木の葉は雨が育てる

大江ひなた

湖にて

第1話 突然の別れ

 梅雨が始まって二週間が経った。しばらく降り続く雨のせいで、庭の木の葉はすっかりうなだれているようだ。しっとりと濡れた葉から雨の雫が落ちるように、和葉かずはの瞳からも涙がこぼれている。

 和葉の母、菜津子なつこが突然事故死したのはちょうど二週間前のことだ。学校で担任の教師から呼び出され、病院についたころには既に彼女は息絶えていた。話によると、居眠りをしていた車と正面衝突したらしい。

 死者はその居眠りをしていた運転手と菜津子の二人だ。

 その話を聞いたとき、和葉の心にまず浮かんだのは怒りだった。なぜ居眠りをしていたのだ。お前の不注意のせいで、なぜなんの罪もない母の命が奪われたのか。和葉の父、林太郎りんたろうもしばらくずっとイライラした様子で、事情を説明していた警察官にも八つ当たりをしていた。

 そして暫く経った頃、林太郎の心に残ったのは諦めだった。天涯孤独だった加害者は、もうこの世にいない。どこにもぶつけることができない怒りと、これから付き合っていくのは苦しい。忘れた方が幾分か楽だろう。

 一方和葉はそうはいかなかった。怒りがなくなった後に残ったのは、耐えがたいほどの悲しみだった。もともと泣き虫である和葉の涙をぬぐって、優しく抱きしめるのは母の役目だった。その母がいない今、和葉の涙は頬を伝って膝に落ちていく。


「いい加減にしないか! もう2週間もメソメソメソメソと……悲劇のヒロイン気取りか?」

 林太郎は仕事から帰ってくるなり、和葉にそう言い放った。菜津子が死んでから、林太郎は職場の昼休みに一旦帰ってくるようになった。そして和葉に学校へ行くよう叱るのだ。実際和葉は1週間の忌引きが終わった後も学校に行っていない。

「だって涙が勝手に出るんだもん! お父さんは悲しくないの? お母さん、もういないんだよ? 全然悲しんでないじゃん。お母さんのこと、愛してなかったの?」

「そんな話はしてないだろう。泣いてても何も始まらないってことだ。お母さんも、あの世で失望してるぞ、いつまでもこんな生活送っていたら。学校ももう2週間も行ってないだろう? 授業についていけなくなっていいのか。今年は高校受験だし、そろそろ勉強に本腰入れないと。いい高校に受からないと、お母さん、悲しむぞ」

 そう言った瞬間、和葉は立ち上がって近くのパンフレットを林太郎に投げつけた。県内の様々な高校の生徒が、得意げな笑顔で和葉を見ている。

「いい高校って何? お母さんは勉強なんかより、もっと大切なことがあるって言ってくれた! 泣いてても失望したりしない! お父さんは人の心が分からないんだ!」

 そう言って和葉は玄関に向かって走った。走るのなんて二週間ぶりだったから、足が少しもつれた。しかしそんなことを気にする余裕なんてない。

「和葉! どこに行くんだ!」

 背後から林太郎の怒ったような焦ったような声が聞こえた。しかし追いかけてはこない。やっぱりお父さんは、私のこともお母さんのことも好きじゃなかったんだ、と再び和葉の瞳に涙があふれた。


 和葉は夢中で走り続けた。平日の昼間の住宅街はガランとしている。時折散歩中の老人とすれ違うが、和葉と目が合うことはない。それが無性に寂しかった。もっとも、和葉が誰とも目を合わせていないのだから、誰とも目が合わないのは当然ではあるが、和葉はそのことに気づかなかった。

 無我夢中で走り、たどり着いたのは小さな湖だった。住宅街の真ん中にある割にとても澄んでいて、和葉は菜津子とよく一緒にそこに行った。

 ここでお父さんと出会ったのよ、と穏やかに幸せそうな顔で言っていたのを彼女は思い出した。また涙が出てくる。菜津子の気持ちになると、和葉は母が不憫でしょうがなかった。自分だったら、少しでも配偶者に自分の死を悲しんでほしい。長年連れ添った夫に自分を忘れられるなんて、冗談じゃない。アクアマリンのネックレスを光にかざして、「お父さんに貰ったのよ」と幸せそうに笑う母の姿が、ありありと和葉の脳裏に浮かぶ。穏やかな湖のような色をしたネックレスを付けた母が、和葉は大好きだった。


 湖に近づくと、雨で水面が円をいくつも作っていた。雨の日はいつもやや濁っていて、よどんだ空の色を映して湖の底は見えなくなる。しかしこの日は違った。異常なまでに水は透き通っていて、底がキラキラと輝いている。太陽は出ていないのにおかしい、と和葉は湖に近づいた。

 その瞬間、地面が急にぬかるみ始め、尻餅をついて湖に吸い込まれるように滑っていく。「わ」や「ああ」などの言葉にならない音を発して、和葉は湖にどんどん近づいていく。この湖は意外と深い。そのうえ周りの地面は坂になっており、滑って湖に落ちやすい。

 この湖は浅瀬になっているところもあり、子どもたちはそこで遊ぶことができた。しかし和葉が立っていたところは湖の深くなっている所と近く、子どもだけで遊ばないようにきつく言われている場所だった。

 そんな湖でおぼれたら、死んじゃうのかな、と和葉は思った。それも悪くないかもしれない。もし、お母さんに会ったら、涙をぬぐってもらおう。和葉はそう考えながら目を閉じ、地面の流れに従い、とうとう湖の中にに入ってしまった。渦を巻くように吸い込まれていく。その時、とっさに岸に手を伸ばした。

「やっぱりまだ死にたくない! 助けて! 誰か、お父さん!」

 和葉の声は周りの木と雨音に吸い込まれて誰にも届かない。なぜ家を飛び出したりなんてしたのか。自分自身の行動を後悔しながら、和葉は意識を失った。

 

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