第10話

次の日は土曜日で、ナツは夕方までぐだぐだと時間を過ごし、家に帰っていった。

その日はお父さんとお母さんが久しぶりに二人で出かけると言い、夜は私一人になった。土曜日はいつもカズもお父さんが家にいるから、ごはんは別々だった。

夜、リビングでテレビを観ていると、玄関からガチャガチャと音がする。

お母さんたちがもう戻ってきたのかと思うと、次にチャイムの音が鳴った。

誰かと思ってインターホンを取ると「俺」とカズの声がした。

「お前、自分ちは鍵きっちりかけてんのな。」靴を脱ぎながらカズが言う。屈んで後頭部が見える。うちの野球部は坊主がマストではないので、カズも短く髪を揃えるだけで坊主にはしていない。

「だって、お母さんたちいないし、ちゃんと鍵かけときなさいって。女の子だもん…。」

「あーまあ、そうだな。」そう言いながら、カズが私の横を通り抜けていく。そのままカズはリビングに入りソファに座る。建売住宅の私たちの団地は、大体造りが似ている。

「ご飯は?食べた?」聞いてから、ああ、またこんな会話…と頭の中で反省するも、どうしてもそういうことが気になってしまうから仕方ない。

「ああ。カレーライス。おやじが作れるのはそれしかないから。」

「そだね。」そう言って笑う。

「ん。」そう言って、ソファのカズの横をポンポンとたたいた。横に座れという意味なのだろう。私はおとなしく従う。

「最近、どう?」突然に言われて何のことかさっぱり分からない。

「え、何が?」

「いや、だから、最近。」

「最近って何のこと?」

「ほら。最近。」

「カズこそ、最近どうなの?野球部はもう慣れたの?」

「ああーまあね。うん。慣れた。先輩たちとも仲良くしてるし。」あごをかきながら答える。視線はそらしたままだ。

「…何かモメてたんじゃないの?」

「うーん…まあでも解決した。昨日のとおり。」

「…私、心配したのに。」すねたような声がもれて、焦って咳払いをする。

「うん。もう、大丈夫だから。」

カズがじっとこちらを見る。

「ごめん。心配かけて。」

「うん。」

「もう、大丈夫だから。」

カズは確かに言葉数は少ない。けれど、考えてみれば、言葉が足りていない訳ではない。

「傷、もう大丈夫?」

カズの口元にも顔にもまだ痛々しそうな傷が残っている。

「ああ、別に。平気。」

私はカズの顔を見つめて大きくため息をつく。

幼馴染の心配はどこまでなんだろう。私はカズのことを心配している。カズも私を気にかけてくれている。けれど、私たちは決定的な言葉を必要としない程に近くにいすぎている。

そうは思っても、もうこの近すぎる距離に生まれてしまった私たちはどうすることも出来ない。


翌週の放課後、図書館で本を読んでいると前の椅子に前田くんが座った。

「やあ」後の窓から陽が当たってその表情が見えない。

「どうも。」私は噂のことを気にしながら声を潜めて答える。

「この前言ってた本を渡そうと思って教室に行ったのに、今日全然教室にいなかったから、今日は休みかと思ってたんだ。」

「ちょっと用事があって…」私は言葉を濁す。教室で前田くんと話しているところをまた森川さんたちに見られたら、また噂が広がると思い、避けたのだった。

私はそれ以上、話しかけられないように、本に集中しているフリをする。

「…ねえ。僕たちが付き合ってるっていう噂があるの知ってる?」

顔を上げると、前田くんがイタズラをしたあとのような笑みを浮かべてこちらを見ていた。

「…知らない。」私はかすれる声で答える。

「そう?」それでも意にとめず話し続ける。

「なんだか光栄だな。君には中元くんていう幼馴染がいるのに、僕と噂がたつなんてね。」

「誰とだって、噂がたつんだよ。噂は噂。気にしなくていいよ。」

「へえ。気にしてる風に見えたけどな。」そう言って片眉を上げて見せる。見透かされているようだ。

「少なくとも、中元くんと噂がたつより真っ当なんじゃないかな。僕と噂がたつほうが。」

「それってどういう意味?」

「幼馴染との噂なんて、ただ一緒にいる時間がないからでしょ。過ごした時間に意味なんてないよ。」

大島くんのその言い方にはとてもトゲがあった。

何か、とても憎いものを目の前にしているように。


以前、ジュンくんが前田には気をつけろと言っていた友達がいた、と教えてくれた。後日、それについて聞いたところ、前田くんは特定の一人の女子と仲良くする傾向があるとかで、それだけ聞けば特にどうということのない、男子同士のひがみなんじゃないかと思う話だった。実際、その人も好きだった女の子が前田くんと仲良くしていて、焼きもちを焼いていたようだった。

「でもさ、なんつうの?心酔?みたいな感じになるとかで…それはちょっと心配だけど。」と苦笑していた。ジュンくんは面倒見がいい。

「まあ、ハルはなんか飄々としてるし、誰かに心酔するとかなさそうだけどな。」と言って笑っていた。

その話を聞いてから、前田くんと話してみると確かに心酔させてしまうような美しさが彼にはあって、なるほど、と思われた。声も話し方も落ち着いていて、時々声を潜めて笑い声があがるとドキリとする。


「この前、大島さんが貸してくれた本。なかなかおもしろかったよ。」

「そう?なんていうか、前田くんが読んでる本は難しそうな本が多いからどうかなあと思ったんだけど。」

「うん。自分で選ばない本だから面白かった。」

外では、グランドで部活動をしている生徒たちの声が聴こえる。そろそろ梅雨に入る頃だから雨の季節になると、この声もしばらく聞こえなくなるだろう。そしたらすぐに中間テストが始まる。

私がぼんやりと窓の外を眺めていると、そっと手が伸びてきて前田くんが私の手に自分の手を重ねた。その冷たさに思わずびっくりして、手をひっこめようとしたけれど、前田くんが手に力を入れてそれが叶わなかった。

「ちょっと…離してくれる?」声がこわばる。私たちの他にはいつの間にか誰もいない図書館で、その声が思いのほか響く。きっと貸し出しカウンターには司書の先生がいるに違いないが、ここからは死角になっている。

「ねえ…噂を本当にする気はない?」声を潜めて、前田くんが言う。その表情は穏やかで、緊張している様子もない。その手がひどく冷たいのが、逆に怖かった。

「何言ってるの…?」

「大島さんと話してるの、すごく楽しいんだ。本の話だけじゃなくて、もっと色々話したいと思う。どうかな?僕たち本当に付き合わない?」

雄弁なその言葉とは裏腹に全然熱量が感じられない。涼しい瞳をしている目の前の少年。

「私…。」頭に浮かぶのはやっぱりカズの笑顔だった。「私…」思うように言葉が出てこない。

前田くんは手に更に力を込める。

「ねえ。幼馴染同士でこだわって、なんになるの?本当に好きなのかな?それって。ただの思い込みなんじゃない?」

前田くんの瞳の色に、強い感情が宿っている。

ただの思い込みかもしれない、それは私自身も考えたことだった。

けれど…

ぱっと前田くんがその手を離す。先ほどの私が出した声を聴いてか、司書の先生が様子を見に来ていた。「どうしたの?」心配そうに声をかけてくれる。

「何でもありません。ちょっと、大きな声を出しちゃってすみません。」前田くんが涼しい顔で答える。

私は急いで立ち上がり、鞄と本を持って出口に向かう。

司書の先生が目で大丈夫か問いかける。私は無言で頷く。頭を下げて、図書室をあとにする。

背中にじっとりと嫌な汗をかいていた。






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