第4話 訪問者

 熱出した。

 今頃、受験勉強の疲れでも出たみたいな。春人くんに会いたい一心で頑張って、最後の模試でも合格圏外だった高校になんとか受かったっていうのに。

 入学してたった一ヶ月。これから満開になるはずだったあたしの恋が散ってしまった。大事に大事にしていた蕾だったのに。咲くこともなく、無残に地に落ちた。

 熱なんて出したの、何年ぶりだろう。少なくとも、中学の時は一度もなかった。皆勤賞だったもん。さすがに母親も心配して、仕事を休もうか、なんて言ってきたけど断った。子供じゃないし。ぶっちゃけ、失恋で学校休んでるようなもんだったし。そんなくだらないことで、仕事を休ませるわけにはいかない。それに……今は、一人になりたかった。

 ふて寝状態で寝まくって、気付いたら外は暗かった。仄暗い部屋の中、少しだけ開けた窓の隙間から生ぬるい風が吹き込んできて、白いレースのカーテンを揺らしていた。

 まだ両親は帰ってきていないのだろう。一階からは物音もせず、しんと静まり返った家で、隣のお兄ちゃんの部屋からかすかに話し声がしていた。お兄ちゃん、帰ってきてるのか。野球の強豪校にはいったお兄ちゃんは、最後の夏に向け、朝早くに家を出て夜遅くまで練習してくる。そのお兄ちゃんが帰ってきているということは、結構、遅い時間なんだろう。七時か、八時? こんな時間に友達? まさか、彼女とか――と一瞬、思ったがすぐに鼻で笑っていた。お兄ちゃんに限って、それはない。野球一筋、脇目も振らず、バットだけ振ってきた人だ。女子の手を握りしめたこともないだろう。

 誰かは分からないけど――壁越しに話し声が聞こえてくるのがすごく懐かしくて、心地よかった。小学生のときは、こうして会話が聞こえると、お兄ちゃんの部屋に飛び込んでいったものだ。春人くんに会いたくて……。

 あたしは目を瞑り、くぐもったその話し声に耳を澄ませた。それだけで、寂しさが紛れるようだった。

 やがて、話し声が止み、隣でドアが開く音がした。


「つかさちゃん。起きてるか?」


 遠慮がちなノックに、お兄ちゃんの野太い声が続く。


「うん。どうかした?」

「その……なんだ。入っても大丈夫か?」

「いいけど」


 普段、ガサツで大雑把なお兄ちゃんが、妙にしおらしい。不審に思いながら身を起こすと、ほんの少しドアが開いて、お兄ちゃんがぬっと顔をのぞかせた。

 野球部らしい坊主頭。太く凛々しい眉毛の下には、蛇のように鋭い目。すっと鼻筋の通った高い鼻が、彫りの深い顔立ちに濃い陰影を落としている。

 いつもなら、野球部で鍛え抜かれた自称『鋼の肉体』を見せびらかすように胸を張って堂々としているのに。なぜか、背を丸め、肩をしぼませ、ずいぶんと縮こまって、いつまでも部屋の中に入ってこない。気味悪い。


「どうしたの? 入っていいよ」

「俺じゃなくてだな……」はっきりとしない口調でもごもご何やら言ってから、お兄ちゃんはガシガシと頭をかいた。「とにかく、俺は隣の部屋にいるからな」

「は? それを言いに来たの?」


 お兄ちゃんらしくない。「何か欲しいものはないか」とか「体調はどうだ」とか押し付けがましく質問攻めしてきそうなのに。

 ドアを開けたまま、くるりと身を翻して去っていくお兄ちゃんに、「ドア、閉めてよ」と言いかけたときだった。


「ありがとな、恭平」


 はっと息を呑んだ。

 熱が下がってきたはずの身体が一気に熱くなって、胸が高鳴る。――ただ、声を聞けた。それだけで。


「大丈夫?」とお兄ちゃんに代わって部屋に入ってきたのは、思った通りの……でも、そこにいるはずのない人だった。

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