第49話 開かずのトイレ

 二十代後半の深沢友紀ふかざわともきさんに聞いた話だ。


「僕が通っていた高校にはクラブの部室ばかりを集めた校舎があったんです。みなは部室校舎って呼んでました。部室の大きさはどれも同じで、教室の三分の一くらいでしたね」


 当時の深沢さんは高校一年生でサッカー部に所属していた。サッカー部は部員数が五十人を超える大所帯のクラブであり、部室専用の校舎に三つの部室が割り当てられていたそうだ。


「一年から三年までの各学年ごとに部室があったんです。一年生の部室は三階の一番奥でした」


 その部室の隣りには男子用のトイレがあった。しかし、入り口のドアに鍵がかかっており、使用禁止の処置が取られていた。部員たちは開かずのトイレと呼んでいたという。


「部室校舎は職員室から離れています。トイレだとさらに死角です。タバコを吸う生徒がたくさんいたらしくて、僕が入学した頃には使用禁止になっていました」


 開かずのトイレというあやしげな名前がついていたからかもしれない。そのトイレには数々の奇妙な噂があった。


 ――誰かのすすり泣く声を聞いた。

 ――夜中になると扉が開いている。

 ――トイレの前で人魂が飛んでいるのを見た。


 霊的なものに懐疑的だった深沢さんは、それらの噂をまったく信じていなかった。しかし、あるとき信じざるを得ない体験をしたのだという。


 その日はサッカー部の朝練があった。深沢さんは練習開始時間の三十分ほど前に部室に入った。どうやら一番乗りだったらしく、他の部員はまだひとりもいなかった。


 ロッカーにバッグを放りこんでユニフォームに着替えていると、一年生部員がひとりふたりと眠たげな目をして部室に入ってきた。「ちーす」といつものノリで挨拶を交わす。


 一足先に着替え終わった深沢さんは、ロッカーの扉を閉めながら思った。ドリブルの練習でもしておくか……


 深沢さんはサッカーボールをひとつ手にした。油性ペンで『5』と書かれているボールだ。サッカー部のすべてのボールに紛失防止用の番号が振ってある。


「先にグランドにいってるわ」


 深沢さんはみなにそう伝えて部室を出た。しかし、すぐにそれに気づいて足を止めた。


(あれ、開いてる……)


 部室の隣りにあるトイレの扉が開いていたのだ。例の開かずのトイレだった。


(いつもは錠がかかっているのにな……)


 トレイの中はどうなっているのだろう。深沢さんは好奇心に駆られて足を向けた。扉の外から中を覗こうとしたとき、抱えていたボールがなぜかこぼれ落ちた。


「あ」


 ボールがトイレの中に転がっていく。


「やべっ」


 深沢さんはボールを追ってトイレの中に駆けこんだ。足もとでバキと音がする。壁から剥がれ落ちたタイルが床のあちこちに散乱していた。


 ボールは奥まで転がっていき、薄汚れた壁のところ止まった。油性ペンで書かれた『5』がちょうどこちらに向いている。慌ててボールを拾いあげた深沢さんは、入り口に向かって踵を返そうとした。


 そのときだった。背筋にゾゾゾと悪寒が這いあがってきた。


 な、なんだ……


 得も言われぬ恐怖に襲われた。


 なにかいる――


 はっきりと感じた。


 後ろになにかいる――


 恐る恐る背後を振り帰った深沢さんは、それを見つけて腰を抜かしそうになった。十歳前後と思われる小さな女の子が、逆さまになって天井からぶらさがっていたのだ。


 大きく見開かれた目、青白い肌、黒ずんだ体操服――


 女の子が生きた人間でないのは明らかだった。


 情けない悲鳴をあげたような気もするし、声すらだせなかったような気もする。深沢さんは転がるようにしてでトイレから逃げ出た。そのさいにせっかく拾ったボールを、またトイレの中に落としてしまった。


 ボールが気になりながらも隣りの部室に飛びこむと、サッカー部の他の部員が楽しげに雑談していた。深沢さんはそれに割って入って必死で説明した。


 開かずのトイレの扉が開いていたこと。体操服を着た女の子ぶらさがっていたこと。


 だが、深沢さんの話を信じていないのか、他の部員は怖がるようすを見せなかった。そればかりか興味津々に目を輝かせた。


「おもしろそうだな、見にいってみようぜ」

「お化けと初対面できるかもよ?」


 話を信じてくれないのは少しばかり癪に障った。だが、ボールをトイレに残してきてしまった。それを拾いに戻らないといけないが、ひとりでまたトイレに入るのはごめんだ。他の部員が興味を持ってくれたのはラッキーだった。


 深沢さんは他の部員をぞろぞろ連れて部室を出た。


 さっき、トイレのドアを開けぱなしで逃げだしてきた。トイレの前までいけば否が応でも中が見える。おそらく女の子はもう消えているだろうが、万が一まだ天井からぶらさがっていたら……


 大きく見開かれた目、青白い肌、黒ずんだ体操服――


 さっき見た女の子の不気味な姿を思い浮かべると腕に鳥肌が立った。だが、深沢さんはトイレの前で拍子抜けした。ドアが閉まっており、中を見ることができなかった。


 逃げだすときに無意識でドアを閉めたのだろうか。深沢さんが首を傾げていると、ひとりの部員がドアノブに手をかけた。何度かガチャガチャとやって深沢さんを振り返る。


「鍵がかかってんぞ……」

「え……」

「え、じゃないって。鍵がかかってる」


 さっきまでトイレの中にいた。鍵がかかているはずない。だが、深沢さんもドアノブに手をかけてみると、部員の言うとおりだった。ドアにはしっかりと鍵がかかっていた。


「なんだよ、つまんねえな……」

「まあ、こんなオチだと思ったけど……」


 他の部員たちは白い目を向けてきた。深沢さんの話を嘘だと思っているらしい。


「嘘じゃないって。ほんとにドアが開いていたんだよ。それで、中に小さい女の子がいたんだ」


 深沢さんは半ばやけになって、鍵のかかったドアを強引に押した。すると、バキッと音がしてドアが枠ごと向こうにずれた。


「あ」


 勢いあまってドアを壊してしまった。深沢さんは焦ったが、他の部員はおもしろがった。


「お、中が見えるぞ」

「マジで」


 ずれたドアの隙間から見えるトイレの中を、他の部員は我先にと覗きこんでいる。


 ややして、ひとりの部員が呟いた。


「ボールがあるぞ……」


 ボールには油性ペンで『5』と書かれてあった。深沢さんが落としてきた五番のボールだった。


 ドアが施錠されているというのに、トイレの中にボールが転がっている。あり得ないことが起きているのだから、女の子の話も信じてもらえるかもしれない。深沢さんはそう期待したものの、他の部員が興味を示したのはボールだけだった。


「どうやってボールを中に入れたんだ?」


 深沢さんはもう一度さっき経験したことを詳しく説明した。部室を出たときにトイレのドアが開いていて、小さな女の子が天井からぶらさがっていた。ボールは逃げだしたさいに落としてきた。


 しかし、やはり他の部員は深沢さんの話を信じようとしなかった。


「女の子の話はもういいから。それより、どうやってボールを中に入れたんだよ」


 いくら説明しても他の部員は聞き耳持たずで、深沢さんの体験をこう断言する者までいた。


「朝練だったから寝ぼけて夢でも見たんだって」


 あれは決して夢なんかじゃない。深沢さんはそう確信していたが言い返すことはできなかった。


 なぜさっきまで開いていたドアの鍵が今は施錠されているのか。なぜ高校に小学生らしき女の子の霊が出るのか。深沢さん自身にも答えられないことが多く、言い返す言葉が見つからなかったのだ。


 その後、トイレに残してきたボールは用務員にドアの鍵を開けてもらって回収した。信じてもらえない鬱憤うっぷんは残るものの、トイレの一件はこれで終わりだろう。深沢さんはそう予想していたが、実際にそのとおりになった。日をまたげばもうトイレのことは話題にあがらなかった。


 ところが、それからしばらくして不可解なことが起きた。サッカー部の部員が三人続けて大怪我をしたのだ。


 一人目はドリブル中に転倒して足首の骨を折った。二人目はシュートボールを腹部に喰らって肋骨が折れた。三人目はヘディングに失敗して瞼を数針縫った。


 運動部の部員が練習中に怪我をしたとしてもさほど珍しくはない。しかし、三人は同じサッカーボールを使って練習していた。深沢さんが開かずのトイレの中に落としてきたあのボールだ。


 紛失防止用の数字である『5』が油性ペンではっきりと書かれていた。


 女の子が五番のボールになにかしたのではないか。呪いのようなものをあのボールに――幼稚な発想だとわかっていながらも、深沢さんはそう思わずにはいられなかった。





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