半径3㎞の物語

相沢優子

第1話 

「おばあちゃん、これなあに?」

「んー。あら、やだ。ハルちゃんたらそんなの持ち出して…」

それは木箱に入っていた。

おばあちゃんの家の二階。古い和室の匂い。陽の当らないその部屋にはお仏壇がある。窓に面した作り棚に、花札や古い切手が閉まってあり、小学生の私には宝物探しみたいだった。

それは、作り棚の奥にひっそりと入っていた。

紫色の風呂敷に包まれた、手の平サイズの箱。

秘密の箱を見つけた…そう思って、そっと箱を開けた。

中には白いもの。


「これは…おばあちゃんの大切なものだから。ハルちゃん、仕舞っておいてね。」

そう言って、おばあちゃんは箱を元に戻した。

「ハールー!」下から、幼馴染のカズの声。

「はーい!」返事をして下に降りようとすると、呼び止められた。

「これを見つけたことは、内緒に、ね。」おばあちゃんがそっと唇に指をあてる。

その仕草がおばあちゃんには似つかわしくなくて、

おばあちゃんが一瞬女の子みたいに思えて、

胸が一瞬ざわりとした。

なんだか分からないけれど、黙ってうなずく。




「ハルー!お夕飯、カズくんのところに持って行ってー。」

階下から私を呼ぶ、母のいつもの声。

中学最後の夏休み。いつもの平日。いつもの夕方。

うだるような暑さの中、私はクーラーもかけずにベッドで漫画を読んでいた。

…はずがいつの間にか寝ていたようだ。じっとりと全身に汗をかいている。

「…はーい。分かった。今行く!」

重い体を起こして、部屋を出る。

「夏にカレーって…。」

母に鍋ごとカレーを持たされて家を出る。

八月の終わり。夕方とはいえ、日中の暑さがアスファルトにまだ残っている。

カタカタカタと空に響くような、ひぐらしの声がどこからか聴こえる。

その声だけが、夏の終わりを知らせているようで、

少し涼しく、そして少し寂しい気分にさせる。


私は玄関前の階段を下り、道路を横切って斜め前の家へと向かう。

クリーム色の外壁。垣根の向こうに芝生の庭が見える。

その時間、三十秒もかからない。

門扉の横にあるインターホンは素通りし、玄関ドア前に立つ。

鍋が重くて片手で抱えられないから、一旦足元に置く。

母に見られたらまた怒られるだろう。

「…っしょっと。」

鍵のかかっていない玄関ドアを開け、お尻で支えながら鍋に手を伸ばす。

「あーおい。お前、それ、俺ら食うやつだろ。下に置くなよ。」

中から咎める声を出したのは、幼馴染のカズことカズキ。

ジャージの半ズボン姿に、片手にアイスをくわえている。

「だって、しょうがないじゃん。じゃあ、ドア開けてよ。」

靴を脱ぎながら、答える。もう片足は框にかかっている。

「ピンポン鳴らせよ。したら、ドア開けてやるじゃん。」

「だって、手ふさがってるんだもん。あ、お兄ちゃんここにいるでしょ!」

玄関に見慣れたスニーカーを見つけた。

ずんずん進んで廊下の突き当りのリビングのドアを開けると、中から電子音がする。

「お兄ちゃん!」

クーラーのかかったリビング。テレビの前で、ゲームのリモコンを持った兄、ノリトがいた。

「おう。ハル。」呑気に片手をあげる。

「お兄ちゃん、帰ってきたら、一回家に戻りなよ~真ん前なんだから。お母さん、まだ帰ってこないって怒ってたよ。」

「ん?ああ。」いつもの生返事。

カズがその横に腰を下ろし、ゲームのリモコンに手を伸ばす。

「あ、カズ、待って。まだサラダがあって、お母さんが取りに来てって…」

「えーハル、取ってきてよ。」画面から目を離さない。

「なんで私が往復するの。」

「俺、今からイングランド戦だから。」

「バッカじゃないの。それが人にものを頼む態度なの。」

「お願いします。ハル様。」やはり目線はテレビ画面を見据えたまま。棒読み。

「っもう!」お兄ちゃんは我関せず、会話に入ろうともしない。

文句を言いながらも、私は玄関に引き返す。

サラダとドレッシングを鞄に入れて、再びカズの家に引き返すと、

「あ、ハルちゃん。ただいま。」

家の前で、ちょうどカズの姉であるアオイが帰ってきたところに出会う。

暑い中、自転車で帰ってきた額にうっすらと汗がにじんでいる。

「アオイちゃん。お帰り~体育祭の準備?今日はカレーだって。あとカズが好きなニンジンサラダ。」

「わあ。いつも、おばさん、ありがとうございます。ほんとに助かる!」

額にはりついた前髪を少し持ち上げる腕は夏を越したと思えないほど白い。

「いいのいいの。お母さん、アオイちゃんのこと大好きなんだから。」

私たちが連れ立って入っていくと、カズとお兄ちゃんが取っ組み合ってじゃれ合っていた。

「ノリ、今絶対ズルしたでしょ!」

「してねえよ。やめ。変なとこ触んなって。ははは。」

抱き合って寝転がって、いちゃついているようにしか見えない。

「もう…カズ、洗濯物入れてくれたー?」アオイちゃんが鞄を置きながら聞く。私はソファに座る。

「あ、ねえちゃん。お帰りー。入れた入れた。ノリが入れてくれた。」

「え?ノリが?やめてよ、私のし、し、下着とかあるじゃない。」

「大丈夫。大丈夫。全部がさっと入れてもらっただけだから、ねえちゃんの色気のない下着は見えてないと思うよ。」と、全部言い終わるより先にアオイちゃんの足がカズの背中に見事に入る。

「い、痛い…。」背中を押さえてうずくまるカズ。

「この、バカ!!!がさっと入れるなって言ってんでしょ。」アオイちゃんは背中に怒りをしょいながら、リビングを出て行く。

「い、入れたのはノリ…いてえ~。」

「カズ、続きやろうぜ。」うずくまり痛みをこらえるカズの横でお兄ちゃんはやっぱり我関せず。もうテレビの前に座っている。

見たら、今朝の寝癖がまだ後頭部に残っている。お兄ちゃんも体育祭の準備に行っていたはずだが、この頭で行って、誰もツっ込んでくれなかったんだろうか。

はあ。私はため息をついて、二階のアオイちゃんの部屋へ行く。

ノックをして入ると、アオイちゃんはもう私服に着替えていた。ボーダーのTシャツにジーンズ。肩まである髪はポニーテールに結び直している。

「アオイちゃん、今日塾でしょ?私、洗濯物畳むから、ごはん食べちゃいなよ。」

「ありがとう。まだ時間あるからいいよ。ハル、うちの手伝いばっかりしてたら、またおばさんに言われるよー。」

「『あんたは、うちの手伝いはしないくせに』」

私たちは声を揃えて、母の口癖をまねて声をあげて笑った。


私たちの家は斜め向かいにある。

私たちはずーっと一緒に育ってきた。

アオイちゃんとお兄ちゃんは同い年。

お兄ちゃんが3才の時、私たち大島家が、中元家の斜め前に引っ越してきた。

お母さんのお腹とカズのお母さんのお腹には、それぞれ私とカズがいた。

上も下も同い年と分かった若い主婦二人はすぐに意気投合したそうだ。


けれど、三年前、カズのお母さんは交通事故で亡くなった。

突然に。

父子家庭になった中元家を気遣って、母が毎晩夜ご飯を届けるようになった。


畳んだタオルを持って階下へ行くと、ちょうど玄関ドアが開いた。

「ちゃーす。」

「あ!マーくん!」

「よう、ハル!」マーくんは、目尻にシワをいっぱいの満面の笑顔で答える。

浅黒い肌にこの太陽みたいな笑顔。夏がよく似合う。

マーくんこと、マサカズくんは、ここから徒歩5分のところに住んでいる一つ上の幼馴染だ。

「今、おばさんに会ったよ。今日カレーなんだって?俺の分ある?」

「あるある。いっぱいあるよ。」リビングに入りながら答える。

キッチンを通り抜けて、バスルームにタオルを仕舞いに行く。

「ヤッター。俺ハルんちのカレー大好きなんだよな。何入れてんのかな?」

「何入ってるか聞いたって、アナタ作れないでしょうよ。」

冷たく言い返したのはカズ。またゲームから目も離さず答える。

「おう。マーくん。」カズの向こうからお兄ちゃんが答える。

「ほい。これ、頼まれてたやつ。」マーくんが紙袋をカズに差し出す。

「何なに?」

「なんでもねえよ。あっち行ってろ。ガキ。」カズが私のあたまを小突く。

「なんなの。あんた。同い年でしょ。」脇腹をつつく。

「やめろ。ブス。」くすぐったがりのカズの弱点は分かっている。身をよじっている。

「ブスって言ったあ!」声を上げながらカズの脇腹をくすぐる。

「やめろやめろ」横でお兄ちゃんが笑っている。

「お兄ちゃん、笑ってるけど、あなたの可愛い妹が『ブス』って言われたんだよ。そして、私たちご近所の方から、そっくりって言われてるんだからね。」

「あーはいはい。」ニコニコ笑って取り合ってくれない。

「ハルは可愛いよなあ。」そう言ってくれるのはマーくん。冷凍庫からアイスを出して口にくわえている。

「マーくん。さすが!」

「あ、おばさんがさ、福神漬け切らしてるから買ってきてって言ってたんだ。」

「お前、それ、先に言えよー。」ソファに寝そべって文句を垂れるカズ。どうやらゲームは終わったらしい。

「ハルちゃん、買ってきてよ。」急に声色を替えて言う。

「いや。私は福神漬けなくても食べられるもーん。」

「やだよ。俺、福神漬けと卵がないと食べられないんだよ。」

「ばかばかばーか。ガキ。」マーくんを盾にして悪態をついてやる。

「私、もう時間だ。行かなくちゃ。」リビングのドアからアオイちゃんが駆けこんでくる。塾のカバンを背負って。

「あ、アオイ。よう。」少し上ずった声でマーくんが笑顔を向ける。その横顔は少し緊張している。

「姉ちゃん、福神漬け切らしてるんだって。」カズがソファの前に座るお兄ちゃんの首に足を巻き付けながら言う。やめろよ、と言うくせに外そうとはしない。

「あらそう。私、なくても大丈夫。ていうか、時間ないのよ。」

キッチンに入り、急いでカレーを温める。

「よし、ジャンケンだな。」カズが一人両手を組んでのぞき込む。

「最初はグー!」こういう時、マーくんもお兄ちゃんも決してカズに文句も言わず合わせる。大体、横暴なことを言ってるのに。

「じゃんけんっぽん!」

そして、こういう時必ず最初にパーを出してしまう私を、みんな分かってるのだ。

「また、ハル、パー出した!」みんなで爆笑だ。失礼すぎる。

「ハルちゃん、行かなくていいからね。」アオイちゃんがお皿にご飯をよそいながら気づかわしげに言ってくれる。

「いいよ。行ってくる。」私がリビングを出て行こうとすると、マーくんが「もうすぐ暗くなるから、俺一緒に行ってやるよ。」と言ってくれる。そしたら、カズがマーくんの肩を掴んで「いいよ。マー坊は姉ちゃん、送ってやってくんない?」と引き戻す。

「いいよ。私一人で行けるよ。」アオイちゃんがカレーを頬張りながら答える。

「もういいって。私はすぐ近くなんだし。緑ヶ丘食堂までだもん。じゃあね。アオイちゃん。」

緑ヶ丘食堂は、食堂ではなく、私たちが住む、この緑ヶ丘団地唯一の商店。よく言えばコンビニだけれど、コンビニほど長い時間は営業していない。せいぜい10時から19時まで。そして、私たちが住む町にはコンビニなんてない。

だから大変重宝されているお店だ。

緑ヶ丘団地は、高台にある住宅地。高台にあるけれど、よく言う高級住宅地でもない。田舎のただの住宅地。

一旦、家に帰って母からお金を預かり、玄関を出ると自転車にまたがったカズがいた。

「ん。」と後ろに乗るようにうながす。

「いいって言ったのに…」

「あなた、怖がりでしょ。ほら、早く座んなさい。」

笑いそうになる顔を必死で隠して下を向きながら、後ろにまたがる。

「…しょ。あー!重い!進まない!」わざとペダルを踏みださないカズの腰を思い切り叩く。「いてっ」笑いながら進みだす。夏の湿った夕暮れの空気が肌にまとわりつく。もう、陽は暮れかけている。


おばさんが亡くなる前後ぐらい、小学校の高学年に入った頃。私たちはお互いなんとなく距離を取っていた。思春期。反抗期。色々言われるけれど、よく分からない。でも、おばさんが亡くなって、中学に入学して、いつの間にかまた話すようになった。学校でも話すし、家まで一緒に帰ることだってある。離れたり、近づいたり。どうしてそうなるのか、私には分からない。あまり考えたことはない。


「ねえ。ゲームばっかりして勉強してるの?」自転車を漕ぐ背中に聞く。

「あ?俺は、普通に勉強してたら、公立高校ぐらい受かっちゃうんだよ。」

憎たらしいけど、その通りだから仕方ない。

「お前は?大丈夫なの?」

「うん。まあ。今日も勉強してたし。ちゃんと。」

「嘘つけ。どうせ漫画読んで寝てたんだろ。」

「ち、違うよ。読んでたけど。その前は勉強してたの。」

「お前、よだれのあと、ついてるよ。」

「う、うそ。」口元に慌てて手をやると、カズが吹き出した。

カズは中学に上がって急に大人っぽくなって、女の子にモテ始めた。まだあか抜けない、子どもっぽい男の子たちもいる中でそういう雰囲気がモテる要因らしい。

でもカズだって私たちといる時はくだらないことばっかり一日中してると思うんだけど。

「中元くんに渡してね」とラブレターを預けられることはしょっちゅうだ。

受け取ろうとすると「自分で渡せば」と横から幼馴染のナツちゃんが答える。


「っはい。到着~。」

緑ヶ丘食堂まで自転車で5分。古びた赤い看板。お店の前には自動販売機が並んでいる。古い引き戸を開けると、六畳ほどのスペースに所せましと日用品が置いてある。戸の開く音を聞いて、中から食堂のおばさんが出てくる。日持ちのしない、冷蔵食品はあまり置いていないが、カズのしつこいリクエストにより、福神漬けは常備してくれるようになった。

福神漬けを買って、振り向くと、カズがアイスクリームの入った冷凍ケースをのぞき込んでいる。自転車を漕いできたカズの襟足がうっすらと汗ばんでいる。

「まだ食べるの?」

隣に立ってのぞき込む。

「だって暑いんだもん。おつりある?」

「えっないよ。持ってないの?」

「今月の小遣い全部使っちゃったもん。えーないのかあ。」

「諦めて帰ろう。」促して外に出て、また自転車に乗る。

「やばい。薄暗くなってきた。もう7時くらいかな。アオイちゃん、塾行ったかな?」

「ん?ああ。」

「マーくんが送ってくれたんだよね?」

「ああ。」なんだか急に生返事。

「…」しばらく黙って自転車を漕いでいる。

「あのさ。」

「なに?」

「マー坊…」

「なに?」

「マー坊、アネキに告白するって。」

「ええ!!!」突然の言葉に驚いて大声を出す。

「…でかい声。」

暫くして「…ショック?」と、カズが聞く。

「え?」

ショックといえばショックだが、マーくんの気持ちは薄々感じていた。カズとマーくんは気が合って、よく遊んでいる。カズの家にマーくんがいる率は、お兄ちゃんと並ぶかそれ以上だ。いつの頃からかマーくんが、アオイちゃんと話す時に1オクターブ声が上がっていることに気が付いていた。

塾に行くアオイちゃんが心配だからと、送り迎えもすぐに買って出る。

高校に上がって16になってすぐバイクの免許を取ったのもその為だ。

でもまだ免許を取ってすぐは二人乗りができないからと、結局自転車で送り迎えをしている。でも、「驚いた」のであって、「ショック」とは違うかな。


薄闇に紛れてきたので、カズが足で自転車のライトをつける。じーっというライトの音が聴こえる。

ペダルをこぐ音が響いている。夜風でカズのTシャツが後ろになびいている。それと一緒にカズの家の洗剤の匂いがする。


私たちは、15歳だった。






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