>Ⅱ

 確かその日は雨だった。

 納期を終えた金曜日に同期の仲間と打ち上げがあって、確かに彼には会えなかったけれど、土曜を経て日曜の昼過ぎまで何の連絡も取ってくれないとなるとそれはちょっと違うんじゃないかなぁ、と思っていたら、メッセージが来た。夕方に用があるからと呼び出された。

 どうしたんだろうと思っていると

「ごめん。別に好きな人ができた。別れて欲しいんだ。もう、俺には君の手が握れないんだ」

 一瞬、何を言っているのかわからなかったけれど、先に最後の方を理解した。

 もうこの人は、あたしに触れる気がない。それがわかってしまって、ああ、そのほかの好きな人に対しての罪悪感が、その人を想った時のあたしに罪悪感よりも大きくなってしまったんだろうな。と思う。後ろめたい気持ちが大きい方が勝つ。他の誰かを想っても、他の誰と居ても、他の誰かを抱きしめても、キスをしようが、眠ろうが、あたしとそれをするより後ろめたいのだ。申し訳ないと思うのだ。逆に言えば、その誰かといるときに、あたしに抱く罪悪感なんて対したことないのだろう。これには勝てない。と瞬間で察知した。もう、成す術はないし、すがり付くなんて無様な真似をこんな男にかます気もさらさらなくなった。

「さようなら」

 それだけ言って、あたしは帰路につく。

 あいつがあたしのそばを去ったことには、涙も出ない。

 どうぞお幸せに。これっぽっちも願ってないです。

 そいつが、対面して数秒で立ち去ってもう会うこともないだろう元恋人の背中を、後ろ姿をどれくらい見ていたのだろうと想って少し歩いて振り返ったら、もういなかった。そんなもん。そんなもんだったのか。

「…はぁ」

 それは辛い。

 こっちは、この気持ち自体は否定してない。けれど結局、お前なんて彼女に比べたらそんなもんだ、と突きつけられた気がした。

 そのままの足でコンビニに寄って自棄やけ酒用の缶ビールを数本買い込む。

 こんなときに誰かに電話して呼び出して愚痴ろうかとも想ったけど、柄にないので却下。一旦一人でクールダウンしてしまわないと、呼び出した相手の前で泣く可能性すらある。というかほぼ確実に泣くだろう。落ち着いたら、同僚の中塚にでも聞いてもらおう。

 コンビニを出るときに、一応恋人に会うのだからとそれなりの格好をしてきた自分が柱の大きな鏡に映って自分の愚かさに腹が立ってきた。見え透いた計画だったのかもしれないのに、全く見えなくてピエロみたいに踊っていた自分かもしれない。強がって一言だけ言い捨てて踵を返して机上に歩き去った負犬みたいな、雨に濡れた捨て猫みたいに見えたあたしを、もしかして内心笑ってた?

 だとしたら、最低。

 気持ちがモヤついてきたので足早に自宅に帰り傘をしまって鍵をかける。ブーツを脱いでいて気づく。そう言えば、このスカート、あいつに似合うと選んでもらったものだった。つい一ヶ月前のことだ。あの頃はこんなことになるとは思ってもいなかった。

 どうせ誰もいないんだし、とその場でそのスカートを脱いでゴミ箱に思いっきり突っ込む。

 ビニール袋を持ってキッチンへ行き、そこからビールを一本シンク脇に置いて、残りをしまったら、出しておいた一本を勢いよく開けて思い切り煽る。

 美味しくなんかない。けれど、このままだと意味がわからないことを叫び出しそうだったので、代わりにそうしてみると案外落ち着いた。

 とりあえず一本煽って、気が萎えないうちにシャワーを済ませる。明日も仕事はある。髪を乾かし終えるて、気がつけばまだ21時前だった。今日はまあいいか、と適当にテレビをつけてみたけど、やっぱりそんな気分ではなかったので即電源を落とす。会話のない室内には静寂が戻った。

 スマホを取り出してみると、メッセージは来ていない。最近は両親ともあまり連絡を取っていない、そうなると友達の多くないあたしは、約束するときぐらいしかメッセージの着信はないし、誰かが愚痴りたくて時間があったときに通話をするくらいだ。毎週飲みに行ったりする友達はいない。月一くらいならまあいるかなって感じか。そんな人間は、恋人でもいないとほぼ永遠に一人だ。孤独死だけは回避しようと思う。床に座って、ソファに身を預けて天井を仰いだ。

 あたし、なんかしたかなぁ。

 と、自然と思ってしまった。

 いや、なんかマイナスをつけられたのではなく、加点がなかったのだ、と思う。だからより彼の得点を

獲得できた彼女に切り替えたんだろう。恋愛がランキング制だとは思いたくないけど、クイズではあるのかもしれない。相手の問題に正解を連発していくしかない。ある意味サバイバル。それで言ったらそこまで不正解を連発していた感触のないけれど、やっぱりあたしの一人芝居、ピエロだったのかもしれない。けどまさか見えないところに全問正解者がいたとは思わなかった。迂闊。

 そんな風に、ドライに考えていられるうちは、まだ泣かない。

 そこでスマホが着信を告げる。上司の山南やまなみさんだった。

「はい、賀喜かきです」

『ああ、賀喜ちゃん。ごめん遅くに』

「いえいえ。まだ9時ですし大丈夫ですよ。どうしたんですか?」

『明日の件、連絡してなかったと思って』

「明日ですか?」

『明日、先方との打ち合わせに直行にてもらってもいいんだ。11時に、新宿。会社に用ある?』

「時間はむしろゆっくりですし、特に急ぎはありませんけど、資料とか大丈夫ですか?」

『どっちにしろ俺はいくから、まとめて持っていくので大丈夫。じゃあ明日11時に新宿南口で』

「わかりました。わざわざありがとうございます」

『いやいや。伝えるのすっかり忘れてた。すまん』

「いえ」

『それじゃあ明日』

「はい、お疲れ様です」

『お疲れ』

 業務連絡だけで通話は終了した。会社にいると結構色々話したりする気さくな上司で、あたしを今の部署で取り立ててくれた人だ。好きなことができているのには感謝しているけど、イマイチなんでこんなに評価されているのかは自覚がない。

 ということで、明日はゆっくりになったけれど、特段することもないなぁ。と思ったと同時、中塚とランチに行くことができなくなってしまったなぁと思う。どこかで済ませるか、買って会社に戻るか。

 山南さんと一緒に行ってもいいなぁと思いつつ、明日の流れだな、とぼんやりさせておくことにした。

 それからは、溜まっていた洗い物や家事をこなして、だらだらと過ごしていたら、気づけば時刻は23時を回ろうかとしていた。

 こういう日くらい、早めにベッドに入るか、と思って寝室の電気をつけてリビングを消す。

 さあ、夜だ。

 今夜は、大丈夫そうな予感はする。

 あたしは、ちゃんと眠っている間にあたしを更新できるだろうか。

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