神の御前で恋は散って

 教会の鐘がリーンゴーンと荘厳に鳴って、白い鳩が一斉に飛び上がった。両開きの扉が開け放たれ、白いタキシードに身を包んだ夕霧命ゆうぎりのみことと、ウェディングドレスを着た女が腕を組んで、入り口から外へ出てきた。


 赤い絨毯を歩いてゆく二人に、花びらや細いテープが色とりどりに飛び交い、人々の祝福する声が上がる。


「おめでとう!」

「結婚おめでとう!」

「お幸せに〜!」


 遊線が螺旋を描く優雅で芯のある声が、新郎にかけられた。


「夕霧?」

「光」


 はしばみ色の瞳に映ったのは、瑠璃色のタキシードをエレガントに着こなしている、いつもとあまり変わらない洗練された服装の従兄弟――光命ひかりのみことだった。


「祝福しますよ」


 表情を表に出すことが少ない、夕霧命は目を細める。


「俺が今日ここにいるのは、お前のお陰だ。感謝する」


 アドバイスを受けた通り、そばで花嫁衣装を着ている女に真っ直ぐ好きだ伝えたら、それが返って喜ばれて、かけていた丸が完全な円を描くようにお互いにとってかけがえのない存在となって、今日の日を迎えた。


 振り続ける花びらが紺の髪に絡まりながら、光命は神経質な指先で耳にかける。


「構いませんよ。あなたが幸せなら、私は従兄弟として心の底から嬉しいのですから」

「お前が先に結婚するかと思っていた」


 携帯電話の写メのフラッシュが昼の光の中で、さらに強くきらめく。


「ですから、可能性の問題だと言ったではありませんか?」

「確かにそんなこと言っていた。いつのことだ?」

「去年の十二月二十一日日曜日、十四時七分五十秒です」


 相変わらず、デジタルに日時と会話の内容を覚えている光命を前にして、夕霧命の笑みは一層濃くなった。幸せの連鎖の中で。


 従兄弟同士で楽しく話している男二人の隣で、様々な色のドレスに囲まれている、花嫁にかけられている会話が聞こえてきた。


「子供が生まれたら教えてよ」

「はいよ」


 粋な返事が花嫁の唇からもれ出る。大人の話は十分知っているほどの年齢――四桁でありながら、二十三歳の花嫁に、同世代の女たちが意味ありげにささやき合う。


「すぐ生まれるかもね、こんなにお似合いなんだからさ」

「あたしもママってやつかい?」


 花嫁はくすぐったそうな顔をした。友人たちはおしゃべりが止まらなくなる。


「あんなにバリバリ仕事こなしてたのに、結婚すると変わるね」

「結婚の儀式って、魂入れ替えるじゃない?」

「それで気持ちも変わったってこと?」

「そうじゃない? ある意味、セック○より深く交わるってことだもんね」

「体を超えて、心が触れ合うんだからね」


 女たちは一斉に、花婿のシャープな頬のラインと、百九十八センチの長身を上から下へ見下ろして、


「エロいね」

「エロいエロい!」

「あははははっ!」


 女王陛下の侍女たちは同僚として、子供授かり事件について話が盛り上がり、大声を上げて高らかに笑い出した。


 大人の話に交われる十八歳だが、一年も生きていない光命はくすくす笑いながら、夕霧命の瞳を同じ背丈で見つめた。


「子供が生まれた時には、またお祝いに行きますよ」


 子供が生まれてくる道理をしきりに知りたがる、従兄弟の脳裏で何が再生されているのかは知らないが、夕霧命はあきれたため息をつく。


「お前まで気が早い」

「そうですか? 結婚して一ヶ月もしないうちに、子供が生まれるそうではありませんか」


 今や小学一年生の生徒数は急上昇していて、教師の募集が常にかけられているという社会現象は誰もが知るところとなっていた。


 夕霧命は子供ができる絶対条件の、もうひとつを上げる。


「それは、子供がほしいという、真実の心もあるからだ。気持ちがなければ、子供は生まれない」


 結婚だけしても生まれない。お互いが欲しいと願わない限りは。だからこそ、神様の暮らす世界では、望まれない子供は生まれてこない。つまり避妊道具もない。


 もちろん、神様が授けなければ生まれてこない。排卵日も精子も受精も何もない。本当の神秘の世界。天からの授かりもの。大人でも研究者でも知らないこと。


 神への感謝を常に忘れない光命は、愛する人と本当に結ばれた従兄弟から情報をほしいと願った。


「あなたは違うのですか?」


 無感情、無動のはしばみ色の瞳は横へゆっくり揺れた。


「いや、ついこの間までは俺が子供だったが、今は欲しい」


 結婚をして、一歩成長した従兄弟に、いつかは自分が通るであろう同じ道を予想しながら、光命は優雅に微笑んだ。


「魂を交換する儀式を行うと、気持ちにも変化が出るのかもしれませんね」


 未だに鳴り続ける教会の鐘に、地鳴りのように響く声がまじる。


「お前が結婚する時は、俺も祝いにゆく」

「いつになるかは予測がつきませんが、ありがとうございます。それではまた……」


 披露宴という文化のない結婚式。儀式場へ人々は招待され式が終わると、花婿と花嫁と話をしたり、胴上げをしたりだけで、普通の生活へと戻ってゆくの当たり前だった。


 光命の黒いエナメルの靴は階段をカツカツと、かかとを心地よく鳴らして、両親が所有している、待たせたままのリムジンへと歩き出した。


(誕生日が三日違いの従兄弟の結婚祝いに、帰ったらピアノで曲を作りましょうか? 結婚ブームで、幸せがあちらこちらに漂っている。素敵な日々です)


 足取りは軽く、頭の中で五線紙に音符が描かれてゆく。絶対音感と記憶力で、楽器がなくても楽譜が出来上がっていきそうだったが、黒塗りのリムジンの隣で、エレガントなドレスを着た女がうろうろしていた。


「おや?」


 大きな荷物を手に持ったまま、大通りの歩道で右に左に顔を向けて、何かを探している。


「え〜っと、どこに行ってしまったんでしょう? こっちでしょうか? それともあっち――」

「どうかされたのですか?」


 困っている人を放置するわけにもいかず、光命は遊線が螺旋を描く優雅な声で問いかけた。しかし、女はびっくりした顔をして、重力十五分の一の世界で、一メートルほど上へ飛び上がった。


「爆弾があるんですか!」


 リアクションバッチリで、その上意味不明な言葉は返してきて、光命は神経質な手の甲を中性的な唇に当てて、くすくす笑い出した。


「…………」


 女は自分の言動に気づかず、地面に無事着地して、まぶたを瞬かせた。


「どうして笑ってるんですか?」

「…………」


 光命はそれきり何も言えなくなって、肩を小刻みに揺らし、彼なりの大爆笑を始めた。しかしそれは、きちんとわかっているからこそだった。


に聞き間違ったみたいです)


 今ここで出会ってわかるような会話の流れではないのに、恋という運命はやって来た。光命は笑うのをやめ、紺の長い髪を横へ揺らす。


「いいえ、何でもありませんよ」


 家に帰ると、玄関へ来て笑顔で出迎える人の、言動の全ては彼のデジタルな頭脳の中に入っている。どんな言葉をどう聞き間違えるのか。どんな罠を仕掛ければ、一メートルも飛び上がって驚くのか。


(母に似た女性がいるとは思いませんでした)


 母親に悪戯をして、それを堪能することが趣味だと言い切れる、自分がいることも知っている。マニアックな趣味だと、夕霧命にもよくあきれられた。そうして、何もなかった大地に恋は芽吹いた。


(――彼女を愛したほうがいいという可能性が0.01%出てきた)


 光命はスマートに彼女の手から荷物を取り、レディーファースト精神でエスコートし始めた。


「よろしかったら、お手伝いしますよ」

「ありがとうございます!」


 光命の中で恋の可能性は上がり続け、八十二パーセントを超える日が近づいていった。


    *


 季節をいくつか過ぎ、新緑が庭の草木に広がった。城の隣にある大きな屋敷に、到着したリムジンから運転手が降りてくると、ドアが慣れた感じで開けられ、この屋敷の息子――光命が降り、ふわふわのドレスを着た女が続いた。


 正式に付き合うと決めてから、両親への初めての挨拶。この世界の愛は永遠で、いつかは結婚する。だからこそ、きちんとしようと決めて、彼女を迎えにいった息子が屋敷へ戻ってきた。


 玄関のドアにもう少しで近づくところで、待ちかねていた両親が中から出てきた。天然ボケを極めている母が両手を胸の前で組んで、目をキラキラと輝かせる。


「あらあら? 素敵なお嬢さんじゃない?」

「いや〜、光のことをよろしくお願いします」


 子供たちと同じ年代に見える両親は、当の本人たちより大盛り上がりで、大人気なくはしゃしでいる。他の人のお宅で、しかも城の隣に建っている屋敷で、彼女は額に汗をにじませた。


「あ、あの……」


 光命は両手を空へ向かって、頬の横まで上げて、降参のポーズを取る。


「困りましたね。自己紹介がまだですよ」


 大人として最低限の挨拶のはずなのに、それをすっ飛ばして、母親はフライング気味で、彼女の手を優しく引っ張った。父親もすぐ脇で、言葉だけで便乗する。


「とにかく中にお入りなさいよ。座ってからでもいいじゃない?」

「さささ、どうぞ」

「ありがとうございます」


 彼女が両親に半ば強引に廊下の絨毯の上を歩かされて、連れていかれる姿をゆっくり追いかけようと、光命はする。


「おかしな人たちですね。ですが、父と母も喜んでいるのかもしれない」


 お手伝いさんがそばへ来て、小さな四角い紙を差し出した。光命は神経質な手で受け取り、


「おや? 私宛の手紙……」


 後ろへひっくり返すと、堂々たる獅子の紋章のシーリングスタンプで封をされていた。それはこの世界に住むものならば、誰でも知っているもの。


「城から?」


 役所ではなく城からの手紙。個人的に呼び出されることなど、一般市民として生きている自分になかった。デジタルに記憶する光命のルールを、大きな運命の荒波が狂わせるとは予期できなかった――


    *


 モデルとなっている神様のキャラクターに興味を引かれた、澄藍すらんは最近自作の小説を書いていた。ゲームプレイの合間を縫って、パチパチとキーボーを叩いていた手を止め、首を傾げる。


「何だか、最近おかしい気がする」


 ここ三ヶ月近くの出来事を、彼女の記憶なりに探ってみる。


「前は九時間も睡眠時間がないと、よく眠れてなかったのに、四時間で済んでる。しかも、頭が冴えてて、うつらうつらでも、朝六時に平気で起きられる。睡眠時間ってそんなに変わるものなのかな? 外に働きに行ってないから、疲れてないってことかな?」


 うとうとしか寝ていない。それは自覚している。あの眠りに入る寸前のような感覚。それが数日ではなく、数ヶ月単位。


 普通なら眠いはずだし、朝起きられないはず。それなのに平然と起きて、昼寝もすることもなく活動し続ける毎日。


 それでも、調子がいいのは確かで、何よりも事実と可能性を考えるのが楽しいし、光命をモデルとしたキャラクターの執筆をしていると、時間も何もかも忘れてしまう。できることなら眠らないで、彼の思考回路に三百六十五日、四六時中触れていたところだ。


 いつも通り、六時に目が覚め、先に眠っていた配偶者より、早く起きて書斎机のある部屋へ、パソコンを起動させるために入った。椅子の背もたれに手をかけながら、デジタル頭脳を展開する。


「あの可能性が高い。これは低い。その可能性もあるから、そうすると可能性の数値は変わって――」

「おい! お〜い!」


 どこか遠くから、誰かの声が聞こえてきた。起きているはずなのに、遠くからする。


「ん?」


 視界がいつの間にか真っ暗だった。それはまぶたを閉じていたのが原因。それなのに思考はずっと続いていた。


「気がついたか?」


 ぼやけていた視界に、赤と青のくりっとした瞳が映った。


「コウ……」


 見え方がおかしかった。どうやっても、澄藍とコウはお互い直角に立っている。左頬に冷たい感触が伝わる。


「あれ? どうして床が頬にっていうか、倒れてるんだろう?」


 起き上がってみると、手をかけたはずの椅子の背もたれはそのままだった。


「お前もバカだな。三ヶ月も寝不足で気絶しない方がどうかしてるだろう?」

「あぁ〜、考えすぎで倒れてしまった」


 真後ろに直接倒れず、クローゼットのある壁にぶつかり、ずるずると床に崩れ落ちたようだった。頭にではなく、お尻に痛みが残っているのだから。


「そんなに夢中になるなんてな」

「うん、面白い考え方だと思った。光命さんの理論は」


 よろよろと立ち上がって、また眠ろうとベッドに入ったが、澄藍の頭がクールダウンすることもなく、寝れそうにもなかった。


「理論は大切だから、まだまだ勉強しとけよ」

「うん、そうする」


 閉じたまぶたのままでも、霊視を使って銀の長い髪を眺める。


「理論で悪戦苦闘してるお前に、今日も朗報だぞ」

「何かまた動きがあった?」

「光命のことだ」

「うん、光命さんがどうしたの?」


 紺の長い髪に、冷静なカーキ色の瞳。青の王子という名がふさわしい、優雅な笑みと上品な物腰。あの神様の朗報。澄藍は期待を胸に、コウの言葉を待った。


「彼女ができた――!」


 彼は息子に嬉しいことが起こったみたいに言った。衝撃的過ぎて、澄藍はパッと目を開けた。ベッドに横になっているはずなのに、ぐるぐると足元がおぼつかないように天井が回り出す。


 そばで話している存在は神だ。それは、人間の心の声が聞こえているということだ。だから、悟られないように心を真っ白にして、平常を装ってうなずいたが、どうやってもため息はまじってしまった。


「あぁ、そうか……」


 薔薇色の人生から一気に目が覚めた気分だった。神の御前おまえで恋は無残にも散っていった。ぼんやりしている澄藍の耳に、コウの嬉しそうな声が続いている。


「いや〜! なかなか彼女ができなかったが、やっぱり運命の出会いというものはあるんだな。人それぞれ出会う時期などは違うから、光命は少し遅かっただけなのかもしれないな」


 澄藍は微笑もうとしたが、うまくできなかった。だからせめて、自分に言い聞かせるように言葉を口にする。


「そうだよね。光命さんだって大人だもんね、彼女ができるよね」

「そうだ。どうした?」


 コウの無邪気な瞳。神の前で視界はにじみ出すが、それでも、澄藍は心の中で嘆きもせず、ただただ青の王子へ祝福を贈った。


「いや……。よかったなって。光命さんが幸せになることができて」


 コウは両腕を頭にやって、嬉しそうにぴょんぴょんと音を立てて、あたりを歩き回る。


「だろう? 母親に似てる人を彼女に選んだらしいぞ。かなりの天然ボケで、罠を張って悪戯しては喜んでるそうだ。結婚するのもの、時間の問題だろうな」


 青の王子が結婚する――。


 自分の手の届かないところへ行ってしまう。たとえ今後、大人の神様が見えるようになったとしても、彼は既婚者で妻がいて子供もいる。神である以上、どんなことが起きても誠実でいる。


 人間を好きになったようにはいかない。言動に起こさなければ、好きでいても罪にはならないという妥協案ができない。


 心に思ったことは聞こえてしまう。伝わってしまう。恥をさらして、神の御前に立つわけにはいかない。そんなことはしたくもない。


 澄藍の落胆は絶望だった。フェードアウトではなく、切断が要求される恋心。子供には見えても、大人の神様であるコウの前で、栄えある彼女に選ばれた女性神のことを思いながら澄藍は無理に微笑む。


「そうか。光命さんはそういう女の人が好きだったんだね。みんな結婚してたもんね。だから、光命さんもすぐにするね」


 あの神様名簿は、あっという間に配偶者が追記されてゆく毎日。別れる人は誰もいない世界。悪という概念がないからこそ、発展し続ける方法を懸命に考えて、前に進む神々。


 それにもれずに、光命も自身の家庭を持つと予言して、コウはすうっと消え去ってゆく。


「そうなるだろう。俺は大忙しだから、また来るぞ」

「うん……」


 配偶者はもう起きていて、一人きりの寝室。澄藍の瞳のふちに溜まっていられなくなった涙がこめかみを伝い、シーツをそっと濡らし出した。


(そうか。前にこの肉体に入ってた、奇跡来きるくみたいな人が好きだったんだ。理論じゃなく、感覚の人でリアクションが大きくて勘が働いて、今の私にないものを持ってる人が好みだったんだ)


 自身にまるっきり似ている人とは上手くいかないと、よく聞くが本当にその通りだったと思った。光命の思考回路が好きで追いかけた結果、澄藍は彼に似ていったのだ。


 しかも、言葉を交わすどころか、会うこともなく、自分で勝手に恋をして、失恋をして、究極の独りよがりで身分違いだった。


(自分を卑下するつもりはないけど、神様が人間の自分を見てくれるはずがない。私の存在どころか、地球のこともたぶん知らないんだと思う、光命さんは。それでも、彼が幸せになれたことを心から祝福しよう。そうして、私は彼を忘れる努力をしよう。そうやって生きていこう)


 待っても意味がないのだ。青の王子はもう振り向かないのだ。


(それよりも何よりも、神様の世界は永遠だから別れることは絶対に起きない。その女の人と永遠の時を生きるって、光命さんは決めたんだ。私の入る余地はもうない。というか、そんなことを望んでいたのかと思うと、私は私利私欲の醜い魂――神様から見れば、見た目も醜い人間なんだ)


 一番大切な心さえ、澄藍と光命は天と地ほどの差。だからこそ、神の域へはどうやっても足元にさえもたどり着けない。人間が生きている時間などせいぜい数十年だ。何億年も生きている神の世界へ近づくのは、転生をして記憶をなくしてを、何度繰り返さなければいけないのだろう。


 ようやく釣り合える位置へやって来たころには、永遠に十八歳のままだった光命には孫もいて、気品高さも優雅さも輝きを増して、誰もが振り向く青の王子は健在なのだろう。老いることなく、若く美しいまま。


(落ち込むこともできない。恋愛対象にしてはいけない人なんだからさ。それを欲望というもので、無視したからこうなったんだ。自分の責任だ。恋愛対象にならないんだから、運命で結ばれるはずがない。理論で考えれば、それに気づいたはずなのに……)


 恋をする前に、恋愛をしてはいけない人だと知りたかったと、後悔しても過ぎてしまったことは変わらない。それならば、これから起きることを考えなくてはいけない。


 未だに止まらない涙を、手の甲でゴシゴシと拭って、世界で本当に一人きり、澄藍は忍び泣く。


(もう何ひとつ思ってはいけない。だって、心に思い浮かべたら、神様には聞こえてしまうから。どこかで、光命さんが聞いてたら迷惑をかける。それが一番したくない。叶わないのに、好きになってはいけないのに、それを彼が知ったら困らせるだけだ。だから、間違っていたと反省して忘れよう)


 眠れない日々が続いていたが、今度は眠り過ぎるほどの睡眠時間になった。しかし、彼女はそれがおかしいと気づかないまま、しばらくすると、テレビゲームをプレイして、小説を書いての毎日をまた始めた。


    *

 

 光命とは違う人をモデルとして小説を書いていた、澄藍のそばへ来たコウのテンションは少し低かった。


「実はな。十八歳まで一気に成長した子供がいただろう?」

「うん、光命さんとか夕霧命さんとかだね?」

「そうだ。心の不具合が見つかってな」


 神様の世界で間違いが起きた。完璧なイメージの神々でも、その上にも神がいる以上、そういうことが起きるのだと、彼らも彼らなりに生活が大変だのだと、澄藍は思った。


「どういうこと?」

「やっぱり神でも、子供の頃の親との日々は心の成長にはかけがえのないものだと、研究結果が出たんだ。それで、通常の五百倍の早さで、時が流れる大きな空間に入って、やり直すことになった」


 地上とは違って、対策も素早く、待遇もバッチリだと安心し、澄藍は再びパチパチキーボードを打ち出した。


「よかったね。それで大人として、今までよりもしっかりとやっていけるんだったら、いいね」

「そういうことだ。あぁ〜、忙しい忙しい! じゃあな、また来るぞ」


 ここのところ本当に忙しいらしく、コウは五分もいないことが多い。何をやっているのか知らないが、見た目が子供でも、彼も大人である以上仕事があるのだろう。


 お茶のペットボトルを傾けて、澄藍は気になることがあって、手をふと止めた。


「十八歳だったのに、子供の記憶があとになる? 生きる順番が逆ってこと? 何だかややこしいなぁ」


 人間だったら、気持ちがついていけないのではないかと思った。神様は心と考えが柔軟だから対応できるのかと納得しかけたが、不具合が起きてやり直すとなると、不穏な空気が漂っていた。


    *


 中心街から数キロ離れた修業施設へと、やり直しをするよう命じられた十八歳の男女は集まっていた。誰一人もれることなく、絶対服従となっていて、光命と夕霧命も例外ではなかった。


 スピーカーもマイクもないのに、人々の前に立っていた貴族服を着た狐の男が話すと、広い会場にきちんと声が響き渡った。


「それでは全員集まりましたので、もう一度詳細をお伝えします」


 集まっていた人々は話すのをやめ、静まりかえった。


「今現在の記憶を一度こちらで預かり、ゼロ歳まで戻ります」


 一番前にいた男が手を上げて、待ったをかける。


「それって、配偶者や恋人の存在を忘れるってことですか?」

「はい、そうです。出会った時期が十八歳ですから、この中にいる間にはパートナーの方は出てきません」


 空中を海のようにして、浮かんでいるイルカが今度は疑問を投げかけた。


「出てくるまでにどのくらいかかるんですか?」

「今現在はひとつ年齢を重ねるには、六百八十七年とされていますが、様々な方向から検証した結果、一年をそのまま一年とし、五百倍の速度で時が流れます。ですから、十八年で計算すると、十三日と三時間半少々です」


 二週間弱で出られる。仕事をしている人がいる以上、それより長くは社会に影響が出ると判断されたことによる、速度の調整だった。


「終了後に今までの記憶を戻し、元の生活へとお戻りいただきます」


 体が大きいためにみんなの邪魔にならないよう一番後ろにいた龍が、親とのやり直しがメインである以上絶対に欠かせない人々がここにいないことを危惧した。


「家族などはどのようになるんですか?」

「中にはご本人はおりませんが、最新技術で擬似の家族はおります。全てが終わった時には、その方たちの記憶もお渡ししますので、元の生活へ戻っても、家族や友人としての思い出というものは残ります」


 この施設から出ても、まわりの人たちと話のズレはなく、本当に一緒に生きた記憶と体験だけが、関係者に渡るということだ。


「他に質問はございませんか?」


 真ん中ほどに立っていた猫の女性が、独身らしい質問をした。


「恋人とかできることはあるんですか?」

「そちらはあるかと思います。すでにご存知かと思いますが、十七歳で成人ですから、今現在いらっしゃらない方は、今回参加されている方の中で運命の方がいらっしゃいましたら、人によってはご結婚されて、お子様が生まれている可能性はあります」


 同級生と恋愛。よくある話。しかし、個々の家で両親から教育を受けたきた人々は、学校というものへ行くこととなり、クラスメイトが恋人になるという新しい選択肢が出てきた。


 係りの狐が細い目でまわりを見渡す。


「他には?」

「…………」


 誰からも質問はもう上がらなかった。扉を開ける係りの者が操作をすると、室内のはずなのに、中には外が広がり、いつも見ている首都の中央にそびえ立つ、城と同じものが眼前に佇んでいた。


「それでは、みなさんお入りください」


 人々が順番に入ってゆくのについていきながら、十八歳の姿しか見たことのない従兄弟がどんな子供になるのかと、夕霧命は想像してみた。


「お前の幼い時を見てみたい」

「そちらは私も同じです」


 この深緑の短髪を持ち、いつも落ち着き払っている男が、どんな子供時代を送るのかと思うと、光命は新しい世界へと胸を躍らせた。


「それでは、十八歳の誕生日までお楽しみください」


 全員が中に入ると、外の世界としばしの別れというように扉が閉まってゆく。そうして、完全に閉まると、真っ暗闇が襲い、ついで音が途切れ、全ての人々は記憶をなくした――――

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