7

「どうかしましたか、ゴランどの?」

 砂長竜の背の上で思わずひとりごちると、すっかり元気になったカールがずりずりと近寄ってきた。青年は、ラモ翁が最も着古した服を一式貰って、身につけている。顔がいいから似合っているのだが、たっぷりした布がほっそりした身体を包んでいるから、何だか着られているように見えた。袖や裾に織り込まれているのは、糞丸虫の行列が奇妙な格好で踊りながら散歩している模様だ。色の褪せ方も絶妙で、見ている者を妙に和ませる姿だ。

 青年を見て少し気が抜けたゴラン・ゴゾールは、誰に向かって言うわけでもなく、続きをぼんやりと口にした。

「おれは、この街を、見たことがない。燭台の谷に来て、砂漠をずうっと向こうまで眺めたことがあったのに」

「目隠しじゃ」

 と、ラモ翁が歌うように言った。老人を見れば、皺だらけの口の端が、にやりと上がる。

「巫の力で、隠されておる。目隠しが途切れることもあるが、それを見つけてしまって、うっかり近づこうものなら、その辺におるレシテナルダに追いかけ回されるのじゃ……何も、守護者はひとりのみが逗留しておるわけではあるまいよ。おぬしのお仲間には、レシテナルダの巣として認識されておるであろうのう」

「……なるほど、調査に行ったことのある者が震えていたわけが分かった」

「今は途切れておるから見えるのう。いつもは砂の渦が巻いておるように見えるぞ」

 ふぉっふぉっふぉ、とラモ翁が笑うと、カールはちょっと皮肉気な表情をした。

「……その中に向かって進む羽目にならなくてよかったです。私はまた違う形で発狂していたでしょうね」

「わしの着古しは、もう一着いるかのう?」

「いいえ、大丈夫です。もうちびりませんから」

 その時はまた世話をしよう、と、ゴラン・ゴゾールは密かに思った。

 街は見えているし、渦の中に突進していくレミとルパを助ける必要もないだろう。ゴラン・ゴゾールはそんなことを考えながら、砂長竜の背から降りて、歩き始めた。

 裸足に熱砂が突き刺さってくる。それでも、人の住む場所を再び生きて拝めたのだ。砂の中に放り出されて、砂鮫の攻撃を掻い潜って、奇跡的に肉体を損なうことなく立っていて、歩けて、その痛みを感じられるのだ。

 ゴラン・ゴゾールは、カールと一緒に街まで歩いた。砂長竜は、ラモ翁の笛の音を聞くやいなや、竜角羊の群れを率いて、くねくねとどこかへ去っていった。その先を見れば、岩屋のような場所があった。そこに羊たちを集めておくのだろう。

 まるで幻影のように揺らめく熱気の中に、巨大な岩の大きな欠片が点在している。砂よりも深いところから生えているようだった。

 その岩の隙間を縫うようにして、日干し煉瓦の街は構築されている。入り組んだ路地、ところどころに露出した岩を削った階段、模様で埋め尽くされた日干し煉瓦の鉢、そこに植えられているとげとげの植物に咲いているのは、見たこともない、花弁だらけの花。行き交う人々は皆褐色の肌に銀色の毛で、薄い色の肌をしたゴラン・ゴゾールとカールの姿を目に留めると、驚いて目を丸くする。

「客人じゃ、客人じゃ。砂の大地で生き残った、誠実な者たちじゃ。このわしが、レッツァ氏族のラモが、間違いないと言うぞい」

 ラモ翁は、ゴラン・ゴゾールとカールの前を歩きながら、大声で宣言して回った。

「じじさまにチーズを貰える人なのよ! 皆、安心して!」

「でもね、この人たちはね、僕たちのチーズが食べられないんだ!」

「そう、食べられないの! 本物の、砂漠の外の人なのよ!」

 レミとルパも、老人に続いてそんなことを叫びながら、ぴょんぴょん跳ねた。

 やがて、一行は、広い場所に出た。平らにされた岩に、どこから調達してきたのだろう、白亜の石で組み上げられた美しい噴水が存在している。優雅な半球型の盆が三つ積み重なっていて、一番上からは水が流れ、涼しげな音を立てながら、絶えず下に落ちていた。それを受けている泉には、心臓の形をした葉が浮いていて、恋にときめく若者の頬の色をした花の蕾が、今にもふわりと解けそうなくらい、膨らんでいる。

 道で行き会った人々は、皆、ついてきていた。異邦人が珍しいのだろうとゴラン・ゴゾールは思ったが、しかし、あまりにも見られすぎているような気がした。近衛騎士であった頃は見られることなど日常茶飯事であったのでとっくに慣れきっていたつもりだったが、あれとは違う。粗探しをしようとしてくる者の意地汚い視線に触れるのと、純粋な好奇心を向けられる先になるのは、別だ。聡明でないゴラン・ゴゾールにだって、その違いはわかる。脇腹のあたりがそわそわした。

 レミとルパが、一番大きな建造物に向かって、はしゃいだ声をあげながら駆けて行き、扉を開けて、その向こうへ消えた。

「あそこの大きい家はのう、ノージャ氏族の巫のものじゃ」

 ラモ翁がそう言った時、ゴラン・ゴゾールは、双子が家から出てくるのに気が付いた。あっという間である。何をしに行ったのだろうと尋ねようと思った時だ。

 子供たちの後ろに、別の影がある。それは、陽光の下に出ると、アルタンの女の姿となって、双子と何やら言葉を交わしながら真っ直ぐにこちらへ向かってきた。生成りの長い胴衣の下で大きく張った胸、空に溶けるような長く艶のある銀色の髪、こんがりと焼けた美味しそうなパンのような肌、意志の強そうな紫水晶の双眸は垂れがちだが、それとは反対にきりりとした眉が印象的だ。隣でカールが息を呑んだのが、ゴラン・ゴゾールにはわかった。

「……美しい方ですね」

 ゴラン・ゴゾールは、思わずカールを振り返った。

 青年の頬は噴水に佇む花の蕾のようにほんのりと色づき、いつもは締まっている口の端も緩んでいて、健康そうな白い歯が唇の間から覗いている。碧の目は大きく見開かれていた。しなやかな腕が曲げられて、その手は両方とも胸をそっと押さえる。ゴラン・ゴゾールが咄嗟に思ったのは、しまった、だった。だって、人が恋に落ちたかもしれない瞬間を目にしているのだ。

 カールと目が合った。彼は口を開いた。

「そう思いませんか?」

 ゴラン・ゴゾールは、今すぐここから走って逃げたくなったが、その衝動をなんとか抑えて、肩を竦めて笑ってみせた。うっかり口の端を左側だけ上げてしまったから、ぎこちなく見えてしまっただろうか?

「こちらが、ととさまのお連れになったお客様ね」

「そうじゃ。サルアダーンが飛んでくるのを見て、いかん、と思って急いだのじゃ。したらの、いつもの場所からちと離れたところに、こやつらがおってのう」

 自分たちと同じ言葉を喋っている、ということに、ゴラン・ゴゾールは気が付いた。サルアダーンとは何なのかわからなかったが、己が喋るのは名乗る時くらいでいい。貴族の子息として……というよりも、頭の回転が速くない己が失言を回避するために身につけた礼儀である。

「サハケルスから逃れられたのね。知恵のある方たちだわ」

 サハケルスも何なのかわからない、と思っていると、ラモ翁が、ゴラン・ゴゾールとカールに向き直った。

「紹介しよう。我が娘にしてこのノージャの街の巫、パミルじゃ。レミとルパの母でもある」

「僕らのかかさまだよ!」

「わたしたちのかかさま!」

「かかさま、三十日ぶり!」

「三十日の間元気だった?」

 双子はパミルと紹介された女の周りを踊るようにくるくる回りながら跳び回った。久し振りに会ったらしい。ええ、元気だったわ、と答えるパミルは何歳になるのかわからないが、経産婦とは思えない若々しさだ。彼女は優雅に、美しく、ふわりと微笑む。その瞬間、カールが息を呑む音が聞こえてきた。

「あらまあ、可愛い坊やね」

 おや、と思った時には、パミルはすたすたと歩いて、距離を詰めてきていた。健康的な色をした柔らかそうな腕が持ち上がって、たおやかな指先が撫でるのは、カールの頬。

「うん、綺麗で、若くて、とてもいいわ」

「……子ども扱いをしないでください。私は十八歳です、王国では成人ですから」

 カールは頬を染めたまま驚きに目を見張ったが、すぐさま憮然とした表情になって、顎を上げ、胸を張り、己の方が背の高いことを誇示する。余計に子供っぽく見えたが、ゴラン・ゴゾールは我慢して、黙っていた。

「あらあら、大人なのね……ねえ、暑いでしょう、ここは。どうかしら、一緒にお家の中へおいでなさいな、あなた。名は?」

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