第一章   なごり雪

 吐息は恐ろしく冷たく、心ノ臓まで凍りつかせた。魂を抜かれたように、ふらふらとタラップを降りる。

 上州名物の空っ風が派手に吹き荒れ、戸惑う孝一を嘲笑うが如く歓迎した。

 砂ぼこりで、まともに目を開けていられない状況のなか、ゆっくりとバスが走り出した。なんだか置き去りにされたような気分で物悲しくなった。

「俺にどこへ行けってんだよ」

 自分の故郷であって、自分の故郷でないような、どこか居心地の悪さを感じながら途方に暮れて立ち尽くす。

 夜の帳が降り、あちらこちらに灯る明かり。大切な人の帰りを待つ暖かな明かり。

 だが、今の孝一にとって、心安らぐ場所など何処にもなかった。

 薄暗い外灯に照らされ、ぼんやりと浮かび上がる渡良瀬橋。血塗られた伝説のこの橋を渡れと?

「思えば、美里で暮らしていた頃は、何もかも上手くいっていたんだ。そう、怖いくらいに。世界は俺のために回っていると信じていた」

 高校を卒業して、町を離れてからというもの、孝一の築いてきた数々の栄光は、音を立てて崩れていった。

「どこで歯車が狂ったのだろう」

 北風小僧が、ひゅうと口笛を吹きながら、膝下でコートの裾を弄ぶ。

「俺の何がいけなかった? 知ってる奴がいたら教えてくれよ。誰か答えてくれ!」

 吐き出した怒りは、荒れ狂う波のように行き場をなくしたまま、再び孝一のもとに降りかかってきた。思い切り大声を上げて叫びたい衝動にかられた。

「あまり深入りしてはなりませんよ」

 車掌の声が、頭の中で針の飛んだレコードのように、繰り返し鳴り響いていた。

 バス停のベンチに腰掛けたまま、行く宛もなく佇む孝一の手は、ひどく悴んでいた。

 コートの袖を捲って腕時計を覗き込もうとする単純な指の動きさえも、鈍らせる。

 春まだ浅い上州美里の夜は、寒さが一段と身に沁みた。

 それにも増して、異常なほどに重苦しいこの体は、どうしたことか。無性に腹が立ち誰に向けるともなく「こん畜生め!」と捨て台詞を吐き出した。

 思い通りにならない体、思い通りにならない人生、全てが嫌になる。

 じっとしたままでいると、ろくな考えが浮かんでこない。重い腰を上げ、とりあえず近くの外灯まで歩くことにした。

 渡良瀬橋の袂をぼんやりと照らし出す灯りを目指して。

 鉛のように重い体を引きずりながら、川に沿う形で造られた、歩道もなく道幅の狭い県道を五十メートルほど歩くと、やっとのことで辿り着いた。

 立っているのも辛く、ふらふらとしゃがみ込むと、ぐるりと辺りを見回す。塗り直したばかりなのか、朱色の橋はいつにも増して鮮やかに見えた。異次元に誘う架け橋のようだ。

「渡るべきか、渡らざるべきか」

 途方に暮れたまま静かに瞼を閉じると、記憶の隅に追いやられていた懐かしい川のせせらぎが、孝一の耳に心地よい響きとなって蘇ってきた。

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