3

 正気じゃない、という叫び声を聞いたのは、牢の中で毛布にくるまって、うつらうつらし始めた時だった。

 有難くもヴェンゼから提供された毛布を撥ね退け、ゴラン・ゴゾールは飛び起きた。牢の中にいたリタや第一王子、ルパも起きていた。

 宰相も、ジン・タオモも、レミも、ヴェンゼも――地下牢への訪問者は、全員がこの場に辛抱強く留まっていた。だが、食われるのを避けようとするチーズを飲み込んだ三名の騎士は、忍耐と一緒に理性も放棄したらしい。

「――行こう、行こう」

「行こう、約束の地へ」

 近衛騎士は特に屈強な者の集団である。七名の警邏の者は、妙なことを口走りながら立ち上がってどこかへ歩を進めようとする三人の大きな男を、身体を張って必死でその場に引き留めていた。

「ヴォプロ様、限界です!」

「テモネーロ様、増援をお願い致します!」

 警邏の者は口々に訴えた。この光景を見ても、宰相ネーロ・ヴォプロは冷えた表情を崩さない。ゴラン・ゴゾールは、様子がおかしくなった人間を過去に見たことがあった。隣にいる第一王子マローノが、まだカールという名前の青年でしかなかった時に、暗い砂漠の上でこんなことを声に出していたのは、記憶に新しい。

「秘宝のある場所へ向かっているんだ」

 何故、あの時の青年と同じように妙なことを口走りながらどこかへ行こうとするのかはわからなったし、その先が秘宝なのかどうかも知らなかった。だが、ゴラン・ゴゾールは思わずそんなことを呟いていた。すると、隣から声がするのだ。

「追ってみるといいですよ……私たちはそこへ向かうのを断念しましたが、屈強な彼らなら連れて行ってくれるでしょう。でも、いっぱい雇うに越したことはないですしね……ねえ、テモネーロどの。チーズ、まだ残っていますか?」

 かつてカール・ポネマスと名乗っていた青年は薄ら寒い笑みを浮かべていた。眼球を動かすと、ジン・タオモが同じような表情をしているのが視界に入る。ヴェンゼも同じような表情をして、マローノの言葉を受けて、頷いていた。

 そして、その場の全員が、宰相を見た。

 いけ好かない緋色の衣装を身に纏ったネーロ・ヴォプロは、微動だにせず、凍てついた表情のまま、口だけを動かした。

「ジン・タオモ、お前の子を連れてこい。ヴェンゼ・テモネーロ、お前の警邏と、この近衛を率いよ。私は軍を動員する……伐採場と隠者の森にて反乱の兆しありとの報告を受け取った。その平定に赴き、残党も全て一掃する。アルタンだか何だか知らぬが、反乱に手を貸す者にも、相応の罰を与えなければならない。ここに残った者は打ち首だ」

 ゴラン・ゴゾールは、己の耳の奥が心臓になってしまったような気がした。同時に、尻に感じていた地下牢の冷たさがぐっと増す。ちらりと見たリタの表情は絶望に染まっていたし、双眸に諦観を宿していた第一王子は、力なく首を振りながらぼそりと呟いた。

「まあ、そうでしょうね」

 どうにかしたいが、命令を下された以上はどうしようもない、という顔をしているのはヴェンゼだ。警邏の者は三人の近衛騎士を物理的に引き留めるので精一杯である。

 宰相は言った。

「得体の知れないチーズを貴様らに食わせて砂漠へ送ってやってもよかったが、ともすれば重罪人を野放しにする危険性がある。子供を手に掛ける趣味はないが、貴様らは知り過ぎた。死ね」

「嫌だよ!」

 と、声を上げたのはレミだった。

「ゴランと、リタと、王子様も一緒じゃないと、私は行かない!」

「ぼくも! 打ち首って、皆を殺すんでしょ! そんなことするなら、絶対に踊らないからね!」

 ルパもそれに同調した。

「宰相さんの言うことなんて聞かない! 反乱に手を貸すって何? 私たち、悪いことなんてしてないのに!」

「折角助けてあげたりしたのに、じじさまやぼくたちを傷付けようとしたり、ものを取っていこうとしたり、悪いことをするのはそっちの国の白い人じゃないか!」

 宰相の顔が苦々しいものに変わった。ジン・タオモがその横に来て、すかさず口を開く。

「見えているものは全て差し出すのが吉と考えます、ヴォプロ宰相様。宰相様の手腕を以てすれば、ここにいる者の命運など、後でいかようにでもできるでしょう。今はチーズを食った者を解き放って、何としてでも追うべきです。そこの罪人の話は私にとっても興味深い……全てが揃ったら、あなた様の力が、更に強くなるやもしれません」

 沈黙が流れる。納得のいっていない鼻息の噴出される音が三回、宰相の鼻から冷たい石の床に落ちて、染みた。

「……気が変わった。罪人どもにレシテ砂漠への動向を命ずる。そこの警邏は狂った近衛を縛って連れて来い。ジン・タオモ、子供を連れて私と共に来い。テモネーロ、直々に罪人を見張れ。三刻後に出立だ」

 宰相ネーロ・ヴォプロはそう言って、踵を返し、去っていく。

「ルパ、来い」

「……わかった」

 どこか納得したような表情のルパは、素直に自分の父の誘いに応じ、牢から出る。体面を保つためだろう、ヴェンゼの手によって、地下牢の扉にはしっかり鍵が掛けられた。

 双子の背を押して先に行くように促しながら去っていこうとしたジン・タオモはしかし、何かに気付いたようにふと歩みを止め、鉄格子を掴むゴラン・ゴゾールの方へ向かってきた。

「借りは必ず返す」

 何の表情も伴わぬ声なき囁きが、己の鼓膜と心を揺らしたのが、ゴラン・ゴゾールには、わかった。


 砂漠の民だけに通じるサルアダーンという名。それを抱いた鳥は巨大である。

 目隠しをせずに見たその鳥は、ゴラン・ゴゾールに驚きをもたらした。その翼は、馬の頭から尾までの長さを三等分並べたくらいの大きさだ。攻城戦の時に門扉へ突撃する為の槍になっても良さそうなくらいの立派な嘴。鉤爪は短剣よりも長い。西の沼地に生息している小さな毒竜――人の腰くらいの大きさだ――くらいなら、ぺろりと一飲みにしてしまうらしい。人を襲うことはないらしいが、とんでもない生物だ。

「ヌヴォアーラ。雲のように巨大であるからこそ、この生き物を知っている者はそう呼ぶ」

 ヴェンゼによると、ジョルマ・フォーツの要人たちはそのような名で呼んでいるらしい。

 明け方だった。四羽のヌヴォアーラに分かれて、警邏と兵士の人数を増やした一行は、王都の空が白い光の更紗で覆われていく日の出の頃に、レシテ砂漠へと飛び立った。

 揺れる籠の中は不安定且つ非常に窮屈であった。

 何せ、厠の個室くらいの広さの中に、七名が詰め込まれているのだ。ゴラン・ゴゾールは、左胸の方に第一王子マローノ、右胸の方にリタを抱え、何故か引っ立てられてきた第二王子カストーノと背中合わせになった。存在そのものがやかましいヴェンゼは、己の左隣にべったりである。更に、右隣にはずっと「約束の地へ行こう」などと呟き続けている近衛騎士が一名と、それを抑えようと必死な表情をしている警邏の者が一人。このふたりがひっきりなしにごそごそと動くものだから、巨大鳥ヌヴォアーラの脚に括りつけられている縄が切れて空中に放り出されるのも時間の問題なのではないかと思える程だった。

 レミとルパは、ジン・タオモの庇護下、別のヌヴォアーラの籠の中である。そこには宰相も同乗していたから、乗り心地は悪くないだろう。子供たちが無事であるならいいと思えた。

 ちらりと見下ろせば、ジョルマ・フォーツの軍隊が、蟻の行列のように連なって南へ行軍しているのがはっきりとわかった。ゴラン・ゴゾールに倣い、それを見て、鼻を鳴らすのはカストーノである。

「……思うのだが、ゴラン。無事でよかったと再会を喜ぶべきだろうが、この状況で言っても、お互いに嬉しいとは思い辛いな。宰相は己の代役を己の信奉者で固めて、砂漠まで出張ってきた。我々の味方は、王宮には少ない。そうだろう、ゴラン」

 第二王子は全てに対して大いに不満を抱いているようだった。

「私が連れて来られた理由は何となくわかる……邪魔な王子を一人片付けたと思ったら、二人とも残っていた。だから、あのいけ好かない服の野郎は、今度こそ処理するつもりなのだろう。過酷な砂漠は都合がいい。秘宝を見つけて私たちも排除できるのだ、ちょうどいいだろう。あの宰相は自分がジョルマ・フォーツの主になるつもりだ」

 らしくなく粗野な言葉を吐いたカストーノに対して、ゴラン・ゴゾールは驚きつつ、言われたことの方が気にかかった。

「……それは本当なのですか、カストーノ殿下」

「まだ見立てだ。ところで、隠者の森と伐採場で反乱が企てられているそうだな。宰相が自ら軍を率いて出張るというのはあり得ない事態だ、相当の規模と見受けられる。おまえはそこを通って戻ってきたのだろう……商人のツコどのはそこへ出向いていた筈だ、リタどのと合流するのであればそこしかない……私たちが政治的命運を託すならそこしかないとは考えるが、ゴラン、企みは本当なのか?」

「……おれにはわかりません、殿下。さかさまのグラダと名乗る者はおりましたが。汚い男でしたが、目は活き活きとしていました」

 ゴラン・ゴゾールは、さかさまのグラダと名乗った、汚らしい男のことを思い出した……その中年の男が、身なりを整えたらひとかどの人物に思えたことも。

 すると、カストーノは何かに気付いたようにゴラン・ゴゾールの背を叩いてくる。

「グラダ……グラダ。そうか、そこにいたか。おそらくそれは前宰相のダラグ・ナパーノだ」

「何だって?」

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