8巻 改訂版 月に抱かれて 後編

「制圧完了。あとは施設だけだよ」

「了解した。帰ったら続きだ」

「う、うん‥‥待ってるから‥‥」

 施設の前でシズクとの通信を終える。切る寸前に歓声が上がったが、無視する。

「あなたが来て一気に状況が変わりました」

「最後の一押しを俺がしただけだ。それに、別の道から先輩方が攻め込んでたんだろう。いつかはこうなってた‥‥」

 朝ぶりのネガイから、声を掛けられるが、素直に受け取れなかった。

「マトイ、今も眠ってるんだ‥‥。サイナも、守れなかった」

 もう既に毛皮が消えていた。

 は人間狩りが終わった時に、消えてしまった。

「‥‥言っておきます。サイナが連れ去れた時、私も近くいました。自己嫌悪も程々に、私も、つらいんですから‥‥」

「—―――ごめんな。でも、やっぱり、俺もつらいんだ」

 白い服のネガイを引き寄せて、灰色の髪に顔をうずめる。

「大丈夫です。中に行けば、すぐ会えます。私も一緒に行きますから。あなたは、何も悪くない」

 俺の方が背は高いのに、ネガイは慰めるように、年下を労うように、背中を叩いてくれる。

「準備はいい?」

「こっちはいつでもいいよー」

 ネガイの後ろから、ソソギとイサラが近づいてきた――――どちらも万全の体調とは言い難い。2人とも手足の包帯だけではない。イサラは頭の包帯に血を滲ませて、ソソギは肋骨を庇うように歩み寄ってくる。

「平気なのか?」

「ちょっとだけ、手こずったかな?」

「ごめんなさい、逃してしまった‥‥」

 満身創痍以外の何者でも無い。こんな状態で正面でやりあってくれていたのか。

「重武装科はどうしてたんだ?」

 本来オーダーの集団戦闘は、重武装科が正面で攻撃を引きつけてから、制圧科や襲撃科が敵の息切れを狙って銃撃する。だというのに、最前線に三人が揃っていた。

「あの脳筋達はよくやってくれたよ。こっちが生身でもお構いなしに車両で突っ込んでくるんだもん。あの防衛ラインはアイツらが最初に守ってくれてたの。だから、守って時間を稼いでもらってる隙に、こっちも車両とか盾とか壁とか、持ち込めたの」

「そこで、引き継いだのか—―――なんか奢るか」

「喜ぶと思うよー。まぁ、でも今はミトリが看病してるから、報酬の前払いを受け取ってるんだろうけど」

 ミトリが手を握って励ましている姿が目に浮かぶ。こういう場面での、ミトリの看護に列が出来る光景を度々見ていた。

「逃げられたって言ったな」

「‥‥ごめんなさい。あなたはあんなに簡単に倒したのに‥‥」

「俺がもっと痛めつけておけばよかったんだよ。爪が甘かった。次は二度と顔も見せられないようにしてくる」

 まさか、腕を実際に外して手錠を外してくるとは思わなかった。つまりはという事だった。

「まだ中か?」

 施設を見上げて聞く。表向きは児童養護施設だが、実際はヒトガタの精製、生育所だった。この中で、どれだけのヒトガタが生まれて、廃棄されたのか、想像も付かない。だが児童養護施設と名乗っているということは、そうにヒトガタが生まれていたのだろう。

「‥‥逃げてなければ、まだ中。私がやる」

 隠しているが、腕に装着している杖を歩行の補助として使っている―――直撃を受けたのだと、容易に想像がついた。

 確実に肋骨どころか内臓にもダメージが浸透している。

「‥‥ソソギ、」

「私も行くから。カレンとサイナにも、私は謝らないといけない。‥‥あなたにも」

 スカートに隠しているヨーク連発銃を触るソソギの覚悟を感じ取り、イサラもネガイも自身の得物を指で撫でる。

 もしここで「待っていろ」と言ったら、ソソギは容赦なく俺に発砲する。その結果、ソソギ自身が怪我を増やす事になっても施設への歩みは止まらない。

 この場にいる誰もが、それが感じ取った。

「背中にいろ――――

 ソソギに言われて思い出した訳じゃない。だけど、改めて、。今の俺は普通じゃない。

 ―――邪なれど純粋な言霊となって、その声が頭に響き渡る。

 愚かだ。この姿で、この俺に対してこの言葉遣い。どちらが主人か、まだわかっていない爪をで黙らせる。それだけで震え上っている、今までどれほどの血を啜ってきたか知らないが、何もかもの格が違うと悟った。

 ようやく認めたようだ。死を選んだように、縮こまって大人しくなる。

「シズク、聞こえるか?」

 首元に下ろしたヘッドギアへ呼び掛ける。一瞬でシズクとの回線を復帰させた。

「中の様子はどうだ?わかる事は全部話してくれ」

「杖みたいな武器を持ったヒトガタと、保安官らしい職員がバリケードを作って立て篭もってる。‥‥急いだ方がいいかも」

「わかってる。サイナとカレンが中に」

「うんん、違うの‥‥。職員達がヒトガタに‥‥手を‥‥」

 シズクの声が止まってしまった。口の中で言っているのかもしれないが、聞く必要はない。すぐに終わらせればそれで済む。

「2人の居場所はわかるか?」

「‥‥どこにいるかは、わからない。でも、何処にもいないから、何処にいるかは見当が付いてる。施設内で唯一カメラがない場所。屋上にあるレンズの真下」

 俺の答えと一致した。この期に及んで、研究か実験か知らないが、サイナと血の聖女を使って外への扉を開けたいようだ。

「わかった。一度通信を止める」

 マイクが切れる音を耳にしながら、ヘッドギアからの声が止んだ。

「聞いての通り、目的地はレンズの真下だ。そこに行くには、この施設の深層に行く必要がある。言っておく、俺は万全だが、後ろを守れるほど余裕はない。俺の足について来れないとわかったら置いて行く。時間が無い―――」

 ネガイとソソギ、イサラの視界から消えるように、3人の正面を通って行く。

 入る場所は裏口。最短距離で、あの球体に接近できる設計がされているのは、もう知っている。

 正面玄関の制圧は完了したらしいが、裏口は狭くてすぐ近くが真っ直ぐな廊下なので、重武装科や襲撃科が手を拒めていた。

 ガタイがいい連中の中を縫って歩くと、後ろの3人も沿って後を追ってくる。

「あ、おい!せめて装甲服を!」

 盾を持った重武装科の1人が肩を掴んでくるが、腕で払う。

「急いでる」

「急いでます」

「急いでるの」

「ごめんねぇー後で謝るから!」

 唯一イサラだけが顔を見て相手をしてやったが、俺達の背中を見て、それ以上、止める事も話しかける事もしなかった。



 バリケードの間から銃口を向け、弾丸を発射してくる。下手だ。わざわざTMPを量産しているのに、まるで使い方がわかっていない。

 サブマシンは足元から狙うべきだ。まず足元に撃ち続けて、次に身体へと銃口を上げるば弾丸の点が線となる――――それだけで格段に当てやすくなる。

「第二防衛ライン発見。突破を開始する。俺の前に出るなっ!!」

 一歩目で床を抉る。二歩目でバリケードを越える。そして三歩目で。

 ヒトガタの胸ぐらを掴んでいる職員の横顔を殴り飛ばす。離されたヒトガタを抱えて、周りのヒトガタや銃火器を持った職員達を、鞘に収まった爪で薙ぎ払い、バリケードごとまとめて破壊—――ガラス張りの壁に叩きつける。

 防衛ラインとはとても言えないバリケードは簡素なものだった。ここで使われている椅子や白い塗装がされている木製のテーブルだけだった。元々ここは、本当にただの実験施設だったのだろう。

 緊急で武装を配備したらしいが、本職の俺達には敵わなかった。

「お前も、運が悪いな。寝てろ」

 腕の中にいる座席に座らせた筈のヒトガタの背中を鞘で打って、寝かせる。

 壁として使われているガラスは、防弾性だった。相当強めにぶつけられた職員やテーブルを物ともしていない。と、誓っているかのようだ。

 そして真っ白な床や透明なガラスに、血が付いていた。職員の血かヒトガタの血かわからないが――――悪くなかった。純白の廊下を映えるような鮮血が彩っている。

 にも似た世界が目に入る度に眼球の血管が疼く。。その感情に近いのかもしれない。

 だが、決して嫌悪感ではなかった。きっと血に興奮してしまっている。 

 どうやら俺は、

「第二防衛ライン、突破。中に入れろ」

「了解—――重武装科、襲撃科、侵入を許可する。繰り返す、重武装科、襲撃科、侵入を許可する」

 シズクの無表情な声を聞いて、後ろから続々と足音が聞こえてくる。

「行くぞ、邪魔されたくない」

 返事も聞かないで、走り出す。

「その刀!」

「やらないぞ」

「後で見せて、ていうか早く抜いて!」

「その時が来たら」

 壁のガラスからソソギの様子を確認する。杖を使ってはいないが、長い足を動かすスピードが、潜入した時より若干ながら遅い。

「待ってられないからな」

「構わない。少しでも遅くなったら、あなたを撃つ。私も、カレンを救いたい」

「‥‥好きにしろ。—――俺もカレンを救う」

「ありがとう‥‥」

 脱出時にイサラが無力化したヒトガタや職員達が廊下に転がってこそいないが、やはり血が落ちている。それも、。シズクが言っていた事は、

「血が多いですね」

 血を巻き上げて走る俺の後ろを追うネガイの靴には、血の一滴も付いていない。

 ネガイが血を避けているのではない。血がネガイを避けるように、全く追いかけていなかった。血溜りに足を入れるにも等しいタイルの上を、水紋ひとつで駆け抜けていた。

 足音とは多くを知らせてくれる。

 後ろで倒れている防衛ラインの人間やヒトガタを、拘束していくオーダー達の足音は焦燥を伝えてくる。だけど、ネガイからは足音が聞こえてこない。焦りとは無縁な足取りは、ネガイの心の静寂を知らせてくれる。

「私は初めて入りましたが、まだ長いですか?」

「もう少しかかる」

「‥‥早く、サイナに会いたいですね」

「‥‥そうだな。言っておく、ソソギとイサラをそこまで痛めつけた奴が、まだいる可能性が高い」

 ソソギが悪魔と呼んだ女。ヒトガタを解体して、繋ぎ合わせて、自分の身体にしていた人間。

「‥‥っ」

「言った通りだ。俺の視界に入るな」

「‥‥怒ってる?」

「どうだろうな。—――いや、

 ソソギに怒りを持ったところで意味が無い。それに実際のところソソギやマトイが心配した通りの行動を、

 カレンが、今回わざと捕まる仕事をすると聞いていたら、俺はそれを止めていただろう。例えカレンやソソギから説得されて、一度は頷いたとしても土壇場で邪魔をしてしまったかもしれない。

 それでは、法務科に向けられている疑念の視線は晴らせない。

 ―――どこまでも俺の為だった。

 2人は、俺の為に、俺に黙っていてくれた。本当に俺の身を案じてくれていた。

「ソソギとカレンを叱りつける言葉を、俺は持ってない。結局、俺は2人が背中を守ってくれなければ、法務科に撃たれていた。‥‥それがマトイだった可能性もある」

「‥‥マトイは、あなたの為に」

「わかってる。わかってるんだ。でもな、やっぱり、少しだけ寂しいんだ。‥‥ネガイもイサラも知ってたんだろう」

 この問いに2人は答えなかった――――それが答えだった。

「俺は誰かを怒れる程、自分の面倒も見れていない。目の前の差し迫った人間てきさえ始末すれば済むって、俺が目を使えば、血を流せば守れるって勝手に思ってたんだ。だけど、今歩いている橋は誰かが作ってくれてた―――感謝してる。俺の背中を、見てくれて」

 。ネガイに褒められたかった。マトイに頼られたかった。ソソギやカレンに、誇ってもらいたかった。でも、俺が今1人で走ってるすら他の誰かが築いてくれていたのだと、ようやく受け入れられた。

 だから走っていられる―――死角にヒトを置く事が、怖くなくなっている。

「背中は任せる。だから正面は俺にやらせろ。俺の視界に入るな」

「‥‥わかった。これ以上、あなたの邪魔をしない。だから、あなたも私に任せて」

「約束だ」

 長いガラス張りの廊下も、もうすぐ終わる。眼球のような部屋も既に通り抜けた。

「血の聖女」

 エレベーターの壁に手をつけて、その言葉を呟く。鋼鉄の扉は唸り声を上げて口を開く。迷いなど捨てた、罠があるなど知った事でもない。

 わかっているのは、底の眼球に取り返すべきるという事実。

「いちいち聞かない。行くぞ」

 3人共が何も言わずに中に入り込んだ瞬間、エレベーターのボタンを操作する。

 、自身の武装や残弾を確認する時間が始まった。だが緊張感など持ったところで意味はない。こちらが奪う側だとわかりきっているからだ。

「ネガイ、話がある」

「はい、なんですか?」

「外にバイクが止めてある。乗って帰るぞ」

「ふふ、わかりました。約束です」

 白い戦闘服を着たネガイが、後ろから抱きついてくる。ネガイの細い白い腕に手を重ねて、握る。震えなど全く伝わらない、怯えなど一切伝えない。あるのは帰るべき部屋が現実―――今まで通りの幻想げんじつを続ける事が出来る。

「帰り、何処か寄るか?」

「水族館に行きたいです」

 カワウソを始めとするアザラシやイルカ、それにペンギンがお好みらしい。最近、そういった人形をよく部屋で目にする。

「もう水族館は閉まってるだろう?」

「深夜枠や24時間営業もあります。恋人割りもあるそうですよ」

「そういうのがあるのか‥‥いいな。行くか?」

「はい。一緒に行きます」

 首だけ捻って、背中のネガイと目を合わせる。人類の敵対者、災害たる自分バケモノと人類の反逆者であり処刑人が揃っている。人間であろうと人外であろうと、刈り取れる――――戦闘ではない、これはただの殺戮だ。

「あのー私達もいるんだよ?」

「聞いていた以上ね。いつもこう?」

「暇があればいつもこう‥‥」

「そう‥‥」

 ネガイとの時間を邪魔しない程度に、不満の視線を送ってくる。

「‥‥わかった、少し真面目な話をする。俺とネガイで悪魔もハエも仕留める。2人はサイナとカレンを見つけ次第、救い出せ」

「私も、」

「トドメはくれてやる。まずは自分の役割を理解しろ。イサラもいいな?」

「いいよ。ソソギが無茶しようとしたら、私が止めるから」

 ソソギからの不服は想定内だ。いくらソソギが協調を好まないとしても、今回は引き下がってもらう。

「‥‥わかった。あなたに従う」

 返答こそ満足にいくものだったが、納得し切れていないのは明白だ。

「この中で1番ダメージを受けてるのは、ソソギだ―――時間がない、結論だけ言う。俺の代わりにカレンを抱き締めてくれ。ソソギじゃないとダメなんだ」

 この手は爪と一体化している。地下に到達すれば、もう片方の腕も牙で埋まってしまう。誰かを抱き締める愛し方など、バケモノには相応しくない。

「今の俺にカレンを抱かせるな。これ以上、怪我はさせられない」

「—――ええ、ええ!わかった。カレンは任せて!」

 ようやく納得してくれたソソギが、俺の肩に手を置いてくれる。

「イサラもだ」

「サイナは私?」

「違う。サイナを救出したら共々に俺に続け。全員で、撲殺する―――」

「あは!いいね!最高じゃん!!」

 自分だって身体を酷使しているというのに、イサラは一切の弱みも見せずに、肩に手を乗せてくれる。普段よりも手加減をせざるを得ないイサラの腕を感じ取った時、伝わったのは身体の軋みだった。

「始める―――狩りの時間だ」

 ここは箱庭。人間が、人形の為に作り出した箱の中。人形にあらゆる欲望と羨望を宿らせ、咀嚼して吐き出す生命の園。狂気ヨクボウの赴くままに慰撫される楽園。

 けれど人間の箱に希望など不要だ。人間が救われる必要はない。よって、奪う、化け物の物とする。あらゆる希望も望みも、人間の叡智の全てを奪う。





 この人は知らない。あの化け物を――――。

「どうなってる!?なんで、俺の街が負けてるんだ!?」

「‥‥あ、ごめんなさい?私に話しかけてたんですか?」

 キーボードを細かく打っていた女に、腕に杖をつけたお兄様が詰め寄っている。

「私はこれから大事なお仕事があるんです。だから、もう少しだけ待っていてね?」

 平気そうな口ぶりでお兄様をあしらっているが、額には汗が浮き出ている。それに―――先ほどから片手は机の上に置いてあるだけ。

 

「お前が言ったんだろう!?ここはオーダーでも、手出しが出来ないって!!」

「言ったけどー、私もまさかソソギちゃんが、あのレヴァナントといい関係になってるなんて、知らなかったのでー」

 間延びした声で隠しているが、肺を使った呼吸が正常に出来ていない。はっきり言って満身創痍。だけど顔や首に青あざが出ていないのが、不可思議だった。顔だけは守り切ったらしい。

 先程から飄々としている女性の態度に遂に憤怒したお兄様は、叩かれていたキーボードやディスプレイを腕で薙ぎ落とし、襟まで掴み上げる。

「ならどうする!?僕は、これからどうなるんだ!?答えろよ!!お父様やお爺様みたいに鎖に繋がれるのか!?お前が言ったんだぞ!!僕なら王にでも、神にでもなれるって!!そんな僕が、こんな穴倉で、虫みたいに這いつくばってる!!」

 哀れだ。私を誘拐した時の余裕は、完全に消え去っている。女は宥めてこそいるが、もう自分のことしか興味がないようで、お兄様に焦点すら合わせていない。

「僕は王だ!!この国の王だ!!お父様もお爺様もなれなかった王様になるんだろう!?なれるって言ったじゃないか!!」

「はい、言いましたとも〜。だから、この施設を買って頂いたんですもん。それに、私を引き抜いてくれて、感謝してますよ♪う〜ん、でも、ちょっとまずいですね‥‥」

「これより不味い状況があるのかよ!?」

 お兄様が息を飲んだ。慌てながらディスプレイを拾い上げて、腰を抜かす。

「う、嘘だろう‥‥速過ぎる‥‥」

「ええ、沢山の女の子達と一緒に乗ってますね。青春ですねー、中で始めるんじゃないですか?最後です―――観ながら私としますか?」

「ふざけるんじゃない!!どうにかしろ‥‥どうにかしろよ!!お前、強いんじゃなかったのか!?」

「それが、その‥‥ソソギちゃんと、今向かってくる子に武器は壊されちゃって‥‥肋骨も頭も殴られまして。正直、私も限界でー」

 めんどくさそうに言い終わった時、わざとらしく椅子にへたり込んでしまった。それを見たお兄様は、絶叫を上げて外に出て行った。

 思わず自分も目を背けてしまう。身内の凶行ほど目を覆いたくなる物もないと思い、隣で横にされているもう1人の私に目線を向けてみる。

 もう1人の私が目を向けてきた。お互い、考えていることは同じらしく、頭上のレンズを見上げる。レンズを喰らうように月が登っていく、黄金に輝く満月は、あともう数分もしない内に頭上へと届くだろう――――。

 しばし、月の光と静寂に包まれていると、お兄様が戻ってきた。

「‥‥始めるぞ」

「ムリムリ、まだ実験どころか」

「いいから、やれよ!!僕をここから逃せ!!」

「どちらが、サイナちゃんなんのか調べるだけで数時間かかったんですよ?しかも、なんでか血が私の思っている以上に、人間がコントロールできるレベルを遙かに超えています。あのレヴァナントの血かも?きゃ♪一歩遅かったですね。それとも最近の子の速さを叱るべき?まぁ、私も、この年齢の時なら」

 もう一度お兄様が、女の襟を掴み上げた。

「外に行ければ何処でもいい!!早くしろ!!」

「‥‥本当に、どこでもいいんですか?いいんですか?」

「は?どこがって、なんだ?やっぱりお前も僕より馬鹿なのか!?」

 女は一瞬呆けた顔をしたが―――肺の底から響き渡る声で笑い始める。それの差す所の意味を理解出来ていないのは、この場でただひとりだけだった。

「ふふ、では、始めますか‥‥。丁度、門と鍵は揃ってますし。でも、残念。サイナちゃんもカレンちゃんも、こんなに綺麗なのに。いいんですか?最後に味わなくても?穢れを知った女の子達を自分の体液で染め上げるなんて、男性なら誰もが、」

「あんな物見せられて、やる気になんかなるかよ!?サイナも、このガキも!あの化け物から生まれたんだろう!?」

「まぁまぁ正確には違いますが‥‥ふふ、ええ、その通りです。でも、見慣れれば可愛いものだったんですよ?」

 化け物か‥‥。それは私にとっても、驚きだった。私も、

「そうだ!あれだ!あの化け物は使えないのか!?」

「えー、もう逃しちゃいましたよ?」

 もう一度お兄様から絶叫が聞こえる。

「逃したって」

をこれ以上、ここに留めておいたら、次の獲物は私かあなたになっていましたよ?いいんですか?四六時中あれに追いかけ回されても?」

「クソ!!訳わかんねぇ事言いやがって‥‥。なら、もういい!!早く僕を!!」

「はい、では準備しまーす。危ないので、男子は退出退出。ここから先は、女の子の時間ですよ♪」

「これから僕が通る門を造るんだろう!?ここで見させて貰う!!」

「‥‥ふふ、いいでしょう」

 お兄様は知らない。この女がお兄様の為に働いた事など、この数時間一度もなかった事を。そして、ただの一度も――――などと言っていない事を。

「くくく‥‥必ず、帰ってきてやる‥‥。必ず、戻って、何もかも、僕の物に‥‥」

 もしかしたら、お兄様とあの人は似ているのかもしれない。違いがあるとすれば、被虐趣味か、加虐趣味かだ。

 ――――あの人は、私を褒めて愛してくれた。抱き締めてくれる時も私の事を想ってくれているのが、、よくわかった。

 ――――この人は、私を貶して愛でてくれた。拳や欲望を振り下ろしてくる時も、自分の事しか考えていないのが、よくわかった。やはりあの人と似ている。

「サイナ、サイナ!!」

 お兄様が片手でYシャツを引き裂こうとしてくるが、腕力がなくてボタン一つ飛んでいかない。防弾性の頑丈さを知らないようだ。

「クソ!!くくく‥‥最後に感謝してやる!お前は、最後の最後で、僕の為に何かしてくれたな!!」

 止まらないお兄様の絶叫が耳元で鳴り響く。少しでも忘れようと、あの人と見た月を見上げた。ああ、そうだ。あの人は覚えているだろうか―――あの約束を。

「うんうん。月も整ってきました、そろそろいいですね♪じゃあ、始めましょうか」

「ああ、ああ!!やろう!!サイナの全ては、僕の物だ!!」

 ああ、この人達は知らない。何も知らない。哀れだが知る術すら持っていない。

 あの人が、月を愛している事を。そして、月も、あの人の事を愛している事を。

 ああ、この人達は知らない。どんな地下深くにいようが、月灯りが差す場所には、あの人の眼球が届く事を。何者も逃がした事のない、あの人の獣性ヨクボウを。

 ああ、なんておぞましい。私は、もうどこに行っても、逃げる事ができないのか。私の全てをあの化け物に捧げるしかないのか。もう諦めて素直になるしかないのか。

 だから――――私は、やっとあの化け物に応えられる。

 何もかも、私へ捧げてくれた化け物へ。

 だから、私は、叫ぶ――――!!

「さぁ!来て下さい!私の化け物!!私は、ここにいる!!」

 一体その声に誰が反応できただろうか、お兄様は呆けただけだった、あの女は身震いをして恐怖の色に染まっただけだった。ああ。やはり所詮は人間だ。

 なぜ見えないのだろうか、あの月の獣を、あの化け物を―――美しき眼球を!! 

 迫りくる眼球の持ち主たるが、月の光を纏って流星の如く――――舞い降りてきた。



 2人のかぐや姫を見つけた。

 2人のサイナは、余裕の表情で笑ってくれていた。

 レンズを突き破り、手術台ふたりに被さって魔女狩りの銃を振り抜き、女に発砲する。

「その銃は、予定外かな‥‥」

 キーボードを触っていた「先生にんげん」は、白衣で守られていない胸に、弾丸を受けてテーブルに倒れ始める。

 無力化の確認もせず、止まらずに、返す銃口を「ハエ」に向け、そのまま引き金を引く。、完全に胸を弾丸で捉えた。

 しかし、一発だけでは足りなかったようだ。

「チッ!!」

 胸を抑えた「ハエ」は全身に黒い液体が行き渡る前に、砕かれたレンズまで一気に飛びつき外に出て行く。直後――――外から4丁の拳銃の銃声が聞こえてくる。

「厄介だ‥‥腕に杖をつけてやがった‥‥」

 あれは「先生」が使っていた物と同タイプ、しかもそれよりも太かった。神とやらの腕力とあの杖でモーターホームを横転させたとしたら、一撃どころか掠ってもいけない。簡単に身体がひしゃげるだろう。

「‥‥サイナ、とカレンだな」

 広い手術台の上で、とサイナの姿をしたを見詰める。それぞれを2人に向いて言ったが、カレンは首を傾げた。

 写真で見るよりも、想像を超えて似ていた。鏡合わせと言ってもいい程に。

 カレンもサイナも、元々幼い顔立ちではあったが、もはやメイクだけでどうにかなるレベルを超えている。しかも今のカレンは、

 自分をサイナだと信じ込んでいる。だが、俺にはわかる。

「もうすぐ、2人が」

「急いで!外に、よくわかんないのが!!」

 イサラとソソギが、扉を蹴破るように入ってきた。

 テーブルに伏している「先生」を見た瞬間、ソソギがヨーク連発銃、イサラがFNブローニング・ハイパワーを抜いて、近付いて行く。

「ああ、わかってる。‥‥後でな」

「はい♪」

 サイナの口に軽く甘えてから、俺もレンズから飛び出る。

 外では、ネガイがレイピアとSigproを抜いて、「ハエ」を追い詰めていた。

「クソ!クソ!」

 腕に装着した杖を振り回して、ネガイを追いかけるが、遠く届かない。

 振るたびに、ネガイはレイピアで顔や腕を切り裂き、黒い血を流させる。そんなネガイに怒りどころか、恐怖を持った「ハエ」はネガイの顔を捉える為—―――大振りの一撃を放つ。

 轟音とも言える音を生み出した薙ぎ払いの後、ネガイは音もなく杖の上に立っていた。まるで汗もかいていないネガイの髪が、ようやく重力に従って背中を隠す。

「サイナを攫ったのは、あなたですね?」

 杖の上にいるネガイを掴み取ろうと手を伸ばすが、ネガイはレイピアをその手に突き刺して引き金を引く。それだけで手首から上が消えた。

「この弾丸は、マトイとサイナにお願いした。少し痛いですよ」

 叫び声を上げて、振り払おうとするが、ネガイは足を乗せている腕にレイピアを突き刺して、引き金を引いてから月をえがくように舞い降りる。

 純白のネガイを追いかけるように黒い血が吹き出るが、一滴も届く事が能わない。

「あなたは私の友人を攫い、暴力まで振っていた。父と母との約束で、人間には慈悲を持つと誓っていましたが―――――です。サイナがあなたを裁かないのなら、私があなたを裁く。覚悟しなさい、誰の友人に手を出したか、理解して血に溺れなさい!!」

 月灯りが球体から移動して、レイピアを携えるネガイを照らす。それを見た瞬間—―――「ハエ」が怯え震えたのがわかった。

 あまりにも人間離れしたネガイの容姿が、月灯りに照らされて一段と輝いている。

 パンドラのあまりの美しさに受けとってはいけないと言われた贈り物を受け取り、結婚した神がいた。神すら魅了するその容姿は、神すら屈服させる力を持っている。

 「ハエ」が自身を神と言うのなら、決してネガイには勝てない。

「私が裁かない?まさか、もう決めましたよ♪」

 扉から悠然と出てきたのサイナは、腕にソソギが使っていた杖をつけていた。

「貸して貰いました♪料金は、あなたの排除で〜す♪」

 使い方など一度も見ていない筈のサイナが、階段から飛び降りて、突きを放った。

 雄叫びを上げて、「ハエ」もサイナに刺突を放つが、サイナはわざと杖と杖をぶつけて火花を散らし―――レール代わりに迫った。

 そして、右の脇腹を抉る。

「あはは♪いい感触ですね~♪大丈夫、生身には傷一つ付けてませんから♪」

 突きを放ち、ネガイの隣まで進んだサイナは、ネガイと鏡合わせになるように杖を向ける。

「もう命乞いは聞きません」

「はい♪あれに時間を売ってあげる程の価値はありません」

 ネガイとサイナの口が裂けた。

「む、無駄だ!!この身体は更に血の聖女を使って、力を増している!!ただの武器では、僕は倒せない!!」

 ハッタリでは無いのは見ればわかった。身長もオーダー街で見た時と比べて一回り大きく、サイナが抉った腹もすぐさま修復された。

 声をかけて、振り向かせる。

「ふ、ふふはははは!!お前に何ができる!?サイナとあの女を奪われて、今更ノコノコ何しにきた?僕の勝ち、お前の負けだ!!」

 落ち着く為か、また尻尾を卑猥に擦っている。

「お前みたいなただのヒトガタに!!この僕に、この王に、神に楯突く気か!?」

「サイナ、こいつは偉いのか?」

 目の前の『顔の無いハエ』の身体を、視線で透過してサイナに聞く。

「見ての通り、、それに他の誰にも構って貰えない上、真っ当な方法では上にいけない人—――同じ血を引いていて、恥ずかしい限りです‥‥」

 わざとらしく顔を振って、ネガイの肩に頭を乗せる。

「なら俺と一緒になろう。もう二度と、こいつの血縁じゃないって言わせる為に」

 階段から降りながら聞くと、サイナは一歩踏み出しながら、杖を腕に付けたままで両手を重ねる。

「今度こそプロポーズですか!!‥‥はい、お受けします♪」

「よし、逃がさないからな。覚悟しろ」

 魔女狩りの拳銃を腰に戻して、「爪」の柄に手を乗せる。

「じゃあ、今日は2人きりですね♪」

「悪い。ネガイとの約束がある」

「‥‥今、その口で言いますか?許し難いですね‥‥」

 今日で2回目のそれだった。だけど、こんな軽口を言い合える時間が、俺にとって最良の時間だった――――モーターホームに行けば、サイナは常にいた。何かが欲しければ、サイナの膝の上で待っていれば、なんでも貰えた。

 サイナはわがままな俺を手で慰めてくれた。

 あの時間は忘れられない。あの時間は俺の物だ。誰にも奪わせない、誰にも使わせない。サイナの身体も時間も声も、全て俺の物だ。

「サイナ、帰ろう。皆んな待ってる」

「‥‥はい」

「サイナは俺の相棒だ。いつも通りに帰って仕事をしよう。いくらでも付き合うし、付き合ってもらうから」

「はい♪」

 サイナの半分がヒトガタであろうと関係ない。サイナが人間でなくても、構わない。俺も人間じゃないからだ。

「サイナ!!お前は俺の妹で、俺の物だろう!?そんな奴捨てて」

 最後まで言い切る前に、『顔の無いハエ』は顔を殴られて真横に飛んでいった。

この人は私の相棒で、恋人です―――。この人を貶すという事は、選んだ私を貶す事です。調‥‥」

 思わず顔が緩んでしまう。あの時のサイナだった。間違いなく俺のサイナだった。

「不本意ですが、あなたが私の兄である事は認めます。だけど、それも今日まで――私は、あなたからもあの家からも縁を切ります。私は今日から、オーダーのサイナとしてだけで、生きていきます。、害虫が私の視界に入るんじゃない!!」

 ネガイに放ったような横振りを、サイナが踏み込みながら『ハエ』に放つが、『ハエ』は本当に強化されており、翼をひと振りしただけで高くへ跳ね上がる。

「だったら、お前の希望を奪ってやる!!お前に、またって言わせてやるよ!!」

 来るとわかっていた。

「お前がいなければ、サイナは俺の物だったんだ!!お前は、ここで消えろ!!」

 抜刀だ剣術だ――――そんな物は知らない。

 化け物はいつだって、本能のままに奪ってきた。

 重量を無視した図体を使って、空から突進してくる。空気が震えるのがわかる。突き出された杖が、空気の断層を引き裂いているのが肌と耳で感じ取れる。

 ―――しかしそれでも、こいつは人間だった。本当に俺を潰したなら、その図体で潰しに来ればいいものを。—―――やはり、飛び込むのが怖いのだろう。

「感謝しろ」

 鞘を引き抜く

「初めての血がお前だ」

 月灯りに照らされた刃は、なんて生温い物ではなかった。

「ひっ!?」

 もう止まる事の出来ない『ハエ』は、無い顔を背けて杖での激突を選んだ。

 確実にこの杖は、日本どころか世界中に視線を向けても、特異で最先端な技術なのだろう。しかもそれが個人為にチューニングされている。

 壊すには惜しい。

「貰ってやる」

 爪を突き出して、『ハエ』と杖の接触面を

 ろくに前を見れていなかった『ハエ』はそのまま床に激突して辺りに黒い血を撒き散らす。腕を抑えてのたうち回っている間に別方向に飛んで行った杖の袂まで拾い上げる。こびりついた黒い皮膚を削り落とす。

「戦利品として貰ってやる」

「そ、それは僕のだ!!」

 残っている手で掴みかかってくるハエへ、爪を突き出して迎え撃つ。

 化け物は襲ってくる奴には迫らない。いつだって、化け物は自分の住処を守っているからだ。それでも外に出る時は、獲物を取る時だけ。

 もう獲物は奪った。何もしないで横たわっていればよかったものを――――死んだふりは人類最高の叡智だというのに。諦めてただの人間らしく振る舞えばいいのに。

 ―――先端が触れただけで、黒い皮膚が裂けていく。この切っ先から黒い細胞全てが逃げ去るように、道を作り出してくれる。

 自分から襲ってきておいて、『ハエ』は叫び声を上げる。痛みとこれから味わう苦痛への恐怖を知らせてくる。

「いい判断だ。それとも偶然か?」

 飛行を誤ったのか、それとも羽が腐り落ちたのか、バランスを崩しながら真横を通り過ぎていった。

「背中を見せたな?」

 床に激突した『ハエ』は、もはや振り向きもしないで、足で逃げていく。背中を見せられたら、

 杖を捨てて刃を鞘に戻す。

 縮地を使って鞘で後頭部を殴りつけながら追い越す。だが、倒れる時間すら遅い。

 柄で顎を突き上げて、一度鞘を手放し―――膝で蹴り上げる。

「どうした?終わりか!!」

 挑発が気に障ったハエは踏み留まりながら、肘だけが残った両腕を振り下ろす。

 下ろされた腕は、鞭のようにしなりながら迫ってくる。だが、揃えられた腕は真横から見ればだった。

「遅い!!」

 漆黒の鞭が白銀の光が縫い止めた。ネガイがレイピアを使って両腕を串刺しにした瞬間、動脈でも切れたように刺された箇所からも、手首が千切れた切断面からも黒い血が溢れ出る――――ネガイはそこで止まらなかった。

 腕を拘束したのを確認した時、SIGproを「ハエ」の顔面に撃ち続ける。

 顔面への銃撃を防ぐ為、尻尾でネガイを叩き落とそうする。けれど、空気を突き破る音を携えた

「甘い甘い♪」

 サイナは杖で尻尾を地面に縫い付け、足で踏みつける。尻尾を杖で縫い付けたまま―――力任せに引き千切った。

 千切った勢いを使いサイナが離れたところで、ネガイも腕を切り落としながらレイピアを振って離れる。

 肘の少し先程しか残っていない『ハエ』は眼前の俺に雄叫びを浴びせると、肘を断頭斧の如く、両腕を使い振り下ろしてきた。

 攻撃手段はもう限られていた。振り下ろす程度しか出来ないのは、知っていた。

「ノロマが、頭も鈍いのか?」

 振り下ろされる肘を後ろに回転しながら避ける。同時に鞘を持った拳を突き出す。

「—―――っ!?」

 肘を放った瞬間、拳を失った腕で。今の俺には星が3つあるのだから、この空間の事象全てを見通せる。

 それ以上に向こうは理解不能出来なかった事だろう。と。

「お、お前—―――!?」

 ようやく俺の背後にいる方を感じ取れた。ない筈の顔が震えて、膝が笑い始める。

―――」

 突き出している拳に力を込めて、『ハエ』の腕を突き上げる。その瞬間、『ハエ』は完全に身体がうわずり―――

 縮地の勢いを上乗せした化物カミの全力を柄に乗せ、胸の間に叩き込む。

 そしてもう一度、胸を貫通する勢いで鞘を蹴り上げる。

 突き上げられた身体のコントロールを失った『ハエ』が床に仰向けに倒れる直前、鞘で顔、顎を打ち上げ、魔女狩りの銃で胸、腹を撃ち続ける。

 ただの暴力を受け続け、黒い血を撒き散らしながら顔を背けて胸と腹を手で抑える。震える身体を庇う事しか出来なくなった『ハエ』は、声すら上げない。

 声すら出ないのか。それとも。何も吐き出す事もなく呼吸すら忘れている。

 けれど、は止め、振り返り様に残っている腕を振ってくるが、化け物に届く前に真上から押し潰す―――切断する杖が降ってくる。

「まだまだ足りませんよね!?」

 化け物を背後に守るように、舞い降りてきたは、杖を真一文字に振り、もう一度『ハエ』を弾き飛ばす。細腕からはあり得ない膂力を受けたハエの身体は、もはや先ほどまでの身体は維持出来ていなかった。

 6割も黒の肌を保てていなかった。

 そして、弾き飛ばさていた場所には、がいた。

 突き出されたレイピアに、脇腹を刺され悲鳴を上げる。女神はそこで止まらず、2度3度と引き金を引く。

 振る腕すら無くなった無防備な『ハエ』にかぐや姫が、杖を片腕に足音を立てて近付いていく。

「覚悟はいいですね?」

 人間の姿をしていなくとも、飛び散る黒い血で痛みを知る事ができる。

 ただの声の震わせ、でも。

 。ほとんど人間に戻ったとしても、かぐや姫は止まらずに続ける。

 帝が原因となってかぐや姫は月へと帰った。

 本当は、帝がいなくとも、月へと帰っていたかもしれない。しかし、このかぐや姫は選んだ。どれほどの生活が約束されていようと、どれほど帝からの寵愛を受けようと、地上には戻らないと決めた。

 千切れた黒い腕を片手にしたかぐや姫の高笑いが、球体のある部屋全体に響く。

 この場の誰もが気付いた事だろう。

 やはり、やはり――――は、のだと。




「血の聖女、並びに双方を確保。回収を待つ」

「了解。作戦成功。繰り返す、作戦成功—――」

 今更隠せる物でもないので、シズクには秘匿回線で全てを話した。もうすぐ、イミナさんが来るだろう。その前に、振り返ってやるべき事を済ませておく。

「平気か?」

「平気平気、やっと休めるよ‥‥」

 肘を抑えるように、手を当てているイサラが横たわりながら答えてくれる。隠していたが、『先生』との戦闘は、堪えていた。

 確実では無かったが、意識を奪ったつもりだったのにしぶとかったようだ。

 球体の中でも戦闘が始まっていたのだと、悟った―――また、イサラに救われた。

「‥‥脱げ、見せてくれ」

「変な事は帰ってからね?」

 Yシャツを脱がせながら、身体とを見せもらう。

「肘か‥‥」

「うん‥‥本調子に戻るには、ちょっとかかるかも‥‥」

 イサラはなんでもないように言ったが、肘が赤く腫れ上がっている。痛みも尋常ではないだろうし、完治するには時間がかかると断定できた。

「ありがとね、止めないでくれて。あの女に手錠を掛けられて、満足‥‥」

「‥‥止める時間が無かったんだ。背中にいてくれて、ありがとう‥‥我慢できるか?」

「このぐらい日常だよ。‥‥だから早くやって‥‥」

 スポーツタイプの肌着を着ているイサラは、谷間を顔で隠すように見つめてくる。

「‥‥怪我人相手に、狼狽るかよ。‥‥何から何まで、面倒見て貰ったな」

 酷かったのは腕だけではなかった。

 腹や胸の下、それに脇腹には、警棒か何かで殴られたような痕があった。

「あはは‥‥あんまり見ないで、私‥‥これでも‥‥」

「イサラは女の子だ。ネガイ、代わりに塗ってくれ」

 腰から包帯を出して、バックルをネガイに渡す。ネガイも無言で受け取ってイサラの傷に塗っていく。出血こそ多くはないが、だからこそ青あざが生々しかった。

 身体の傷はネガイに任せ、イサラの肘を少し曲げて、骨を突き出させて内側の関節で十字を作り巻いていく。最後には、肘もまとめて包帯で覆う。

 使、どの箇所を補強すればいいのかを透視できた。

「すごいねぇ、なんていうか。すごい気持ちいい‥‥」

「‥‥キツかったら言えよ。何回でも巻いてやるから。いくらでもわがまま言え」

「‥‥ふふ、彼氏ってこんな感じなのかな?」

「俺だけが特別なんだ。後は任せる。ソソギの方を見てくる」

 ネガイの肩に手を置いてバックルを託し、『先生』を見張っているソソギとカレンの待つ球体の中に入る。

「入るぞ」

「きゃあ♪先生、着替えてたの―――ソソギちゃんの彼氏、沸点低いね‥‥」

 舐めた事言って来たのでM66をこめかみ近くの壁にぶっ放す。無駄な1発を使ってしまい、経費として提出する手間が増えてしまった。

 ソソギは拳銃片手にYシャツの前を開けていた。その上で手術台に座ってカレンに包帯を巻いてもらっている。イサラと同等に決して無視できない傷を負っていた。

 見張られていた一見すれば『先生』はやり過ぎでは?と思うほどに、腕や足の関節を全員分の手錠で繋がれて、身動き一つ取れずに壁に寄りかかっている。

 だが、実際俺の手錠を腕を引っこ抜くという方法で外しているので、まともに付き合う必要は無い。

「‥‥足は、どうだ?」

「巻いてくれる?」

 近くにあった椅子を運んでソソギの足を置く。ソソギもイサラも何も言わないが、中でも当然戦闘があったのが、荒れ果てた手術室の様相で判断できた。

 また元から負傷していた腿の辺りを狙われたらしく、大きく腫れている。

「結局、また守ってくれたな‥‥。痛かったら言ってくれ、我慢するな」

「‥‥いい。やって」

 歯を食いしばりながら呟いた。隙を突かれ、完全に折られたようだった。

 腫れて青くなっているソソギの腿に、近くに落ちていた何に使うかも知らない鉄の定規らしき物を添えて包帯で巻いていく。

 一巻きする度に顔を歪めるが、カレンも手を貸してくれた為、数秒で済んだ。

「いいよねー。傷の治療も出来て、喧嘩も強くて、優しくて、立場もある彼氏って。先生もあと‥‥数年早ければなぁー」

 ヨーク連発銃を握ったソソギの指が、引き金に触るのはわかっていた。

 誰がオーダー街に捨てたのか、この人間が知らない筈がないのだから。

「もう終わりだ――――ここで撃てば、この人間は完全な怪我人としてオーダーに受け入れられる」

 その上、戦闘行為が終わった後に行われた発砲での傷は、関係者保護の観点から法によって守られる。

 散々、警察が暴力で吐かせてきた過去があるから生まれたルール。

 オーダー自身が無罪を証明するのは難しい。俺やカレンはソソギの身内、俺達の証言は、ソソギを庇っているものとして見られてしまう。

「‥‥私達は、この人間に――――」

「この人間に、これ以上時間をくれてやる必要はない。もう、

「‥‥ごめんなさい。外の空気が吸いたいの。カレン、手伝って」

 カレンに肩を貸してもらったソソギが、共に外へ出て行った。残ったのは俺と『先生』となった為、魔女狩りの銃を向けると、が頭に浮かぶ。

 銃を見た瞬間、余裕だった雰囲気は消え去り、銃口から目を離さなくなった。

「これも元は、あなたのか?」

 元から大きな目を開いて、驚いたリアクションを取ってくる。。この容姿の全ては、元はヒトガタから奪ったものだというのに。

 漆黒の瞳に、傷だらけだが透き通るような白い肌、長い手足と揃えられた指。そして、白衣とレザースカートを内側から押し上げる肉感的な体型。

 見れば見るほど、引き込まれる。

「—――すごいね。気付いたんだ。それともカマをかけただけ?」

「‥‥勘だ。それと、あなただろう。

「先生ショックだなぁーそんな年上に見えてる?でも、実際そうだよね〜ソソギちゃんどころか、カレンちゃんにも負けちゃったし」

 軽い口を叩いているが、視線は銃から一切離さない。無駄に時間を取らせて法務科の到着を待っているらしかった。

 この人も『外への扉』を望んでいるのかどうかわからないが、『サイナ』を望んでいたのは間違いない。そうでなければスポンサーの意向だったとは言え、ここで運命を共にする必要は無い。

 ここでサイナに、から、危険を承知で留まった。

 だけど、それは終わった。他に聞きたい事がある。

「答えろ。のも、あなたか?」

 聞いた瞬間だった。『先生』は、人間に相応しい―――—憤怒の感情と成った。

「‥‥そんな事聞いてどうするの?」

「知ってるなら答えろ。あなたじゃないなら、誰だ」

 ずっと考えていた。ヒトガタにして男性の俺は、一体どうやって生まれたのか。そもそも、

 俺の自動記述は不完全だった。仮面の方は、あえて俺をヒトガタから離したと言っていた。あの方の言う事に間違いはない。

 しかし、まだ俺に言っていない事があるのは間違いなかった。

「あなたは、やっと喋った、と言ってたな。喋る前の俺に会った事があったんじゃないか?」

「‥‥ふーん、続けて」

「あなたがここにいるのは、ヒトガタと人間の融合の専門家であり、繋ぎ合わせる技術者だからだ。あのハエの力を生み出したのも、あなただ。あのハエに、あんな専門的な知識、自分を自分で改造できる度胸があるとは思えない」

「‥‥それで?」

「やっぱりサイナを産むように言ったのは、あなただ。そして―――サイナの親であるヒトガタを連れてきたのも、あなただ」

 サイナの家が、元々ヒトガタと関わっている可能性もあったが、サイナを生まれさせられる知識を持っている人物は限られる。もしくは、この人だけだ。

「う〜ん、面白い推理だけど、それを証明できないし、したとしても?」

 そうだ。こんな事に拘った所で意味が無い。だけど価値はある。価値があらねばならない。

「俺は貴重な男性型のヒトガタ」

「うん、そうだよ。昔、君の下の世話も、あ、言っちゃった♪」

 もうドームに足音が響いている。法務科がすぐそこまで来ている。誤魔化そうとしているが、俺は聞かねばならない。

 サイナが人間とヒトガタの間で生まれた天然の宝石、イネスはサイナの予備や補助として生まれた人工の宝石。だったら、俺は、俺は――――

「俺は、

「—――後、

 お互いが舌打ちをした。

 サイナは外への扉を開ける役目を持っていた。だが、それを行うにはイネスという補助が必要だった。どこまでも繋がる力を持ったヒトガタが。

 だけど、。外の景色を見て、それをこちらの人間に教える事が俺の誕生種だった。多くの少女達の血にヒトガタの個体を消耗しなくとも、この身、この眼だけで全てを賄えてしまえる。

「全部死体だったのか?」

「さぁ?私は材料を提供されただけだから。見た事ない精子と、聞いた事もない卵子と、触った事もない子宮。それで君を作り出した――――私だって悔しかったんだよ。名称と総称だけの肉を渡されてさ。これでもヒトガタの知識については、自信を持ってたのに、どれもこれも見た事が無くて‥‥」

「雄として生まれるのは、想定内か?」

「言った通り。私は何も知らないの。まぁ、男の子として生まれるってわかってたら、絶対に離さなかったけどね」

 それだけは想定外だったのか、心の底から不満を持っているらしく整った顔の口や目元を歪ませている。

「誰からの命令だ?」

「命令を出した人達は、皆んな消えちゃった。偽名だったのか、死んだのか、もう調べられないかな?」

 階段を上がってくる音がする。そして、扉に手をかける音も、

「時間切れかな?褒めてあげるよ、君は、君の真実に辿りついた。またね♪」




「知ってたんですか?」

 ネガイに頼んで、少しだけ仮眠を取らせてもらった。

「勿論です」

 手を握る。

「俺が、いつか辿りつくって、わかってたんですか?」

「‥‥怒ってますか?」

「いいえ、愛しています。—―あなたは、待っていたんですね。この日が来る事を」

 俺が自分の真実に辿り着く事を、この方は知っていた。

「はい、今日という日を、私は待っていました。あなたに、あの刃を送る日を、あなたがヒトガタの呪縛から、

「‥‥1番、誰よりもヒトガタに興味を持っていたんですね。俺は‥‥」

 カレンの選ぼうとしていた生き方を聞いて、俺は興味を持ってしまった。ヒトガタという種族の始まりと終わりを。自分の肉体を捧げる程の主への想いとは、一体どれほどのものなのか。身を捧げた後の快楽を。

「‥‥ヒトガタって、皆んな痛いのが好きなんですか?」

「身を捧げるとは、多くは痛みを伴います。大半のヒトガタの生は、身を捧げる事で終わりを告げます。痛みが好きなのは、最後の最後まで人間の為であるべきと、作られたからです。だって、毎日、痛くて気持ち良ければ、最後が怖くないでしょう?」

 最後の最後まで、ヒトガタは人間の為に生きるに。

 ソソギとカレンが、あれ程までに帰りたがっていた理由がわかった。あの『先生』がいた場所は、2人にとって死ぬ程の快楽を約束してくれる場所。

 身を捧げるという最後の痛みを、2人は味わいたかったのかもしれない。

「あなたはどう思いましたか?人間の血肉の一部となっているヒトガタを見て。気持ちが良さそうでしたか?」

「‥‥それは一部になったヒトガタでなければわかりません。でも――――俺も、あの場にいたら、望んだかもしれません」

 人間に咀嚼されて飲み込まれる。そんな最後おかしいと思えるのは、俺がヒトガタらしい生き方をしていなかったからだ。

 俺もソソギやカレンと同じように生きていたら、あの女の一部になっていたかもしれない。

「では、あなたはヒトガタとなる事を選びますか?私は構いません。あなたがヒトガタになろうと、何度でも、食べてあげますから」

 握っている手に力が入る。向けられている真紅の眼球が、品定めをするように身体を見つめてくる。

「完全なヒトガタになれば、今以上の痛みを約束できます。人間達が得る事を恐れた、自分が消えていく感覚は、今以上の快楽です」

「‥‥今、俺は分岐点に立っているんですね」

「はい。ヒトガタとなるか、人間となるか、化け物となるか。どれでも構いません。あなたの望むように」

 俺の誕生種は、外の世界を見る事だった。今の今まで、そんな物は捨てたつもりだったが、ヒトガタの呪縛はすぐ隣にあった。

 ヒトガタの視点も、人間の視点も、化け物の視点も、そしてオーダーの飼い犬としての視点も持った。

 どれもこれも俺が覗いてきた世界だ。そして身を浸した世界だ。どの世界の快楽も得てきた。

「ふふ、さぁ、選んで下さい。どの世界の痛みが、あなた好みでしたか?」

 俺がどれを選んでも、この方は食べてくれるだろう。今以上の快楽を望むならヒトガタだ。それは今以上の絶頂を約束してくれる。

「それとも私を食べますか?」

 人間として欲望の権化として生まれるのも、いいだろう。望むままに振る舞ってくれるのだから。また化け物として仮面の方を貪るのも心地よかった。温かい肌と柔らかい粘液に包まれた絶頂は、耐えがたかった。

「‥‥あなたは」

「私はどれでも」

 思わず、笑ってしまった。

「あなたは、俺のことを

「むぅ!わかってますよ!!わかってるから、聞いてあげてるのに!!」

 握っている手を弾いて、どこからか取り出した仮面を被り腕組みをしてしまった。

「ごめんなさい。なんでもあげますから、機嫌を治して下さい」

「いいえ、怒りました!!」

 困った。怒っているのに、可愛らしくて顔が戻らない。

「また笑ってますね!!」

 仮面をしながら、頬を膨らませてくる。ああ、もう可愛過ぎた。

 慣れない腕組みをした所為だ、どこがバランスがいいのか試行錯誤している。首を捻って考えた末に、肘掛けに腕を投げ出してしまった。

「いいですか!!私は、あなたの事を1番理解してます!!ネガイさんやマトイさんにも、負けないって自負してます!!」

「はい。俺もあなたの事を、この世界で1番理解できるって思っています」

「そうです!!そうなんです‥‥あれ?」

 もう一度首を捻った隙に、仮面の方を玉座から持ち上げる。不満を頬で表現してくるが、腕を首に伸ばしてくれた。

「私で遊ぶなんて、食べちゃいますよ」

「どうか食べて下さい。どんな罰でもお仕置きでも、俺は快楽に変えてみせます」

「‥‥無視しちゃますよ」

「なら、あなたを振り向かせてみせます。俺は強欲です」

「私、わがまま言いますよ」

「いくらでもどうぞ。あなたの命令なら、どんな内容でも従ってみせます」

「悪い子になりますよ!!」

「なら、一緒に悪い事を考えましょう。俺はそういうのよく知ってますから」

 俺は多くの視点を持っている。多くの快楽も、痛みも味わった。受け入れ難い苦しみも絶望も、喜びも、全て俺の物だ。

「選んでと言いましたね――――最初から決まってます。全部俺です。これは、もう決めています」

「‥‥負けた気分です」

「初めてあなたに勝ちましたね。愛してます」

「もう!!ここでそれを言いますか!!‥‥私もです。私の星にして宝石よ」

 玉座に座って、仮面の方を肘の上に乗せる。

「あなたが、自身の血肉を持っていなくとも、あなたが継ぎ接ぎだらけの肉塊であろうと、私はあなたを愛します」

「約束してくれますか?」

「約束です。あなたはどうですか?」

「俺も、あなたがどれほど遠く離れた存在だったとしても、この姿が仮初だったとしても、あなたを愛します」

 手を取って、口づけをする。

「だから、機嫌、直して貰えませんか?」

 仮面を奪って、目を見つめる。

「‥‥私は、またあなたで遊びました。それに‥‥あなたに言うべき事、まだまだ沢山あるのに、全然教えられていません」

 仮面の方が、額に口をつけてくれる。

「それに今のだって――――あなたは私の物なのに、あなたを試しました。何も言わない私を、嫌ったりするのでは」

「しません」

「‥‥私、すぐあなたの身体が欲しくなります。何度食べても、足りません。私の都合で呼び出しても、怒りませんか?」

「怒りません。少しだけ詩で遊び過ぎましたね。しばらく禁止します」

 どこからどの詩を持ってきたかのか、人の心が描かれている詩を読み過ぎていた。

「俺は初めて会った時から、あなたに惚れています。あなたはいつだって、俺の為になんでもしてくれました」

 仮面の方を抱きしめて、更に引き寄せる。

「俺は変わりません。この後に何が起ころうとも、あなたを愛していると言い切れます」

「‥‥あなたが、どんな怪我を負ってもですか?」

「俺が怪我をするなら、望むところです。俺はあなたの望まない俺にはなりません。にも成りません」

「覚えていましたか」

 俺と繋がりを持つという存在が、一体なんなのか、どれほどの存在なのか――――それを知っているのは、この方だけ。

 ヒトガタと貴き者の継ぎ接ぎがどう関係しているのか、俺には知る術もない。

 だけど、これだけは言える。

「俺はあなたの宝石で星です。あなたの手から消える事も、超える事もありません。俺は人間じゃないんです。だから神と決別する気はありません」

「‥‥約束、してくれますか?」

「約束です。俺はあなたの隣にいます」

 これがどんな結果をもたらすか、いつか俺は知る事となるだろう。この方の恋人となる事を選んだ俺は、その対価を支払う事となる。

 マトイやイミナさんは、この人を上位の存在と言った。人間など歯牙にも掛けないこの方との契りは、俺を更に上へと持ち上げて行っている。

「あの刃は、イミナさんに持っていかれました」

「ふふ、そうですか‥‥。だけど、私も一度回収するつもりでした」

「‥‥あれは、一体」

「これもいつかお話しします。もしくは、あなた自身が知ることになるでしょう」

 掴んだ瞬間にわかった。あれは―――

「‥‥俺は、3つの星を手にしたのですね」

 恐ろしい程に、あの『ハエ』の動きが。どこに立って切っ先を向ければいいのか、

「一時ですが、あなたは3つの宝石と3つの星を手にしました。その対価は、私の血と、神の血で打ち消されました。もうわかりますね?」

「あれを使う時は、あなたとあの人の血を飲みます」

 なぜ、あの人の人形にイコルと呼ばれる神の血が流れているのか、そもそもあれは本物なのかすら俺にはわからない。

 だが星を扱うのに対価が必要なのは、重々承知している。俺の星は、生命の危機どころか死にかけなければ、眼を開かない。命を賭さねば応えてくれない。

「はい。そうして下さい。あの刃をあなたに渡したのは、あなたと人形が交わったから渡したのです。時期尚早でしたが、あなたは知るべきだと思いました。どうでしたか?私と同じ視点は?」

 と思った。

「あれがあなたの世界なんですね」

「怖いですか?」

 見ようと思えば、何もかもが見えそうだった。俺の恋人達の最後の時まで見渡せそうだった。見てしまったら、あれが確定してしまう。

 本能が叫んだ。見るな。視界に入れるなと。

「‥‥はい」

「あれを使う時は、。そうすれば星や宝石は、あなたの望む答えをくれます」

 この人が言っていた選ぶという意味が、今わかった気がする。俺は選ぶ事が出来た――――あの「ハエ」を切り捨てるか、それとも武器を奪うか。

 あの時、刃を引き抜いた瞬間、俺は確かに

 指で摘み上げるように、突き落とすように――――未来が選べた。

 あれは戦闘などではない。多く分岐する世界の一つを選び取っただけだった。

「しかし、あなたは私が思った以上でした」

「すみません‥‥期待外れでしたか‥‥」

「まさか、あなたは一瞬であの刃を自分の物にした。少しでもあなたに逆らうようでしたら、私が直接—―――やめておきましょう、ふふ」

 腰の上に乗っているのを忘れて、普段、この方が『小物』と言っている時の空気が溢れたが、笑顔でそれを隠した。

「今日はこのぐらいで。憂いも晴れましたから。それに、丁度いい格好ですしね♪」

 その意味がわかった瞬間、俺の口に入ってきた。俺も仮面の方の口に入ろうとしたが、舌の勢いに負けて自然と身を捧げてしまった。

「いい子ですね。私で遊んだ罰です。ちょっとだけ、我慢して下さい」

 口を離した瞬間、腹に腕が入り込んだ。

「ふふ、いい顔‥‥」

 肝臓か、膵臓か、どちらともわからない内臓を潰された時、口から血が噴き出る。

「勿体ないですね」

 口から溢れる血を、口で塞いで飲み続ける。

 意識が朦朧としてくる。肺に血が溜まってしまい息が出来ない。

 だけど、仮面の方の舌は感じ取れた。同時に擦りつけてくる胸や下腹部の柔らかさと体温が、血を一箇所に集めてくる――――だけど、集められた血は全て奪われる。

 仮面の方は、俺の血が欲しければ、欲しいだけ俺の中を掴めば血を絞り出せる。それ以外の体液はまだいらないらしい。

「美味しい‥‥でも、やっぱり心臓からの血がいいですね」

 腹から胸に移動させて、心臓を撫でてくる。

「やっぱり、私はあの鮮やかな色が好きなんです」

 が、自分の耳で聞こえた。

「いい感触ですね。何度潰しても飽きません。もう一回いいですか?」

 手の中で再生される心臓を――――また潰す。

「すごいですね。まだ意識がありますか。ふふ、そんなに私が欲しいんですね。でも、まだ遊んでいいですよね?」

 潰される度に、口から鮮血が溢れ出す。

 先程から流れていた使い切った血じゃない。俺の命を繋ぎ止める生命の水を面白がって、自分の喉を潤す為に奪ってくる。血を失うたびに指から力が抜けていく。肩が上がらない。首も立て直せない。

 仮面の方がおもちゃのように弄ぶ。心臓に飽きたら、血管を抜いて遊び始めた。

「熱いですね。こんなに血を抜いてるのに」

 どこの事を言っているのかは、明白だった。

 腿を撫でて、更に血を流すように促してくる。

「今日はどうしましょう。バラバラは今度にして‥‥。ふふ、今日も食べながらにしますか。どうか耐えて下さい、―――」

 肩と首の間の肉が丸ごとなくなった。噛みちぎられた。

「美味しい。本当に、あなたは美味しいですね‥‥」

 もう何も見えない。目に回す血を失った。しかし、感じ取れた。舌舐めずりと共に首に回される腕が。そして吐息と紛れて響き渡る、血が張り付き、別れていく音が、

 仮面の方は、捧げた全てを――――喰らってくれた。

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