演技に見せてしまう程、出来過ぎた見た目だった。気付いた事があった。剣など持っていない年相応なアルマの四肢は、日本人離れした肉付きをしている所為で服が合っていないのだと。

「あの、その‥‥せめて、何か言ってくれ、る?」

「本当に、オーダーになったのか」

「‥‥そうだ。私にもわかった。この服に袖を通した時、気付いた。私はオーダーになった。どうだろうか‥‥似合っている、よね?」

「ああ、よく似合ってる。アルマは、俺達と同じ、オーダーになった。だけど、今度購買にでも行こうか。服、合ってないだろう?」

「‥‥やはり、そう思うか?私も、サイズを口にしたが許して貰えなかった」

 もしかして、先ほど振り向かせてくれなかったのは、見られ慣れてなかったからか?だとすれば、少しでいいから見られなければ。

「中に入ろう。歩き慣れない服じゃあ、不都合が起こるからな」

 アルマの手を引いて、サービスエリアの建物の中へと向かう。後ろのアルマが、ひきつけでも起こしたかのような過呼吸を起こすが無視する。この美しいアルマを他人の目に見せないなんて、許されない。それに、今後の為に戦友にも知らせるべきだ。

「キドウ、ミヤト、少しいいか?」

 次の道を電光掲示板で確認していた後ろ姿に呼びかける。紙カップ片手に手を上げて振り返ってくれたキドウの身体が、完全に凍り付く。そしてミヤトすら息を呑む。

「えっと、留学生さん‥‥?」

「嘘だろう‥‥この俺が、そんな子を見落としてるなんて――」

「今後、何度か仕事をするだろうから挨拶してくれ。紹介する、このふたりは俺の仕事仲間」

「は、初めまして‥‥」

 顔を髪で隠すアルマの横顔に、ふたりどころか周りのオーダー校の学生や一般の人間すら息を忘れる。このサービスエリアに、唐突にイギリスの美術館か博物館にでも居そうな彫刻並みの美人が現れたのだ。誰しも、声すら忘れて当然だった。

「に、日本の夏は暑かったでしょう?お水、飲んだ?」

「す、すまない。この施設の事すら、よくわかってないんだ。ここでは水が飲めるのか?」

「お、おう!そうだ。水でも茶でも、ジュースだって、紅茶だって飲めるぞ!」

 ようやく歩く事を思い出したふたりは、ゆっくりと近づいて顔を下に向けたままのアルマに話しかける。

「こっちに来て日が浅いから、見かけたら良くしてやってくれ。アルマも」

「今後!お世話になります!!」

 スカートの前を抑えたアルマが、顔を上げて手を伸ばし必死に挨拶を求める。そんな慣れない異国でのアルマの必死さが伝わったらしく、ふたりとも手を取り挨拶を返してくれる。

「うんうん。よろしくね。仕事があったら、呼んでね」

「このふたりは、腕だけなら信頼していい。どこに放置しても、必ず生き残る」

「それは、お前もだろうが。えーと、アルマさん‥‥?」

 意外と紳士的で背の高いキドウが、腰を曲げて笑顔を向ける。屈託のない笑顔のキドウを見て、アルマがその青い目を真っ直ぐに向ける。整い過ぎた顔付きのアルマに見つめられ、また息を忘れたキドウだが、咳払いと同時に、

「コイツには気を付けろ。すぐに手を出される」

「‥‥いいや、もう私が手を出してしまった」

「アルマ、そろそろ行こう。他のメンツにも紹介したい」

 手を引いてアルマを連れて逃げ去る。キドウが膝をついて崩れる背中を、ミヤトが宥めるように手で叩いていた。



「フランスからですか」

「と言っても、ヨーロッパ中を回っていたから、あまり祖国という気はしないんだ。だから、あまり向こうでの事は話せない。すまない」

「いいえ♪今後とも、よろしくお願いいたしますとも♪差し当たっては、こちらをどうぞ~」

 せっせと自身の名刺を渡し、新規顧客獲得に走るサイナの商魂逞しさには目を見張った。しかも握手と同時に、手の広さや指の長さを測り、離したと同時に自作のアンケートにチェックを入れていく。椅子下のアタッシュケースに張り付けられたアンケートシートに、片手で『カモ』、と書き出すので回収する。

「あん。それは、商売道具です!お返し下さい!」

「慣れない相手をカモるか?脱税と詐欺で立件されるぞ」

「あは♪‥‥わかりました‥‥手加減はします」

 反省したのか、どうかわからない言葉と共に、アンケートを奪い取って鼻歌まじりにアタッシュケースに入れる。商品聞き取りは、俺がすると心に決めた。

「初めまして。この場では、そう言わせてもらいます」

「‥‥ああ、はじめまして。今後、よろしくお願いします」

 マトイからの背筋が凍り付きそうな声と視線を真っ正面から受けて手を取る。これも自身の罪に対する罰として受け入れる気らしく、まるで腰を退かずに口を結んでいる。

「それで、彼には?」

「――――謝罪させてもらった」

「そう。どうでした?」

「まだまだ、これからだ。悪いが、これから見据えさてもらう」

「‥‥構わない。私も、これで済ませる気はない」

「—――わかりました。今後、よろしくお願いします」

 握った手を揺らして挨拶を返す。一切笑わないその顔に、アルマは息もしないで、マトイが許すまで手を結び続ける。

「責任の捉え方は知っているようで何より。あなたの事は、マスターより聞かせてもらいました。不始末、手抜き、裏切りなど起こそうものなら、覚悟してもらいます」

「‥‥承知した」

 背筋を伸ばし、マトイの刃のような視線に身を晒すアルマは申し訳なさ、バツのわるさ、そしてどこか誇らしげだった。

「イミナさんから聞いたのか。どう思った?」

「鎌鼬の話は、正直わかりません。取って付けたような話にも感じましたが、事実として被害者も出ている。あれほどの規模の辻斬りを抑える為、オーダー本部が本腰を入れていると、言われれば、まだ信じられるかもしれませんが、現実的ではありません」

「私もご一緒させて貰いましたが、同じように感じました。というか~、既にあそこまでのもやは大隊、もしかしたら師団なみの戦力を投入しているのに、今更学生に頼るとは、我ながら思いません。それに、私達にすら言わずに情報統制しているなんて、はっきり言って、それはそれで信用できませ~ん」

「俺もそう思う。混乱を起こさないように情報統制をしてるなら俺達には話す筈だ。――――言った通り、この話が来たのは、あのふたりからだ。アイツらは信用できるが、それでもオーダーだ。全幅の信頼なんて出来ない」

 あのふたりからすれば、言われた事を言われた通り伝えているだけかもしれないが、それでもまず疑ってかかのるのは、オーダーにとって常識だ。そんな事ぐらい、ふたりだってわかっているだろう。

 涼しいモーターホームの中、ネガイとミトリが運転、助手席で話をしながら、俺達は預けられた情報を元にオーダー本部の真意に迫る。だが足りない情報もあった。

「だけど結局、現場に行かないと何もわからないんだよな。そろそろふたりの車に戻る。アルマを頼むぞ」

「は~い♪」

「近くにマスターもおられます。何もさせません」

 態度こそ対照的だが、その実、抱えているものはまったく同じ物である二人にアルマの監視と任せる。ミトリとネガイに声をかけてから外に出ると、その人がいた。

「歩きながらで構いません。話があります」

 制服を着た人形に、従いキドウとミヤトの車に向かう。

「あなたと彼女の事は、わかっているつもりです。それを知った上で聞かせてもらいます。彼女を、どう思いますか?」

「腕については信じられます。ただ、言った通りです。これから見させてもらいます」

「それがオーダーにとっての理念である秩序維持に反する行動、敵対な行動であったら?しかし、その行動があなたにとって正しいと思わせるものであったらなら、あなたはどうしますか?」

「何も変わりません。俺にとって不都合であったなら対処させてもらいます」

「結構。それで構いません。ただし、条件があります」

 しばらく歩いた時、ミヤトのシトロエンが見えて来た。

 車体に背を向けて身体で俺を隠すように近づき紫の瞳で見通してくる。やはり、いつまででも見つめられる無限の輝きを放つ宝石だった。そして冷酷だが美しい唇を開いた。

「殺させない事」

「誰をですか?」

「誰も。死人は決して出さない事。いいですね?」

「怪我人は、構わないと?」

「そう言ったつもりです。向こうで会いましょう」

 頬を取って、唇を奪われる。

「甘い‥‥」

「あなたの果実です。届きましたよ。――――何か言いたげですね?」

 頬に付けられた手を取って、目をつぶる。

「俺、結局一度も間に合っていません。サイナもカレンも、シズクとツグミにも。そんな俺を、信用してくれますか‥‥愛してくれますか‥‥」

「お友達に断って来なさい。そして、私の車に」




「わかりましたか?」

「‥‥まだ、わかりません」

「そう。では、続けましょう」

 長い舌から滴る唾液を求めて、背中に手を伸ばす。Yシャツ越しの固いワイヤーに指を添わせて、爪を立てる。腕の中にいる人形は、ただただ無言で俺がわかるまで、自身を捧げてくれる。そして、自身の息が途切れない事を良い事に、気を失う寸前まで続けてくる。

「どうしました?腕から力が抜けていますよ」

 改造されたSUVであるワイルドハントの中で、車体を揺らし続ける。意識を失いつつある俺の頬をはたき、意識を取り戻させる。そして、視界が戻った瞬間、再度口を塞がれる。唾液どころか、酸素する奪い終った時、ようやく解放される。

「本当に、あなたはダメ。ここまでしても、まだわからないのですか?マトイの言った通り。本当に、あなたはダメ」

「‥‥そうですね」

「ようやくわかったようで、何より」

 溜息をしながら、また唇を吸われる。唾液の一滴もなくなった時、自身の唾液を注ぎ、喉を潤してくる。跳ねのけようにも、限界を知らない人形の腕力の所為で、動けず、頭を振ろうにも自身のもうひとつの人形の足で挟み、固定されている。

「私が好きなのでしょう?そんな私に、ここまでされて、まだわかりませんか?」

「—―俺を、愛していますか‥‥」

「ええ、愛しています。あなたへの思いは、決して揺るぎません。あなたは、私のマトイを、そして私自身も守り、わがままを聞いてくれた。そして、愛してくれている。マトイが愛した者であるあなたに、私が想いを持っても不思議ではありません」

「‥‥よくわかりません」

「そう、まさかここまで言ってもわからないなんて。よく、聞きなさい」

 上に乗っている人形と、足を貸している人形が口を揃えて言ってくれた。

「私は、あなたが欲しい。マトイと同じように、私を愛しなさい」

「‥‥はい、わかりました。—―俺も正直にいいます。あなたを想っています」

 言い終わった瞬間、また口が降ってくる。頬の内側、歯茎、舌の付け根、口蓋。頭に血が登ってくる。けれど、それは怒りではない。失神に近い。だけど、頭から感じる冷たい足が、意識を手放す事を許してくれない。

「これで、あなたの問のひとつには答えましたね。立ちなさい」

「‥‥抱いて下さい」

「仕方ありません」

 身体全体を使って、背中に腕を伸ばし、背筋を伸ばさせてくれる。制服姿の人形の肩に頭を乗せて、深呼吸をする。人形三体分の香りを肺に溜め込み、気道を取り戻す。

「‥‥眠くなってきました」

「却下します。まだ私に時間を使いなさい。では、二つ目の問について。あなたを、私は信用しているか―――答えは、イエス。でなければ、あなたに仕事など任せない。何より、マトイと共にいる事を許す訳がない。わかりましたか?」

 泣きそうだった。いや、既に泣いてしまっていた。涙をYシャツに吸わせて、背中の布地を鷲掴みにする。しわになるかもしれないが、構わず続けて、すすり泣く。そんな泣き虫な俺を、溜息ひとつで頭を抱いてくれる。

「‥‥よく頑張りましたね。—――ようやく、私も素直になれる。ごめんなさい、ずっとひとりに責任を負わせて、つらかったでしょう」

「ごめんなさい‥‥。あなたの期待に、いつも応えられてない。せっかく、バイクをくれたのに‥‥何も、返せてない」

「‥‥ふふ、まだわかっていないようですね。そんな事、私やマトイ、誰かが言いましたか?」

「だって‥‥みんな、優しいから‥‥弱い俺を、知ってるから」

 背中を叩いて離れるように指示してくるが、頭を振って拒否する。また、溜息をしながら、頭を抱いて撫でてくれる。そして、耳に口を付けてくれる。

「あなたが弱い?今更、そんな事を言ってどうするのですか。あなたを愛している者達は皆知っています。彼女、ツグミさんも知っているようでしたが?」

「‥‥でも、それでも応えたかった。俺は、結局誰も救えてない。いつもそうだ‥‥。間に合う筈なのに、いつも届かない‥‥俺が出来るのは、奪う事だけ」

 指に力を込めて、逃がさないようにする。

 いつもそうだった。握っていると確証していた感触が、気付いた時には零れ落ちている。

 慌てて無様に拾おうとしても、その時には既に傷が付いてしまっている。傷ついていく光景を、ただ眺める事しか出来ない。

「やはり、あなたはわかっていない。それどころか勘違いをしている。命令です。離れなさい」

「嫌だ‥‥もう、あなたを見逃したくない」

「いいでしょう。このまま聞きなさい」

 溜息混じりに膝の上に座り直した法務科の魔女を、渾身の力で抱きしめる。

「言っておきます。あなたを救世主などにするつもりは毛頭ありません。更に付け加えると、あなたは救う事など出来ない。人を救うなんて、優しい手をあなたは持っていない。いつも銃や剣、爪を伸ばしているのに、そんな事を出来ると思っていたの?」

「‥‥酷いですね」

「ですが、事実です。言い方を変えましょうか?そもそも、そんな事は期待していません。ここまで言われても、離れないなんて‥‥あなただって、わかっていたでしょう。はやく、泣き止みなさい」

 力が抜けた隙を突かれて、目元を白い布で拭かれる。普段、この人が着ているローブと同じ柔らかい滑らかなものだった。

「‥‥マトイに言われた通りですね。こんなに脆いあなたを見ると、目を離せなくなってしまう。次はあなたの番です、好きにしなさい」

 両手を広げるように迎え入れてくれる人形を抱きしめて口を付ける。

 今度は、自身の技術を見せつけるような乱暴さは感じない。慈しむように受け入れて、宥めてくれる。

「落ち着きましたか?」

「‥‥」

「泣き疲れましたね」

 言われずともわかっていた。俺は誰も救えていない。俺はいつも救われる側だった。

 ツグミを救いたいと思っても、結局救われたのは俺の方だった。残してきた過去にとどめを刺させてくれたのは、ツグミだった。

「まったく、しっかりとしなさい。あなたの仕事は始まってもいない」

「‥‥俺は、間違っていたんですか‥‥」

「言い切れます。あなた間違っている。あなたに出来るのは、何もかも奪い去る事だけ。育む事すら、あなたでは出来ない。もう一度言います。今更、そんな事を言ってどうするのですか?」

「じゃあ、どうすればいいのですか‥‥」

「あなたの恋人達を頼りなさい。その為に全てを奪い取りなさい。あなたに出来る事は、ただそれだけ。その過程にある、壊す、傷つける、そんな物は無視しなさい」

「もう‥‥みんな知っているから‥‥」

「人間ではないあなたに、人間のふりを求めるなんて愚行、私はしません」

 最後に手で髪を撫で上げるようにして、膝から降りていく。

 そして引き込むように肩を握り、膝に誘ってくれる。冷たい皮膚に泣いて火照った顔が、心地よかった。

「泣き止ますだけで、これだけ手間をかかせるなんて」

 言い終わった時、車が発進するのが振動でわかる。あの白いリムジン程ではないが、自身の趣味らしい白い革のソファーが、身体を受け止めてくれる。

「では、仕事について、いくつか話す事があります」




「どう思いましたか?」

「少なくとも、流星の使徒じゃない。あのじじいは、一般人に姿を見せるようなヘマをする筈がない。これは、アルマの言う所の触れてはいけないものに触れた奴ら」

「同じ意見ですね。先ほど話した通り、ひとり、目撃者がいます」

 鎌鼬による辻斬りの唯一の目撃者。その人は今はオーダーによって保護されて、絶対安静にしているとの事だった。どうやら、見てはいけないものを見てしまったらしい。

「そして、その目撃者は被害者でもあります」

「‥‥絶対安静ですか」

「何か勘違いをしているようですね。彼女は、辻斬りを撃退したのです」

 飛び上がりそうになった時、手で頭を押さえつけられる。そのまま、大人しく頭を差し渡すと、頷いて、撫で続けてくれる。

「私の部屋を訪ねなかった罰とします。このまま私が許すまで、大人しくしなさい」

「言われれば、どこへでも行きます。あの部屋に行くには、どうすればいいのですか?」

「私が許可した時にのみ。準備が整い次第、迎えに行くので待っていなさい。では話を続けましょう。彼女は、そもそも絶対安静の状況下に置かれていました。なぜ、その街にいたのか。それは空気を吸わせる為です。ずっと同じ病棟ではつまらないと言われたので」

「すごいですね。オーダー相手に、つまらないから連れ出せって言ったんですか」

 ツグミといい、その彼女といい。俺の言う事は脅しでも使わない限り、一切取り合わないくせに。だがツグミは自身と引き換えに、交渉についた以上、その彼女も似た事をしているのかもしれない。

「あなたと一緒にいるといつも疲れる。彼女は、あなたと懇意にしているから、わがままが通った。あなたからの心証を害するのは得策ではないとオーダー本部と病院側が判断して」

 ひとり思い当たった人がいた。

「まさか、イネス?」

「わかりましたか?あなたは、あの流星の使徒と繋がりを持ち、ヒトガタで実験を行う正体不明の研究機関、そしてバチカンのエージェントから要人を警護しきった、強者と判断されています。いずれ耳に届くでしょうから、伝えておきます。オーダー本部からスカウト、そしてバチカンからこれまでの経歴を求める声明が来ています。どうしますか?」

「鉛玉でも送って下さい」

「結構」

 シズクが少し言っていたが、本当にオーダー本部から声をかけられているようだ。

 自分がした事を忘れているのだろうか?それとも、あれも試練のひとつと言い切るつもりだろうか?どちらにしろ、気軽に声でもかけてきたら口を裂いてやる。

「イネスの体調は、どうですか。‥‥巻き込んでしまったようですね」

「体調については、ほぼ完治していると通達されています。むしろ外に出たいと懇願して、病院側を毎日困らせているようですね。ヒトガタとは、どうしてこうまで‥‥」

「俺と想い人同士になったのですから、ヒトガタについては近く慣れますよ」

「その自信は、一体どこから来るのでしょう」

 制服姿の少し年上なイミナ先輩は、額に指をつけて頭を振る。

 だが事実、マトイと長く一緒にいるこの方は、わがままという物には慣れているだろう。

 サービスエリアから離れて長く時間が経った気であったが、時刻を見ればあれから全く時間が経っていない。異常な光景だった。どうやら、夢の中にいるようだ。

「外では、どのくらい時間が経ってますか?」

「まだ10分も経っていません。ようやく、お友達が車を発車――」

 その瞬間、耳元から亀裂が入るような音がした。そして、いつの間にか目を閉じている事に気付き、目を開けると、そこには寸分たがわず、制服姿の人形が膝を貸していてくれた。

「—―――ほう、私の時間を邪魔する者がいるだなんて」

「誰ですか?俺が始末してきます」

「では、任せましょう。帰ってきたら、褒めてあげましょう」

 足から起き上がって、腰の銃器を確認しながら話していると、足を組んで頬杖をつくイミナ先輩が見れた。思わず、その美しさに見惚れていると、無言で頬を打ってくる。

「もうご褒美をあげました。はやく、始末してきなさい」




「何か用か?」

 降りた瞬間を狙って、襟を掴み上げてくる。勝利したと確信したのか、ほくそ笑んで車体に身体をぶつけられるが、さほど痛くない。寝起きという事が、いい方向に傾いているようだ。

「お前には、公務執行妨害、そして警官への暴行という疑いが掛けられている。殺されたくなければ、大人しく投降しろ」

「それだけか?」

「はぁ?」

「公務執行妨害、それと暴行。他には?」

 先ほど、俺が転がした少年とソソギに詰め寄っていた少年の二人だった。そして、後ろにもう一人の少年。三人とも、あまり人相が良くない。制服を着たチンピラ、としか名状できない。それともエリート気質を拗らせた者は、総じてこうなるのか。

「調子に乗るんじゃない‥‥俺達は特務課だ。お前達、ただのオーダーとは違う。わかるか?俺達は、特別にお前達に付き合ってやってる。オーダー風情に時間を使ってやってる意味がわかるか?あ?」

 冥土の土産のつもりらしく何もかも話してくれる。ならばと、もう少し話させる。

「特別って言ったな。なら、お前達はエリートか?なんで、お前達程のエリートが、ここにいる」

「お前じゃ、理解できない公務だ。くく‥‥無様な顔だな?」

 公務としてここにいる。ならば、眼前の肉塊は捨て駒。特務課の本隊、マトイやイノリの言う、過去に公安と呼ばれていたこの国の守護者は背後にいる。

 俺は、この捨て駒程度で問題ないと判断されたという事。

「あの時は、よくやってくれた。礼を返してやるから、こっちに」

「お上品で、何よりだ」

 腰から警棒を抜き出し、掴んでいる背の高い学生の脇に突き入れる。先ほど俺が膝を突き刺して、そのまま引きずった場所を狙う。

 確かな手応えに、狙いは正しく命中したと確信する。

 噴き出そうになる学生の腕力に手を貸し、逃がさないように肘の関節に手を添える。ガットフックの医師すら床に足を縫い付けた眼球で睨みつける。肉体的にも精神的にも麻痺させた瞬間、注意を奪っている隙に、脇の杭を膝で蹴り上げる。

「折れてない。だが、内出血でも起こしてるだろうから、動くなよ」

 俺の言葉を最後まで聞く前に押し付けていた車体に顔をこすりつけて倒れる。

「ああ‥‥足りない‥‥」

 血が見たい。肉を引きちぎりたい。目を突き刺したい。

「お前達‥‥敵だよな?」

 肩を軽い。奴から引き抜いた杭と、脇差しを両手で持ち上げる。

 どちらもなまめかしい刃を持った武器を見せつけて動きを止める。正面から見せられる、向けられるのは始めてのようだ。腰が抜けていくのがわかる。先ほどまで腕を組んでいた奴、後ろで俺が血祭りに捧げられるのを待っていた奴。

 どちらも、ただの人間でしかなかった。

「誰に言われたのか、知らないが、間が悪かった―――。わかるか?俺は、今機嫌が悪い」

 一歩踏み込む。腰を抜かしている奴に脇差しの切っ先を鼻に向ける。周りから声もしない。人払いが済んでいたのか、周りは似たような姿をしている連中だけだった。

「仲間に、助けでも、求めたら、どうだ‥‥?」

 口が回らなくなってきた。眼球が血に染まっていく。頭が解放されていく。直射日光と成った太陽に背を向けて人間に影を移す。向けている目でわかる。今の自分の顔は人間とは似て似つかない認識外の獣であろう。それとも逆光で顔を見れていないだろうか?

「な、なんだ‥‥お前、ただのオーダーじゃあ‥‥」

「何も知らされてなかったのか‥‥?お前、エリートじゃない。ただの捨て駒‥‥」

「ふ、ふざけるな!!」

 最後の誇りを持ち上げた。

 それは、H&K—USP。P8の名称でドイツ連邦軍の制式装備とされ、多くの軍や警察に配備されている信頼できる拳銃だった。

 そして、それはSATの主力拳銃として知られている9mm弾を放てるもの。

「俺は、エリートだ!!お前達みたいに、暴力さえできれば、誰でもなれるオーダーなんかとは違う!!」

 言い終わった瞬間に頭部を狙って引き金を引いてきた。ただ、指に力が届く前に上から踏みつぶし、アスファルトに焦げ跡を残させる。全力で手を踏まれたのも初めてらしく、這いつくばるようにして顔を隠し、ひきつけでも起こしたように声と顔で痛みを表現する。

「暴力すらできないお前達じゃあ、オーダーには勝てない。シネ」

 脇差しを引いて倒れている人間の後頭部に突き入れようとしたが、弾かれる。

「足りないんだ‥‥」

「あなたが言った事ですよ。殺人はしてはいけない」

「だけど、オーダー相手に発砲してきた」

「では、そこのを殺せば、あなたは止まりますか?この場にいる全員を殺しても、止まらない。あなたを、人間程度の法で裁かせる訳にはいきません。それに、向こうでのデートが出来なくなります」

「—――それは、ダメだな」

 深呼吸をして、杭と脇差しを鞘に戻す。髪をかき上げて、顔に日光を当てる。

「とりあえず入ろうか」

「はい、お邪魔しますね」




「この車を狙ってきた。つまり、この車にあなたが乗っている事を知られている。そして、強硬手段でも使わなけばならないレベルで、あなたが求めらている」

「あなたの可能性もあるのでは?」

「私?その可能性もありますが、この身体が人形だという事は、それなりの立場にある者なら、誰でも知っている事。顔見せというのも、法務科の仕事なので」

 俺の知らない所で、会合というものがあるようだ。だが、確実にそこは殺伐とした空気に違いない。オーダーは、全ての組織の敵。オーダーにとっても、次の獲物の品定めに近い感覚だろう。

「だけど、それは俺だって。今更、俺に近づいてどうするんだろう?ネガイはどう思う?」

 真上から俺を見降ろしているネガイに、聞いてみる。ネガイは口元に指をつけて、思案し、その指で唇を撫でてくれる。

「あなた、というよりもあなたの地位に興味があるのかもしれません」

「俺の?」

「はい。地位ないし人脈です。私達で撃退した者、彼はバチカンのエージェントだったのでしょう?それに、その上司らしい男性とも接点を持ったあなたに、何かして欲しい事があるのでは?」

 言われてみても、あまりピンと来なかった。俺は周りに思われている程、人間組織と接点など持っていない。オーダー本部には事前通告なしでの逮捕、警察には研究所絡みでの露呈、バチカンとだって殺し合ったというだけの関係。

「‥‥わからない、という顔ですね。ちゃんと自身の事がわかるように、わからせておきなさい」

「適切な人間との距離を測っていたつもりでしたが、確かに、甘やかしすぎましたね」

 意外と普通に話せているネガイとイミナ部長は、溜息まじりに俺を見つめてくる。ネガイの膝の上で首を捻るしかない俺は、ただただ二人の視線に困惑するしかない。

「いつか、マトイから言われましたよね。あなたは、人間の思考から徐々に離れて行っている。そしてあなたの事を書類上でも知っている組織は、それが真実であると知っている筈です。‥‥事実、あなたは人間ではない」

「最近、暴れ過ぎたから、改めて危険人物だって判断したのか‥‥のろまどもが‥‥今更、気付いた―――いや、俺の生まれが、どこからか漏れたのか‥‥」

 その瞬間ネガイが手で目を覆ってくれる。

 冷たい手に意識を集中させ、人間への怒りで熱せられていた頭を冷やしていく。

「落ち着て下さい。あなたの生まれは、まず知られる事はありません――」

「—――警察とあの研究所は繋がってたんだ。それに少なくとも三人いる俺の経歴を知ってる人間の内、一人はまだ見つかってない。まだ見つかってないんだろう‥‥」

 その問に、人形達は答えなかった。

「怒ってなんかいないんだ‥‥だから、俺を見てくれ」

 寝返りを打って、ネガイの腹部に顔をうずめる。

「元々、人間は俺の敵だ。わかってる‥‥だから、いいんだ。—―ひとりにしないで」

「しません。絶対に。だから、私をひとりにしないで‥‥」

 ネガイの膝の上で抱き合い、呼吸を合わせる。恋人の吐息を耳で感じるだけで、人間へと向ける筈だった殺意が溶けて消えていくのがわかる。

「やっと落ち着きましたね」

「面倒くさくて、ごめんな」

「いいえ、あなたを宥めるのも、楽しいものですよ」

 感じていた筋肉の硬直が解けて、自然とネガイの膝でくつろいでしまう。目と胸を撫でるネガイの血流を頭を付けている足から感じ取る。慣れ親しんだ人肌に眠気が誘ってくる。

「そうやって、大人しくさせると。膝枕と手は必須ですか?」

「必須です。ただし、あまりにも甘えてくるようでしたら、厳しくするのも有効です。そして、しっかりと眠るまで側にいてあげる事。寝起きの甘えん坊モードは、なかなかに楽しいですよ」

「それは知っているつもりですが、どうやら、まだもうひとつ形態があるようですね」

 肉体的な年齢が近いからだろうか。本当の女子高生同士が話しているように聞こえる。そして、ネガイが眠らせに来ているという事が、手の熱でわかってきた。

「眠い‥‥」

「いいですよ‥‥私がそばにいます。だから、ゆっくり、眠って下さい」

 ネガイの手にウィスパーボイス。この化け物を眠らせるには、十分な供物だった。




「なかなか面白い事になっていますね。こう言うと怒りますか?」

「いいえ。重症者こそ出ているようですが、特別何も感じません」

「そうですか」

「だけど、イネスが狙われているのなら話は変わります。—―俺が仕留められる類ですか?」

 銀の机を挟んで仮面の方と向かい合っていた。異色の青黒い髪を揺らし、もはや自身の趣味となった仮面をつけて朗らからに笑ってくれる。

「結論から言いましょう。あなたぐらいしか仕留められないから、あなたを求めている。ふふ‥‥少しヒントを与え過ぎましたか?」

「自分の後始末の為に俺を求めていると。試しにイネスだけ攫って、それ以外は放置してみますか?」

「それはそれで楽しそうですね。事実として、もう必要な物は溜まっています。あの者は、呼び出された自身を守ろうとしているにすぎません。けれど血の味を覚えてしまったようですね」

「‥‥本当に、求めているのは血なのですか?」

 そう聞いた瞬間、満足そうに微笑み八重歯を剥いた。

「どうして、そう思うのですか?」

「血を求めているなら、人ひとり襲えばそれで済む。なのに30人近くを襲い、傷の重軽もまちまち。自分にとって都合のいい血を求めているのならまだしも。今はまるで――恨みでも晴らしているような。‥‥暴走している俺みたいに」

「さぁ?そこまでは私にはわかりません。ふふ‥‥」

 完全に的を射ているかはわからないが、掠ってはいるようだ。

 血の聖女と同じぐらいの量を求めているのなら、やり口が狭すぎる。それこそあのクラブと同じように、多種多様な子達を集めるようにしなければ終わらない。たまたま目に付いた人間を襲っているのでは手間がかかり過ぎる。

「だけど、あなたは本当に目がいいですね。流石、私の宝石です♪」

 自身の頭よりも大きいかもしれない胸を張って、褒め称えてくれた。

「まだ、何もわかっていません。だけど、無差別に襲っているように見えて、本当に襲いたい相手は決まっているように感じます。—―俺で、止められるのでしょうか」

「不思議な事を言いますね。それは気持ちがわかるから、放置すると?」

「まさか‥‥イネスを襲ったのです。向こうの都合など、知った事じゃありません。だけど、恐らく敵は、貴き者。俺で、倒せるでしょうか」

 銀のテーブルに置いた手を掴んで、鈴を転がすような声で笑ってくれる。

「あなたの心配は最もですが、それは無意味な心配。月が落ちてくるのでは?と心配しているのと変わりません。いいえ、それ以前の問題です。だって、あなたは既にあの雑多な自称神とやらを切り裂いています。思い出しましか?」

 忘れていた。そうだった。

 俺は既に人外のそれを撃破している。自分ひとりの力だけではなかったとしても、今はあの時以上の戦力が揃っている。

「‥‥すみません。弱気になっていました。ここまで外に出るのは初めてだったので、甘えたくなっていたようです」

「あなたが甘えん坊なのは、ずっと昔からですよ。さぁ、来てください」

 開かれる腕に従い、床に沈む銀のテーブルを待たずに仮面の方のドレスにしがみつく。胸元のコサージュである黒い花が頬をくすぐり、あたたかな心拍で耳を包んでくれる。

「温かい‥‥」

 座っている椅子ごと抱きしめて、目を閉じる。柔らかい身体を使って、不安に晒されていた弱い俺を、自分の暖気で鎮めてくれる。どんな所かもほとんど知らない街。これから向かう場所は、オーダー校課外授業校舎とも言われる拠点がある地方都市。通称第二オーダー街。

「知らない場所は、不安ですね。だけど、みんないます。私だって」

「‥‥向こうでも、会えますか?」

「んー、それは難しいですね」

「会いたいです‥‥」

「わがままばかりではダメですよ。め!」

 久方振りに叱られた気がしたが、背中を撫でながら言われた所為で、叱られたというよりも、意地悪されたように感じる。不満を顔で伝える為に、顔を上げるが、顔を両手ではさみ、仮面の方も不満を表情で伝えてくる。

「わがままばかり言って、私を困らせたいんですか?ダメなものは、ダメですよ」

「‥‥ごめんなさい」

「むぅ、そう素直に謝られると、もう叱れませんね。だけど、今は諦めて下さい」

 腰を曲げて、口づけをしてくれる。貪るような乱暴なそれも好きだが、愛でるようにしてくれる優しい唇も、甘くて好みだった。

「素直なあなたに、もうひとつ背中を押すとしたら、彼の者は、正確には貴き者ではありません。そうですね―――獣、と言ったところですか?」

 楽しそうに、頬を撫でながら、自身の瞳を赤く輝かせてくる。そして、この瞳は見覚えがあった。過去に数度見た。例えば、イネスをほぼ無傷で保護した時。

「楽しい事が、起こるのですね?」

「そう思いますか?ふふ、そうかもしれませんね。けれど、忘れていませんか?あなたの行く場所には、多くの人間の欲望が渦巻いている。ふふ‥‥忙しくなりそうですね。あなたも。私も」

 肩を叩いて、離れてくれと伝えてくる。それに従い、膝を床から浮かしながら、仮面の方の手を引き上げる。エスコートを受け入れてくれた我が仮面の方は、楽しそうに跳ねるように、胸に飛び込んでくれる。

「少しだけ、あなたから力を借りますね‥‥」

「俺でよければ」

 胸の中で、仮面越しにはにかみながら、笑ってくれる。そして、俺の心臓から熱を感じる為に、耳を付けてくる。柔らかくて、温かくて、愛おしい。そして、この欲情をいつでも受け入れて、飲み込んでくれる。

「ふふ‥‥わかりやすいですね。すごくドキドキしてますよ」

「‥‥少し前は、負けましたね」

「はい、血塗れのあなたは、とても可愛らしかったですね」

「—―次は、こちらの番です‥‥」

 逃がさないように、腕で檻と作る。受け身しかできないように、反撃を起こさせない為に、腕ごと押さえつけて、上から見下ろす。

「負けたのが悔しかったですか?あんなに楽しそうだったのに‥‥来て」

 言われるままに、顔と仮面を擦り合わせる。邪魔になって来た仮面を、口で力任せに外し、最後仮面の方の中に飛び込む。真っ赤に熱された舌と邪な自身の舌を絡ませて、お互いの息と唾液を交換する。長い仮面の方の舌も、真上からの攻勢には届かないらしく、好きなだけ歯茎も口蓋も舐めとらせてくれる。

「ふふふ‥‥」

 しかし、まだまだ余裕そうだった。だが、この余裕な空気を見ていると、どこか安心感を持ってしまう。俺がいくら求めても、この方は受け入れてくれる。

「すみません‥‥」

「もう、終わりですか?」

 最後に舌と舌の先端を合わせてながら、引き抜く。

「‥‥俺ばかり」

「いいえ、私も楽しかったですよ。大丈夫」

 背中に腕を回してくれる。そのまま、後ろに倒れるように引き込んで、いつの間にか呼び出していたビロードのベットに身体を弾ませる。目を合わせられない俺を、楽しそうに抱いて、受け入れてくれる。

「相変わらずの怖がり。大丈夫。あなたが優しいって事、私だけじゃなくて皆様が知ってますよ。‥‥あなたは、もう狂わない」

「‥‥これから向かう場所には、多くの人間がいるそうです」

「そうですね。沢山の人間の欲望が待っています」

「なんの為ですか」

「手を伸ばせば、届きそうな物があるから。では、答えになりませんか?」

「‥‥俺の敵になりえますね?」

「勿論ですよ。人間は、総じてあなたの敵です」

 安堵してしまった。俺の味方は、恋人達だけ。それ以外には疑うまでもなく、敵でしかない。利用できる奴は利用すればいい。ずっとそうだった。俺は、ずっと利用されていたのだから、同じように利用すればいい。アイツらとも、利用し合う仲なのは、元々だった。

「やっと緊張が取れましたね」

「すみません。俺、不安だったんです。何も守れない自分に」

「いいえ。あなたはいつも苦しみながらでも、守り切っていました。そんなあなたと戦うのを人間は恐れたから、卑怯な真似をする。しかも、そんな手を使っても、人間達はいつも敗北している。自信を持って。あなたは、今まで誰にも負けていない」

 神など歯牙にも掛けないこの方が、ここまで言ってくれる。ならば、その言葉には幾万の言葉にも、幾億の真実にも勝る。

「—―良かった。あなたに褒めて貰えるなら、ゆっくり眠れます」

 先ほどに感じていた邪な感情は、消え去り、ただ仮面の方の胸で眠れる。今はそれだけで十分だった。



「到着しましたよ」

「‥‥思ったより、近かったんだな」

「そうですね。私も、すごく遠い場所だと思っていたのに‥‥こんなもに近かったのですね」

「今度は、国外でも言ってみるか?」

「いいですね、私も行きたいです」

「はやく降りなさい。私は、忙しいので」

 急かされながら、ネガイと共に車両から降りる。もう昼になっている日光は、これから訪れる真夏の準備段階だと訴えかけてくる。そして、それはすぐ近くだと、足音でわかった。

「私はこれから、所用があります。何かあれば、連絡を」

 短い言葉だけを残して、ドアを閉める。そのまま、エンジン音だけ残し、街の影に隠れてしまった。どうやら、忙しい中、合流地点まで送ってくれたらしく、身内の見覚えのある面々が遠くに見える。

「行くか」

「はい、荷物はサイナが運んでくれたそうです。今度、埋め合わせをしましょう」

「‥‥ああ」

 日差しを手で遮る。合流地点であるオーダー街地方拠点。周りの建物と馴染むように作られたガラス張りの高層ビル。ここは、第二のオーダー街と謳われる都市の中枢。ただ規模の上ではオーダー街にこそ、届かない。だが、都市部外での仕事の報告等の多くを、ここに申請するのが、決まりだった。

「私達には、あまり関係ないかもしれまんね。私もあなたも」

「そうだろうな‥‥。実際、もう来ないかもしれない」

 指と指の間から見上げる。周りとの調和を気にしてか、あまり目立たないようにしているようだが、一目でわかった。ガラスの分厚さが異常だった。

「暑いので、早く行きましょう」

 わらわらと外部拠点に入って行く生徒を追って、外部拠点の中央広場を抜ける。駆けるふたり分の足音が聞こえたのか、ビルの中から身内が手を振ってくれる。

「合流時間には、まだ早いよぉ~。まだゆっくりしてきて良かったのに~」

「いいんだよ、これからゆっくりするから」

「‥‥流石‥‥なんて言うか‥‥敵わないね」

 冷房が効くビルに駆け込みながら、応えると、イサラがわざとらしく肩をすくめて、首を振ってくる。実際、これからネガイとゆっくり探索をするつもりなので、苦笑いのひとつもする気にならない。

「イサラ、あなたもここが合流地点でしたね」

「うん、そうだよ。あ、そっか。ネガイさんは、解析科だから、自由時間なんだね」

「はい‥‥すみません。私ばかり」

「あはは!そんな事で謝らないで、夜は一緒に遊ぼうよ。マトイさんも来るそうだから。じゃあね♪」

 背中から発せられる空気が、入学時とは比べ物にならない連中、制圧科と強襲科の中に混じっていても、全く見劣りしないイサラは、去りながら手を振ってくる。ネガイは、さほど気にした様子はないが、俺には見つめざるを得なかった。皆、徐々にプロになりつつあると。

「みんな、強くなっているようですね」

「‥‥そうみたいだ」

「だけど、私達には敵いません。—―所詮、ただの人間です」

「‥‥そうだな。俺達は、特別だったな」

 ネガイと手を握りながら、一階ラウンジを歩く。涼やかな噴水が中央にあり、出入口と噴水の間にある受付へと足を運ぶ。その途中、ネガイが楽しそうに上を見つめているので、それの真似をしたところ、意味がわかった。いわゆる吹き抜けとなった天井は、優に30階を越し、透明な管状のエレベーターが、いくつも上へと延び、進んでいく。どこか、近未来感を思わせる光景は、いつまでも見続けられる気がした。

「‥‥あのー」

「え、あ、なんで」

 そこには、俺とネガイを追い出した依頼斡旋室の受付さんが座っていた。

「私も教員のひとりですから、探索科の目的地は、10階ですよ」

「‥‥意外と、役に立ちますね」

「ふ、ふふふ‥‥私、さっき言った通り、これでも教員なんですけどね‥‥」

「あの時の依頼料、あなたが振り込んでくれてもいいんですよ?何か進展はありましたか?」 

 直接的にこの人の所為ではないが、それでも一円も振り込まれない仕事を、俺に斡旋した責任を感じさせる為、挑発を込めて聞く。わかりやすく、うな垂れながら頭を下げ「まだです‥‥」と言ってくるので、それでよしとした。

「10階ですね。では、またあとで」





「あの方も苦労人ですね」

「人間の大人って、みんな、ああなのかもな」

「全うな人間じゃない事に、感謝しました」

 具体的な話は聞く気はないが、ネガイも見た目通り、全うな人間ではないらしい。その血筋のどこかに、貴き者達が混じっていと前に聞いたことがあった。

「高いエレベーターですね」

「高い所、苦手だったか?」

「いいえ。でも、やはり、こんな高いエレベーターから見下ろす経験は、私は少ないので」

 エレベーターの壁に手を付けて、下を眺めているネガイは楽しそうではあった。

 しかし、複雑な気持ちを湧きたてる姿でもあった。ずっと、オーダー街の学校に自身の寮。そこしか出歩く事を許されなかったネガイは、本当に何もかもが未経験だった。

「ふふ、大丈夫です」

 振り返って、こちらを慮る言葉を発しながら、エレベーター内の手すりに背中を付けた。

「まだまだこれから、あなたと沢山歩けます。だから、いいんです」

 忘れる事など許されない。ネガイは、自分の復讐を捨ててでも俺の生命を救ってくれたのだと。過去の不幸を消し去るには、現在の幸福と未来への祝福のみだと自分に誓う。

 何もかもを輝かせる笑顔のネガイと腕を絡ませエレベーターから降りると、灰色のブロックカーペットで床を覆った廊下の上で、何故か皆が皆、壁に寄りかかっていた。

「ん?部屋の準備が、出来ていないのでしょうか?」

「‥‥いいや。違う」

「‥‥そう。これが探索科の」

 腕にネガイを置いたまま、壁に背中を付けている探索科の林を通って、指定されている部屋の前へと行く。だが、そこは想像通り部屋などない。白い壁ばかりで、何もない。けれど、廊下の突き当りには、一階と同じような受付に女性型アンドロイド、いわゆるガイノイドと呼ばれる人形が座っていた。

「すみません、ここが合流地点では?」

「私では応えられません」

 ネガイが丁寧に話し掛けるが、ゴム製とは思えないマネキンのような艶めかしさを持った肌で答えてくれる。声すら合成音とは思えない。遠目から見なくても、人形とはわからなかったかもしれない。

「けれど、私とは違う私ならば――」

 そこで止まってしまい。耳元に付けられたマイク付きイヤホンを押え、自身の仕事へと戻る。

「私とは違う私。それは、あなたよりも上位の権力を持った同型機ですか?」

「お答えできません」

「‥‥困りました」

 灰色の髪を指で撫でながら、振り返ってくる。

 ネガイの肩に手を置いて、受付の前に出て、改めて姿を見る。毛髪や肌の質感。そして爪の色。どれを取っても、人間を目指した事がわかる姿だった。だが、瞳だけは作り物だとわかる。瞳の奥、水晶体と硝子体が無い。絞られる黒点から感じられる形は、レンズとしての役割にのみ特化した色だった。

「私とは違う私。それは、連続する現実を逆行して生み出された、同時点の別存在ですか?」

「—―私を破壊しますか?」

 今までとは違う答えであり、あまりにも直接的な返答に、周りがざわつくのがわかる。

「私を――破壊しますか?」

「いいえ。俺には出来ません」

「‥‥あなたには、渡せません」

「構いません。俺は、あなたを劣化品だとは思えませんので。けれど改良の余地はあるかもしれませんね」

 振り返って、ネガイを見つめる。それで、ようやく現実世界に戻ってこれた気がした。俺も、このガイノイドも作りもの。求められる性能こそ違うが、人間の命令という概念的な欲望の元、作り出された人形同士、人間よりも見る目が違ってしまった。

「何か思いつきましたか?」

「どうかな?だけど、これは俺なら出来るかも」

 俺達は扉を探している。だけど、それは見つからない。それが夏へと続くかどうかは知らないが、それに類する事は行っていた。ここは、扉の無い未来。

「一度戻ろう」

「はい、あなたが言うなら」

 ネガイと手を取り合って、エレベーターへと戻る。周りの累々は、わからないと言った感じに首を捻って、俺達を見つめながら、送り出してくれる。

「それで、なぜ戻る必要があるのですか?」

「俺にとっての扉は、ここにない。一度眠らないとならない」

「ん?」

「未来へ行くか、過去を迎えに行くか、ロバート・ハイライン。SFもいいもんだぞ」

 わからないのは、ネガイも同じだったようだ。しかし、俺もこれで正しいかどうかわからないので、ひとりタイムマシーンに通じるであろう物理学者を騙しに行くとしよう。

 首を捻りながら、見つめてくるネガイがあまりにも可愛らしいので、頬に口を付けてから笑顔を返す。わからないといった顔は、そのままだが、悪い気分ではないらしく、口づけを返してくれる。

「それで、下に降りてどうするのですか?」

「単純だよ。受付さんに聞きに行く」

「答えるのですか?」

「どうだろうな。だけど、手立てはある」

「はぁ‥‥」

「大丈夫大丈夫。面倒だったら、さぼればいい」

 エレベーターが一階に到着し、甲高いベルの音をさせて、扉が開く。硬質の床に足音を立てて、一階中央の受付へと駆けより、受付さんの眼前に躍り出る。

「ど、どうされましたか?」

「大人しく言うか、言わないか。酒なら後で送りますよ」

「‥‥さて、私には、なんのことか」

 俺は復讐をしたかもしれない。ちょっとした嫌味だったが、思った以上に効き過ぎたのかもしれない。だから、まずは謝罪が必要だった。

「金の事でしたら、今更気にも留めません。だから、手を貸してもらえませんか?」

「ですから、私には、なんの事か」

「嫌なら、あなたを横領罪として、法務科に」

 そう言い切る前に、全力で口を閉じさせてくる。真面目な受付さんは、全力で首を振って眼鏡に涙を湛え始める。後もう少しみたいだ。

「私は!!‥‥私は、ただ言われた通りに――」

「本来振り込まれる筈だった金は、そもそも無かった。だけど、オーダー本部がそれを証明する術はありますか?全部、あなたの責任になるのでは?もともと、存在しない依頼を俺にやらせた詐欺師として」

「‥‥も、もう、止めて‥‥下さい‥‥私だって、今もおかしいって‥‥」

 いじめ過ぎたようだった。実際、今もあの時の金は惜しいと思っているが、今更蒸し返す気など、本当ならさらさらなかった。だが、しらばっくれた受付さんには、お灸が必要だった。

「俺を舐めましたね?俺は、法務科に所属するオーダーです。わかったら、早く」

「‥‥私だって、好きでここいる訳じゃあ‥‥私だって、プロなのに‥‥なのに――でも、ここならお給料いいし‥‥快適だし、‥‥わかってますよ‥‥プロなら外で仕事しろって」

 徐々に自身の就職目的を暴露し始めた受付さんの口を閉じさせる。

「すみません。調子に乗り過ぎました」

 眼鏡を外し、裸眼の状態になった受付さんが、半泣きで見つめてくる。

「あの時、無理言って仕事を求めたのは俺でした。ごめんなさい。何も知らない俺の為に、仕事をくれたのに。無茶言って、すみませんでした」

「‥‥いいえ、私だって、良く調べもしないで受けさせてすみませんでした。お金、取り返せましたか?」

「はい、もう充分。だから、これからもお願いします。知ってましたか?受付さん目当てで、斡旋室に行く連中って、結構多いんですよ」

 これは事実だった。中等部の時は、女性と言えば、教員や同級生だったが、高等部に上がり、教員でも生徒でもない女性が、しかも美人な大人の女性が仕事の面倒を見てくれるという事で、毎日、何もなくとも斡旋室に行く連中が多くいた。

「ほ、本当ですか‥‥私が来てから仕事が多くなったって、言われましたが、あれは」

「受付さんに、良い所を見せたいからですよ」

「‥‥よかった。私、受け入れられてたんですね!」

 裸眼の受付さんという別人としか見えない大人の女性に両手を掴まれて、心臓が飛び出そうになるが、ネガイが無言で脇を突いてくるので、心臓が大人しくなる。

「それで、何か渡すものとかは?後、あの文化女中器、目がまだまだ洗練できます。もう少し、形のいい眼球が必要かと」

 涙を拭き続ける受付さんにそう聞くと、ネガイが俺の腕を抱き締める。

「‥‥本当なら違う言葉と物が必要でしたが、特別です」

 差し出してきたのは、一枚の手紙。どうやら、今度は足を使って探すか、頭をひねって何かしらの答えを出す人種かで、採点方法を変えるらしい。

「できるだけ、見つからないように見てくれと。それで!!私って、どういう評判を!?」

「仕事に来る奴の量が、あなたの評判ですよ。またお世話になります」

 ネガイと共に、受付を後にして、一階の休憩所、たばこと自販機のふたつの部屋がある場所に入る。休憩室としての質はかなりいいらしく、コーヒー豆の香りがコーヒーメーカーから漂ってくる。

「で、なにを受け取ったんですか?」

 ネガイに手紙を渡し、ふたり分のコーヒーを作ろとするが、ネガイから「アイスココア」と注文を受けたので、言われた通りにココアパウダーと氷を入れてお湯を入れる。

「猫、みたいですね」

「やっぱりか」

「わかるんですか?」

「なんとなくだけどな。それに、まだ間違えてる可能性もある」

 ふたり分のカップを運んで、ネガイのいるテーブルに置く。ネガイは無言で手紙の封筒の中にあった、猫の黒いシルエットが彫られたはがきのような物を渡してくる。

「これ以外に封筒の中には?」

「‥‥いいえ、なにも。だけど、保管しておきましょう」

 封筒を畳んで胸ポケットに入れるのを見届けてから、改めて猫の紙を見つめる。それは美しい黒猫を模ったシルエットで、このまま持ち帰り、額縁に入れたくなる見た目だった。

「それで、なぜ猫なのですか?」

「それは、俺にもわからない。本来なら、主人公は愛猫を失った事になってる筈なのに」

「‥‥飼い猫を失うのは、悲しいですね」

「大丈夫だよ、ちゃんと猫は帰ってくるから」

「‥‥よかった」

 物語の話なのに、ネガイは安堵の息を吐く。だけど、俺は溜息を吐いてしまう。正直言って、気が進まない。この猫は、本来失わなければならないからだ。つまり手元にあるという事は、近々失くす必要があるという事ではないか?

「話をして下さい。その主人公はどうやって扉を見つけたのですか?」

「そうだな‥‥全部話すと長いから、結論だけ言うと、二回の冷凍睡眠、一回のタイムトラベルをすれば扉を見つけ出す事が出来る。それと、見つけたがってた扉には、夏があるらしい」

「よくわりません。だけど、二回眠ればいいのであれば、あなたの得意分野ですね。どこで眠ればいいのですか?」

「‥‥そうか、眠る場所が必要なのか」

 今回、俺は運よくタイムマシーンを持っている物理学者には出会えた。もしかして、あのエレベーターに一度乗った事で、一度眠った事になっているのかもしれない。位置移動と時間逆行か。これは間違いなく、タイムトラベルだ。

「もしかしたら俺達は既に一回冷凍睡眠をして、一回タイムトラベルをしてるのかもしれない。順序がちぐはぐだけど、数さえ合えばいいのかも」

「では、この時間は想定内ですか?」

「だろうな。そろそろ、アイツらも気づくだろうから急がないと」

 想定内ならば、ここまで順調に来れている。ネガイと共に、一位を目指したい。

「だから、あと一回、冷凍睡眠をしないといけないんだけど‥‥どこで眠るんだ?」

「その夏に通じる扉は、どこにあったのですか?」

「扉って言ったけど、正確には‥‥会社を取り戻して、恋人と合流して――いや、俺達はまだ猫と眠っていない」

 ネガイの手を引いて、立ち上がる。ネガイ自身は訳もわかっていない筈なのに、楽しそうに手に従って、腕を抱いてくれる。

「ミトリの言っていた事がわかった気がします。確かに、あなたは何も言わないで振り回すのですね」

「ごめんな。だけど、俺のわがままに、また付き合ってくれ」

「仕方ないですね。仕方ないので、付き合ってあげます。仕方ないあなたは、私がいないと何も出来ないので」

 ネガイを連れて、もう一度一階の広場に走る。そこには、数人の探索科の生徒がいたが、そいつらには目もくれず、一目散に受付さんに三度詰め寄る。

「次会う時は、30年後で」

「ひとつ飛ばしでしたが、許します。30年後にお会いしましょう」

「‥‥失礼ですが」

「21です。何か?」

 あまりの殺気に、周りの探索科どころか、この化け物すら震え上がらせる。ネガイが肩をゆすってくれなければ、正気に戻れなかった。

「それで、何処に向かえば?」

「‥‥約束を取り付けた以上、後は眠るだけ。噴水に行こう」

「噴水ですか?」

「サマーキャンプ場じゃないけどな」

 もう一度首を捻るネガイへ、抱きしめたくなる衝動を我慢して、噴水近くにあるエレベーターへと足を運ぶ。そこは、周りのものとは違いオーダー街地方拠点の中枢へと続くエレベーターらしく、何も表示されていないパネルが設置されていた。

「ネガイ、猫を」

「はい、これですね」

 ネガイから猫の紙を受け取り、パネルに押し付ける。ひとりでにベルの音をさせたエレベーターは、俺達ふたりを迎え入れる為に、開いてくれる。探索科の面々が追いかけてくるが、無視し、乗り込み階層の番号を押して扉を閉める。

「怒られますね」

「どうかな?アイツらだって、本職の探索科だ。プライドを持ってるなら、遅れた事に腹を立てる事はないと思うぞ」

 卒業訓練で嫌味のひとつこそ言われたが、それだって、経験不足の実力不足だったからだ。もし、まだこの期に及んで、文句のひとつでも言おうものなら、そいつは長生きできそうにない。

「それに、勘のいい奴らは最初のガイノイドで気付いたと思うぞ」

「答え合わせの為に、私達を泳がせたと?」

「間違いなく」

「‥‥彼らもプロですね」

 ここで卑怯とは言わないから、ネガイは誰よりもオーダーらしかった。俺やイサラよりも、長くオーダー街にいるから、話せる言葉だった。

「だけど、俺達もひとの心配をしてられないと思うぞ」

「まだ何かあるのですか?」

「言っただろう。これは、ただ合流地点に向かってるだけだ」

 長いエレベーターは、俺達を自動的に上へ上へと運んでくれる。ガラス壁に手を付いて、見下ろすと、俺達と同じように、猫の紙を持っている連中がいる。けれど、階層に辿り着けるかどうかはわからない。

「それで、なぜ51階なのですか?21歳と言っていたのに」

「主人公が結婚するのが、30年後の21歳のヒロインだからだよ」




「面白い話ですね」

「そうだろう。まぁ、国内では評判はいいけど、当のアメリカでは、あんまりらしいけど」

 多くの映画や多くの小説の元となった話だが、あまりにも時代を先取りし過ぎた事と、都合が良過ぎるという所が、受け入れられなかったのかもしれない。

 ネガイに夏への扉を説明していると、あっという間に51階に到着した。恐らく、ここが目的の階ではあるだろうが、俺はまだ持っていない物があった。

「あ、あの人は」

 ネガイが駆けるように、51階の受付へと走る。

「あなたが、私とは違う私ですか?」

「はい、その通り。私は文化女中器の改良モデルです。お待ちしておりました」

 ネガイが灰色の髪を振って、笑顔を見せてくる。そんな眩しいネガイに近寄って、腕を貸すと、Yシャツ越しで形がよくわかるふくらみを押し付けてくる。

「これで、到着ですか?」

「‥‥どうだろうな」

 苦い顔しかできない俺は、ネガイと共に受付に詰め寄る。

「猫はここにいます」

「では、お渡し下さい」

 そう言われたネガイは、物悲しそうに黒猫のシルエットを手渡す。違和感など感じさせない滑らかな動きで猫を受け取ったガイノイドは、それを見て大きく頷く。

「そして、もうひとつ。製図は?」

「製図‥‥それは、なんですか?」

「お渡し下さい」

 ネガイが戸惑いながら、顔を見つめてく。そうだ。俺は、あの改良前のガイノイドを破壊すると選択出来なかった。オーダーらしいやり口だった。時には、破壊活動に近い事もさせられる以上、例え人間らしかったとしても、人形を破壊するという選択肢を取ると言わなければならない。

「どうされましたか?」

 人形が無感情な目で見つめてくる。伸ばされた手に血管など通っていないのが、肌の凹凸でわかる。黒のスーツと白いシャツから覗いている手首の青い血管は、ただのデザインだった。

「どうしましょう」

「大丈夫。少し待ってよう」

「でも‥‥いいえ、わかりました。少し座りましょうか」

 心配なのは変わらないようだが、指でエレベーターのドア近くにあるソファーを差してくれる。俺自身、本当に来るかどうかわからないが、待つしかない。もう後には戻れない。

「どうだった?」

「そうですね‥‥。次は私が活躍します」

「負けないからな」

「ふふ‥‥はい、ふたりで解決しましょう」

 肩に頭を置くネガイと共に、背もたれの無いソファーに腰を下ろす。俺は、30年後に会おうと誘い、向こうはそれに頷いてくれた。ならば、猫と共に待っている俺を迎えに来てくれる筈だ。

「はい、こちら――かしこまりました」

 誰かの話し方を参考にしたのか、高いけれど気の強そうな声で、擬似的に装着しているイヤホンを押さえ付けて誰かに応答した。そして立ち上がって、俺達に頭を下げてくる。

「どうぞ、お通り下さい。お疲れ様でした」

「行くぞ」

 急な事に反応できないネガイを連れて立ち上がり、受付へと戻る。本来ならば、声での認識など無意味なのに、彼女は人間としての親しみを持たせる為、音声認識を取り入れているようだった。

「改良された製図、確認しました。—―確かに、瞳は改良の余地があります」

「それは開発者からですか?」

「お答えしかねます。こちらにどうぞ」

 受付から出たガイノイドは、背中を見せて案内してくれた。





「まさか。ここまで上手く行くなんて」

 正直、だいぶ贔屓されている気がする。本当ならば製図と猫が必要だったのに。だが、どうやら一番最初に出会ったガイノイド、30年後の51階のガイノイドが恋人となって導いてくれたようだ。

「姿形の変わらない恋人か。もしかして、ダンも自分好みのガイノイドを作りたかったのかもしれないな」

 どこか大学の教室めいた長い机が何列にも部屋に設置されている。誰もいない教室に、今は自分ひとりで待っていた。だが、それもほんの数分で変わる。

「お待たせしました」

 後ろの扉から戻るネガイを見て頬が緩んでしまった。少し席を外すと言って出ていったネガイは、その手に猫の紙を持っている。

「気に入ったか?」

「はい。カワウソにペンギン、それにこの猫。段々とコレクションが増えてしまって」

「いいんじゃないか?これからも、どんどん増やそう。あの殺風景な部屋には丁度いい」

「‥‥ふふ、はい。そうですね」

 隣に座ったネガイがスカート内のガンベルトに猫の紙、栞を思わせる見た目の厚紙を挟む。白いネガイの足に黒い猫のシルエットは、よく映えていた。

「見過ぎですよ。私が好きなのは、よく知ってますが、もう少し我慢して‥‥離れ過ぎ、もっと近くに来て下さい」

 言われた通り、ネガイからひと席分離れた所、手を引いてくるので腕と腕とが触れるぐらい近付く。ひとよりも高い体温のネガイは、人肌が暑くて迷惑そうに首元を仰ぐが、離れる事は決して許してくれなかった。

「誰も来ませんね。なぜでしょう?」

「まだ下でたむろってるか、階層がわからなくて一から調べ上げてる。そもそも、俺だってかなり勘だったんだ。思いつく限り、しらみつぶしに探してるのかもな」

「そういうものですか。あなたと組んで、正解でした」

「組んでるだけか?」

「いいえ。愛し合っています」

 頭を預けてくるネガイのつむじに、口づけをして目を閉じる。ネガイの温かくて優しい心音を感じる。組まれた腕と握られた手から受け取る体温が心地いい。

「‥‥誰か近づいてますね」

「ああ、だけど、制服の音じゃない。‥‥スーツの音だ」

 ネガイと共に机の下に隠れ、腰に手を回す。M&Pの冷たいポリマーフレームを指で撫でる。ここはオーダーの建築物。であれば、ここで発砲する人間は二極化する。

「足音を隠してます‥‥2人ですね」

「隠さないとならない理由か‥‥」

 それは俺達、異端捜査部が行ったオーダー本部へのガサ入れといった、内部の人間への逮捕、拘束。もうひとつは襲撃や潜入といった、外部からの武装組織のテロ。

「‥‥制式装備のアラミドスーツ。間違いなく、オーダーの人間だ。構えろ」

 足音の持ち主が扉近辺となった瞬間に駆けて来た。そして扉近くの壁に隠れるように、背中を壁へと押し付ける。アマチュアではないが、少し焦り過ぎている。判断を付けるのなら十中八九女性。革靴を踏みつける音に、固いヒールのような音が混じっていた。

「見えますか?」

「‥‥ああ、若い女性。俺達と変わらないかもしれない‥‥だけど」

「見覚えがありますか?なら、私がひとりで――」

 そう言った瞬間だった。扉が開かれると同時に、跳び上がったネガイが机を踏みつけながら、背中から十字のエストックを引き抜く。尋常の存在問わず必殺の縮地を用いて、一歩で部屋の端。扉から入室する女性の心臓寸前に突き付ける。だが、切先が高い音で弾かれる。

「チッ!!」

 あまりの光景に目を疑う。

 不安定な場所からだったとしても、あのネガイの縮地を弾いた。しかも、見た後に。

「—―ふっ」

 だが当のネガイは笑顔で見届けた直後、ワイヤーでも設置されている、或いは羽のように軽々と天井に跳び上がる。片膝を付いて筋肉の膨張に備えて天井で一瞬停止し、祈るように両手でエストックを持ち直す。直後に天井を蹴り付けて瞬時に急降下する。

 けれど、二度目の刺突はエストックを弾いた者の両手を上げる行為により、寸前で止められる。完全なる白旗こうさんに興が削がれたと止まった。

「ま、待って下さい!?」

 その少女の髪は、ミトリよりも濃い茶髪。長い茶髪は、視認だけで傷ひとつないとわかる艶やかな美しい輝きを放っていた。よって、俺も慌てて縮地を模写して二人の間に入る。

「待った!!この人は」

「‥‥ヒトガタですね」

 何故一目でわかったのかはわからない。けれど、その通りだった。

 着地したネガイは髪をかき上げて、背中にエストックを戻す。まばたきの時間で普段の冷静な瞳に戻ってくれた。そして、もうひとり、アルマが慌てて入ってくる。

「お、落ち着いてくれ!!」

「大丈夫、落ち着いてます。それで、なぜ足音を隠したのですか?」

 あの夜から三度目の邂逅であるネガイは、当然保持し続けている警戒心を胸に、剣と拳銃こそ抜かないが冷たい視線を向ける。言葉一つで瞬時に臨戦態勢に移行するとわかる雰囲気に、俺から声を掛けようと肺を膨らませるが、イネスが一歩飛び出した。

「私がお願いしたんです!!その‥‥ちょっと、驚かせようと‥‥」

「そうですか。けれど私達本職には威嚇しているのと同意なので止めて下さい」

「ご、ごめんなさい‥‥」

 怒りではない、本心からの注意を受けたイネスは、本当に縮んだように肩を落とす。だが、それは正しかった。ネガイが言わなければ、俺が言っていた。

「初めて出会ったのに、いきなり攻撃して申し訳ありません。やり直しましょう。初めまして、私はオーダー校、解析科のネガイです」

 俺を避けながら手を差し伸ばしたネガイは、自己紹介と共に時間を与える。

「お、お初にお目にかかります!!私は‥‥まだ、学科は決まっていないのですが、私もオーダー校の所属となります!!イネスと申します!!」

 差し出された片手に、イネスは両手で答えて全力で振る。そんな純粋な反応をしてくるとは思わなかったらしいネガイは、少しだけ大人びた表情を笑みに変えてくれた。

 数秒前までの刺すような空気から軟化した時間に、ほっと胸を撫で下ろす。

「それで、ふたりともどうしたんだ?」

「あ、ああ。君達ふたりがいると聞いたから、挨拶と思って」

「今度は、普通に来てくれよ」

「ディズ‥‥ご、ごめんなさい‥‥」

 バツが悪そうに顎を引くアルマの態度に、ネガイへ視線を向ける。今は許す、そう語外の意志をレイピアに触れない手で確認する。そして席を勧めようと口を開いた瞬間だった。

「挨拶は済みましたね」

 思わず、脇差しを撫でてしまった。この反応は俺だけではなかった。背後から突然声が聞こえたアルマは、振り返りながら腰を下げ、獣のように隣に滑ってくる。イネスもネガイも、それに漏れず、背中に収納したエストックと短い片刃の剣に手を伸ばしたのが、衣擦れの音でわかった。

「いい反応です。アルマ、ようやく流星の使徒らしさを見せてくれましたね」

「‥‥恐縮です」

「イネス、でしたね。あなたも体調が回復したようで、何より」

「あ、ありがとうございます‥‥」

 褒められてる気がしない。見るまでもなかった。これが、本当のイミナ部長の力。過去、マトイと共に始めて顔見せした時に受けた威圧感。一体、どれほどの力を蓄えているのか。ここにいる四人全員を目隠しをした眼球だけで圧倒している。

 切り裂くような空気の中、一歩踏み出したネガイが質問をした。

「魔女狩りを受けたようでしたが、その後いかがですか?」

「あれは、私の人形のひとつ。けれど、心配をしてくれて、感謝します。あの人形が、この人形です。わかりませんでしたか?」

「‥‥そう。あなたこそ、復帰したようで、何よりです」

 ようやくエストックから手を離したネガイが、背筋を伸ばして受け答えをしている。あの時、ネガイと共に会場で暴れまわっていた力は、本来の何十分の一からだったらしい。

「ヒジリ、わかっていると思いますが、伝えておきます。このふたりと共に、鎌鼬を捜査しなさい。必要に応じて人員の補充は許可しますが、わかっていますね?」

「はい。確かな腕のみ、誘います」

「結構。行きますよ」

 ネガイと共に作り出した世界を、真っ向から破壊するに相応しい圧力だった。並みなど遠く離れたふたりを、連れたパンツスーツ姿の人形の起こす足音からですら痛みを感じそうだった。

「‥‥心臓に悪い」

「ええ、あそこまでの殺気は、異常です。本当に人間なのですか?」

「‥‥わからない」

 首を振って伝えた言葉にネガイも同じ感情を覚えたようだった。マトイにも聞いていない、そして自分の口から出るのを待つと約束したあの人は、まだ何も語ってくれなかった。

「‥‥母といい勝負かもしれませんね」





「あははは!!また評判を上げたね」

「悪評だろう、どうせ」

「まさか。だって、真っ先に君がクリアしたんでしょう?それで悪評なんて、逆恨みでもしたら」

「自分は無能ですって、言ってるようなもんだろう。それに、今期の一年は環境に恵まれてるって、言われてるんだ。そんな無様晒せる暇なんてねぇーだろうが」

 昼と夜の間として、適当に入ったラーメン屋で並んで座り、話を続ける。キドウもミヤトも、かなり絞られたようで、話ながら、かなりの勢いで麺をすすっている。

「そっちはどうだったんだ?」

 ようやく落ち着いてきた胃袋に水を流し込み、熱を冷まさせる。

「僕?僕は、近くのビルで演習だよ。ガラス扉を撃って、破って、スモークを投げ込んでの。それで、目的の保護対象とか、PCデータをスモークが効いてる内に確保するの」

「意外と、普通か?」

「そうでもないよ。だって、ビルの地下にセスナ機とか、しっかりとしたジェット機の頭があるんだもん。しかも、屋上にはペントハウス。それからいろんな部屋の構造を覚える為の座学も受けたし、休む暇なかったよ」

 なるほど。確かに、いつだって襲撃をする時は、始めて入る建物。その時、道に迷わないように、それに類する、または似たような部屋の内装を覚えるのは、実用的なのかもしれない。

「俺は、そんな変わらないかもだぜ。どこででも、動かせるように出来る最低限の整備、エンジンの完全分解の見学、そんなもんだった。まぁ、壊されてでもしたら、大ごとだからよ」

「そうなのか?それこそ、旅客機の整備とかは」

「んなもんやって、無人だとしても墜落させてみろ?俺は生涯、借金生活だ」

 忘れていた。我らがオーダー校の中で、トップに食い込むレベルで費用がかかるのは、整備科であるのを。ただでさえ高級車の整備をしている上、高級車などというレベルでは、抑えられない航空機の整備など、場所や器具を保持し続けるだけで、桁が飛ぶ。ならば、とてもとても、練習など出来やしない。

「はぁ‥‥あれだけ、可愛い子がいる中で、俺だけ野郎と野郎に囲まれてオイルにまみれてよ‥‥」

「そうかもねー」

「何興味なさそうに言ってるんだ。襲撃科の比率は半々だろうが」

「て言っても、僕達だってほとんどハンドサイン程度しか、会話しないし」

「それでいいだろうが!?いや、むしろ言わずとも通じるって所が!!」

 うるさくなってきたので、ラーメンに集中する。もしかしたら、有名なのかもしれないラーメン屋は、席が全て埋まり、外に列が出来ている程だった。

「で、お前達はここから少し離れるんだったか?」

「おうよ。俺達、って言うか、俺は俺で別の連中とだ」

「僕もだよ。急に決まってね。多分だけど、戦力的なものよりも、探索とか捜査的な意味での能力が必要になるみたいでさ。ちなみに、僕は山間部に車を回す予定だよ」

「俺は、繁華街でゴツイ連中とパトロールだぜ‥‥なんで、ここでも‥‥」

「—――そうか」

 俺はイネスとアルマと共に――討伐。どうやら、一度狙われたイネスを囮にし、専門家のアルマに確認させ、俺にふたりの監視をさせるつもりらしい。

「気を付けろよ。異常犯罪者は、何を考えてるかわからない」

「言われなくても」

「当然だろうが」

 探索科になった時、真っ先に教え込まれた事だった。人間は、誰しも自分だけの世界を持っている。そして、多くの人間の世界を合わせる事で、集団心理、表層、深層心理を作り出す。表層とは冷静な理性的な心理。深層とは力を伴った意識。だが、それらから逸脱してしまう、自分以外の世界の流れに馴染めない人間がどうしたっている。それら皆が犯罪者になるとは言わないが、そういった中から生まれる犯罪者は、往々にして、難敵であった。

「‥‥行こう」

 空になったラーメンを置いて、レジへと向かう。もしかしたら、明日にはこの光景を見る事が出来なくなるかもしれない。けれど、それはオーダーにとっては日常だった。




「ふたりともベビーイーグルか?」

 完全に日が落ち、蒸し蒸しとした熱気が首元を撫でる気候のなか、残弾や整備の確認、そしてふたりの武装確認の為、持っているものを診させてもらった。

「はい、支給されたのは、これでした。なかなか手に馴染んでいいですね」

「私は自前があったが、没収された。大丈夫、獲物を選べるとは思っていない。戦力の低下もない。剣だって、あるんだ。これ以上は望んでいない」

 略式のオーダー校の制服となったふたりは、腰にそれぞれの刀剣と拳銃を流していた。アルマは、あの時見た剣よりもかなり短いが幅の広い短剣、マインゴーシュに似せた刃。イネスは、一度だけ見た片刃の分厚い得物だった。簡素な見た目だが、それを鞘に納めて、一本を腰に、もう一振りの背中に仕込んだイネスは、軽やかに跳ねている。新たな服が気に入ったようだ。

「それで、私達は住宅地らしいが、それはここから離れているのか?」

「そうだけど、行きも帰りも徒歩だ。パトロールも兼ねての仕事らしいからな」

「では、早速参りましょう!!私、やっと出歩けるんですね!!」

 楽しそうに俺とアルマの腕を引くイネスは、体調が完全に復活したようで、暗い夜の街であっても、問題なく進み続ける。

「そ、それで、この街は第二のオーダー街と呼ばれているようだが、具体的にどんな街なんだ?」

「あーそうだな。じゃあ、ちょっと詳しく話すか。ここは、オーダー街寄りの日本の中間、俺達が普段いるオーダー街は、東京。関西にあるのはオーダー特別区、ここはそのふたつの中間にあるから、第二のオーダー街って事で、作られた」

「中間だから、作られた?なぜだ?」

「関西には第二第三特別区があるんだ。だけど、関東圏内の大規模オーダー地区は、オーダー街しかない。対抗した、って事はないだろうが、実際、関東圏をオーダー街ひとつでまとめるのは難しいから、第二拠点って事であの地方本部が作られた」

 今時、何か連絡があればテレビ電話でも使えばいいと思うが、身柄の移動や証言等が必要になった時、どうしても公的な場が必要になる。そこで建てられたのが、あのオーダー街地方拠点、別名第二オーダー街。

「そういう事か‥‥であれば――なんだ?」

 アルマと俺を連れて、先頭を歩いていたイネスが、急に後ろへと隠れた。オーダー街地方拠点を出てしばらく歩き、繁華街のひとつに入った時だった。ここは、第二オーダー街とは言われているが、オーダーのいち役所あるという感覚なので、オーダーの人間は少なく一般人の方が多い。よって、ろくに知らない物騒な連中である俺達に、舐めて掛かってくる奴らがいた。

「なんだぁ?オーダーがなんの用だ?」

 繁華街入口のコンビニでたもろっていた少年たちが、入ろうとする俺達に対して壁を作ってくる。どこかの学校の男子生徒らしい少年たちは、制服を着ているが、皆一様に着崩しているので、あまりお行儀が良さそうに見えない。しかも、なぜかホストがしているような偏った髪型をしている。

「ヒジリ、こういう場合はどうすればいいんだ?」

「まずは道を開けるように、要請。という訳だ、道を開けくれ。これはオーダーとしての公務、邪魔をするなら逮捕することに」

 大勢で笑いながら、中身の入った紙コップ状のコーヒーを投げつけてくる。イネスを庇いながら、飛んでくるコーヒーを避けて、シミを防ぐ。だが、喧嘩慣れしているらしい少年のひとり飛び出し、目を離した隙を使って顔面を狙ってくる。

「‥‥面倒だな」

 拳が届く前に武器を使う。迫ってくる拳の付け根、脇の下に警棒状態の杭を突き刺し、ひるませる。そのまま、内出血を起こさせる為に、抉り上げて、止まってしまった拳を掴み上げて、肘を決める。声すら出ない痛みに耐えかねて、涙と唾液を垂れ流しながら、口ばかりの助けを求めてくるが、無視する。

「言っただろう。これは、公務だ」

 力を込めて、更に杭を突き入れる。先ほどまで、あれだけ高笑いをしていた周りの面々は、腰が引けながらも後退り。うめき声を出している仲間を助けるどころか、後ろを振り返り、徐々に逃げ出していく。

「このまま逮捕されるか、さっさと逃げるか。どっちか選べ」

 脇の下から肋骨に場所を変えた警棒は、小気味いい感触を手元に伝えてくる。だが、突き入れている警棒が後ろから掴まれる。

「さ、流石にそろそろいいのでは‥‥?」

 明るくて濃い茶髪をしたイネスが、心配そうに俺とホスト風の不良を交互に見つめる。もう既に後ろの連中は「やべぇよ。逃げろ!」と言って、消え去っていた。

「選択肢はやった。逃げなかったのは、こいつだ」

「‥‥なるほど、そういう感じですか」

 助けてくれると思ったらしいイネスが、思ったより早く引いてしまった為、完全に泣き始めてしまう。顔から流れた水分が、腕を伝って、こちらにも流れてきそうだったので、慌てて離す。

「ふ、ふざけんなよ‥‥。置いて行きやがって‥‥」

 腕を抱きかかえて、先ほど逃げた連中とは違う方向に逃げていく背中を見届けてから、アルマとイネスに振り返る。なんの事もないと言ったように、アルマは顎に手を、イネスは両手をスカートの前に置いていた。

「こんな感じでいいと思うぞ。逮捕をするなら、手間がかかる。基本は口頭注意、ダメなら逮捕。抵抗、もしくは暴行をしてくるなら、実力行使」

「わかった。覚えておこう」

「‥‥わかりました」

 ふたりとも、頷いてくれたが、なぜか、イネスはあまり乗り気ではなさそうだった。

「‥‥ちょっと、びっくりさせたな」

「あ、いいえ。そういう訳じゃないのです。‥‥彼らのような人間の苦しみを、少しだけ思い出してしまって‥‥」

 イネスの力のひとつだった。自分の血を飲ませた人間の心を読めて、夢の中で繋がる。だから、苦しみを癒す事まで、成育者達は望んでいなかった。けれども、イネスは、苦しむ人間を見逃す事が出来なかった。

「繁華街は苦手だったか。なら、少し遠回りになるけど、外から」

「いいえ、ここを通って鎌鼬の片鱗を探すのも、お仕事でしょう?大丈夫、同情してしまっただけで、私はつらくなんてありません。それに、今更、人間の心配などいたしません」

 夏の湿り気のある風の中、イネスにのみ涼やかな風が吹いている。もう人間からの命令という不愉快な楔から脱してイネスは、ただただ美しかった。

「さぁ、参りましょう」

 もう一度、俺とアルマの手を引いて、イネスは幼げに繁華街を進んでいく。正直、都外の繁華街というものを、ほぼ知らなかったが、かなりの規模だった。長い通りを形作っているのは、多くの雑居ビル。これだけなら、都内のそれを変わらないかもしれない。けれど、違う部分がある。再開発は始まりつつあるせいだ。なまじ、繁華街に面したビルのみ、景観の問題で残っている所為で、張りぼてのように感じる。なぜなら、それより裏は建て直しの為、多くが撤去されているからだ。

「ごちゃごちゃしてるだろう?東洋の繁華街は、あんまり綺麗じゃないよな」

「‥‥ああ、あ、いや。私は別に」

「フランスのメインストリートを知ってるんだ。あんな数の看板、見た事ないんじゃなか?」

「‥‥あの国にだって、ネオン街はある。だが、ここまで光が強いと、圧倒されてしまう。みんな、あれらの看板を全て見るのか?」

「見せる為に、大きく派手にするんだ。全部見る必要はないから慣れるまで、あんまり見なくていいぞ」

「‥‥そうさせて貰う‥‥」

 まだ、日本は耐震基準の問題で、あまりにも巨大にしていないのだから、大陸のそれよりもマシだ、なんて言っているが、どっちにしろアジアのオリエンタルな街だ。他国の、それもヨーロッパを巡ってきたアルマからすれば、違いなどわからないだろう。

「イネスは平気なのか‥‥私には、少し強すぎる」

「私は平気ですよ?‥‥外には最近まで出れませんでしたが、こういった光景は、ひとよりも見てますから」

 アルマを守るように、一歩前に出ているイネスは、強いネオンを浴びてもまるで気にしていない。当然かもしれない。イネスは一時、あの街と比喩表現なしで、一体化していた。

 長い繁華街の丁度中間についた時、入口付近でたむろしていたチョコでも被ったような髪型をした少年達が集まっていたが、俺達に目を向ける事はない。また喧嘩を売ったらしく、他人の襟を掴み上げていた。だが、失礼かもしれないが、所詮、田舎しか知らない子供達だった。相手選びを知らないようだ。

「彼らもオーダーですね」

 イネスが、俺とアルマの間に隠れるように、隣についてくる。キドウら武闘派のグループの襟を総員で掴み上げた奴らは、下卑た笑いをしている。だが、どうしたものか、という感情がよく伝わってくる無表情なキドウ達はハンドサインとアイコンタクトを交わし、その腕を掴み上げた。喧嘩どころか反撃すらろくにされてこなかったらしい少年達は、本職の腕力に負けて、悲鳴を上げていく。

「彼らは、随分大事に育てられていたようだな」

 腕を捻り上げられ、甲高い悲鳴を上げながら手錠を付けられる。まさか、本当に手錠を付けられて逮捕されるとは思っていなかったようで、言い訳をしていくが、一切聞かずに粛々と手順を踏んでいく。慣れたものだった。こんな場所でなければ、オーダーは仕事として、毎日、誰かを逮捕している。

「あの人達は、銃を持っていないのですか?」

「どうだろう。持ってるかもしれないけど、抜く準備はなかったみたいだな。もし持っていても、使えるとは思えない」

「持っているのに、使えないのですか?何故?」

「丸腰よりも、恰好が付くからな。威嚇の為なら、ただ見せるだけで十分な訳だし。外の人間に、あんまり期待しない方がいい」

「‥‥あの街にいた彼らは、特別だったのですね」

「オーダーが変装しながら出入りする街だからな」

 全員に手錠を掛けて、車両を応援し終わったキドウに手を振って、近づく。だが、何故かキドウはアルマとイネスを見て、無表情で涙を流す。

「またか‥‥またなのかよ。その子は?」

「勘違いするな。この子はソソギとカレンの身内だ」

「‥‥じゃあ、お前の親戚か?」

「そんな所だ」

 顔見せのつもりで紹介をしようとしたが、意外とイネスは積極的に自身の名前や作り話の身の上、海外からアルマと共に来たと説明を始める。イネスの美貌に見惚れているキドウら馬鹿どもは、淡々とそれに頷いていく。

「で、なんで腕を組んでるんだよ」

「そういう奴らがいるからだよ。対人経験が少ないから、念のために」

「なーんだ、そういう事かよ」

 何がそういう事なのか、どうでもいいので、聞かない。だが、やはりキドウは意外と紳士的に自己紹介を簡潔に済ませて、繁華街の中を通ってきた護送車を引き入れて、止める。それを見た瞬間、泣き叫んで逃げ出そうする連中に溜息を吐いてしまう。

「喧嘩売る相手を間違えたお前達が問題だろうが。前科持ちになりたくなかったら、大人しくしとけ。田舎で粋がるのも、今日で終わりだ。じゃあ、アルマさん、イネスさん、またお会いしましょう!!」

 キドウをはじめ、数人で護送車に少年達を詰め込み、乗り込んでまま去ってしまった。残った連中に軽く挨拶を交わし、繁華街を歩く。直接の逮捕を見たのは、初めてだったらしく、それまで侮蔑的な視線を向けていた通行人や店先の引き入れが、皆一様に下を向いてしまう。

「なんと言うか」

「単純だろう?」

「‥‥私、こんな人間達の為に、生きたがっていたのですね」

「ああ、つまらないだろう」

「はい、とてもとてもつまらないです」

 語気を強めにしたイネスは、へりくだった態度を取る人間達を眺めて、どこか楽しげに笑むのだった。



「ここが目的の住宅地か?」

「その筈だ。情報統制が上手く言ってるんだな。誰もいない」

 道は広く二車線、塀は高く、素材も漆喰や生垣やアルミフェンスと言ったデザイン所為のある一戸建て住宅が集中している街。話によれば、ここで辻斬りが頻発しているらしい。そして、それらの情報が上手く操作されて伝わっているらしく、家々に明かりこそついているが、今のところは誰も出歩いていない。

「なぜ、皆この街から出ないのですか?危険だとわかっているのに」

「行き場がない、ってのもあるだろうけど、それ以上に獲物になり得る人間が、全員去らないように情報を狭めてるんだろう。—―本当に、人間は嫌いだ」

 不思議だとは思っていた。一か月の間で30人も、その中で5人もの女性が重傷を負っている。だが、街の明かりは決して消えてなどいない。オーダー本部は、この街を生贄にして辻斬りの捜査をしている。元々は市民を守る為だというのに、今は市民を餌にして、自分の手柄を求めている。所詮、人間とはこの程度か。

「卑怯な連中だ。私も距離を取って正解だった」

「そうだ。イネスは聞いたか?アルマの」

「はい、聞かせて頂きました。大丈夫です。私の事も、話させてもらいましたから」

 どうやら、ふたりのこの結束感は仲のいい友人としての関係を構築出来たかららしい。いらぬ心配をしてしまったらしい。

「あ、そうだ!!聞いて下さい!!私、ソソギさんとカレンさんのお部屋に住む事になったんですよ♪」

 両手を叩いてそう教えてくれたイネスは、心底、嬉しそうだった。

「そうか。じゃあ、ふたりが引っ越してたのは、イネスを迎える為か」

「はい、ヒトガタ同士の方が問題を起こさずに暮らせるだろうと、ふふ‥‥あの先生も素直ではないですね。私の為に、外の勉強もさせてくれたのですよ」

「—――そうか‥‥」

「はい、あの人はとても優しかったんですよ」

 イネスが胸を張って、誇っている。どうやら、俺への一件があって、医療部とオーダー本部との関係が、だいぶ変わったようだ。

「あの先生とは、ガットフックのか?私も、あの医者には世話になった。帰ったら挨拶のひとつでもしなければ」

「はい、あのガットフックの先生です♪」

 あの医者には世話にこそなったが、それらを帳消しにしてもまだ足りない目にあわされた。正直、もう二度と会いたくない。

「‥‥アルマはどうなんだ?どこに住むんだ?」

「私はしばらく、イネス部長預りとなる事になった。だから、あの人の元で厄介になる予定だ」

「知らなかった‥‥じゃあ、マトイと同じ扱いになるのか‥‥」

「そうつらそうな顔をしないでくれ。私は、この扱いに満足している。個室だってあるのだ。これ以上の扱いは、ないとわかっているつもりだ」

 どうやら、アルマは流星の使徒としての知識と経験を買われたらしい。ただ、イミナ部長預りという事は、常に監視されるという事。あまり自由ではないだろう。

 世間話や今後の扱いなどを話しながら、住宅街を歩いていくが、特に何も起こらない。強いて言えば、住宅街入口は誰もいなかったが、街中には数人の住人が夜の街を歩いているが、まだ鎌鼬の時間ではないので、口頭注意だけで済ませる。だけど、これはおかしい。

「よく出歩けるな。情報こそが狭められてるけど、辻斬りの話はされてるだろうに」

「ああ、これはおかしいと思う。いくら、緊張感がないと言っても――」

 アルマもイネスも、違和感を覚えたらしい。よって、鍵を掴み、心の中で呼びかけると、すぐに返事が返ってくる。

「何か起きましたか?」

「街の住人が、出歩き過ぎています。本当に警戒を出しているんですか?」

「—――オーダー本部からは、そう聞いていますが、そう‥‥あなたもそう思いますか。わかりました。こちらからオーダー本部に訴えかけます。あなた達は、自分の仕事に戻りなさい」

 こちらの話こそ聞き届けてくれたが、それ以上は聞いてくれなかった。

「どうでしたか?」

「オーダー本部は警戒を出しているらしいが、向こうも違和感を持ってるみたいだ。オーダー本部を問いただすから、それまでは仕事に集中しろって」

 ふたりにそう告げて仕事に戻った。それからも街を出歩いている住人に帰るように促す。

 だが、俺の武装が怖いのか、目を合わせて話すと大半が萎縮してしまい、何も話してくれない。よって、ふたりの美人。イネスという聖女の過去を持つ優し気な雰囲気と、アルマの暗い夜道の中でも、一際輝く青い瞳と美貌を見せつければ、誰も彼もが大人しく従ってくれる。

「‥‥自信を持てなくなってきた。俺、向いてないのかな‥‥」

「だ、大丈夫です!!それに、オーダーとは侮られてはいけない仕事ですよ!!得意不得意ではなく、専門と言った話ならば」

「俺‥‥探索科だから、一般人への聞き取りも、専門なんだけど‥‥」

「そ、それは‥‥と、とにかく大丈夫です!!そんなあなたを、私にソソギさんにカレンさんは、愛していますから‥‥ね?だから、落ち込まないで‥‥」

 ついには否定もしてくれなくなったが、聖女の面影を垣間見せたイネスが優しく慰めてくれる。やはり、聞き取りには向いていないと、認めるしかないようだった。

「武器、外した方がいいのかな‥‥」

「いえ、武器ではなく、あなたの容姿が問題かと」

「見た目?なんで?‥‥そんな、怖そうか‥‥?」

「怖いではなく、あなたのその容姿でいきなり話しかけられれば誰だって、声を失ってしまうかと。あ、もしかしてマスクでもすれば、普通に対応出来るかも」

「ああ、私も先ほどから見せてもらったが、そうした方がいい。ヒジリ、君は前に会った時よりも‥‥えっと‥‥現実離れというのか‥‥見慣れなければ、その‥‥」

「アルマ?」

 顔を隠すように押し黙ってしまった。そんなにアルマに首を捻っていると、後ろからイネスが黒いハンカチで、顔の下半分を隠してくれる。一瞬の隙を突かれた時に、急にイネスの香りで鼻を覆われた所為で、意識が飛びかけた。

「いかがでしょうか?」

「あ、いいと思う‥‥ありがとう」

「どういたしまして、ふふ‥‥」

 道角のカーブミラーを使って確認すると、ただでさえ暗い夜道の中、どこか盗賊のように見える。だけど、イネスもアルマも決して悪い顔をしないので、ふたりを信じる事にした。

 そして、この選択が正しいと対応する市民の反応でわかった。大人しく従ってくれる。

「ほら、上手くいってますよ。だから、どうか自信を持って下さい。ね?」

 素顔では誰も従ってくれず、イネスとアルマがいなければ、今も頭を抱えていただろう。イネスとアルマに実地訓練でもしようと思っていた数時間前の自分が情けない。

「‥‥イネス」

「はい」

「これからも、頼りにしてる」

「まぁ‥‥お任せくださいね。それに、あの姿を見たのは、私だけですから」

「私も、イネスからしか聞いていないが、本当に見たのだな。疑っている訳じゃないが、もう一度話してくれるか?」

 一度、イネスは辻斬りに遭い、撃退した。ネガイの刺突を弾き返す程の腕を持つイネスだからこそ可能になった、絶技だろう。そんな、確実に俺やアルマを凌ぐ実力者であるイネスから、聞いた話しによれば―――辻斬りは、制服を着ていたと。

「では、もう一度お話しさせて頂きます。私は深夜、病院側の許可を得て夜風に当たっていました。数日の検査という事で、ずっと部屋にいたので、わがままを言ってしまいました」

 あの部屋の外に出れた事で、明るくなったイネスは楽し気にふわりと回転する。スカートを翻し、自身の涼やかな花の香りを振りまくイネスの妖精を思わせる姿に見惚れてしまう。

「夜中でしたが、皆さん優しくて、少しだけならと言って病院の中庭に連れて行って頂きました。そこで、鎌鼬、件の辻斬りに遭いました」

「看護師もその場にいたらしいが、イネスしか狙われなかったのか?」

「はい。一瞬ですが、看護師様が私をひとりにして下さった時の事でした。私自身、ヒトガタとしての血がなければ、気付かない僅かな殺気。あれは間違いなく、貴き者に類する何かだと思われます」

 イネスは、そう言い切った。ヒトガタとしての血と力がなければ、気付かなかったと。だが、貴き者自身とは言わない。恐らく、それは正しい。

「彼女は後ろから斬りつけてきましたが、外に出るという事で武装の装備を許可されたていたので」

「それが救いだった、と。目撃者もイネスだけか?」

「恐らく。私自身、見れたのは一瞬だけだったので正確ではないかもしれませんが、少なくともオーダーの制服ではありませんでした。ここに来るまでに、それらしき制服を探していましたが見つかりません。けれど、きっとどこかの学校の制服」

「ヒトガタか?」

「—―――わかりません」

「アルマはどう思う?ヒトガタとしてじゃなくて、妖魔の類としては」

「‥‥可能性はある。事実、そういった人に化ける、後ろから斬り裂く妖魔や貴き者と呼ばれる類は知っている。けれど、ここまで短期間のうちに大量の被害者を作る顕著な傾向を持った者は、そうそういない。いるとすれば――暴走か、あるいは」

「人に恨みを持っている」

 この言葉に、アルマは頷いた。

「ただ、それはまだ憶測の域を出ていない。不確かな情報だという事を忘れないでくれ」

 気を使って、優し気に言うアルマを見て、笑ってしまう。

「わ、笑わないでくれ‥‥私だって」

「悪い悪い。だけど、今日の朝ごろには、情報をもたらせって、自分ひとりで十分みたいに言ってたから。自分以外の専門家に頼るのも、悪くないだろう?」

「‥‥そうかもしれないが、やはり、まだ慣れない」

「それでいいんじゃないか?俺だって、似たようなものだし。他人の頼り方なんて、数をこなさないと慣れないからな」

 からかわれて、アスファルトを見ているアルマの顔をイネスが下から見つめる。流石だと思うと同時に、苦しみを受けてしまう。イネスは、こうやって人間の為に生きるようにと成育されたヒトガタ。これも、ヒトガタとしての生まれで得た技術だった。

「あ、あとどれくらいだ‥‥」

「後、30分だ。そろそろ行こうか」

「はい、参りましょう。アルマも一緒に♪」

 両手を持ち上げて、笑顔を向けるイネスが、意気揚々と誘う。あまりの眩しさにアルマは目を閉じかけるが、それでも正面から見つめる事を選んだ。

「こ、これも私が選んだ贖罪だ‥‥よし!行こう!!」

 真面目過ぎるアルマは、外へ出た事で自由奔放になったイネスに振り回されているが、これもまた贖罪なのだろう。実際、アルマの性格もだいぶいい方向に進んでいる。オーダーとして生きるのならば、手を取り合う事は、必ず通る道だった。

「重傷者が多い場所は、住宅街と山間部の間。十字路だ」

「十字路か‥‥昔、私が住んでいた土地では、身寄りのない者、処刑された罪人は、四つ辻に埋葬されたと聞いた。人が蘇る事を恐れ、行き場に迷わせる為だと」

「日本でも、遠い過去だと四つ辻とか十字路はあまり好ましくないと言われたらしいぞ。四は死に通じるからだそうだ」

 どうやら、向こうの国々でも四つの世界に通じる四つ辻は、いい意味では受け取られていないらしい。どこの国でも、人間は死を恐れ、不浄な物として扱うらしい。

「十字路と言えば、ヘルハウンド、イギリスの亡霊ですね」

「ああ、知っているのか。そうだ、ヘルハウンド、夜中の四つ辻に現れ、燃え上がるような赤い瞳をしている言われている。中には人に化けるヘアリージャックと言われる黒犬が有名だ。ただ、特段、黒犬自身が不吉という訳ではない」

 件の十字路が見えてきた。ただ、まだ予定の時間である零時過ぎには、幾ばくかの猶予があった。十字路のガードレールに座り、二人を見つめる。

「ヘルハウンドって聞いて、思い当たるのはマクベスのヘカテーだな。確か、ヘルハウンドの原点って、魔女ヘカテーの連れている黒い犬だろう?」

「そう言われているが、それは後付けのイメージだ。そもそも、イギリスでは誰も埋葬されていない墓場には、黒犬を埋葬する習わしが、過去にあったそうだ。初めて埋葬される墓場の死者は天国に行けず、墓守となる言われている。死と黒犬が通じるのは、こういった過去の歴史があるからだ。決して、狂暴ではなく、むしろ温厚だと言われている」

 何事にも歴史があるようだ。そして、同時にわかった。人間は、別の何かを生贄に捧げて、自らは安眠を選ぶ。そして、自らが作り出した歴史を忘れ、死の責任を押し付けた別人に被らせる。しかも、それが物言わぬ人外であれば、特に好都合のようだ。

「‥‥かわいそうですね、きっととてもいい子達なのに。自らの役割に徹しているだけなのに」

「それも、人間らしさか‥‥本当に、嫌いだ」

 空を見上げる。月明かりに照らされる十字路は、幻想的と同時に不吉な空気を醸し出している。死の世界へと通じる四つ辻は、四つの世界へと通じる。そして、それら四つの世界を選ぶ権利は、ここにいる誰も持っていない。俺もイネスもアルマも、結局、人間の言う通りに従うしかない。死の世界に行けと言われれば、足を踏み出すしかない。

「‥‥時間だ。構えろ」

 ガードレールから降りて、魔女狩りの銃と脇差しに手を伸ばす。同時にイネスもアルマも、自らの使命の元、それぞれの刃に手を伸ばす。そこでわかった。どちらも刀剣の類が得手だから選ばれたのだと。

「ここで俺達が仕留めなければ、別の誰かが狙われる――」

 三人で十字路の中央に跳び、背中合わせになる。右にアルマ、左にイネス。三人の呼吸と四つ方向から流れる風が聞こえる。そして、ふたつの心音も。イネスもアルマも落ち着いている。

「狙われるのは、イネスだ。‥‥後ろに隠れる気は、ないよな」

「はい!!当然です!!」

「‥‥頼もしいよ。私もイネスの腕は知っている。任せよう」

 腰に手を付けて、脇差しで自己流の居合いの構えをする。そして、既に魔女狩りの銃は抜いておく。威嚇の意味ではない。最速で確実に仕留める為。

 風など読めない。ただ首筋に伝わる山間部から流れ込む冷たい風、そして―――微かに顔に当たる風の変貌。今、確かに見えた――イネスでも、俺でもない。風と共に訪れる、長物の刃。

「アルマ!!」

「見えてるさ!!」

 マインゴーシュ、幅の広い分厚い刃。アルマが過去に使っていた剣型のゴーレムとは比べられないほど、貧弱に見える。けれど、それは違った。アルマの首から鎖骨の間を狙って、振り下ろされた一撃は阻まれ、宙でその動きが瞬間的に止められる。

 イネスと比べられる程の絶技だった。アルマは幅の広い刃を使わず、僅かな刃のみで受け止める。振り下ろされた時に伝わる振動を、アスファルトの上で仁王立ちし弾き返し、伝わる振動を呑み込む波動を送り返した。

「そこ!!」

 右腕に持っていた魔女狩りの銃を容赦なく脇腹を狙い、放つ。そして、音で聞こえた。同時にイネスも、逆手持ちにした一刀の切っ先をわき腹に突き入れる。

 仕留めた。だけど、空間を脅かす二方向の鋭い音は、宙を走るのみに留まる。

「なんだ‥‥あれは‥‥」

 マインゴーシュから降りたそれは、確かに二本の足で立った。確かにイネスの言う通り、それは制服を着ていた。どこにでもありそうな簡素なYシャツ。どこかにありそうなチェック柄のスカートに、赤いリボン。ただ、覚える違和感は、それらを補っても余りある。足の肌が肌色ではない。石膏。それを無理やり肌の質感にしたかのような見た目。

「イネス、辻斬りの正体は、これか?」

「‥‥はい、間違いありません。ただ、一瞬しか見えなかったとしても、あの腕は見た記憶がありません」

 肘から先が、全て刃となっている。艶めかしい腕の刃は、月明かりに照らされ底冷えさせるほどの首を落としやすい姿だった。また、細い足と細い胴ではバランスが取れないのか、降り立った数秒後、異常なX脚となり、肘先から先の刃をアスファルトに突き刺す。

「人、ではありませんね。そして、ヒトガタでもありません。あれは――」

「ゴーレムか‥‥」

 アルマが一歩前に出て、マインゴーシュを向ける。そして、あの時の感覚をアルマの身体から感じさせる。月が消え、明かりがちらつく。これは――アルマの夢の世界。この十字路は、アルマの間合いとなった。

「人型のゴーレム、だけではないか。そうそう見れない技術かと思ったが、あれは人型と武器型のキメラ。一体、内に何を仕込んだ?」

 人と武器を一体化させたゴーレムは、何も言わずに肩を落とす。髪で隠された顔は、真っ直ぐにこちらを見据え、まだ人らしい腕でアスファルトを掴む。右腕の刃を地面に水平に上げて、こちら全員分の首を狙っている。

「ゴーレムの扱いは心得ている。イネス、援護を」

「お任せを――」

「ヒジリ、私とイネスで止める。だから—―君が仕留めろ」

 アルマを正面に置き、側面から逃げ出す対象をイネスが阻み、そして背後の俺が

魔女狩りの銃で隙を狙う。わかりやすい構成だが、だからこそ、多くの場合に使われる隙を逃がさない陣形。

「アルマ、あれには魔女狩りは効くよな?」

「無論だ。その銃でなければ、あれは止められない――」

 迫りくる一撃は、真下からアルマの胸を狙い、振り上げられる。ゴーレムの刃は、夢の中で渾身の力を込めた体の回転を加えたマインゴーシュの切り上げにより、上方に跳ね上げられる。一瞬、ほんの0.1秒もない時間でゴーレムもアルマも次の一撃へと移行する。それは僅かにゴーレムの方が速かった。だが、それはアルマの罠だった。アルマに振り下ろされた白刃一撃は、流星の一撃によりアスファルトに叩きつけられる。その隙を逃がさず、アルマは刃を踏みつけ、刃の付け根にマインゴーシュを突き入れるが、甲高い音をさせるだけで、刃は数ミリも動かなかった。

「イネス!!」

「はい!!」

 声を出した時には、既にイネスが飛んでいた。二本の刃を持ったイネスは、アルマを飛び越えアクロバットのように、空中で天地を逆転させる。そして、ゴーレムの真上に差し掛かった時、二本の刃を重ねるように振るい、去り際まで続けた斬撃は、背中に容赦のないふたつの傷をつけ、ゴーレムをアスファルトに叩きつける。だが、それもYシャツを傷つけるだけに留まる。しかし、それで十分だった。

「取った!!」

 刃はアルマが、体はイネスが抑えた。これ以上の隙はない。

 人間ではないゴーレムの腕力に競り負け、アルマは一歩退く、けれど、それは俺の為に作り出した道筋。ゴーレムの動きはあまりの速さだった。全力で真横に逃げられては、弾丸の初速でなければ、追い付かなかった。だから、弾丸一個分の距離まで、銃口を突き付け、眉間に放つ。全力の回避をしたゴーレムは、眉間こそ守れたが、左胸に吸い込まれる魔女狩りには対処できずに、弾丸の勢いのまま、後方へと飛ぶ。

「まだだっ!!」

 背泳ぎでもするかのようにして逃げるゴーレムを追って、イネスの真似をし、ほぼ同じ速度で真上を取る。連続で、左胸に3発。空中で捻りを加え、勢いを付けた脇差しの一撃を、去り際に更に左胸へと叩き込む。だが、やはり生物ではなかった。刃は微かに刺さりはしたが、それだけ。アスファルトに到着する前に、胸の脇差しを掴み抜き、落ちると同時にアルマに投げつけ、両足と刃の腕でアスファルトを掴む。

「まだ動きが鈍らない。やはり、心臓など持っていないのか‥‥」

 脇差しを上方に弾き、片手で掴み取ったアルマは、納得したように、睨みつける。

「だが、人型のゴーレムである以上、供給は断ち切った筈だ――見えるか?」

「ああ‥‥腕が重いみたいだ‥‥」

 俺の特性を、戦闘で見切っていたアルマは、的確な言葉を使ってくる。

 人間と武器のキメラであるこのゴーレムの肌。常人では見えない僅かな歪み。バランスが取れていたゴーレムは、若干ながら上半身、刃を持っている頭側に傾いている。

「破壊でも確保でもいい。だが、これは貴重で確保すべきだ」

「私も同意します。彼女は、手がかりになります」

 専門家のふたりに従い、魔女狩りの銃を眉間から背後の足に向ける。関節にしわすらない、完全な一枚の皮だった。人間に似せて作っている途中で、意味を変えている。アンバランスに見えるのは、そもそも、骨格が戦闘向けではないからか。

「私が抑え込む。だから‥‥なんだ‥‥」

 アルマが、目を見開いた。それは俺も傍らのイネスも同じだった。艶めかしい程にしわひとつない肌が、徐々に空気へと離散し始めた。ここは、まだアルマの夢の中だというのに、当のアルマが、この現象を理解できずにいるのが、表情でわかる。

「時間がない。仕留めるぞ!!」

 ふたりにそう叫び、杭と魔女狩りの銃を携え、飛び出る。魔女狩りの銃の残弾を全て片方の足に撃ち切り、逆手持ちの杭をすれ違いざまにわき腹へと突き入れるが、まるで手応えがない。背後どころか、ほぼ真横にいる人形を倒しきれない。

「‥‥逃げられたか」

 人形が完全に離散したと同時に、アルマは夢を解き、月を真上に戻す。

「—――俺から、報告する」




「オーダー本部と法務科は、なぜあなたを指名した思いますか?」

「人形を破壊させる為」

「その通り。あなたの持つ銃や刀。そして、技術と人脈。それらがなければ、あれは倒せない。だけど―――やはり、出来ませんでしたか」

 涼しい車内で、息を吸って肺から身体を冷やす。

「探索科のテスト結果も確認しました。人形を破壊するという言葉を、あなただけが使えなかったと」

「失望しましたか?」

「私にとっては、想定内です。けれど、あの結果に落胆している人間達は、いるかもしれまんね」

「‥‥所詮、人間の、しかも書類しか見てないプレイヤー気取り共だ。どうでもいい」

 懐かしいと思ってしまった。長いリムジンは、俺とイネス、アルマを乗せてもまだまだ余裕があった。そして、ふたりは、何も言わないで待ってくれている。

「ふたりは、どうだ。思ったより甘いって思ったか‥‥」

「いいえ、あなたの事はよく知っていますから、あの姿を見た時から、破壊など出来ないと思いました」

「私も。あの時だって、君はゴーレムを破壊するのを渋っているように見えた」

「‥‥なにもかも、お見通しか‥‥」

 つい笑ってしまう。隠していた訳じゃないが、ここまで一瞬で気付かれるとは。

「イミナ様、質問があります。オーダーは、鎌鼬がゴーレムだと気づいていたのですか?」

「いいえ、けれど、ゴーレムという可能性がある事は、想定していました。ただ、本来ならイネス、アルマ、私の三人で仕留める予定でしたが、オーダー本部の考えが量り切れない以上、緊急にあなたも討伐班に加える事にしました」

「私達も、当初はその予定だった」

 どうやら、オーダー本部が完全に内密で、あれだけの規模、総勢70名の人間をここに送っているとわかったから、予定を緊急に変え、法務科として俺を使う事にしたようだ。

「それで、どう思いましたか?あの人形は」

「‥‥未完成。もしくは―――なぜ、自分でも人を襲っているのか、わからない。けれど、漠然として人間への恨みを持っている」

「—――あなたは、そう思いますか」

「‥‥そうか、あの場で人間は私だけだったか――」

 イネスが一度襲われたから、次もイネスに手が伸ばされると思っていたが、違った。ヒトガタを避けたのか?けれど、イネスは一度襲われている。イネスの言う通り、制服を着ていた以上、同じ個体の筈なのに、アルマを狙った。であれば、人間を狙っていると言えるだろう。

「あの方が言っていました。呼び出された自分を守ろうとしている、必要な分は既に溜まっていると」

「‥‥必要な分。どうやら、それは血だけではないかもしれませんね。他には?」

「血の味を覚えてしまったと」

 それを聞いた瞬間、アルマからあの時の、夢を使って俺に襲撃を仕掛けてきた時と同じ空気を身体にまとった。流星の使徒の、それだった。

「—――どこかへと手を伸ばそうとしているのか。大人しく帰れば良かったものを」

「血を使っている、ですか‥‥私を狙った理由も、それが関係しているのかもしれませんね、ふふ‥‥もはや、私は純血ではないというのに‥‥」

 専門家のふたりが、それぞれの領域の知識で考察を始める。だが、考えがまとまらないのか、無言でソファーに身体を預けてしまった。

「良いでしょう。確保こそ出来ませんでしたが、収穫はありました。今夜はここまでとします。戻りますよ」

 音など一切させないリムジンは、雲の上でも走っているかのように、窓ガラスを霧で隠し、真っ直ぐに走り続ける。星を使って、外を眺めることも出来るが、その気にならない。自分自身も考えをまとめたい。

「今回、マトイは参加しないんですか?」

「マトイは退院こそしましたが、まだ休暇を取らせるつもりです。だから、あなたの関係者の護衛を任せています。不満はありそうでしたが、他にも彼女には仕事があるので、受け入れさせました。近く、マトイの機嫌を整えておきなさい」

「ははは‥‥了解しました」





「つまらなーい!!」

「お、落ち着いてくれ‥‥」

「だってだって!!」

 選んだ宿泊施設である、オーダー割が効くホテルにて、膝の上にいるマトイの拳を受けていた。長く艶やかな黒髪をかんざしでまとめ、黒い浴衣をまとったマトイは、誰よりも神秘的で蠱惑的な色香を纏っていたが、それも先ほどからの言動で消え去っていた。

 袖と裾がめくれる事も気にせず、足と手を振り回して、駄々をこねている。

「まだ本調子じゃないんだろう。大丈夫、俺が頑張るから」

「そうじゃないもん!!だって、最近、あなたに良い所をまるで見せられてないのに!!」

「バイクに乗ってバチカンのエージェントを追いかけて逮捕した。あの時、マトイがいないと追い付けなかった。マトイは活躍して、いつでも俺を助けてくれてるよ」

「‥‥あなたが、そう言うのなら‥‥」

 まだまだ不満は溜まっているようだが、一応は頬を膨らませ納得してくれたようだった。

 全員が出払った部屋で待っていたマトイは、帰還した俺を視界に収めると同時に、捕縛班から外された鬱憤を爆発させる為、椅子へと座らせ逃げ場を奪っていた。

「‥‥それで、鎌鼬は本当にゴーレムだったの?」

「ああ、ただ、イミナさんみたいな人間らしい人形じゃなくて、腕に武器型のゴーレムを無理やり付けた見た目だった。肌も真っ白で、あまり肌らしくなかった」

「人と武器のキメラ‥‥」

 落ち着いたマトイは顎に手を付けて、2人と同じように思案を始める。邪魔する気は無い上、したくは無かったがキメラという単語を、アルマも使っていたのが気になった。

「聞いていいか。ゴーレムのキメラってなんだ?」

 そもそもキメラとは、端的に言ってしまえばライオンの中に蛇とヤギの遺伝子があるようなもの。同一個体内に、別の遺伝情報がある事をキメラという。無論、ギリシャ神話の怪物が語源である。であるならば、ゴーレムのキメラとは、何に当たるのか。

「‥‥そうですね、少しだけお話ししましょうか。キメラとは、人とゴーレムの合成生物の事です」

「—――合成?」

「ええ、正確には、人体にゴーレムの力の源である文字を刻み込む事。もしくは、あなたが出くわしたような、人型のゴーレムを基礎にして、新たな文字を刻む。けれど、後者は私の知り得る限り、失敗に終わっています。それに、意味がないので」

「意味?確か、ゴーレムって刻まれた文字、ひとつの事しかできないんだよな?」

「はい、その通り。ゴーレムとは素材に関わらず、ひとつの事のみに特化した、人工的な自然現象です。雨と同時に風や雷を降らす事は、人間では出来ないのと同じです。けれど、キメラはそれを目指した存在、しかし、やはり意味がない。必要なら文字をそういう風に刻めばいい。さもなくば、武器型のゴーレムをふたつ用意すればいいだけですから」

 意味がないと言ったのは、そういう事か。確かに、無理なハイブリットを目指すのならば、ふたつのエンジンを別々の機種に搭載すればいい。それが、手持ち出来る大きさならば、尚更だ。

「‥‥そもそも、ゴーレムって誰でも使えるのか?」

「文字として、そう刻めば可能かと。‥‥確かに、ゴーレムに使わせる為にチューニングされたゴーレムがあっても、不思議ではありませんね」

 マトイでも、まだ憶測の域は出ないようだが、あれがゴーレムであるのは、間違いなさそうだ。少なくとも、人間の関節を使った動きではなかった。

「詳しくはマスターから、聞きますか‥‥他には、何か言われましたか?」

「マトイの機嫌を直してくれって。どうすればいい?」

「では、少し歩きますか。私のわがままを聞いて貰います」

 膝の上から降りたマトイは、普段の不敵さと意地悪さを数倍にしたような濃い色の表情をしている。しかも、頬に手を付けるという、俺をいじめる時によくやる癖も。

「いいぞ。何処に行く?」




「相変わらず、多芸ですね。確か、狙撃も出来るとか?」

「本職には負けるけど、一通りは出来るぞ」

 簡単なルールではあるが、かなりの技量を要求されるナインボールをマトイと二人でやっていた。ただ、途中から競う訳ではなく、お互いがお互いを補佐するような打ち方になっていった。褒められるとしたら、マトイもだった。

「言っておくけど、マトイが上手いんだよ。キャノンショットとかコンビネーションショットなんて、そうそうできない。でも、良かったのか?」

「あなたと競い合いたくなかったのか?いいえ、私はあなたに構ってもらえれば、それで十分。それに、私のヒジリが活躍する姿を見られるならば、事更に十分です」

 暗い部屋の中、照らし出されたビリヤード台を覗いてくる面々を横目に聞いてみる。長い黒い浴衣に着替えたマトイは、誇らし気に頬に手を付けて答えてくれた。

 だが、折角のマトイとの世界に浸っているというのに、覗き魔の一人がズケズケと踏み込んできた。相手が相手でなければ首でも落としていた。

「なぁ、もしかして、探索科だとこんな事も教えるのか?」

「一応はな。それと、今はマトイと話してるんだ。後にしてくれ」

「へいへい‥‥報告は明日にでもしようや」

「ああ、わかった」

 去っていくキドウと簡単な打ち合わせをして、背中を見送る。キドウらは、ボーリングの予約を取っていたらしく、時間を気にしていた。

「マトイもビリヤード、やった事あるのか?」

 ナナサキが終わり、一息つく為ビリヤード台を開ける。先ほどの俺やマトイの打ち方を真似ようとわらわらと女子生徒達が集まるが、バンキングがそもそも成功せず、球が飛び出したり、届かなかったりして、それはそれで楽しそうに歓声をあげている。

「ええ、私も何度か。捜査科にも、こういった科目はありましたし」

「へぇ、捜査科って、もっと厳しい所かと思ってたけど」

「厳しいですよ。だって、ビリヤードどころか、こういった嗜みは一通り学びますから。ふふ、ちなみに、これらを学んでいる時、イノリさんと出会ったのですよ」

 どうやら、捜査科の人間は潜入に近い事も、仕事としてやるようだ。知らないというだけで、むしろそういった捜査、潜入としての身振りが必要になるのかもしれない。

「次はどうする?」

 壁端にある簡素な黒革のソファーに、ふたりで座る。ここはまさしく遊技場というに相応しい設備が整ったアミューズメントホテルだった。選んだのはサイナだが、課外学習に来たオーダーの多くが、ここを選んでいる事から、毎年来るオーダー向けに設備を整えているらしい。

「次はダーツですが、少しだけ話しませんか?」

「勿論。何が聞きたい?」

「今度は、私の話を聞いて下さい―――実は、私にはマスター以外にも、親しい方がいます」

「‥‥マスター以外か、保護者の方か?」

「ふふ‥‥そう言えるかもしれませんね。けれど、そう言ったら、あの方は不機嫌になるかもしれませんね。はい、マスター以外にお世話になっていた、親代わりです」

「会ってみたいな」

「ええ‥‥いつか、必ず」

 マトイの横顔は、どこか晴れやかだった。時たま見せていた、影のある表情ではない、真っ直ぐに世界を見据えた、凛とした佇まい。迷いが晴れたと言っていいかもしれない。

「どんな人なんだ?」

「‥‥そうですね‥‥よく、マスターに頭を抱えさせて、私と共に笑って下さる方でした。茶目っ気があって、優しくて、何でも知っていて。それで‥‥いつも、私を気にかけてくれました‥‥。本当に、素敵な憧れの女性‥‥」

 茶目っ気があって、イミナ部長が頭を抱える。そう聞いた、つい笑ってしまう。

「どうしたの?」

「いいや。そうか‥‥俺は、その人に会ったら、まずお礼を言わないとと、思って」

 マトイがわからないといった感じに、首を捻っている。それは、きっとマトイだけがわからない事柄。たまに出るわがままなマトイの性格は、その人譲りなのだろう。

「今日の仕事って、その人関係なのか?」

「‥‥ふふ、ええ。そうです。あの方も忙しい方なので、仕事と偽らないと、自由に会えないので―――そうですね、決してつまらなくなんてなかった。とても、楽しい時間でした」

 本当に、大事な人で、大事にしてくれた人だというのが、表情から伝わった。

 そして俯き気味に視線を向けたマトイの黒目には、一点の曇りなき光が宿っている。

「私があなたを求めた理由、まだ言ってませんでしたね」

「‥‥そうかもな」

「はい。—――聞きたいですか?」

「‥‥気にならない、そう言ったら嘘になる。だけど」

「だけど?」

「マトイが言わないといけないって思った時が、正しいタイミングなんだ。それまでに俺自身も準備しておきたい。何かをしたかったから、欲しかったんだろう」

「‥‥私‥‥」

「だから、今じゃない————覚悟させたのに断って悪い。だけど、今は時間を計る時だ。まだ、その時じゃない」

 マトイが、俺の目を求めた理由。手段としての、表面上は何者をも見抜ける視点。そして、決して見逃さない、答えに最短で到達する道筋を、作り出す力。

「言い出したくなったら教えて欲しい。聞きたいじゃない。聞いてくれって、思ったら、呼び出してくれ。全部済んだ後で良いから」

「‥‥本当に‥‥本当に‥‥」

 自分は初めてマトイを裏切った————冷たい手が頬に伸び、顔を固定される。まばたきの一つとして許されない真空を作り上げた黒髪の麗人が仄かに笑み、静かに唇を動かした。

「いっそ残酷なぐらい、優しい方。けれど、そんなあなたを、私は愛したのでしたね」

「マトイと似てるな—――似てきたのかな?」

「まさか。元から、あなたは残酷。時に私以上に残忍で恐ろしい方でした――そんなあなたを、私は好きになった。あなたなら、私と一緒にいてくれる。私を理解してくれるって」

「マトイの事は、まだわからないさ。複雑でわがままで優しくて、とても怖い人」

「そんな私を、好きになったの?」

「ああ‥‥そんな怖いマトイが好きだった。いつも優しいのに、たまに怖くなるマトイに夢中になった。怖いマトイが見せてくれる笑顔が、ずっと好きだった」

 マトイの頬に手を伸ばし逃がさないようにと、耳まで手を伸ばす。手の指が触れる耳が心地よさそうにも、こそばゆそうにもして身震いを始めた。

 けれど、自ら快楽を求めているとわかるマトイが、指に手を伸ばし耳の穴へと誘導する。

「長い指‥‥どこまでも、届きそう」

「指だけでいいのか?見ろと言われれば、なんでも見るし、なんでも差し出せる」

「忘れてなんかいません。あなたは、私の為になんでも差し出してくれた」

 至近距離で見つめ合い、口を近づけた時————唇に指をつけられる。

「今じゃないのか?」

「私も欲しい、けれど、けれど‥‥ふふ、後ろを」

 振り返った瞬間、額に高硬度のキューを振り下ろされる。何かが来ると思っていたが、まさかキューそのものとは想像していなかった。一瞬とはいえ、目の前が真っ白になる時間を過ごす。

「痛っ!!――手加減してくれ‥‥」

「良いから、早く行く!!マトイさんも!!」

 手を握ったカレンに連れ去られ遊技場から逃げ出す。特別捜査学科のカレンが、こんな直接的な振る舞いをするとは思わなかったらしく、キューやダーツを持っていた生徒の面々も唖然として素通りを許した。

 駆けるカレンの後ろ姿を眺めながら、マトイと笑い合う。

「また、今度か‥‥」

「大丈夫。いつでも、続けられますよ」

「待ち遠しなぁ‥‥」

 遊技場から飛び出し、ゲームセンター、ボーリング場入口、ブティックなどを駆け抜けて真っ直ぐに逃げ込んだ先は、カラオケボックスだった。確かに逃げ込める場所として、これ以上ない程好都合だろう。雪崩れ込むように入室したボックス内にはソソギとサイナが寛いでいた。

 ノックもせずに飛び込んだ我々に、サイナが慄き問う。

「ど、どうしたんですか?」

「まったく‥‥どうして、ああも、人の目を気にしないで――」

 見当もつかないといった感じに、サイナがドリンクを両手に聞くが、当のカレンは独り言をした後に押し黙ってしまう。視線でどういう事かと問い掛けてくる二人に、曖昧に答えた。

「まぁ、色々あってな。カラオケか?」

「はい、カラオケですよ~♪」

 隣に座ったサイナが、選曲タブレットを渡して、今までの履歴を見せてくれる。だが、正直言って、どれも知らない。そもそも音楽というものは、クラシック等しか知らないので、現代のポップカルチャーなど、縁遠いものなのだが。

「わからないって、顔ですねーダメですよ?探索科なら、この程度の流行りについて来ないと」

「悪かったな。サイナは歌えるのか?」

「ちょっとした自慢でしたが、カレンさんには、遠く及ばなくて‥‥」

「向こうは、プロから教わってるんだ。どうしたって、壁があるだろう」

 膝の上にタブレットを乗せて、マトイと共に飲み物を注文する。ソソギの尽力で、なんとか機嫌が直ってきたカレンが、腕を組みながらだが、顔を向けてくれる。

「私達は歌ってるから、カレンをお願い。サイナ」

「は~い♪」

 お膳立てをしてくれたソソギは、サイナと共にステージに上がり、現代の流行りらしいデュエットを始める。アイドルではない、正統派な女性シンガーの歌はサイナの甘く柔らかな声と、ソソギの冷たくて鳥肌を立たせる鋭い歌声に、相応しかった。

「それで、イネスはどうだったの?」

「無事だ。元気そうだったぞ」

「‥‥そう、よかった。—―驚いた、イネスがこの街にいるなんて」

「カレンも知らなかったのか。マトイは?」

「ノーコメントで」

 届いたドリンクを受け取ったマトイは、楽し気にタブレットを操作している。どうやら、知っていたようだ。

「外に出れて、嬉しいみたいで、入院してるのが嘘みたいだった。聞いたけど、一緒に暮らすんだよな?」

「うん。イネスを外で暮らすのに、必要な処置って事で提案されたの。あの先生は、そうでもなさそうだったけど、やっぱり私達はまだまだ危険な存在って、思われてるみたい。何かあった時に、まとめて逮捕する為だと思う」

「言わせとけ、どうせ、何も出来ない雑魚だ。三人を逮捕するなら、オーダー本部の総力が必要になる。何かあったら、言ってくれ。俺達四人で、本部を制圧しに行こう」

「ダメですよ」

 カレンとオーダー本部、破壊計画を立てていると、隣からマトイに待ったを掛けられる。

「オーダー本部は、今の状況だから、私達法務科の仕事があるんです。あの愚かな本部を整えてしまったら、私がつまらなくなります」

「違いない。俺も、まだまだやり返しがし足りない」

「‥‥前に聞いたけど、本当に、本部に」

「ああ、売られた。特務課に、引き渡されそうになった」

「‥‥そうですか」

 あのカエルは、俺を特務課の名を使って、捕まえて、犯人の疑いがあったマトイを逮捕し、法務科の弱点を探そうとした。そして、ネガイも連れ去り、処刑人としての血筋たるネガイを、自身の雇い主に渡そうとした。

 しかも、オーダーとしての名も持っていた奴は、俺に恨みを持っていた元権力者側の人間に引き渡し、オーダーの名の元、俺を拷問、恨みを晴らそうとした。しかも、オーダー側は、それを認めた。オーダーの総本山たるオーダー本部が、事実上の身体刑を行おうとした。まだまだ、足りない。全員、血祭に上げても、あの時の恨みは、まるで晴らせていない。

「—―――殺したい」

 天上界に、未だにいて、俺を苦しめ、更に苦しめようとした連中。全員逮捕されたと言われたが、裁判中だという事を良い事に、いまだ自由を謳歌してる人間ども。

「ああ‥‥まだ、殺せる。まだ、間に合う」

 ソファーに体重を預け、肺に残る息を使い切る。だが、両隣の麗人たちが、俺の腕と首に指をつけて、脈を取ってくる。示し合わせたような、心理観察。どうやら、俺はいまだ疑われているらしい。

「‥‥法務科と、あの医者か?」

「これも、私の仕事です。ゆっくり、息を吐いて。大丈夫、今程度のつぶやきで、あなたの評価が覆される事などありません。あなたは―――ずっと、疑われている。人類の敵になるのではと」

「‥‥馬鹿どもが。俺は、とっくに人類の敵だ。元から、人間は俺の敵だっただろう」

「ふふ‥‥その程度にも、気付かない人間が、あなたを恐れているというだけ。たった、それだけの事。カレンさん、あなたは?」

 首につけていた指を離したマトイが、足を組んで、タブレットを操作する。

「私には、責任があるから‥‥。この人の自動記述を、完全な物にしてしまったから。あれから、違和感とかは、無い?」

「全然。—―正直、使いこなせてる気がしないけど‥‥俺の手には余るみたいで‥‥」

「まだ使い方を知らないだけ。検索に必要なキーワードを、そもそも知らないだけ。大丈夫。少しずつあなたの中のヒトガタが答えてくれるから」

 特殊な力である、ヒトガタの体調を調節できるカレンが保証してくれる。であるならば、安心できる。カレンからの言葉を吟味していると、サイナが大きく深呼吸をする。

「ふぅーなかなかの得点でした~♪」

「ええ、5位だなんて、自己ベストを更新出来た。だけど‥‥ふふ、カレン」

「‥‥負けてられない」

 マイクを受け取ったカレンは、次に送信されていた歌のステージに上がる。この歌も、俺自身は聞き覚えがないが、俺以外の3人は楽しげにソファーで歌い出しを待っている。

 気になってしまい、試しに聞いてみた。

「カレンはこの歌が好きなのか?」

 くつくつと自分以上に世間知らずな俺に、ソソギが答えてくれた。

「そう。そして、もう一人好きな人がいる。上には上がいると知っていたけど、カレンよりも歌の上手い人が身近にいたなんて。因みにイノリ」

「先程からお二人でランキングを更新し続けているんですよ♪まさにデットヒートって感じで♪」

 似ている気がしていたふたりは趣味も似ていたようだ。話によれば向こうはネガイを始めとして、シズク、イサラ、イノリ達がいるらしい。俺自身、カラオケに入った事はあるが、全て公に出来ない作戦会議等の会場としてだったので新鮮だった。

「では、私はこれで。一度、向こう側に顔を見せに行ってきます。あなたは?」

「俺は、もう少しここにいるよ。イサラと約束してただろう。ゆっくり話してきて」

「はい、そうさせて貰いますね。ふふ‥‥後で、部屋に来て。いじめてあげるから‥‥」

 真剣に鎬を削っているカレンには聞こえない囁きを使った後、マトイは長い黒髪を流して出て行ってしまった。視線をカレンへと戻し、響く美声に浸っていると、

「あともう少しで、ミトリさんが合流しますよ♪」

 と、歌うイメージがあまりないながらも、期待してしまう歌手を待つ事とした。




 勧めるままに歌いやすいと騙されてしまった。音程の取り方どころか、ブレスの位置すら高度な曲に、喉を酷使して先ほどの戦闘よりも体力を使ってしまう。ソファーに身体を投げ出し、ミトリにのど飴をもらっていた。

「慣れない事は、するものじゃないな‥‥二度と歌わない」

「いや~まさか、本当に歌ってくれるなんて。でもでも、なかなかの声量でしたよ♪ね!ミトリさん!」

「はい!!かっこよかったですよ!!」

「ありがと。ちょっと、外に出てくる」

 イノリとの戦闘が続き、俺と同じように疲れ切ったカレンへ膝を貸しているソソギにも、軽く手を振って外に出る。ガラス製の扉は見た目以上に重厚で、体重をかけながらでないと開ける事が出来なかった。

「あ、おられましたか」

 丁度、外へと出た瞬間だった。ホテルスタッフに声を掛けられる。

 その手には、ホテル従業員専用と思わしきスマホが握られていた。遊技場にいた筈の若い男性スタッフは、それを両手で捧げ「あなた様に、お電話です」と恭しく手渡してくる。

「どちら様ですか?」

「オーダー本部からの通達だとか。私共には、これ以上、お伝えくださりませんでした」

「‥‥わかりました。ありがとうございます」

 スマホを受け取り、画面を見つめても何も思いつかない。見知らな番号だった。

「では、私はこれで。明日の朝にでも、ご返却下さい」

 忙しいらしいホテルスタッフは、それだけを伝えると足早に去ってしまう。どうやら、渡したなら、さっさと消えろと電話主から言われていたようだ。

「‥‥誰だ?」

「‥‥くくくく‥‥」

 不気味な笑い方だが聞き覚えがあった。これは、あのカエルに似ている。ただし、それそのものではない。もっと若い声。

「夜遅いんだ。用なら、手早く済ませてくれ」

 不機嫌を装って挑発をしてみるが、反応は変わらない。不気味な引き笑いを続けるばかりで、次の言葉を使って来ない。

「—――俺が、誰か知っていての電話か?」

「ああ‥‥お前、オーダーの法務科らしいな?くくく‥‥所詮、オーダーだ。お前みたいなガキを使ってるなんて。聞いたけどよ。お前なんだろう、あの人を貶めたのは」

「あの人?」

「特務課の中心にして、公安の偉人‥‥あの方が、お前なんかに負ける筈がない‥‥。だから!!俺が、あの方の無実を証明して見せる!!あの方のやった事は、この国の正義の為だった!!!」

 あまりの声量に、耳に当てていたスマホを床に落としてしまう。けれど、落としたスマホから聞こえる悲鳴にも似た高笑いは、まったく落ちない。マイクが破損してしまう程の高音をひとしきり続けた後、ようやく切れる。

「‥‥精神鑑定中だったか」

 特務課の中心にして公安の偉人。忌々しいが、それらの肩書きで思いついた相手は、ただひとり。あのカエルだった。

「厄介な事になった」




「驚いたよ、君から連絡してくるなんて。まずは、こんな非常識な時間に私を呼び出した謝罪と」

「挨拶をしてる暇はなさそうです。あのカエルの後輩達から通話が届きました。あの方の正義を証明すると」

「‥‥それはまた、厄介な話だ。それで?」

「あのカエルは、今どこに?精神鑑定中だというのは、まだ続いているんですか?」

 部屋に戻り、高層ホテルの窓ガラスに写る自分の顔を見つめる。恋人達に向けられる目ではない。この化け物としての眼球を向けた相手は、数えられる程だった。

「それは国家規模の守秘に関する情報だ。なんと言っても、独立捜査機関であるオーダーから、国家行政機関、警察庁組織内の特務課への刑事、民事、行政裁判のそれだ。電話口で話せるものではない」

「俺は法務科だ。独立捜査機関の中でも、更に独立性を高めたオーダー法務科の協力を受け入れられないなら、あなたを非協力的な、オーダーらしからぬカエルの共犯者として報告する」

「それはよしてくれ。私だって、職を失いたくない。だが、君がオーダー法務科ならば、仕方ない。それに、遅かれ早かれ君の耳に届く事だろうからな。彼ならば、既に退院した。オーダーに関係するありとあらゆる医療施設からだ」

 移送させられたとは聞いたが、完全に医療施設から離れているとは思わなかった。だが、特務課に復帰したようでもなかった。あの愚か者ならば、自ら復讐の火ぶたを切るだろう。

「‥‥精神鑑定は、嘘か」

「まさか、もう意味がないと判断されたからだ。彼なら廃人とかした。目だ、化け物だと言って、毎日錯乱する日々を送っているよ。身に覚えがあるのではないかな?」

 追い詰め過ぎたとは、思わない。実際、あそこまで追わなければ、逃げられていただろう。だが、流星の使徒の総帥すら恐れさせた眼球を一身に受けてしまったのだ。ただの人間であるカエルでは、狂っても仕方ないかもしれない。

「でだ、次は私の質問に答えて貰おうか。君は、どうする気だ?」

「どうでもいいだろう。あなたが、気にする事じゃない」

「私は医者だ。起こりうる怪我があれば、未然に防がなければならない。しかも、また同じような廃人が生まれるのなら尚更だ。いいかい?殺すなよ。殺さなければ、誰でも生き永らせる。身体に限った話ではない。心の話でもある。わかったかい?」

「‥‥俺に、人間に情けをかけろと命令する気か?しかも、あのカエルの一味の」

「命令などしない。君の目を見ただけで人が狂うなど、証明しようがない。だが誰だって、その後の人生がある」

 その程度わかっている。あのカエルにだって、家族と呼べる存在がいただろう。少なくとも後輩と呼べる人間がいた。しかも、いい関係を構築していたようだ。

「‥‥人間は、俺のその後なんて、考えなかっただろうが。お前達みたいな血も涙もない人間に、差し伸べる手なんて持ってない」

「何か勘違いをしていないか?被害者に頭を下げて、生涯、後ろ指差される日々を送ってもらう為だ。狂っていては、そういった責任から逃れてしまうだろう」

 前々から思っていたが、この医者もなかなかに容赦がない。俺も人の人生を狂わせる事には定評があるようだが、この医者も似たような事をしているようだ。

「罪を償わさせ為に、生かすか‥‥心底嫌だが、あなたに同意する時が来るなんて」

「それは何より。私は医者だ。元とは言え、患者のその後にも、手を貸せるなんて本望だよ―――では、殺さないように、気を付けたまえ」

 医者の声が途切れた直後、扉が乱暴に叩かれる。同時にスマホから流れた物と同じ声が、扉の向こうから怒号となって響き渡る

「お前には連続通り魔の疑いが掛けられている!!大人しく正義の執行を受け入れろ!!我ら特務課の、国家の力に屈しろ犯罪者共が!!」

「はぁ――、外は敵ばかりか」

 ようやく、らしくなってきた。そうだ。外の世界とは、こうであるべきだ。いつだって俺に敵意を持ち、いつだって自らの過ちを忘れ、いつまでも自分を見つめられない。

「俺はお前達を写す鏡だ。お前達の欲望、そのもの」

 腰の杭とP&Mを引き抜き、ガラス窓から注がれる月光を一身に浴びる。声も発しず、命令に従わない俺が抵抗した、と判断した現場を知らない特務課の坊主たちが、持っていたキーを用いて蹴破り、スモークを投げ込んだ。

 何もかもがお粗末だった。スモーク弾は投げ込んでから数秒経ってもまだ着火しない。しかも着火するまで突撃する気が無いらしく、扉の前で暗視ゴーグルでもない、ただのガスマスクをした馬鹿供がマスク越しに、挙げ句にやけながら見つめてくる。

 だから蹴り返した。連中の中のひとり。リーダー格であろう坊主の胸に当てて、白煙を吐かせP&Mの40SW弾を撃ち当てる。その瞬間、スモークは自身の勢いを大きく超えた爆発を起こし、リーダーとその周辺にいた連中の着ていた軍服に見える防弾服を切り刻み、真っ赤な火花を起こす。視界を完全に奪う白煙の中、映えるような想定外の深紅の爆発が眼前で起きた事で坊主達は揃って慄き腰を抜かした。

「な、なんだ」

「まだ、懲りないか」

 スモークが割けるより前だった。破片が飛び散る寸前の扉まで縮地で跳んでいた。

 特務課の人間達はまだスモークにより視界を奪われているが、俺には見えた。星を使うまでもない。何処までも、何者をも見通す血眼。魔眼ではない、ふたつの世界に通じる筈だった扉。この程度の煙で視界を奪われる事はない。

「そこか」

 返事も聞かずに警棒状態の杭をリーダー格の喉に突き入れる。扉向かいの廊下の壁まで突き飛ばした事で、ひと一人が倒れる音を白煙の中で起こす。呻き声ひとつ吐かずに、近くいた筈の人間一人分の影が消えた事で残った四人が短い悲鳴を起こす。

「ど、どこ」

「ここだ」

 ひとり突き飛ばした事で生まれた道筋。倒れているリーダーを飛び越え、部屋から跳ね出る。特務課見習いの隣を過ぎ去り、背後である廊下の壁を背に順手にした杭を一人の後頭部に振り下ろし、言葉を止める。更に杭を離し、M66とP&Mを両手で掴み、左右の特務課見習いの鳩尾に隙間を開けずに弾丸を送る。357マグナムの発砲音が未だ晴れぬ白煙の中、真上で響き今度こそ完全な悲鳴を起こさせる。

 喉を突かれ、意識が朦朧しながら仰向けに倒れている特務課見習いにも見えた事だろう。

「人間、お前はあのカエルと同じだ。ただの、捨て駒。ただの人間だ」

 ようやく晴れてきた煙の奥にいる化け物を。前触れもなくマスクの片目を踏みつけられ、ヒビをいれてくる化け物を。残る眼球にふたつの銃口を突き付けている化け物の姿を―――。



 遊技場に呼ばれドリンクを持たされた。仲間と共にビリヤード台で球を突いている襲撃科のミヤトに近づいた時、気配で気付いたらしく笑みを浮かべて出迎えられる。

「‥‥あいつらは、どうなるんだ?」

「しかるべき処置をされた後、しかるべき対応をされる。具体的には、まずは住居不法侵入、建造物侵入罪で逮捕。宿泊を目的にした建物内に強引な侵入をした疑い。治療をされた後に取り調べかな。一番喧嘩を売っちゃいけないオーダーを狙った報いだね」

 周りの襲撃科や制圧科を離れさせて、キューを渡してくるので手で止める。残念そうな顔をしてくるが、どこか誇らし気だった。自分達はやり遂げたのだと暗に示している。

 その顔がなおの事、化け物の血を呼び立たせた。無言でビリヤード台にドリンクを置く。

「お前達が、手引きしたんじゃないか?」

「さぁ?どうか」

 全て言わせる前に頭に拳を振り落とした。ビリヤード台から響いた轟音の正体は異端児の頭を台の縁にぶつけて倒れさせたからだと、一件に噛んでいた人間に知らしめ黙らせる。先程から成功した事に、歓談し歓喜の声を上げていた連中は時が止まったように息も忘れる。

「‥‥次は無い。コロス」

「あ、あはは‥‥ごめんよ」

「もういいだろう、ほら」

「お前もだ」

 ノーモーションで筋肉質の腹に膝を叩き込み、よろめいた所に杭を握った拳を顔面に叩き込む。業務用の巨大なダーツボードまで殴り飛ばし、激突した整備科の身体でダーツボードを破壊する。

「なに、他人みてぇな面してやがる――殺されたいか?」

「‥‥悪かった」

 それだけ聞き届けて宴会場となっている遊技場の出口へと向かう。周りから声こそ掛けられたが、知った事じゃない。もう、どうでもいい。終わった話だ。また人間は俺を騙した。それだけならまだしも、わざわざ、導いてけしかけた。

 あの医者と同じ事をした。また俺を化け物として、目覚めさせた。

「行きますか?」

「ああ、行こう」

 すぐ外で待っていてくれたマトイと共に取った部屋へと戻るべく、手を繋ぎ廊下を歩く。自分でも隠せない殺気と怒りが、目と身体中から流れいるらしく誰も彼もが道を開けてくれる。自分で自分に嫌気が差す。感情を抑えられないなんて、まるで人間と同じではないか。

「‥‥法務科は、知っていたのか」

「—――いいえ、オーダー本部があなたを使って特務課をおびき出そうとしていると、ついさっき、彼らを逮捕した時に本部から通達されました。マスターも怒り狂っています。こちらの人員を勝手に使い、あまつさえ餌にしようと‥‥いいえ、生贄にした。信じてくれる?」

「信じるさ――マトイもあの人も、もう俺を苦しめない‥‥行こう」

 マトイの手を握って部屋へと向かう。先ほどの騒ぎを聞きつけて、実習が終わりホテルへと戻ってきていた治療科が走っていく。腕章を付けた治療科の中にミトリはいなかった。

「ミトリさんは部屋で待ってます。まだ見える?」

「‥‥もう限界みたい‥‥手間、かけさせてばっかりだな‥‥」

「ふふ、謝らないで。それより、転ばないように気を付けて」

 柔らかい絨毯から固い大理石に変わった床を確認し、歩き方を変える。ここで転んだら、痛そうだ。大理石であるのなら、ここはホテルのロビー。方角的にも合っている。そして想像は正しかったらしく、マトイがホテルのスタッフのいるどこか、受付に挨拶をした。

「お休みなさいませ。お連れの方、どうかなされたのですか?」

「いいえ、お気になさらず。では、おやすみなさい」

 有無も言わさぬマトイが、エレベーターへと連れ込んでくれる。壁に手が届かない事で、不安なっている俺を見兼ねたマトイが微かに笑いながら、エレベーター内の手すりへと導いてくれる。

「落ち着きました?」

「‥‥少しだけ」

「少しだけ?」

「‥‥もっと、マトイに甘えたい。ダメ、かな?」

「いいえ、さぁ、こっちに」

 エレベーターの隅に、連れられ、逃げ場を失う。不安になどならない。マトイの香りと呼気が、顔に向けられる。背伸びをしているらしいマトイの囁きが耳元で聞こえる。マトイの口を求めるべく、首を振って、聞こえていた方に顔を向けるが、その時には別の、もう片方の耳から囁きが聞こえる。

「マトイ、どこだ?」

「さぁ?どこでしょうね」

 もう一度、頭を振ってマトイの呼気を感じる方へと、顔を向けるが、また気配が消える。少しだけムッと来てしまい、マトイの身体を狙うべく、腕を伸ばして、細い腰と背中を抱きしめる。

「捕まってしまいました。ん?どうかした?」

「‥‥良かった。いてくれた――」

「ごめんなさい。いじめ過ぎましたね」

 あの時と同じだと気付いてしまう。病室にいた時のマトイは、そのまま消えていきそうだった。線の細いマトイは、今も抱きしめているというのに、消えてなくなりそうだった。

「大丈夫、私はここにいます」

 応えるように、抱きしめ返してくれるマトイは、確かにここにいてくれた。

「やっと、落ち着きましたね」




「怪我はしていませんね。それに‥‥うん、眼球運動も問題なし。どこか痛かったりしませんか?」

「大丈夫だよ。ありがとう、また世話になったな」

「忘れましたか?私は、あなた付きの治療科ですよ。そうでなくても、あなたの身体のメンテナンスは、私達しか出来ないんだから」

 念の為、身体と目を見てくれたミトリが、ペンライトとスーツ型の救急箱持って下がる。ミトリと入れ替わるように、ネガイが目を覗いてくる。真っ直ぐに見つめるネガイの黄金の瞳は、いつまでも見ていられた。

「治療がすぐに出来たから大丈夫そうですね。気分はいかがですか?」

「少しだけ、疲れたかな‥‥狂ってないから、大丈夫だよ」

「そのようですね。‥‥良かった」

 片目を手で覆ってくれるネガイは、慈愛が満ち満ちた柔らかな笑みを湛えている。

「だけど怒る時は怒って下さい。彼らはあなたを罠にかけた―――詳しくはわかりませんが、あの特務課見習いの人間達にあなたの情報を売ったのはオーダー本部、もしくは彼らなのでしょう?マトイは知っていますか?」

「私自身も詳しくは聞けていません。けれど、ネガイに同意します。情報が漏れるとしたらオーダー本部か、遊技場の彼らしかいません。法務科も随分と舐められているようですね」

 眉間に指をつけて、頭を振るマトイも同意見だった。実際、“俺が”、あの“カエル逮捕に”関わっているなんて、知っている連中はオーダー校の人間、しかも、その中でも、あのカエルの正体を知っている人間は、かなり絞られる。

 であるならば、俺を売り払おうとしたオーダー本部か、帰ってくる俺に説明をし始めたあいつらしかいない。

「イミナ部長は、なんだって?」

「マスターは現在、オーダー本部へと法務科の連名で抗議をしているようです。今回の作戦は、あまりにもあの時と似すぎている。どうやら味を占めたようですね」

「‥‥あなたの実力を買っている、と言えば聞こえはいいですが、また売ろうとしたと―――どこまで、いつまで経ってもオーダー本部は変りませんね」

 机を挟んで対面のソファーに座っているマトイも足を組んで頷いた。ネガイにとっても、決して他人事じゃなかった。ネガイは長くオーダーに囚われていた。しかも最後には引き渡そうとさえした。その後、どのような扱いをされるかなど、知っていた筈なのに。

「‥‥いつまで経っても、ただの餌、獲物か。それで法務科、というか異端捜査部は、今後どうする気だ?」

「少なくとも、今回の仕事からは距離を持つようです。アルマさんにイネスさん、彼女ら二人にも、そう伝えると。あなたはどうしますか?」

「俺も、今回はもうパスしたい。被害者には悪いけど、身内が裏切るようなら話にならない。敵味方さえわからない現場は、ごめんだ」

「そうすべきです。後ろから撃たれては、話になりません」

 あっさりと決まってしまった。心残りがないか、と問われれば、心のどこかであるにはある。あの人形は、なんだったのか。アルマとイネスとの初仕事を、こんな個人的な理由で降りていいのか。だけどオーダー内での裏切りが発生した以上、この仕事は終わりだ。

「では、そのように」

「‥‥悪い、怒ってるか?」

「私が?まさか。私だって、今回の事には憤りを持っています。彼らは特務課の所属、しかも、あのカエル達は私達を無理にでも逮捕しようとした無法者。そんな彼らに情報を渡し引き入れた。オーダー本部の命令にただ従っただけの彼らには申し訳ありませんが、仕事ひとつ選ばない方々とは今後の付き合い方を変えさせて貰います」

 何度か、あいつらには世話になった。それは法務科の所属たるマトイだって同じだ。だけどマトイの言う通り、仕事を選ばない奴らとの仕事は避けざるを得ない。ダブルクロスなど一度でもしようものなら、誰にも信用されない。

 ただ、今回は裏切った連中の方が多かった。しかも、それが正しい秩序側の仕事として受け入れられた。ならば俺の出る幕はもうない。

 人間の都合に合わせるのは、もうやめた。

「折角の外なのです。仕事は、もう忘れて楽しみましょう。私もそうしますから。明日はどうされますか?」

「そうだなぁ‥‥。あ、でも、マトイは忙しいんだっけ?」

「残念ながら。でも明日も同じ時間には自由時間となっていますから。‥‥ふたりで抜け出して、いけない事でも、してみますか?」

 頷きそうになった時、隣に座ったネガイがレイピアの鞘で脇腹を刺してきた。気が抜けていた時への不回避の一撃に息がつまり、受けた脇腹を押さえてソファーに倒れてしまった。

「いくら、このヒジリがアレでも勝手に連れて行かないで下さい。それに私にとっても初めての外です。マトイは何度か外でこのヒトと出歩いているのですから、遠慮して下さい」

「でも、私にとってもここまでの外遊は初めてなので、少しだけわがままを言わせてくれませんか?それに、昼間はずっといたのでしょう?」

「私は、マトイとも一緒に遊びたいんです。ふたりで、私を置いて行く気ですか?」

 正直に、素直に己がわがままを吐露したネガイを見て、マトイとお茶を持ってきたミトリが顔を見合わせて笑い合う。ソファーに倒れたままの俺も、つい笑ってしまう。

「はいはい。ごめんなさい。わかりました。抜け出す時は、一緒に行きましょう」

「はい、ちゃんと誘ってくださいね」

 真面目なマトイからの誘いをネガイは楽し気に受け入れる。彼女に科せられていた鎖は些細な反抗も許されなかった。だからこそ、悪い事であるルール違反が楽しみのようだった。

 その時。丁度、扉のインターホンが鳴り、夜でも良く通るイサラの声が響いた。内容はと言うと「遊びに来たよーー!!」という、れっきとした遊びの誘いそのもの。

「皆んな来ましたね。まだまだ夜は長いのですから、気にせず、楽しみましょう」




「やっぱ、法務科って厳しいんだね。私じゃあ、無理そうかも」

「あなた程の腕があれば、望めば向こうから声が掛けられますよ。けれど、そうですね。私達の部署は、法務科の中でも更に特殊な組織なので、目指すのは難しいかと」

「そっかぁ‥‥面白そうだと思ったんだけど‥‥まぁ、いっか。あ、そうだ。ねぇねぇ‥‥ヒジリからの告白って、どんな感じだったの?」

 急に声を潜めて、恋バナとやらを始めた。当の本人たる俺がいるというのに。

「気になりますか?」

「うんうん、気になる気になる!!」

「では、少しだけお話します」

 当の本人たる俺がいるというのに、マトイもマトイで声こそ潜めているが自慢気味に話し始める。お陰で先ほどまで、それぞれがそれぞれ勝手に作っていた話の輪を崩し中央リビングに集結し始める。前に、俺の部屋を集会の場にしていた面々が全員揃った。

「なんで、こんなにいるんだ?」

「だって♪このお部屋、すっご――い!!高いロイヤルスイートなんですよ!!ネガイ様に♪試しに、お願いしてみたら、二つ返事で予約してくれまして。あ、それにそれに、このお部屋、ルームサービスが無料なんですよ♪」

 窓際のソファーで風呂上がりのサイナとそれを眺めていると、バレないように耳に口を付けて教えてくれる。部屋へと送られてくる菓子やフィンガーフード類は、そういう事だったのかと納得する。あれだけで、部屋二つ三つ借りられそうな金額だと思っていた。

「やっぱり、ここ、すごい部屋なのか。ここしか知らないから、わからなかった」

「富裕層の思考に近づいてきましたね♪良い物を知っていると、心に余裕が出来ますよ♪ち・な・み・に♪お値段は、このぐらいで~す♪」

 サイナからスマホを受け取り、値段を見せてもらったら、気が遠のきそうだった。この値段をふたつ返事で許すとは、一体総資産はいくら程なのだろうか。

「無理させたか‥‥」

「あの程度で、ですか?」

 話を聞いていたネガイが近づいて教えてくれる。

「新しい服を買う時は、大体その値段以下でしたが?」

「‥‥服だけで」

「はい。新しい洋服を仕立て屋に家まで運んで貰い、はなれで試着し気に入った物を買った時、一着でそのぐらいでした。やはり、安過ぎましたか?」

「‥‥いいや。この部屋、すごくいいよ。ありがとう、今度は俺が選ぶから」

「ふふ、期待して待っていますね」

 ドリンクを片手に持っていたネガイは、ミトリに連れられて、マトイの元へと戻って行く。できる限りのポーカーフェイスでサイナに向き直るが、徐々に歪んでいく我が顔を見て、サイナが吹き出してしまう。

「サイナはどう思ったんだ」

「ん?私も~家にいる時でしたら、それほどでもないかな?って思っていたかと。改めて、自分でお金を稼ぐようになった今だから、高いって、思うんですよ。ふふ、まぁ、今の私にとってもはした金ですが♪あなたのお陰で‥‥サイナ商事は連続黒字ですとも。ご褒美、欲しいですか?」

 返したスマホで、顎を上に向けられる。柔らかい長い髪から漂う香りに、意識が手放しそうになるが、サイナの一瞬だけの口づけ、唇で唇を噛むような仕草に、心臓が早鐘を打つ。

「良いお顔ですね~、相変わらず、美味しそうなお方」

「‥‥食べてくれるか?」

「お望みでしたら、このあなたのサイナ、いつでも頂いてしまいますよ。ふふ、でもお覚悟して下さい♪あなたのして欲しい事、全部知っているので、もう他の方では満足できなくなるかも。この身体、あなたの物になると同時に、あなたの全ては、私の物‥‥」

 月明かりに照らされる浴衣越しサイナの肢体が、陰影を持ち、艶めかしいさと同時に、食欲に近い感覚を覚えさせてくる。更に際立たせる為か、自身の胸や股の間に腕を入れて、肉のふくらみを見せつけてくる。

「我慢など、あなたに相応しくありませんよ~」

「サイナ、残念かもしれないけど、私の方がサイズは上」

 突然降ってきた声に、顔を向けると鋭い切れ目が膝の上に落ちてくる。長い手足を落とすまいと、背中と足に腕を伸ばし、抱きかかえる。

「素敵。新鮮かもしれない」

「うーソソギさん、ずるいです‥‥」

「ごめんなさい。だけど、少しだけでいいから、彼を譲って」

「‥‥仕方ありませんね。では、私はこれで♪後でお部屋に来て下さいね♪」

 何かを悟ったらしいサイナが、大人しく引き下がって、席を譲る。空いた一人掛け用のソファーへと腰を下ろしたソソギが、見つめてくる。

「お疲れ様。平気だった?」

「‥‥ああ、平気さ。あの程度の雑魚に、俺は負ける訳ないだろう」

「そうね。聞くまでもなかったわね。だけど、とてもつらい。違う?」

「‥‥そうかもな」

 ソソギも俺と同じヒトガタ。ヒトガタの呪縛から離れたとしても、生まれは捨てられない。家族の中で最もヒトガタとして自分を律し、思想を持っていたのがソソギだった。

「初めに聞いて、私は、あなたに忠告しに来たんじゃない。同胞として、ここに座っている。だから、言わせて。ヒトガタとオーダーは、相反するものではない」

「オーダーは俺達の居場所だ。仲違いを起こしたい訳じゃない。仕事を断ったの怒ってるか?」

「うんん。私だって、今回の事に思うところがある。詳しくは聞いてないけど、大方の見当は付いてる。また、オーダーはあなたを売り払おうとした」

 同じヒトガタだからこそ、受けた始末や俺の心根を推し量ってくれる。しかも、適格に、絶妙な位置を取りながら。

「あの場にいた人から聞いた。あなたが、あの二人を殴ったって」

「‥‥我慢できなかった。俺、間違ってたか?」

「あなたは間違っていない。彼らがどんな命令を受けて、あなたを売ろうとしたのか、知らないけれど、彼らはしてはいけない事をした。だけど言わせて。あなたは、ヒトガタと同時にオーダー。オーダーはひとりでは仕事を完遂できない。仲間や友人との別れはいつ起こるかわからない。そして、決定的な別れは死以外ではあってはいけないと思う」

「‥‥向こうが俺を利用して、気にもしないで、楽しんでた。あれは、冗談のつもりだったのか‥‥俺は、本気で、怖かった。また、人間に、ヒトガタとして使い潰されるのかって」

 あの二人がヒトガタの話を知っている筈がない。だけど、ヒトガタという人間の為に作り出された生物の意味を、本能で感じ取っているのなら――――――肩が震え、いつの間にか握っていた拳に、無音で立ち上がったソソギが手を被せていた。

「あなたは間違っていない。私も同じ事をしていたと思う。最初に言った、これは忠告じゃない。だから聞き流して。今後もオーダーを続けるあなたは、ひとりになってはいけない。私達ヒトガタは多くない。この世界の大半は人間」

 拳から力を抜いて、ソソギの手に預ける。小さく頷いたソソギは、頬に手を当てて顔を上に向かせてくる。そこには、月に照らされた、もう一つの月がいた。誰もが目を奪われる三日月。決して無表情などではない。誰よりも、優しくて、つらそうな顔。

「あなたには恋人達がいる。だけど、彼女達がいない時、あなたはひとりになってしまう――これで完全に人間という種を見放してはいけない。彼らと縁を切るのなら、構わない。私にとっても、彼らは許せるものではない」

「‥‥俺は、ひとりだったじゃないか。誰も助けに来なかった。知っていたあいつらなんか、何も気にしないで、遊んでただろう。なのに‥‥」

 滑らかな髪が頬をくすぐる。冷たい唇だった。柔らかいそれは、水分を含み、怒りに染まっていた意識を、正気に取り戻させてくれる。

「あなたを信頼していたからなんて、言葉は使わない。人間は、またあなたを利用して、もし失敗していたら、あなたは、今度こそ売られた。だけど、聞いて。あなたは、ひとりになってはいけない。別れは少ない方がいい」

 まばたきも許さない月眼に、血眼が押し負けている。ソソギという貴き者の血を受けた人外に、心を奪われている。

「ソソギは、別れた事があるのか?」

「—――ええ、ある。別れは、とてもつらい。親しい、信頼していた人との別れは」

「‥‥そうか」

「あなたにも、覚えがある筈。だから、言わせて、一度作った縁を、捨て去る時は、よく考えて。向けるものを、銃口にするか、手にするか。また後で」

 最後にもう一度口づけをして、皆がいるリビングに行ってしまった。ソソギの感触を思い出す為、唇を撫でながら月を見上げた。





「何も言わなくて、良かったんですか?」

 隣のネガイが、ただの疑問として聞いてきた。

「‥‥わからない」

 朝食時に、あいつらの顔を見たが、何も言えなかった。言える筈もない。あいつらの顔を見て、ようやく理解したようだった。裏切り、消える筈だった俺が生きていた。自分達がやった事は、それに類すると。

「なんて、言うべきだったと思う?」

「二度と顔を見せるな、でよかったのでは?彼らは、まだ自覚が足りないようでしたので」

「‥‥そうかもな」

「そうですよ、昨日、ソソギが言っていた事も大事ですが。彼らのやった事を許してはいけません。オーダーとして、裏切りというものが、どれだけ重い事が自覚すべきです。マトイが仕掛けた罠とは、まるで比べ物になりません。最初からあなたを囮にするという、本当に危険な状況でした」

 あいつらが、特務課という存在をどれだけ知っているかわからないが、もし俺が引き渡されていたら、二度と俺は光を感じられなかっただろう。アイツらは、法を無視した拷問を、好んで行っていた。そんな連中を俺にけしかけた。

「ネガイは、どうすべきだと思う。アイツらと今後もつるむべきか?」

「‥‥少なくとも、今は距離を離すべきでしょうね。彼らは一度、あなたを裏切った。もう一度裏切るかもしれません。そんなシナリオが、既に進んでいるかもしれません。この街にいる間は、オーダー本部とも距離を離すべきですね」

「それも、そうだな。‥‥しばらく、壁をつくるか」

 マトイの勧めで、オーダー校からの指示下からも離れるべきとの事で、早退という名のサボりを決め込み、ネガイと共に、列車である場所へと向かっていた。

「ネガイは良かったのか?イサラとか、向こうにいるのに」

「大丈夫です。しっかり、今日の夜も遊ぼうと約束しましたから。私達は身軽な身分ですが、皆は違います。皆忙しい中、邪魔をするわけにはいきません。それに、彼女とは、改めて話したいと思っていました」

 これから向かう先は、イネスのいる医療施設。ずっと病院にいたイネスの心理的な処置かつ、イネスのわがままを聞き届けたガットフックの医者が送った場所。

「それに、聞きました。彼女、イネスは病院にいながら襲われたと」

「ああ、そうらしい。まぁ、自力で撃退したらしいけど」

「‥‥やはり、只者ではありませんね―――ふふ、良い腕でしたね」

「向こうは、まだ入院患者だぞ。程々に」

「私だって、我慢できます。ちゃんと、健康な人としか手合せしていません」

 ソソギの体表が万全となった今、ネガイは前々から望んでいたソソギとの再戦を、幾度となく続けている。ソソギ自身も、なかなかに戦闘狂の部分がある為、ネガイからの申し出は望む所だった。しかも、イサラとも。

「イネスも、オーダー校に来るのでしたね」

「‥‥今の所はな」

「何か、あったんですか?」

「‥‥俺が仕事を断ったからだ。今回の仕事は、イネスとアルマの実地指導でもあったんだ。しっかりとオーダーとして活動できるかの」

 ふたりに断りのなしに、仕事を降りてしまった。実際、ふたりも今回、俺が受けた仕打ちをマトイから聞かされた所、ふたりも降りたとの事だった。

「俺が断ったから、ふたりにも降りて貰う事になった。‥‥楽しみにしてそうだったのに」

「‥‥そうですね。初仕事を、途中棄権してしまうのは、無念かもしれませんね。だけど、それとこれとは別です。後ろから身内に撃たれる事は、絶対避けるべきです。あなたの身を危険に晒してまで、受ける仕事などありません」

「オーダーの仕事に、危険は付きものでもか?」

「当然です。戦場での孤立無援ほど、絶望的で惨めな末路はありません。しかも、それが裏切りにあったから陥った現実ならば、真っ先に逃げるか避けるべき。断言できます。彼らは、しばらく信用すべきではありません」

「まだ、俺を陥れるシナリオが続いているかもしれないからか‥‥」

「はい、これは彼らの為でもあります。あなたを、これ以上傷つける訳にはいきません」

 地下から地上に顔を見せた列車の窓ガラスに、日が差してくる。見えてきたのは、山岳に面した医療施設。病院としての機能は勿論、イネスのような公に出来ない者達の心のケアの為にもある施設。

「そうだな。俺もそう思うよ。帰るまでは、全部から離れるか」

 見舞いに専念する為に、腹の前で抱えていたリュックサックを強く抱きしめる。アルマとの合流地点は、しばらく先なので腰を浮かさずに一息つく。

 ようやく納得してくれた俺を見て、ネガイも胸をなでおろしているのがわかる。同時に忘れさせる為と言った感じに質問をされる。

「それで、それはなんですか?」

「ん?これか?ソソギとカレンに渡された物だ」

 誰にも見せるな、とは言われていない上、最初に開けて見せられたので説明する事にした。中には筆や絵の具、そして参考資料となる画集。なかなかの重量だった。

「病院では娯楽が少ないからな。折角だから、楽しんでもらおうって」

「なるほど‥‥」

 頷いたネガイは、リュックサックを眺めながら「私も何か用意すべきでしたね。何か買っていきます」と自分から提案した。スマホを取り出して、何かを調べ始めたネガイを見て、つい笑ってしまう。それほど親しい訳ではないイネスの為に、お見舞いの品を調べている。

 外に出た事で、社交性とでも言うべき物を見に付けたネガイは大人に見えた。

「きっと喜んでくれるぞ」



「そうか、きっとイネスは喜んでくれる。私も付き合っていいだろうか?」

「はい、構いません。彼女の趣味趣向を、私はあまり詳しくないので」

「私だって同じさ。一緒に考えよう」

 アルマとの合流地点である駅近くの商業施設。実際、俺もここで何か買って行こうと思っていたから合流場所に指定していたが、それが正しかった。アルマと共に並んだネガイは、腰のレイピアに触れないで駆けていく。ある程度の考えがあるらしく、迷いなく雑貨店に入って行った。

「‥‥絵になる」

 片や、灰色の髪を持ち、常人では描けない、かつ神が常人よりも幾日も掛けて作り上げたような美少女。もうひとりは、誰もが想像する金髪碧眼の麗人。ヨーロッパという遠い地へと思いを馳せさせ、恋焦がせるに充分過ぎる容姿の持ち主。

 想像すらできない美と、想像こそ出来るが決して手の届かない美。棚の商品を眺める二人に向けられる視線は、憧れと同時に、諦めを混ぜた狂気に近いものだった。

「彼女は濃い茶髪でしたね」

「ああ、美しいブリュネットだった」

「ブリュネット‥‥確かに、栗色と言えますね」

 どうやら髪に使う薬用シャンプーを選んでいるらしく、体験用の香りを使い、イネスのイメージに合う物を選んでいる。ネガイも最近、多くの女生徒と出会い、身だしなみに気配りをしている上、フランスという本場の知識を持っているアルマがいるので、安心して見ていられた。

「あなたは、どんな香りが良いと思いますか?」

「そうだなぁ‥‥イネスのイメージで‥‥」

 ふたりが見ていたシャンプーは、それぞれ柑橘系や石鹸、甘い花の香りの三つがある。イネスのイメージは、どれかと問われれば、正直わからない。ただ、強いて言えば甘い花の香りに近いかもしれないが、はっきり言うと、これは俺の趣味だった。

「‥‥全部とか?」

 そう言った瞬間、溜息でもつかれると思ったが、ふたりは瞳孔を開いて、頷いた。

「確かに、どれかひとつという選択をする必要はありませんでしたね」

「ああ、そうだったか。過分に、この男の見境の無さを感じさせるが、確かにその通りだ」

「わかりますか?見境の無さ加減を」

「わかるとも」

 話しが逸れ始めたので、撤退を開始する。

「俺は‥‥果物でも見てくるよ」

「‥‥確かに、甘味は必要ですね。私達も後で花を見に行きますから、後で会いましょう」

 ここはふたりに任せて、逃げるように雑貨店から逃げる。出入口から飛び出し、下の階層へと向かうエスカレーターに乗り、一息をつく。改めて見ても、かなりの規模のショッピングモールだった。立地こそあまりいいとは言えないかもしれないが、都市部の、それこそオーダー地方本部という中心地から離した立地の甲斐あって、周りに客足を奪われないというメリットがある。どこを見ても人だかりが出来ている。一階のグランドホールには、大道芸や高級車の展示会が行われ、子供達に風船等を配っている。

「えーと、果物、ていうか食品は‥‥」

「生鮮食品をお探しですか?」

 一階の案内板を確認しながら、行き先を見定めていたら、声をかけられる。ここの受付係らしく、腕章を付けている。

「あーはい。果物を」

「でしたら、地下へお向かい下さい。食品売り場はこちらです」

 丁寧に手を使って、案内板で説明してくれる。そして、地下へと続くエレベーターもどこにあるか教えてくれる。迷わず、時間を取らせず、最低限、そして不快感を持たせない。ここの施設を知り尽くしているからこそ、出来る業だった。

 説明された通りに、指定されたエレベーターに進み、下に向かうボタンを押す。だが、混雑しているのか、なかなか到着しない。

「暇だな‥‥」

 ずっと最上階で点灯しているエレベーターは、釘でも刺されたように、一切動かない。仕方ないと思い、近くの休憩用のソファーに座る。子供連れの家族や老夫婦、そして近くの学生と思わしき若い男女がいる。そして、それらが皆一様に、俺を見てくる。正確には、腰の武具を。

「‥‥まぁ、気になるか」

 先程の案内係が俺に話しかけた理由がわかった。早く、消えて欲しかったからだ。案内板という誰もが使う場所で、拳銃を持った男がいては、営業妨害だ。

「‥‥大人しくしてると、いいように使われて、抗ったら邪魔者。結局、俺は人形扱いか‥‥。破壊される側なのは、俺の方か」

 文化女中器が冷凍催眠やタイムトラベルなどする訳がない。前提条件からして間違っていたんだ。俺は、役に立たない、失敗作と判断されたから、オーダーにいる。

「馬鹿馬鹿しい。俺は、もう人間の人形じゃない。期待されても、それに応えるかどうかは、俺の勝手だ。破壊?しに来たら、俺が破壊してやる」

 腰の杭を撫でて、眼をつぶる。向けられる視線への怒りこそ晴れないが、汚い眼球を見ないで済む。誰も彼もが、揃えるに値しない。

「‥‥お前達こそ、量産品だろうが」





「桃か‥‥スイカは、ちょっと邪魔だよなぁ」

 折角だから、いい品を用意しようと思い、値段だけで見比べていたら、スイカやメロンと言った、病院では食べられない品々ばかりが目に入ってしまった。

「イネス、桃、平気かな?でも、すっぱかったら嫌だよな。だけど、ブドウだってしぶかったらアレだし‥‥」

 何も考えずに渡せれば簡単だったが、これは謝罪の意味も込めてのお見舞いだった。今の所、アルマは何も言わないが、彼女にも直接謝罪が必要だった。

「‥‥これこそ、全部でいいか。どっちも買おう」

 俺でも知っている産地の果物をカゴに入れて、レジへと向かう。腰の武器を見て、誰もが後ろに並ばない上、前の客が急かすようにレジの店員と俺を交互に見る。ようやくレジが回ってきた時、カードを作るか?等の誘い文句も使われずに果物専用の籠に放り込み、早々に品を渡される。ぶっきらぼうとは言わないが、客の扱いは均等にして欲しい。

「まぁ、どうでもいいか」

 花屋には思い当たる節があった。一階のグランドホールの案内板近く。

 そこに花屋があった記憶がある。

「せっかく買ったんだし、早く行くか」

 リュックサックに入れていたのは、イネスへの品だけでなかった。元々ここに来る為、冷凍保存用のバックも準備しておいたが正解だった。エレベーター前にて、リュックサックと肩から下げている冷凍バックという重武装な状態で待ち続けているとスマホが鳴る。

「どうした?」

 画面の相手に前口上など不要だった。開口一番で現状を聞く。

「私達の買い物は済みました。そちらは?」

「果物は終わったぞ。これから花屋に向かう」

「わかりました。先に行ってます」

 数語の会話だけで通話を断ち、到着したエレベーターへと乗り込む。一息吐くまでもなく連続してスマホが鳴るが、今度の相手には出るかどうか躊躇ってしまった。

「アイツらか‥‥今更なんだよ」

 ミヤトの番号だった。逡巡こそしたが、やはり無視する事にした。

「何も言わなかっただろう。ここではヒントでも寄越す気か?」

 しばし無視を続けると、呼び出しは消えたが、チャットが届く。

「直接話したい、か。どうせ既読は付いてるんだ。ここで話せよ」

 たった一行の文面から感じ取れる内容に、視線を尖らせる。謝罪など今更求めている訳ではない。だが、敢えて触れていない所かむしろ当然と言わんばかりの命令に牙が覗く。

 そして此方も敢えて、命令して返してみた所、たったの瞬時で返事が届く。

「証拠が残る。話して、伝えたい――仕事の事だよ、わかるでしょう?何も反省してないのか。もう俺は降りたんだ。自分達でどうにかしろよ」

 言葉を選ぶのも疲れた。最後に打ち込んだ言葉を最後に画面を切る。その後も何度かチャットが届くが、自分に出来る事は無視し続けるだけだった。

「お前達がした事だろう。今更、巻き込むなよ」

 数分のエレベーター内での出来事に殺気、とまではいかないが身構えてしまった。開かれる扉へと突き進み広いフロアへと躍り出る。こんな人通りが多い場所で襲撃されるなど、あり得ないのに。だが、特務課を顎で使えるの情報を握っている以上、油断はできない。

「あ、いました」

 多くの人々の間から灰色の女神を駆け寄ってくる。誰もが振り返る容貌に、誰もが声を漏らしているが当の本人にとっては至極当然の光景であり、気に求めずに紙袋を握り締めて朗らかに目の前に踏み込んでくれる。だけど、纏っている雰囲気に勘づかれてしまった。

「どうしましたか?」

「ちょっとな」

 スマホを渡して、届いていたメッセージを見せる。

「‥‥そうですか。どうしますか?」

「どうもしない」

 アルマが待っている花屋の店先へと向かう。ウィンドウショッピングを楽しんでいるアルマは、映画のポスターのような、非現実的な美しさを誇っている。

「ネガイ達に言われたからじゃない。俺だって、どうすればいいか、わかってる。一度裏切られた以上、また裏切る可能性がある。俺の信頼を取り戻すのは、アイツらの側だ。許しを請われる謂れはあっても、無責任だと言ってくるアイツらに、返事をする必要はない」

 突き放す冷酷な文言を告げながらスマホを受け取り、腰に戻す。

「‥‥間違ってるかな?」

「いいえ。ようやく、人に厳しくなれたのだと、嬉しくなりました。あなたは、そもそも優し過ぎます。アルマも、そう思いませんか?」

「会って、まだ間もない私が言える事ではないが、君は確かに優し過ぎる。最初から敵であった私にも君は慈悲深かった。それが悪い事とは言わないが、誰が敵かどうかは見定めるべきだ」

「‥‥そうだな。花、見るんだろう?どんなのがあるんだ?」

 ネガイとアルマを率いて、花屋に入店する。足を踏み入れた瞬間に、方々からそれぞれ違う花の香りが鼻に届く。決して強すぎない爽やかな香りは、なかなかに居心地が良かった。

「結構、種類があるんだな」 

 店内に視線を逸らしながら出迎えてくれた店員に、お見舞いをすると伝えたところ、一番のお勧めはガーベラだと勧めて、説明まで加えてくれる。

「ガーベラは、色によってそれぞれ意味があるんです。だけど白や青、そして鉢植えはお勧めしません」

 との事だった。そして、こういう客は多いのか、赤や黄色、オレンジやピンクと言った代表的な色々の言葉を壁に貼り付けてある。

「‥‥そうか」

 なんとなく気になったのが、オレンジだった。オレンジの意味は、冒険心。本来、好奇心旺盛らしいイネスに、相応しい門出の花だと思った。

「ふたりは、どう思う?」

「そうですね。私は、黄色です。親しみの意味を持つとの事なので、私と彼女の関係には正しいかと」

「私は、桃色、感謝かと。彼女のお陰で、多くの体験を出来ている。オーダーに所属しようと、決心出来たのも、彼女のお蔭だ」

 それぞれ買うべき色が決まったので、まとめて花束にして貰い会計を済ませる。買うべき物を終えて、花屋を出た時、気付くと既に昼に差し掛かっていた。

「少しゆっくりし過ぎましたね」

「いいや、丁度いい頃さ。イネスからは、昼頃に来てくれと言われていたのだから。私の要件は済んだが、君達は?」

「私も彼も充分です。タクシーを呼びましょう」





「結構山奥でしたね」

「ああ。だけど良い空気だ」

 タクシーから降りて、病院に到着する。特別治療棟を銘打たれたここに、イネスがいるらしい。そして、ここに入るには、特別な権限が必要との事だった。

「法務科として、見舞いに来ました」

 中に入る前に警備員に、所属を明かす。既にイミナ部長の名で、話が通っていたようで、ふたつ返事で中へ足を入れる事を許された。そして、そこには制服姿のイネスが待っていた。

「お暑い中、ご足労頂き」

「そんなに丁寧じゃなくていいだろう。待っててくれたのか?」

「はい。こうやって、人を持つのって、憧れだったんです」

 心底、嬉しそうにイネスは微笑んでくれる。その顔から、一切の邪気を感じない。ただただ、友人が来るのを、待っていたようだった。

「少し話があります。部屋まで、案内してくれませんか?」

「勿論です!案内させて頂きますね!!」

 ネガイの手を引いて、イネスは意気揚々と連れて行ってくれる。アルマと共に、その後ろについて、病院とは思えない廊下を歩く。出歩いている患者の顔を見てわかった。皆一様に、只者じゃない。

「‥‥こんな中をイネスはあんなに元気そうに歩けているのか。改めて彼女の実力を推し測った気分だよ‥‥」

 アルマの言葉に自分も頷いてしまう。親しみを持たせる為らしい木製の建物の受付。そこは休憩場所でもあるらしく、多くの人の憩いの場であった。一目でわかった。ここは、英雄や勇者、そして、プロと呼ばれる人の極致を極めたような人物達の巣窟だった。目つきが違う。一体、どれほどの修羅場を潜れば、あれだけの雰囲気を纏う事が出来るのか。

 そして、それは大人ばかりではなかった。

「‥‥私達とそれほど変わらないようだ」

 イネスに連れられて歩いている木の廊下、そこの壁に設置された簡素なベンチに座っている少年。アルマの言う通り、俺と変わらない年齢だとわかった。

「‥‥何者だ?」

「気にしても仕方ない。だけど、ここは安全そうだな」

 スマホをいじっている少年は、閉められた扉の許可が出るまで、待っているようだった。また、気になる事があった。傍らにある杖のような物。長さから言って、1mと30cm程、一瞬、ほんの一瞬、眼を使って、見てわかった。仕込みだと。それを眺めながら、通り過ぎる。一度も目が合わなかった。

「あんな強者がいるのか、オーダーかどうか知らないけど、ここを襲う奴はいないだろうな」

「‥‥君が言うか?言っておくが、彼の雰囲気も人外じみているが、君もここに入院していても、不思議じゃないくらいの雰囲気だぞ。自覚がないのか?」

「—―そうか。アルマ、本当は俺の事、どこまで知ってる?」

「詳しくは聞いていない。直接、君から言うまで、聞かない気だ」

「‥‥ありがと」

 イネスに連れられて、入った病室は、病室らしからぬ見た目だった。広い一人部屋で、大きなベランダ。病室にはテレビや机、壁にはイネスが描いたと思わしき絵画が飾られ、私室と化していた。また、ベランダには描きかけの絵とキャンバスが置かれてある。別荘、そんな名が頭をよぎった。

「良い部屋だな」

「はい、わがままを言った甲斐がありました。ここは良いですね、緑が多くて」

 気に入っているらしいベランダに飛び出て、見える山岳を指差す。イネスの差す方向には、青々とした緑の中に、滝があった。自然の中にある瀑布は、その在り方を強調こそしているが、自然の中という風景を崩さず、山の一部に徹している。

「どのくらいいる予定なんだ?」

「少なくとも、一週間程は。気に入りましたが、あまりいてはいけないとわかっていますから。それに、ここは短い時間しかいられないので」

「なら、ゆっくりしないと」

「はい!!」

 ベランダに差す光も、木製の日よけと山の風のお蔭でだいぶ和らいでいる。

「色々持ってきたぞ。中に入ろう」

 イネスと共に部屋に戻り、皆で選んだ花束をネガイが代表して渡す。

「体調はいかがですか?」

「もう万全、って言いたいですが、少しだけ疲れてしまったようで」

「無理‥‥させたか?」

「あ、いえいえ!!そうじゃないんです!!ちょっとだけ頑張り過ぎてしまって。昨日長く眠り過ぎてしまい。ふふ。ここの看護師さん達に怒られてしまいました」

 ベットに腰掛けて、枕を抱きしめる。そんな無自覚な仕草に、心が揺れるのがわかる。イネスは、ただただ自然だった。何も裏表がない、無邪気で優し気な雰囲気が、イネスというヒトガタを、作り出している。

「よく眠れているなら、何よりさ。私とネガイさんが選んだ品があるんだ、受け取ってくれ」

 ふたりが選んだ紙袋をイネスが渡し、中を見せる。俺にはあまりピンと来ない品々だったが、それを見た瞬間、イネスが驚いた顔と同時に、嬉しそうに両手で受け取ってくれる。

「ありがとうございます!!ここでは、こういった品が少ないと、思っていたんです」

「喜んでくれて、良かったよ。私も、選んだ甲斐がある。ここでの生活はどうだ?」

「とてもいいですよ。皆さん、良くしてくれますし。それに、沢山描く物があって、気にっています」

 昨日の夜の元気さはここで養ったのだとわかった。また、イネスにソソギとカレンからの贈り物として、資料本や絵の具類を渡すと、抱きしめて喜んでくれた。

「ありがとうございます!!ここでは、なかなか手に出来ない色があって、困っていたんです」

 イネスは緑系のチューブと作業机の上にあったパレットをひとつ手に取って、ベランダに駆けて行ってしまう。止めようにも、そんな気にならないぐらい、年相応よりも幼い笑顔だった。

「‥‥いい環境のようだな。良かった、思い詰めていたら、どうするべきかと」

「アルマ、あのな」

「大丈夫。話は法務科のマトイさんから聞いた。少なくとも、これで私が君に失望する事などない。身内からの裏切りや謀反ほど、恐ろしいものはない」

「‥‥体験した事、あるのか?」

「‥‥そうかもしれない」

 イネスのいるベランダから吹き抜ける風が、アルマの長い髪を流している。これは先ほどの映画のポスターとは違う。モネの夏のようだった。

「改めて言わせてくれ。私は、流星の使徒から離れる事となった。だが、袂を分かつつもりはない。これは、私の信念。私の世界なんだ―――許せないだろうか」

「‥‥いいや。そんな事ない。誰だって、大切なもの、捨てる事の出来ないものがある。アルマにとって、それが流星の使徒なんだ。なら、それでいいんだ」

「‥‥やはり、君は慈悲深いな。彼は、昔から?」

「はい、昔から、会った時から、ずっと」

 アルマにとっての生は、大半が流星の使徒としての生なのだと、わかっている。今更、それを捨て去るなど、出来ないし、強要など出来ない。ここにいるアルマという人間は、流星の使徒にいたから成り立っている。ならば、それでいい。

「どうだ。オーダーは、やっていけそうか?」

「‥‥まだわからないさ」

「そうか‥‥」

「‥‥ただ、常に悪い所ではなさそうだ。君こそ、どうなんだ?」

 アルマは、真っ直ぐに青の瞳を使って、見つめてくる。風になびかせる黄金の髪が首元に巻き付き、女神の如き神秘さを放っている。

「我ら流星の使徒は、例え裏切られた、売られたとしも抜け出せない、捨てられない家族だった。君にとって、オーダーとは――裏切らても、続けないといけないものなのか?」

 つい、目をつぶってしまう。木製の椅子に身体を預け、風が頬を撫でさせる。木と緑、そして鳥のさえずりに五感を任せる。アルマの問いは正しかった。俺は、危険だと承知している人間に、背中を預け、いつ撃たれるやもわからない状況でオーダーを続けている。これは、自殺行為とそう変わらないのかもしれない。

「‥‥俺だって、わからない」

「すまない。出過ぎた事を聞いた‥‥」

「違うんだ」

 席を立とうとするアルマの手を引いて、椅子の戻す。

「イネスの事は聞いてるか?」

「‥‥ああ、少しだけだが」

「言っておく。俺はイネスと同じヒトガタ。人間じゃない」

 端的な言葉だった。だが、この短い言葉だけで、アルマは理解してくれた。

「ヒトガタ‥‥知っている。それは、貴き者の血を受けた器だ」

「私はイネスの元に」

 ネガイが、イネスのいるベランダへと去っていく。

「俺は、ヒトガタ。人間じゃない。人間じゃない以上、人間みたいに自由には生きていけない。どこかに、それこそオーダーっていう組織に取り込まれないと、生きていけない。話しとく、ヒトガタの中でも、俺はイネスと同じか、それ以上に特異な個体だ」

「いつ狙わるかわからないのか」

「‥‥そう言えるかもしれない。だけど、それだけじゃない。人間にとって、俺はただの獲物、餌なんだ。‥‥前も同じように利用された――人間は、総じて俺の敵だ」

 ただ人間が嫌いだ。そう言えてしまえば、楽だったが、それだけじゃない。人間は、俺にとって実害がある。売る、捨てる、利用する。そして、裏切る。

「どこに行っても、人間は敵として君臨している。なら、俺はまだ信じられる、実力で認められるオーダーにいるしかない。そうしないと、生きていけない。ごめんな。俺、弱いんだ」

「‥‥君が弱いのなら、この世の人間は総じて弱い。だけど、わかった。君は、一個の生命でしかないのか。勘違いしていたよ、私は、君がオーダーの次期中心地になるのだと思っていた。だが、違ったのだな。君は、オーダーに脅かされていたのか」

「‥‥失望したか?」

「‥‥失望などしない。だが、人間という種族の恐ろしさ、改めてわかった気分だ。人間は、それ以外の種族にとって、ただただ脅威でしかないんだね。私も、怖いよ」

 目を開けて見る。想像通りだった、また、見えなくなっている。

「悪い、ネガイを呼んでくれ」

「どうした?」

「‥‥頼む」

「—――っ。目が。そうか‥‥君は、やはり人間とは相容れないのだな」

 焦点の合わない瞳を覗いたのだろう。一瞬、日光が遮られ、ひと一人分の足音がベランダ側へと去っていく。

「‥‥ああ、眠い」



「疲れましたか?」

 ベットの上で、仮面の方の足に頬をつける。

「少しだけ」

「少しだけではなさそうですよ。今日はゆっくりしましょうね」

「‥‥はい」

 冷たい足だった。だが、いつまでも頭を預けていられる滑らかさだった。細い白い足は、優しく頭を受け止めてくれる。そして、仮面の方の呼吸に合わせて、上下に揺れているのがわかる。また、吹きかけられる呼吸も、心地よかった。

「怒りましたか?」

「いいえ。怒れる程、俺は何でも知っている訳じゃありません。あいつら、人間の思惑がわかりません――まだ、捨て去る選択が取れそうにありません」

「ふふ、期待などしていないのに、ですか?」

「はい。期待なんてしていません。だけど、アイツらとつるむ日常は、悪くなかった」

「‥‥あなたは、優しくて残酷ですね。期待などしていない。望むべくは、変わらない日常だけ。それは期待や信頼などではありません。諦めです。ふふ‥‥」

 黒いドレスをまとった仮面の方は、楽し気に耳を触ってくる。身構えていたとはいえ、身体の内部、敏感な耳の穴に冷たい指を入れられて、声が我慢できなかった。

「‥‥気持ちいい‥‥」

「良かった‥‥続けますね」

 耳の中を擦られ、息を吹き入れられる。脳を揺らす程の刺激が、最初こそ痛みを伴っていたが、今はただただ快楽として、神経を麻痺させてくる。

「俺は‥‥あなたは、どうすべきだと思いますか?」

「私ですか?」

「もし、あなたが裏切られたら、どうしますか?」

「‥‥なかなか興味深い質問ですね。そうですね、私だったら」

 耳を弄る指を止めずに、むしろよく思案する為、触り続けてくる。

「私だったなら、放置します」

「‥‥なぜ、ですか?」

「興味がないからです。私にとって、裏切られるとは、私の期待に応えない、つまらないという判断を下した時です。そんな有象無象に、時間を使って差し上げる暇はありません。そうそうに見限って、新たな興味に移ります。今はあなた一筋ですけどね」

 耳に熱が篭ってくる。冷たい指だというのに、舌で舐められている気さえしてくる。

「あなたは常に私の期待に応えてくれる。しかも、私に贈り物まで。今、いえ今後永遠にあなた以上に興味深い存在は生まれません。もう既に見渡しました」

 きっと、それが正解。正しい判断。早々に見限って、別の誰かつるむのが正しい。だけど、ソソギの言っていた事も、正しいと理解してしまっている。だって、別れるのは簡単だが、また新たな関係を作り出すのは、時間がかかる。裏切られない、信頼し合える関係を作るには。

「‥‥それが、あなたの宝石であったなら」

「で、あればひとまず手元に置いておきます。どれだけ期待外れの輝きであろうと、捨てる理由にはなりません。苦労して手にしたのですから。あなたは?」

「—――捨てたくない」

「なぜですか?」

「‥‥わかりません」

 微かに笑われた。頭の上から降ってくる笑い声が、擦られる耳の穴を反射して、幾重にも折り重なって聞こえてくる。優柔不断な俺を断罪する事なく、寧ろ察していたように、

「では、そうして下さい。無理に答えなど、出すべきではありません。私だって、なんとなく捨てられない宝石や関係があります」

 と、何もかもが手のひらの上だったようだ。しかも、俺が、致命的な別れを選ぼうと、それはそれで肯定してくれただろう。本当に、ただただ自身が楽しいだけ。

「だけど、私からも、彼らとはしばらく距離を離すべきかと。いくらあなたの実力を買っていたからと言って、全てをあなたひとりに押し付けるなんて、私も予想外でした。そもそも人間世界の不都合は、人間の手によって解決すべきです。今までが、異常だったのですよ」

「‥‥俺がいなくても、解決していましたか?」

「さぁ?私にとっては、被害を出さずに成功しようが、取り返しのつかない完全な失敗を起こそうが、それはそれで楽しいので。あなたやあなたの恋人達にさえ、手が伸びなければ、ただの娯楽ですね」

「あなたも、残酷です‥‥。そうですね、少しぐらい苦しんでもらいますか」

 仮面の方の膝の上から起き上がって、肩に手を付けて押し倒す。楽しそうに微笑んでいる仮面の方の、仮面を取り上げて深紅の瞳を確認する。既に、その気になっているのか、呼吸で胸元が膨らみきっている。

「今日はどうしますか?」

「‥‥今日は、俺の番です」

 次の言葉を紡がれる前に、口の中に潜り込む。熱せられた口に、同じくらい熱した舌を突き入れて、その奥にある更に真っ赤に腫れあがった舌と絡ませる。あふれ出る唾液と、止まらない唾液を混ぜ合わせて、水分を補給し続ける。

「まぁ、怖い。私を食べる気ですか?」

「いいんですか?」

「ふふ、ダメです。食べるのは、私です♪」

 口を開けて、歯をむき出しにした瞬間を狙い、口を付ける。迫りくる歯を歯で迎撃して、もう一度舌を絡ませる。口を付けたままむくれる仮面の方は、仇を取るように、全力で舌を奪ってくる。仮面の方の猛攻は想像以上だった。

「ふふふふ‥‥あははははは!?私に抗うのなら、もう少し経験を積んで下さいね」

 舌を絡ませるだけで受ける快楽ではなかった。舌から脳へと快感が届いた瞬間、完全に脳がしびれてしまった。腰が抜けるなんてレベルではない。快楽を受け取る為の身体の準備が完了する前に、絶頂に類する熱を受けてしまい、意識が一瞬飛んだ。

「良い顔‥‥ますます美味しそう」

 動かない身体を返されて、前のボタンをゆっくりと開けてくる。あまりにもゆっくりと、ひとつひとつ楽しんでいる所為で、身体の準備が整ってしまう。

「真っ赤ですね。ちょっとだけ、引っ掻いてみますね」

 宇宙に見立てた天井から降ってきた宝石を使い、胸の間を突いてくる。それだけで、微かに血が流れる。

「美味しそう‥‥」

 言い切る前に、仮面の方は血に吸い付き、卑猥な音を立ってて吸い尽くす。

「美味しい‥‥次はどうしますか?」

「‥‥口惜しいです」

「‥‥ふふ、困りました。今日は口の気分ですか?可愛い可愛い私のヒジリ。そんなに私の口が欲しいですか?」

「‥‥欲しい、口だけじゃない。あなたが、欲しいんです」

「ふふ‥‥よく言えました。では、今日は殺さずに」

 天井に宝石を戻し、切り裂かれた胸をひと撫でする。それだけで傷が消える。

「さぁ、続けましょう、ああ、だけれど、もし口で死ねたら、本望ですね」

 最初こそ優しい俺の仮面の方だった。だが、舌が疲れ切り、絡ませる事が出来なくなった瞬間、仮面の方は胸の上に登り、逃がさないように頭を首を抱きしめてくる。歯と歯が当たる。決して折れない程度に擦り合わせて、頬の内側や喉奥を突いてくる。

「溶けちゃいました。だけど、私はまだまだ足りません。あなたの全て、今日は口からいただきますね」

 最後に舌を噛み切られる。切られた舌とあふれ出る血で喉がつまらないように、呼吸ひとつしなで飲み続ける。快楽で麻痺していた脳が、血を失った事でも擦り切れてくる。

「私の勝ち。じゃあ、この身体。頂きますね」





「まだ眠っているのか?」

 ドアを閉めて、誰かが入ってくる音がする。

「はい、この人は一度寝たら長いので。すみません、お見舞いに来た本人が真っ先に眠ってしまって」

「いいえ、大丈夫ですよ。それに眠っている姿を見たのは、これで二回目なので」

「‥‥ソソギ達と一緒に、オーダー街の病院に行った時ですね?」

「あ、その‥‥はい」

「‥‥ふふ‥‥お仕置きですね」

「そ、その!!あれは私達が無理やり眠らせただけで」

「大丈夫です。この人は、いじめられてたり、お仕置きされるのが大好きなので」

 まだ声を出せる程、頭が覚醒していないが、ネガイの言っている事がわかる。

「い、いじめられるのが、好きなんですか‥‥?やっぱり‥‥」

「やはり!?どうしてだ!?彼は、強い、剛毅な」

「強くて情けなくて、剛毅でひ弱な化け物ですよ。イネスもアルマも、この人がわがままを言ったり、わがままを言いたくなったら、いじめてあげて下さい。喜んで受け入れてくれますよ」

「—――覚えておこう。そうか‥‥踏みつけられるのが、好きなのか」

「なんの話だ‥‥」

 いい加減、危険な色香を持ち初めて二人に話しかける。

「起きましたか?」

「起きたけど、あんまりいい目覚めじゃない。言っておくが、俺は別にそういうのが好きな訳じゃない。ただただ、ネガイ達がたまにそういう事を言って、やってくるだけで」

「でも‥‥カレンさんが言ってました。ソソギさんと一緒にいじめると、大人しくなって」

「それこそ何の話だ‥‥カレンが言ったのか?ちょっと、風に当たってくる」

 眠気覚ましに、ベランダに出て手すりを握って寄り掛かる。

「カレンか?イネスに、何言ったんだ?」

「私は事実しか述べてないのだけど?」

「イネスが、何か勘違いしてる。入院患者を惑わせるような事を言うなよ。それに、イネスはまだまだ世の中を知らない。混乱させるような事を教えるなよ」

「‥‥わかりました。ちょっとだけ反省するけど、でも、事実でしょう?私達、ふたりであなたを宥めたのだから。それとも、私達との体験—―無かった事にする気なの?ふふ‥‥」

 大人びたカレンが、年下をからかうように呟いてくる。どうにも、普段のカレンとは違う気がしてならない。実際、声も良く響く低めの声だった。

「‥‥カレン、今講義でも受けてるのか?」

「今は休憩中。だけど、わかった?私達の世界で、有名な先生に直接教えて貰ったの。どう?大人っぽかった?マトイさんみたい?」

「‥‥ああ、マトイみたいだった。だけど、声が幼い」

「これでも頑張ってるんです!!言っておくけど!!先生に変声で褒められたんだからね!?いい!?必ずあなたを騙せるぐらいになるんだから!!」

 普段のカレンに戻ってくれた。妖艶で、吸い込まれそうになる特別捜査学科のカレンも好きだが、親しい人の前でのみ見せる、普段のカレンもまた好みだった。

「イネスはどう?私、結局一度も会ってないんだけど。元気?」

「ああ、元気そうだ。見舞いの品も気にってくれたみたいだし、明日にでも、尋ねたらどうだ?俺が話を通しておくけど」

「ほんとっ!?お願いして!!私もソソギも会いたいから!!」

 先ほどの大人びたカレンはどこへやら、スマホ越しにいるのは親しい友人、家族との再会を待ち望んでいるひとりの少女だった。

「わかった。じゃあ、俺の上司に頼んでおくから。それと、あの医者にも」

「‥‥いいの?あんまり仲が良い訳じゃないんじゃ」

「昨日頼ったら、元患者のその後にも関われるなら本望だって言われたよ。いいようにコキ使ってやればいい。カレンも、都合のいい時にでも使ってやれ」

「‥‥ふふふ‥‥わかった。私もそうしようかな?」

「カレンさんですか?」

 やはりイネスは実力者だった。音も無く、真横の手すりを掴んでいた。完全に油断していたが、そんな事にイネスは気付いていなかった。

「あ、ああ‥‥カレン、イネスだ。代わるぞ」

 イネスにスマホを渡して、カレンと代わる。代わった瞬間、イネスは矢継ぎ早にカレンと会話を続ける。向こうのカレンも話したい事が多くあったらしく、イネスも楽し気に聞いている。

「何、話してたんだ?」

「オーダー校に行った時の学科をどうするかと」

 部屋の中に戻った時、既に買ってきた果物は切り分けられていた。桃は傍らの果物ナイフで、蒲萄はひと房の半分程が無くなっていた。椅子に座りながら、ブドウをひとつ摘まむ。

「どうだって?」

「正直、まだまだ決めかねているそうです。恒例通り、しばらくは、教養学科に所属すると」

「そうか‥‥」

 なかなか甘いブドウだ。渋みや酸味をわずかに感じるが、それもブドウらしさを強調する程度。いい買い物をした。

「すまないが、私にも教えてくれ。教養学科とは、具体的に何をするんだ?」

「そうか、アルマも所属するんだもんな。えっと、教養学科っていうのは、そもそも中等部の学科だ。別に中等部に混じるって訳じゃない。転校とか転入とかで、オーダーに来てばっかりの生徒が総じて所属するのが教養学科。具体的にやる事は、単純に自分の専科を見極める事。それと、オーダーをやっていく上で最低限の知識を学ぶ」

「そういう事か‥‥そこは厳しいのか?」

「まさか‥‥あの馬鹿どもがみんな進級出来たんだ。ほら、昨日会った―――」

 自分の意思に反して口が止まってしまった。いや、むしろ自分の意思通りだったのかもしれない。半呼吸の間もなく噛み潰し、続けて言葉を放つ。

「—――まぁ、誰でも合格できるよ。少なくともアルマとイネスなら、余裕だ」

 切り分けられている桃を近くのフォークで突き刺して頬張る。甘い果糖が心地良かった。

「だけど、ずっと所属できる訳じゃない。ある程度の検討は付けておいた方がいい。なんとなくでいい、アルマはどうしたい?」

「‥‥そうだな。私は捜査科かもな。マトイさんの話を聞いて、興味を持った」

「捜査科ですか、結構厳しいですよ」

「望む所さ。私という、オーダーであって、オーダーとも言い切れない者にとっては、オーダーの内部構造を知る上で、一番相応しい」

 真面目なアルマは、厳しいという事を、それなりの見返りがあるとわかって望んでいる。確かにマトイを見ればわかる。マトイは、誰よりもオーダーに詳しく、誰よりもオーダーに懐疑的だった。オーダーでありながらも、実態は影と闇の住人そのものである流星の使徒の目は正しかった。だから、自分も呼応する。

「マトイに頼ってみたらいい。隠してるけど面倒見がいいから」

「あれで隠している気だったのか?彼女には、よく世話になっている。頼りになる人だ」

「ふふ‥‥そうですね。マトイは、頼りになります。いつもお世話になってます」

「なんのお話ですか?」

 カレンとの会話を終えたらしいイネスが、会話に入ってくる。だが、それとほぼ同時に扉が叩かれる。

「あれ?もうお昼も済んでいるのに」

 首を捻りながら一歩踏み出したイネスの肩に手を置いて、位置を交代する。

「俺が出る」

 言葉の意味を瞬時に理解した二人は無言で応えてくれた。強者の余裕というより、外での生活に緊張感が薄れたイネスを守る為、ネガイとアルマの双璧がイネスを囲んでくれる。

「どちら様ですか?」

「あなたに用がある」

 初めて聞く声の筈だった。なのに耳馴染みがあった。

 視線を向けずに頷いて、ふたりに武器を手に沿わせる。腰のP&Mを撫でながら扉を開けると、そこには制服を着た女性が立っていた。

 一瞬、気を抜きそうになったのも束の間、気が付いた。その制服、スカートは、俺とアルマ、イネスの三人で損傷を付けた筈の人形が身に着けているものと同じだった。

「下がれ!!!」

「落ち着いて」

 女性が両手を上げる。違和感を持った。撫でていた銃を引き出せない事に。

 銃口を向けられない。向けてはいけないと身体が脳よりも速く強固に命令してきた。

 両手を上げた女性は、動けない俺に顔をよく見せる為、上げていた手で髪をかき上げた。見えた顔は、頭の片隅で知っているような気がした。

「私はオーダー」

「信じると思うか?」

「信じてもらう。私は外部監査科」

「外部監査科‥‥冗談にしても、もっとらしい身分があるんじゃないか?」

「らしいって?」

「—――外部監査科は、身分を明かさない。それに、あなたは‥‥あなた?」

「そう‥‥あなたもあなたと言ってしまう。話し通り、あなたもヒトガタなのね」

 それを聞いた瞬間、撫でていた銃を離してしまう。イネスも声を上げてた―――あり得ない訳ではない。オーダーは、そもそもヒトガタを肯定していたのだから。

「私の誕生種は、究極の門。聞き覚えがあるのではない?」

「‥‥外で話したい」

「いいえ、彼女、イネスにも聞いて貰う。強引に来た事、謝らせてもらいたいけど、時間がない。中に入れてくれない?」

 片目だけ振り返ってイネスに確認を取る。

「‥‥構いません。訪ねてきた同胞を、無碍にはしません」

「‥‥わかった」

 イネスの言葉に従い、制服を着た外部監査科と名乗った女性を入れる。

「ありがとう。どうか私を信じて」

 背中を見せてくる女性を椅子へと導き、扉に背を付ける。ここまで危険な体制を取っているというのに、全く女性は構えを取ってこない。変わらず俺自身も銃を握れない。

「私は彼女、イネスと同じように名前を付けられていた」

「そう‥‥あなたも。落ち着いて下さい。彼女に銃を向けられないのは、あなたのヒトガタとしての本能。この方は、アルファよりも上。ヒトガタの最上位です」

「‥‥俺は下位って事か」

 詳しい事情をネガイもアルマも聞かないが、それを聞いただけでわかったようだ。椅子に座ったままのイネスと同等か、もしくはそれさえ超える力の持ち主。

 確実に、俺よりも格上だった。

「あなたもこちらに来てくれない?」

「‥‥すみません。俺は、まだ信じる訳にはいかない。あなたもオーダーなら、尚更」

「‥‥そう。それでいい」

 長い黒髪を揺らすヒトガタ。俺よりも格上のそのヒトに、敵対行動を取れないでいる。これは、初めて会った時、まだ純血だった時のイネスに取ってしまった態度と同じ。位が上のヒトガタへの接し方だった。

「あなたもヒトガタなのですね。すみませんが、私達も一緒で構いませんね?」

「ええ、構わない。処刑人と流星の使徒である、あなた達の意見も聞きたい」

「‥‥どうやら、外部監査科という話、全くの嘘という訳ではなさそうですね」

 ネガイとアルマの正体を知っている。それだけでただ者ではない。しかも、イネスと同列の位であるヒトガタ。外部監査科という根も葉もない自己紹介を信じるに値する材料は、揃ってしまった。

「聞いて欲しい事があるの、まずは」

「ひとまず果物をどうぞ。私、あなたとお会い出来て、とても嬉しいですっ!!」

 先ほどからあった緊張感を、イネスはひと発言で壊してしまった。これも作戦。俺達が言うのならまだしも、当のイネスは、全くそんな素振りを見せていなかった。

「え、ええ。私もとても嬉しい。頂きます」

 年としては、俺達よりも上である最上位かと思われるヒトガタは、イネスに言われるがままブドウに手を伸ばす。しなやかな腕だ。昨夜の白い人形のような腕とは完全なる別物。

「お聞きしてもいいですか?あなたは、魔に連なる者?」

「‥‥ええ、わかるのね」

「はい、あなたがそういったテーマの元、生まれたヒトガタであるのなら、その雰囲気、納得できます。私達三人を目に前にしても気圧されない。究極の門という誕生種、もしやあなたはAプラン?」

 そう問われたヒトガタは、ブドウをひとつ口に含んで頷いた。であるならば、イネスの言う通り、敬語を使ってしまう現象も納得出来た。ソソギ以上に究極の門という誕生種に相応しいと選ばれたヒトガタ。ヒトガタとしての生き方を続けられなかった俺が気圧されて、当然なのかもしれない。

「‥‥私ばかり、あなた達の事を知っているのは、不平等、けれど私には言えない事がある。どうか外部監査科の所属という理由で納得して」

 目の前の三人、そして後ろの俺に振り返りながら、言ってくる。

「—――敵ではない。とは、言わないのか?」

「言えない」

「‥‥外部監査科‥‥オーダーらしい。自分以外は皆、敵ですか」

「そう言えるかもしれない」

 否定も肯定もしない。外部監査科とは、オーダーの身分を持つ者が外道に落ちた時に現れる科。同時に、都市伝説と言われる存在でもあった。

「‥‥話があるって言いましたね。その前に聞きたい。ここに来た理由は、外部監査科としてですか?」

「‥‥言えない」

「外部監査科としての仕事って事ですね。オーダー法務科である俺に言えないのなら、同じ立場かそれ以外の組織、それこそ外部監査科としての立場であるからだ」

 言葉を呑み込むように、次の蒲萄へと手を伸ばし、飲み込む。

「私からの話は、あなた達に聞きたい事がある。彼女は、鎌鼬ではないのか」

「私ですか?いいえ、違います」

「そう、ならいい」

 あっけなく会話が切れてしまった。

「えっと、それだけですか?」

「そう。これだけ。あなたの事を見てわかった。嘘はつかない」

「はい、嘘をついた事などありません」

「これからも、そうあって。あともうひとつある。桃、貰える?」

 何故だろうか。どこか、ソソギの言葉足らずな所と、カレンのたまに出す幼い所を合わせたようなヒトガタだった。正直言って、狙いがわからない。イネスもイネスで、笑顔で桃を差し出す。

「もうひとつは、あなた達とオーダー本部との関係。あなた達はオーダー本部に言われて、鎌鼬を捜査しているの?」

「‥‥最初こそ、そのつもりだったけど、上からの命令でオーダー法務科として参加していた。だけど、もう俺はこの件に関わらない事にした」

「それは、何故?言える範囲でいい」

「‥‥言えない。詳しくは、法務科の異端捜査部に聞いて下さい‥‥」

 視線を外して、そう伝える。俺の個人的な理由で辞めたなど、外部監査科に言える筈がない。外部監査科の思惑がまるでわからない。なぜイネスに鎌鼬ではないかと、聞いたのか。

 なぜ外部監査科が、鎌鼬に関わっているのか。

「あなたの事は調べさせて貰った。今回の事件で、最も相応しい捜査官はあなただと、オーダー本部も法務科も推奨していた。なのに何故?」

「‥‥外部監査科のあなたが知らないのか、所詮、あなたもオーダーですね」

「‥‥そう、なら聞かない。だけど」

 受け取ったフォークを使い、桃を突き刺して食べ続ける。

「この件には私達も関わる事になった。そう聞いても、考えは変わらない?」

「変わらない。人間は俺を裏切った。それだけです」

「‥‥あなたも、そうなのね。なら、私はこれで失礼させて貰う」

 桃やぶどうが気に入ったのか、最後にそれぞれ一つずつ食べてから席を立つ。だけど、こちらにはまだ聞かないといけない事がある。

「待ってくれ、こっちはまだ聞きたい事がある。その制服は、あのキメラと同じだった。なんで」

「仕事を降りたあなたに、教える事はない。今回はあなたの言う通り、外部監査科として取り調べにきた。その疑いが晴れた事だけ、理解しておいて。そして、特務課から言われなかった?」

 近づいてくるヒトガタに、完全に気圧されてしまう。声を出せない。

「あなたにも、鎌鼬、辻斬りの実行犯としての疑いがかけられている。なのに、あなたはオーダーから降りた。言わせて貰う。外部監査科は、あなたを疑って」

「待って貰えますか?」

 高い背の肩を、ネガイが音どころか影さえ見せずに掴む。その無音さに、目の前で見ていた筈のイネスもアルマも、そして掴まれたヒトガタすら目を見張る。

「彼を裏切って、罠にかけたのはあなた達です。だと言うのに、今回のオーダーを降りたから疑う?疑われるべくは、あなた達では?」

「‥‥どういう意味?」

「外部監査科、あなたの言葉を信じるのなら、あなたは犯罪を起こしたオーダーを追って、ここまで来たのでしょう?言わせて貰います。あなたは、彼を貶める為、オーダー本部、特務課らと手を組んで、無理にでも手柄を上げているようにしか、見えません」

「そんな事はしない」

「何故言い切れるのですか?」

 振り返ったヒトガタに、ネガイは一歩も引かずに見つめ合う。

「あなたもオーダーの一員、ヒジリの事を知っているのなら、彼がどうやって法務科に、オーダーを続けているか知っていますね。彼は、あなたのようなオーダーに騙され、陥れられたから、ここにいる。ここにいざるを得ない。彼やイネスと同じヒトガタだから、放置していましたが、あまりに勝手が過ぎるのでは?」

「他人であるが、私からも言わせて貰う」

 続くように、アルマも椅子から立ってネガイと共に睨んでくれる。

「あなたは私達の血筋を頼って、ここまで来たのだろう?それはいいさ、私もオーダーだ。鎌鼬の解決に尽力したいと思っている。だが、オーダー本部の行った事を知っていてなお、彼からの協力を取り付けられると思っていたのなら、あまりに虫が良過ぎる。そして、ここにいるのはあなたの同胞であり、被害者の2人だ。そんな2人には、事件のあらましを説明する義務があるのではないか?あなたがオーダーであるのならば」

 ヒトガタではない、人間とそれ以外の間にいる2人は、それぞれの刃に手をつけて凄んでいく。守られている自分が、とても小さく感じる。だけど、1人じゃないとわかった。

「ヒトガタたるあなたは、私にとっても、彼にとっても同胞です。そんなあなたにもただのヒトガタではない、そしてただのオーダーではない立場がお有りかと思います。けれど、それで彼を疑っていいという理由にはなりません。無礼を承知で言わせて貰います。あなたではないのですか?昨夜、そして私をこの病院で襲ったのは」

 席に座ったままのイネスが、静かそう言った。そして、それを聞いた瞬間、眼前のヒトガタが完全に動揺した。揺れる肩を、見逃さなかった。銃口を向ける理由が生まれた。

「動かないで貰えますか?アルマ、イミナ部長に、ネガイとイネスは」

 M66を抜き、背中に押し付けながら言うと、鎖の音、そして背中のYシャツの下が蠢くのがわかった。今度は一瞬で目が動いてくれた。イネスの言う通り、この人は昨日見た。

 振り返りながら、袖から飛び出るように流れる鎖が、M 66と手首ごと掴み上げ、足払いを受ける。そのまま、身体を捻って作り出した勢いを使い、ぶどうを食べるイネスの真横を超えてベランダまで投げ飛ばされる。

「いい腕だ」

 そのままベランダ、手すりまで身体が飛んでいくが、手すりを片手で掴み、身体の大部分を外に出す。飛んでいく身体の勢いと体重を使い、手すりで方向を変えるため、一度で手を滑らせて、真横に回る。結果、逆再生でも見せるように、屋内へと戻り、桃を食べるイネスの真横を飛び越えながら杭を引き抜く。

「合わせろ!!」

 抜いた杭と共に、レイピア、マインゴーシュの切っ先をヒトガタへと突き付けながら迫る。ヒトガタは銀の鎖を全身に使い、それぞれの切っ先を受け止めるが勢いまでは殺しきれず、扉へと叩きつけられる。やはり、かなりの腕だった。3人分の必殺の一撃を鎖の輪で受け止めて、殺傷能力を消した。恐らくは自身の力で編んだ力だ。

「俺に同胞を斬らせないで下さい」

 扉へと叩きつけられたが、姿勢までは崩せなかった。だが、動けば、この誰であろうと撃てる3人が許さないのは、誰が見ても明白だった。

「あなたは法務科が逮捕する。大人しく」

「いいえ、不要ですよ」

 扉の向こうから声がした。それは、聞き覚えのある声だった。

「マトイ‥‥」

「はい、あなたのマトイです。失礼しても宜しいでしょうか?」

「今日は沢山のお客様が来られますね。勿論、お入りになって」

「では、お言葉に甘えて」

 叩きつけられたヒトガタは、視線だけ向けて、真後ろの音を立てて木製の扉を開けるマトイを見つめる。そして、目を閉じる。

「‥‥はじめまして」

「はい、初めまして。お姉さま」

 理解出来なかった。だけど、それだけで二人は全てを悟ったように、向かい合う。先ほどの臨戦態勢は消え失せ、銀の鎖帷子も塵となって消えていく。

「みんな、武器を降ろして」

「‥‥マトイの家族なのか?」

「はい、初めて会った、大切な家族です」

「—―――わかった」

 俺が杭とM66を下げた所、ネガイとアルマも同様に武器を降ろす。それを確認した後、高い背を持つヒトガタの肩から顔を出したマトイは微かに頷いて、ヒトガタの手首に布を巻いていく。

「少し、ほんの少しだけ待っていて。信じてくれる?」

「信じるよ、俺は平気だから」

「‥‥ありがとう。すぐ戻るから」



 戻ってきたマトイは、イネスに確認を取った後、ベットに座り俺を膝を明け渡してくれた。そんな光景を見て、イネスもアルマもネガイの顔色を伺う。

「イネス、私もベットを使っていいですか?」

「は、はい。いいですよ‥‥」

「では、失礼します」

 縮地を使って、跳ぶように、無音でベットに降り立ったネガイは、マトイと隣同士に座り、俺の頭や頬を撫でてくれる。

「よく我慢しましたね」

「‥‥もっと褒めて」

「はい、あなたは頑張りました。いい子です」

 心配されたネガイは、何も気にしないで褒めてくれた。そして、マトイと一瞬に撫で続けてくれる。

「それで、マトイ、あのヒトガタは」

「彼女は私の姉、正確には姉弟子という立場です。だから、大丈夫」

「‥‥わかった。マトイは信じてる、だけど、まだ納得出来てない。イネスが言ってたけど、あのヒトガタは昨日、俺達を襲撃したんだろう。なんでだ?」

 マトイがあの琥珀色の目を持つヒトガタをどこか連れていき、約束通りほんの数分で戻ってきた。まだこの施設にいるのは、間違いないようだ。

「彼女から聞きましたか?外部監査科の話を。彼女は、本物の外部監査科、そして私よりも格上の魔に連なる者。こら、ちゃんと聞いて」

 冷たい腿に吸い込まれるように意識を手放しかけた時、マトイとネガイが、それぞれ頬を摘まんで突いてくる。

「‥‥イネスと同等のヒトガタで、マトイよりも上の魔に連なる者。そして外部監査科か‥‥すごいスペックだな。俺よりも――」

「ふふ、私の姉弟子ですよ。当然、強い決まっているでしょう?それに、あなた達は昨日、あの方を打ち破ったのですよ。自信を持って。あなたもとても強いから」

「‥‥わかったよ」

 この状況をまだ受け入れ切れていないアルマとイネスがいるが、目を閉じて二人の手と足に意識を集中する。

「では、マトイ、彼女が鎌鼬、辻斬りの犯人という事ですか?」

「いいえ、彼女は別側面から捜査していた捜査官。昨日の襲撃は、あなた達が辻斬りではないと確認する為だったそうです。聞きましたか?昨日、また被害者が現れました」

「そうですか。では、彼女でもないと」

 被害者が生まれたと聞いても、俺も含めてこの場の誰もが聞き流してしまう。解決の為に集められた筈の俺達がこれでは、被害者も浮かばれない。だが、割と気にならない。

「‥‥そうか、あのヒトガタがアルマを狙ったのは――謝らないと」

 マトイの膝の上から起き上がろうとしたが、それはマトイ自身の手で防がれる。

「あの方も落ち着くため、時間が必要です。大丈夫、また時間があるから」

「‥‥だけど、あのヒトガタは‥‥俺達の正体がわかったから、人間のアルマを‥‥悪い、アルマ‥‥」

「いい、私だって、そうであったら嬉しいよ。確かに、彼女が最上位のヒトガタであるなら、君達ふたりを一目で見抜いてもおかしくない。‥‥同胞を傷つけるのは、誰であろうと忌避するさ」

 立ち上がったアルマが、近づいてこめかみを撫でてくれる。目の前に来るとわかる。アルマの足の長さに。そして、目を逸らせられなくなる程の、美しい白い肌と青々とした血管が。流星の使徒として生きてきたアルマの足は、しなやかな多くの筋肉で形作られた彫刻のような足だった。なのに、歩くたびに揺れる腿が艶めかしい。

「ふふふふ‥‥私の足に埋もれておいて、アルマさんの足に夢中?許し難いですね」

「あ、私はそんなつもりでは‥‥そうか、君は私の足が好きか‥‥覚えておこう」

 マトイが再度、頬を摘まんでくるなか、アルマは膝を折ってこめかみを撫で続けてくれる。

「だけど、その場合なぜ彼女はイネスを襲ったのですか?そう聞きましたが」

「あの方を、どうか悪く思わないで。あの方だって、確信がなかったの。だから、イネスさんを確かめる為に、付け狙う事となった。それに――あの人達。オーダー校の生徒達の中でも選りすぐりの人員が派遣されているから、あなた達に一夜を使った」

「なのに、俺は一晩どころか数分で降りてしまった。‥‥そうか、怒って当然か」

 期待外れにも程があったのだろう。あのヒトの実力は、昨夜と先ほどの攻防で思い知った。そして、そんな最上位のヒトガタに迫る戦力を持っていながら、戦線を離脱すると決めてしまった。オーダーとしてあるまじき行為だった。

「—――多分、俺が悪いんだよな」

 マトイの膝の上で寝返りを打って、天井を見上げる。そこには、マトイの細い顎、そしてネガイの大きな黄金の瞳があった。

「‥‥どうすべきだと思う?」

「あなたはどうしたい?人間の期待に応えたい?私はどちらでも。彼らの行った事、私はまだまだ許せません。例えあなたが許したとしても」

「私も同意します。流石に、昨日今日であなたを求めてくる彼らは、疑うべきです。疑って然るべきです。含みを持たせるつもりはありません。まだ、近づいてはいけません」

「‥‥それもそうだな。しばらくは、ふたりに甘えるか」

 もう一度寝返りを打って、マトイの腹部に顔をうずめる。マトイがわざとらしく声をあげるが、それさえ心地いい。

「俺だってわかってるよ。流石に、まだ信じてはいけないって。少し休もう。だけど――」

 一瞬だけ化け物としての血を使ってしまった。それを感じたイネスもアルマも息を呑むのがわかった。だけど見慣れている、いじめ慣れているネガイとマトイは、そんな俺を鼻で笑ってくる。

「向こうから襲ってくるなら、話は別だ。敵は敵。そして目の前で襲われていたなら、俺は阻止しないといけない―――オーダーとして」

 マトイの腹部を見通していた目を閉じて、息を吐く。落ち着いた血流と綺麗に収まった内臓だった。美人は内側まで美しい。だが、マトイの美しさは別格だった。

「それで、本当の危険区域はどこなんだ?」

「あなた達が通ってきた繁華街の外れ、開発途中の都市部です」

「意外と近かったんだな。そうか、アイツらがあの辺りをうろついてたのは、そういう事か‥‥今晩の準備をしないと」

 今度こそマトイの足から起き上がって、背伸びをする。迷いが晴れた訳ではない。まだまだ人間の事など信用できない。だけど、やるべき事は見えた。

 俺はオーダーだ。ならば、オーダーとしての理性を全うする。

「悪い、右往左往させて。イネス、アルマ、どうか手を貸して欲しい。俺の背中を守ってくれるか?」

「ええ、ええ!!構いませんとも!!私も、動き足りないと思っていた所です♪やっと夏の始まりなのです。最高のスタートを切らせて貰いますね」

「私も手を貸させて貰おう。そもそも、今回の件は流星の使徒としての知識を頼られて受けた仕事だ。私にも、オーダーとしての誉れと流星の使徒としての誇りを持たせてくれ」

 ふたりとも、まだ物足りなかったようだ。そしてわかった。やはり、ふたりとも俺に遠慮していたのだと。心底申し訳ないので、この借りを返そうと決めた。

「では、まず何からなさいましょう」

「その前に、少し用がある。マトイ、あのヒトはどこにいる?」

「すぐ近くの休憩室ですよ。話しを通しておきますので、少し待っていて」




「今回のオーダー、続けようと思います」

「‥‥そう。だけど、わかっているの?あなたは一度降りた。そんなあなたは、もう歓迎されないかもしれない。それでも?」

「あなただってわかっているのでしょう?所詮、人間程度では解決も阻止も出来なかったから、被害者がまた生まれた。そもそも、まともに解決する気なんて無かった」

「そうね‥‥」

 マトイに指定された部屋の前で待っていると、先ほどのヒトガタが出迎えてくれた。休憩室と言われた部屋は、どちらかと言うと応接間に近かった。ふたつの木製のソファーに中央の木目調のテーブル。ピーチティーが用意されていた。

「そこまでわかっていて、あなたはやめたの?」

「正直言って、付き合い切れなくなったから。俺が法務科に所属した時の顛末は知っていますね?」

「‥‥ええ」

「オーダーは、また俺に同じ真似をしてきた。身を守る為、そして」

「人間を見限りたくなったから。あなたは間違っていないと思う」

 甘い香りがするピーチティーを手に取って、口へと運んで行く。次の言葉を選び、選ばせるための時間を与えてくれる。

「あなたも、人間に振り回されてきたのね。だけど、人間は自分の行いを反省などしない。しかも私達は人外。であれば、尚更彼らは顧みない。いくら私達が傷つこうと、気にも留めない。なのに、手を貸すの?」

「人間になんか、手を貸さない。だけど、俺はオーダーだ。俺にとってオーダーは居場所であって、都合のいい立場だ。襲い掛かってくる敵を叩きのめすのに、こんなに楽な場所もない。これはオーダーの首輪じゃない。オーダーを利用してるに過ぎない」

「‥‥そう。わかった。飲んで」

「頂きます」

 促されるままに、茶を飲む。甘いだけじゃない。香りが特にいい。もしかしたら、本物の果肉と果汁を使って絞ったのかと思う程の濃厚さ、現実感だった。

「美味しい‥‥」

「良かった」

「果物、好きなんですか?」

「‥‥そうかもしれない。大切な人が、お見舞いの品として、渡してくれた」

 それを聞いて、恐ろしくなった。このヒトガタも、入院患者だったのだとわかったからだ。本調子ではないのに、あれほどの腕を持っていた。単体では困難を極めただろう。

「‥‥どこか、」

「気にしないで。私は、今日退院。人を呼んで、もう荷物も運んだ」

「‥‥だけど、まだ病み上がりのあなたに、俺は勝てなかった」

「私は、あなたよりも年上。それに、ヒトガタとしても私が上。だから、そんな事を言わないで。それにあなたこそ本気ではなかった。正確には、本気を出せなかった。あなたは、きっととても優しい子。どうか、その優しさを誇って」

 ガラスのコップを両手で持ち、見つめてくる年上のヒトガタに、小さく頷いて返す。

「良い顔。名前、教えてくれる?」

「ヒジリです‥‥あなたは?」

「私はマヤカ。だけど、秘密にして、外部監査科所属のオーダーの名前なんて、知ってはいけない―――あなたの気持ち、受け取った。私から私の上司に伝えておくから、あなたは鎌鼬の解決に尽力して」

 ピーチティーを全て飲み切って、今度こそ大きく返事をする。

「オーダーの所属としての務めを果たします。だから、もう襲わないで下さい」

「ふふ‥‥約束はできないけど、覚えておく―――あなたに、改めて聞きたい事がある。あなたは、誰の命令で今回のオーダーに参加していた?」

「最初は、本部でした。だけど、オーダー本部の考えが読めなかったので、俺の上司、知っているでしょうから言います。イミナ部長に相談しました」

「その結果、あなたはオーダー本部ではなく、法務科所属として参加していた。オーダー本部が用意したあの人員、あなた達はどこまで調べがついている?」

「‥‥70と数名がこの地方本部にいると。しかも全員が、本職のオーダー」

「そこまで掴んでいるのね。なら、本部から距離と取ったのは、正しい選択。聞かせて、昨日特務課があなたを逮捕しに来たのでしょう?辻斬りの疑い以外、何か言っていなかった?」

「‥‥カエル」

「カエル?」

 口の中で呟いたつもりが、声に出ていたようだ。

「カエルの疑い?」

「どんな罪状ですか。特務課の人間で、俺を目の敵みたいに追いかけてきた奴が特務課の中でもかなりの立場だったらしくて。結果的に俺が捕まえて、病院に引き渡したんですが、それが気に食わなかったみたいで、確か正義を証明するとか。お前は犯罪者だとか」

 正直言って、今自分で言っていても腹立たしい。現場の事など、何も知らない人間が、知った風な口を叩いてきた。もし、あいつがやっていた事を知っていてなお、同じ口が叩けるなら、特務課に未来はない。犯罪者を育てる国家機関など、いずれ解体されるだろう。

「特務課が‥‥私怨ばかりね」

「何か、知っているんですか?」

「いいえ。ただ、私も彼ら特務課には恨みのひとつやふたつを持っているというだけ。彼らからすれば、嬉しい限りでしょうけどね。ヒトガタに恨みでもある?」

 不思議だった。ついさっき出会ったばかりの年上のヒトガタと、違和感なく会話が成立している。それどころか、心地よさすら感じる。初めて会った気がしない。

「‥‥あの、プランは何だったんですか?」

 関係ない事だった。なのに、聞かないといけない、そう思ってしまう。

「プラン‥‥気になるの?」

「聞かないといけない気がして。それに、変な事を聞きますけど、前に話した事ありませんか?」

「—――それに、答えられるものを私は持っていない。だけどプランは比較」

「ソソギとカレンと同じ所にいたのですか?」

 ソソギとカレンを合わせたような性格。むしろ、このヒトを二人に分けたら、あの二人になるような感覚がした。ソソギの意思の強さと責任感。カレンの生真面目さとたまに出る幼さ。この数時間で、それら全てを感じた。

「‥‥そう。わかるのね」

「勘、でしたが。ソソギが言っていました。親しい人と過去に分かれた事があるって」

「—―っ!!思い出したのね‥‥そう。きっとあなたが私の役目を果たして、いえ、私の役割をあなたが受け継いでいると、気付いたのね」

 急に理解が追い付かなくなってきた。だが、全くわからないという訳ではない。俺が役割を引き継いだ。

「ヒトガタの関係は、全て成育者の手によって作られる。ソソギとカレン、そしてあなたの三人で求められていたヒトガタの関係が崩れた」

「その時、現れたのがあなただった。求められていた関係を、修復するように、必要な配役をあなたが演じてしまった―――いいえ、あなたがあの二人を守ってくれた」

 遠い目をした。懐かしい白い実験場の記録を、手繰り寄せている。だけど、それも一瞬で断ち切った。

「あなたも、ヒトガタの呪縛を解いているのですね」

「‥‥ええ、私は恵まれている。そして、あの子達も。あなたが守ってくれたのね。ありがとう‥‥もう名乗れないかもしれない。だけど、言わせて、妹達を救ってくれて、ありがとう‥‥」

 その顔には見覚えがあった。月光を浴びたソソギ、そして月光に晒されたカレンの瞳と同一だった。間違いなく、この個体は彼女達の家族、血族だった。

「‥‥ふたりに、会って下さい」

「いいえ、まだその時じゃない」

「だけど!!」

 ソファーから立ち上がって、訴えかけようとした時、扉が叩かれる。

「もう時間みたい。今度は、もっと話しましょう」

 ピーチティーを飲み切ったマヤカさんは、何事も無かったように、立ち上がって出て行こうとする。だから、飛びつくように手を伸ばす。

「あなたは――あなたは、なんだ‥‥」

 ほんの数舜で指を離してしまう。確かに、感じた。何か別の存在。人間では感じ取る事の出来ない次元違いのノイズ。ヒトガタと化け物として本能が、危機を示した。

「‥‥やはり、あなたもなのね。大丈夫、落ち着いて」

「—―いいや、あなたからじゃない。別の何か‥‥外にいる」

 全て言い切る前、指で口を閉ざされる。そして、頷いて扉の向こうにいる何かに声をかける。

「話通り、彼は優しい。あなたと同じくらい。だから、もう少しだけ時間を頂戴。彼は、私の同胞」

「‥‥わかった」

 少し幼い声だった。そして、扉越しに見えてしまった。俺以外の存在。この肉の身体に縛り付けられているだけでは、決して触れる事の出来ない何者かと繋がっている者。怪物とは言えない、清らかな獣を。

「それで、まだ私に何か?」

「‥‥明日、ふたりがイネスに会いに来ます」

 それは予想外だったのか、隠せない同様が揺れる視線によって伝わってくる。

「‥‥そう。だけど、まだ会えない」

「違う‥‥違う筈だ。あなたは会いたがってる。会わないといけない。ふたりだってそうだ。会わないといけない―――あなたは俺の敵ではないと、証明しないといけないんだ!!だから、会ってくれ!!会って、ふたりを安心させてくれ!!」

 腕を掴んで、出て行こうする同胞に叫ぶ。俺が、ここまで感情的になるのも報告外だったらしく、手を振り払えないでいる。

「あなた達は家族なんだ!!‥‥あなたはオーダーだ‥‥またいつ会えなくなるかもしれない。ソソギが言ってました!!決定的な別れは、死以外であってはならないって―――あなた、まだ生きてる。生きてる内に、会ってくれ‥‥」

「‥‥ソソギが、そう言ったの?」

「はい‥‥」

 その瞬間、ヒトガタは振り返って涙を流してくる。

「嬉しい‥‥その言葉を、言い渡せるようになったのね‥‥一日だけ、入院を伸ばしたい」

 息が漏れてしまった。安堵感と共に、涙がこぼれる。

「ありがとう、決心させてくれて。あなたは、ソソギとカレンの家族?」

「はい。俺も、ふたりもそう思ってくれています」

「なら、私にとってもあなたは家族。そして、イネスも。明日、四人で沢山話してみる。だから、ふふ、一度手を離して。私の男の子が、心配している」

 言われて気が付いた。慌てて手を離して、袖で涙を拭く。

「あなたは、あの子よりも大人なのね。ふふ‥‥彼には、もう少し大人になってもらわないと―――私の弟、ヒジリ、また会いましょう」

 今度こそ背を見せて、扉から出て行ってしまう。わずかに見えた扉とマヤカさんとの間、それがいた。俺とはまるで違う雰囲気を持った、何者か。純粋な血を感じた。

「あと、もう一度聞いていい?あなたは、ソソギとカレンの家族?」

「はい‥‥?」

「そう――まだ、私は伯母さんではないのよね?」

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