7

 ふと、脳裏に去来した歌が、そのまま舌の上で甘やかに転がり、鼻と額の間を抜けていくのが、ゴラン・ゴゾールにはわかった。


 ――私の好きなもの

   無花果、扶桑花、柘榴の実

   愛を囁いて染まったあなたの頬

   すぐそこの小道で待っている時の横顔

   秘密を囁く時の鼻に掛かった笑い声

   手を繋いだ時の長い指

   面倒くさくて理屈っぽい話し方

   弦を掻き鳴らして歌う調子はずれの声

   ちょっと後ろから私はそれを見るの

   いちばん輝いていて綺麗なところを――


 岩に彫られた糞丸虫が踊っている。どういった仕組みなのかは理解できなかった。彼らは愉快な足取りで脚を動かし、傍にある円を蹴り、押し、転がした。

 転、転、再生。あるがままに生きる砂漠の小さな生き物は、綺麗な球形に整えられた糞の中に卵を産み付ける。ゴラン・ゴゾールは考えるのをやめた。ただ、感じた。彼らは死から生を得ている。


 ――私の好きなもの

   無花果、扶桑花、柘榴の実

   明日の天気を心配する眼差し

   仕事へ行く時に羽織る上着の裾のほつれ

   ふと上げた顔がちょっと幼く見えるところ

   口付ける時の鼻息

   拗ねた時のとげとげしい口調

   楽器を鳴らす時よりも優しい手つき

   ちょっと遠くから私はそれを見るの

   いちばん輝いていて綺麗なところを――


 渦から溢れ出す光が増幅していく。それは底なしの穴を超えて、砂の上に広がり、その場にいた者たちの腰から上をさあっと覆っていった。驚愕に目を見張るリタも、宰相の近くに膝をつかせられて事の次第を見守っていた双子の王子たちも、ヴェンゼも、ラモ翁も、警邏の者も兵士も、全てを巻き込んで。

 そして、歌い終わったゴラン・ゴゾールは、宰相を見た。何か、予感がしたのだ。

 ジョルマ・フォーツ王国宰相ネーロ・ヴォプロの胸元に掛かった小瓶が、何かが動くその勢いで、宙に浮いていた。その中で、白いチーズの塊が暴れている。鈍く小さな音が、ひっきりなしに聞こえていた。

「宰相さま! チーズを還して!」

「宰相さま! その小瓶を開けて!」

 手を取り合って輪を作ったまま、レミとルパが、口々に言った。

 宰相は、震える右手で小瓶を掴み、己の目の前に掲げる。

「――このチーズと、この双子の巫さえいれば、王国はもっと、豊かになる」

「おい、宰相どの、何を考えている?」

 ゴラン・ゴゾールは、宰相の顔が奇妙に歪んでいるのを見て、慌てて手を伸ばそうとして、縄で拘束されていることを思い出した。自由に動かないのがもどかしい。だが、砂長竜の鱗に擦れたからだろう、幸いなことに、結び目が少し緩んでいる。だから、腕にありったけの力を込めた。

「王国は豊かになる!」

 恐ろしくなる程の笑みを浮かべた宰相が、誰も手の届かない所へ数歩進み、掲げた小瓶の蓋に手を掛けた。双子の意に沿わない何かをするつもりであるのは明白だった。ヴェンゼがそれに気付いて、ゴラン・ゴゾールの元に駆け寄ってくる。

「ゴラン・ゴゾール、借りを返す! 解くぞ!」

「最早おれが負債を抱えつつあるが恩に着る!」

「ならばこれから我輩の呼び出しには必ず応じるし書簡も送ると約束したまえ!」

「わかった! 約束する!」

 ゴラン・ゴゾールは勢いのまま叫んだ。宰相の手が小瓶の蓋を開ける。

「王国を豊かに! 何事にも打ち勝つ力を、我が身と民に! ジョルマ・フォーツに栄光あれ!」

 キン、と鋭い音を立てて、蓋が開いた。

 光の渦と奈落の底に自由を求めて飛翔しようとした白い塊は、あっという間に、手の中に捕らえられた。ゴラン・ゴゾールの縄が解けた。手に握られた白い塊が、大きく開けられた宰相の口の中に、震えながら吸い込まれていく。ゴラン・ゴゾールは走った。綺麗に揃った歯の門が閉じられる。

 暴れている筈の塊を咀嚼して奥歯で擦り潰す、その動きを、皆が目にしていた。

 喉の鳴る音は、嫌にはっきりと聞こえた。

「ジョルマ・フォーツに、ノーリ・ペコ王家の血など、もう必要ない」

 宰相は振り返り、膝をついている双子の王子の襟首を掴んだ。緋色の服の下で、筋肉が盛り上がるのがわかった。ゴラン・ゴゾールは、ふたりの青年の身体がいとも簡単に宙に浮くのを見た。

 そう、真面目で一本気、融通のききにくい者ではあるが、ゴラン・ゴゾールは、状況に応じて目的を変えることが出来るように鍛えられた、騎士であった。だから、己にとって大切な命がふたつ、光と闇の中に消えようとした時、咄嗟に足を岩に掛け、その腕を一本ずつ腕に捕らえることを選んだ。

 ――チーズと宰相よりも。

「ゴラン!」

「ゴランどの!」

 渦に向かって落ちかけたふたりの王子は、宙吊りになって、ゴラン・ゴゾールに引っ張られていた。ぶらぶら揺れている脚を、穴の壁に掛けようとするのが見えた――足場は崩れ、砂となって落ちていっただけだった。もっと力が必要だった。

「皆、逃げろ!」

 重みで渦の方にずるずると引き摺られながら、ゴラン・ゴゾールは、叫んだ。岩に引っ掛けた足がどんどん緩んでいくのがわかる。後退る音と共に、宰相の高笑いが聞こえた。

「足掻くか、ゴラン・ゴゾール! 何と美しい主従の絆!」

 マローノが、リタどの、と口を動かすのが、ゴラン・ゴゾールに見えた。その直後、胴に回ってくるのは縄と腕の感触。思っていたよりも強い女の腕。

「ちょっと苦しいけれど我慢して、ゴラン!」

 ゴラン・ゴゾールは踏ん張った。だが、リタの助力を以てしても、青年ふたりを引き揚げるどころか、ゴラン・ゴゾールの身体が引き摺られていくのを阻止することしかできない。

 カストーノの顔から、必死さが、すうっと消えた。

「ゴラン、私を捨て置け」

「――カストーノ殿下」

 ゴラン・ゴゾールは息を呑んだ。迷いが生まれ、王子たちの腕に絡ませた自分の腕から、少し力が抜ける。慌てて上げた肘の部分に、王子の手首を縛っている縄が食い込んで、血が滲んでいた。

 脱臼しているのだろう、苦しみに顔を歪めながら、第二王子は無理矢理微笑んでみせた。

「マローノを頼む」

「駄目です、カストーノ! あなたはこんなところで終わる人ではありません!」

 悲壮な表情をしたマローノが大声を上げた。

「役に立たない私が残っても意味がない! ゴランどの、カストーノの方を助けてやって下さい!」

「いいや」

 ゴラン・ゴゾールは首を振った。リタの腕が緩んでいくのを感じながら、それでも、脚と腕に力を入れた。

「おれには選べない、カストーノ殿下にはずっと御恩があるし、マローノ殿下はじきに父親になる身だ」

「――ちょっと、ゴランどの」

「はあ? 父親になるって、マローノ――」

 双子の王子は、互いに顔を見合わせた後、揃ってゴラン・ゴゾールを見上げて、同じ表情になった――呆れたような、泣きたいような。ゴラン・ゴゾールは、とてもそっくりだ、と思った。

「馬鹿ですか、あなたも落ちますよ! いいからカストーノを!」

「おまえはどうしようもないな! 選べ、後悔するな! 私もマローノも、どっちが残っても恨まん! でもせめて父親になる方を残してやれ! 妻になる女性の顔と甥を拝めぬことが心残りだがもういい!」

「いや、もう、なんてことを、カストーノ――ええい、もう、何でもいいです!」

「――それなら」

 ゴラン・ゴゾールは食い縛った歯の隙間から声を絞り出した。

「何でもいいなら、おれはおふたりと共に!」

 その時だった。ぶつん、と音がして、腹を分断しようとしていた縄の感触が、消えた。

 リタの悲鳴と、宰相の高笑いが聞こえる。ゴラン・ゴゾールは、己の脚が岩から離れ、身体がふわりと浮くのを感じた。

「あ」

 だから言わんこっちゃない、という表情のカストーノ、ただ単純に驚いた表情のマローノ。さっきとは違って、双子でも違うところがあるのだなあ、と、ゴラン・ゴゾールは呑気なことを一瞬考えた。

 頭から落下を始めた、その時だった。

 光と闇のあわいに、突然肉の穴が出現した。見えるのは、無数の歯。ゴラン・ゴゾールは、目を見張った。

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