<社会人編>ep5

 太陽が半分ほど顔を隠し、斜めに伸びた影が伸びていく。町が闇に侵食されているように見えた。私は顔を上げ、黒く染まり始めた空を眺める。すると、何故だか分からないが、無意識の内に笑い声が漏れてきた。なにも可笑しくなんかないのに。いや、今の私は酷く滑稽に見えるのだろう。

 私は馬鹿だ。初恋の人に求められ、浮かれていた。奇跡が起きて、夢のようだと幸せを感じていた。しかし、本質がまるで見えていなかった。勝手に彼を支えている気になっていた。ただ、処理の道具として、利用されていただけだ。

 今にして思えば、『好き』だとか、『愛している』だとか、そんなこと一度も言ってもらったことがなかった。なによりも告白さえされていなかった。

 ジャイ子ちゃん・・・私の名前を知っているのだろうか? 合田奈美恵という名を。

 身の丈に合わない、分不相応なことをしてしまった。背伸びをしていた。平凡でも平坦でも、真っ直ぐに順番通りに生きて行きたかった。

恋をして、交際して、結婚して、出産して・・・。私は何をやっているのだ。

 私は気など触れていない。意識もはっきりしている。だが、笑いが止まらない。甲高い笑い声は、虚空へと吸い込まれていく。声が出なくなった後に、ゆっくりと公園から出ていく。何も考えずに、足元だけを見て、ただただ歩く。私が足を止めたのは、私の母校。今度は、中学校の方だ。すでに正門は閉ざされており、無機質な校舎が佇んでいる。私は視線を上へ上へと向ける。建造物と空とのつなぎ目で視線を止めた。あそこに行く方法は、あるのだろうか? 

 しばらく、眺めていると、突然スマホが激しい音を出した。若干、煩わしさを感じ、怠慢な動作でスマホを顔の前へ掲げる。画面を見た瞬間に、膝から崩れ落ちた。体の奥から次から次へと、喘ぎ声が溢れてくる。涙が溢れ返って、溺れそうになった。私は通話ボタンを押した。

「・・・ルミちゃん。ルミちゃん」

『はいはーい、あなたのアイドル。ルミちゃんでーす!』

 ルミちゃんは、いつもの明るい口調だ。私は必死で口元を抑えた。声が漏れてしまう。

『おーい! 奈美恵! 聞いてる? 実は面白い話があって・・・奈美恵?』

 ルミちゃんの声が急にトーンが落ちた。私の異変に勘づいて、心配し不安がっている声だ。

「ルミちゃん。ごめんね。ごめんね」

 申し訳ない気持ちで一杯になった。杉本君との出来事を内緒にしていたこと、そして、先ほど校舎の屋上を眺め、頭に過ってしまったこと。

『奈美恵。まずは、落ち着こう。ほら、深呼吸して。一体何があったの?』

 ゆっくりと優しく語りかけてくれるルミちゃん。私は胸に手を当て、深呼吸を繰り返す。そして、同窓会から今に至るまでの出来事を包み隠さず話した。咽頭に空気が詰まって言葉が出てこない。でもルミちゃんは急かすことなく黙って聞いてくれた。

『奈美恵、今どこにいるの?』

「・・・私達の中学校の正門の前」

『いい? 奈美恵。良く聞いて。今から一瞬だけ電話を切るから、それですぐかけ直すからね。必ず出るんだよ。それとそこから、一歩も動かないでね。いい? 約束できる?』

 約束・・・胸にズキンと衝撃が走った。私は何度も頷いた。何度目かの時にようやく『うん』と、声が出てくれた。その直後、通話が切れた。まるで置いて行かれた犬のように、不安で不安で押し潰されそうになった。ツーツーという機械音が、背筋を冷やしていく。約束とは、誰の為にあるものなのか。約束という名の鎖が、私の思考や行動を雁字搦めにしていた。荒々しい呼吸音が、不愉快なくらいに鼓膜を刺激する。

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