神様の実験終了

 そして翌日――。


 今まさに世界は、新しい始まりを迎えた。遠くの惑星がひとつ、凄まじい破壊音を立てて、太陽にように真っ赤に染まり宇宙のチリとなってゆく。


 あれほど人々を苦しめた本拠地だった惑星。誰も倒すことが許されなかった、いや倒すことのできなかったしき存在が、たった一人の青年の手によって終焉しゅうえんを告げた。


 消え去ってゆく悲劇の歴史を、アッシュグレーの鋭い眼光は、様々な想いを胸に静かに見守っていたがやがて、しゃがれた声が宇宙に浮かぶ星々ににじんだ。


「これで終わりってか?」

「邪神界――悪は滅びちゃいましたからね」


 甲冑かっちゅう姿という固いイメージなのに、こぼれ落ちた声色は、羽のように柔らかく低めの声だった。


 最初に話しかけた男がかぶとを取ると、藤色の剛毛があらわになった。ガシガシと節々がはっきりとした指先でかき上げられる。


「長かったな」

「五千年前から続いていたそうですから、僕たちにしてみればちょっと長かったです」


 神様独特の価値観で話している男の髪はカーキ色のくせ毛。無風、大気なしの惑星の地面の上で、それがなぜか風に舞う。


 今も目の前で消滅してゆく惑星を、いつも鋭くにらんでいた、アッシュグレーの瞳はそれまでと違って、まぶたに疲れたように閉じられ、男は地面にヘトヘトと座り込んだ。


「少しは休ませろって……」

「僕は大概のことでは根を上げませんが、これには少々くたびれました」


 甲冑姿だというのに、外国の兵隊のように、腰で両手を組んで右に左に、優男やさおとこはエレガントに歩いた。


 別の銀河で美しい青を見せる、地球でサラリーマンをやっている人間と、神世に住んでいる自分を比べて、ガタイのいい男は皮肉まじりに口の端を歪めた。


「どんだけブラックだよ?」

「真っ黒黒くろくろけです」


 兄貴肌の男と天然ボケが少し入った王子みたいな男、の会話はまだまだ続く。


「生まれてから仕事仕事でよ、二千年ちょっと寝たことねぇぜ。いくら死なねぇからって、腹も減らねぇからって、マジでおかしいだろ。しかもよ、手は出せねぇって、見てるだけっつう、蛇のなま殺しみてぇなことしやがって。統治者ドSだろ?」


 永遠とは、ある意味恐怖でしかなかった。人間世界より、神世のほうがこくであった。しかし、くせ毛の優男はにっこり微笑んで、上品に顔の横で手を振る。


「それでは、僕は実家に帰って、とりあえず家族水入らずです」

「相変わらず、話スルーして笑い取りやがって」


 しゃがれた声がツッコミを入れ、今までの日々のやり取りがより一層濃い色をつけて垣間見えた気がした――。


    *


 ――騒音はいつものこと。首都を環状する大通りに面したマンション。窓は二重になっているが、洗濯物を取り込む時には、いつもこのクラクションと走行音、そして近くを通る路面電車のガタゴトという雑音が体中をおおう。


 女は洗濯バサミをつまんでは、挟まっていた洗濯物を部屋の床へ放り投げる。


「よく乾いた。八月だから、ちょっとゴワゴワしてる――」


 その時だった。ひとりきりのベランダに、不浄を消し去るように、聖なる子供の声が響き渡ったのは。


「よう!」


 コウが来たと思ったが、家事が優先の女は手を休めることなく、洗濯物を部屋の中へ入れてゆく。


「今日は昨日より来るの早いね」

「朗報だ」

「どんないい話?」

「邪神界が滅びた――」


 手に持っていた洗濯物を、女は思わず落とした。


「え……?」


 森羅万象と言っても過言ではないほど、絶対の法則だった世界のことだ。それが滅びるなど、昨日の予言通り天変地異だ。いや空前絶後だ。


 コウは宙に浮いたまま、二重窓を半円を描くようにすり抜け、再び外へ戻ってくる。


「あの人を傷つけて、蹴落として、まわりの人間に悪影響をたくさん及ぼしたやつが地位も名誉も手に入れられる世界は滅んだってことだ」

「何度聞いても、嬉しくない世界だ……」


 子供らしいくりっとした丸く大きい赤と青の瞳は、その形には似つかわしくなく、人間よりもはるかに長い年月を生きている威厳を持っていた。


「地獄って知ってるか?」

「うん。罪を犯したら、死んだあと行く場所だよね?」

「まあまあ、あってる。今までの地球の歴史は、戦争が多かっただろう?」


 歴史の授業を思い出しながら、ベランダに落とした洗濯物を拾い上げ、女はため息をついた。


「そう……だね」


 洗濯竿をすり抜け、ふわふわとコウは宙を飛ぶ。


「だから、ほとんどの人間が地獄行きなんだ。人間って辛いことから逃げるだろう?」

「そう?」


 女は本当に不思議そうな顔で首を傾げた。コウは珍しく笑う。


「ふふっ。お前は違うのかもしれない。ほどんどの人間はそうで、地獄から逃げたいと思ってた。しかも、逃げられる方法がひとつだけあった」

「どうやって?」


 自転車の油の切れたブレーキ音が、排気ガスだらけの空にいなないた。


「邪神界へ行くこと――」

「えぇっ!? それって……」


 女は再び洗濯物を床にパラパラと落として、あまりのことに言葉をなくした。コウの銀の髪が夕風に揺れる。


「お前が予測した通り、悪魔に魂を売り飛ばすってこと」

「それって本当にあった?」


 本や映画の話ではなく、自分が生きている世界にあったとは驚きだった。まさしく、事実は小説よりも奇なりだ。


 地獄で苦しんでいる人間のそばへ、神様がやって来て、あなたがここにいる必要はないんだと、にこやかに話しかけるのだ。


 すると、罪はつぐなわれたのだと何の疑いもせず思い、人間はそうやって、悪へと落ちてゆくのだ。神様に化けた邪神界の人間についていってしまったとも気づかずに。


 コウの赤と青の瞳はどこまでも冷ややかだった。


「で、邪神界へ行けば地獄へ入る時間はもっと長くなる。罪をさらに重ねるんだからさ」

「そうだよね」


 女は最後の洗濯物を手にしながら、世界は悪循環だと思った。


「だからさ、誰も戻ってこなくて、逆の世界の正神界せいしんかいの人間はもう一割もいなかったんだ」


 どこかずれているクルミ色の瞳の奥で、真っ黒な雲が世界を覆うイメージが脳裏に浮かび上がる。


「それって、神様の世界にも影響があったの?」

「そうだ。正神界の神様は人間に手を貸しちゃいけないって決まりがあった」

「じゃあ、世の中の神様の逸話はなかったの? お祈りって誰が聞いてたの?」

「だから、邪神界のやつらが全部やったんだ」


 あまりにも衝撃的すぎて、女は重たい二重窓を閉める時、指を挟んだ。


「痛っ!」


 腕を振りながら、顔をしかめながら、床に落とした洗濯物を拾う。


「それって、正神界の人間の頼み事も聞いたの?」


 コウは気にせず、電子ピアノの上に腰掛けた。


「聞くわけがないだろう。邪神界からすれば、敵なんだからな」

「じゃあ、世の中って悪が仕切ってた」


 物悲しい話なのに、赤と青の瞳は揺るぎない強さを持っていた。


「そうだ。統治者は他の神様よりも力が強いんだ。だから、誰にも倒せなかった。でもさ、邪神界を倒した神様がいたんだよ」

「いつの話?」


 女はクッションの上に腰掛け、洗濯物を畳み始めた。


「ついさっきだ。だから、今伝えに来たんだろう?」

「はぁ?」


 たった一人しかいない部屋に、彼女の声が思わずもれ出た。リアルタイムの話。あのいつまでも永遠の世界が、変化をもたらしたと言う、この子供じゃないと言い張る、大人かもしれない小さな神様は。


「お前も鈍臭いな。神様の世界っていうのは、人間の世界より最先端なんだぞ。だから、いつまでも古い仕来りのままなわけないじゃないか」


 いつの間にか止まっていた手を再び動かして、女は本棚に入っている専門書を眺めた。


「そう? 大自然の森の奥とかに住んでて、やしろに住んでて、日が登ったら起きて、日が沈んだら眠る――」

「それって、いつの時代の話だ?」


 まさかさえぎられるとは女は思っていなくて、コウの銀の長い髪をじっと見つめた。


「え〜っと、神話にはそう書いて……」

「神話は人が書いたもの。神様が書いたものじゃないだろう。コンピュータって誰が人間に作らせたのか考えればわかるだろう?」


 白山菊理姫ぱくざんきくりひめ。答えがすぐさま浮かび上がって、女は大声を上げた。


「あぁ! 言われてみればそうだ!」

「だから、神様は空を飛ぶ乗り物が当たり前にある世界で生きてるんだ。神様が地面をずっと歩いてたらおかしいだろう? 人のところにすうっと現れるから、威厳が増すんじゃないか!」

「確かにそうだね。長旅してきた神様に会ったら、ねぎらいの言葉をかけちゃうね。どっちが立場が上なのかわからなくなるかも」


 女は思った。死ぬことはないのだろうが、過労で、目の前でパタンと倒れる神様……。どうもイケていない。


 タオルをいつもの折り方で、軽快に畳んでゆく。


「で、邪神界を倒した神様は、どんな人?」

「陛下をこれからやる」


 テーブルの上に瞬間移動して来たコウの、青と赤の瞳を女はのぞき込んだ。


「陛下? って、王様の陛下?」

「お前、社会科は全然駄目だったんだな」


 コウは思う。王でなくとも、陛下と呼ばれることもあると。ちなみに、ここはだと。女は気にした様子もなく、畳んだものをパンパンと手のひらで叩く。


「まぁ、特に歴史はね」

「その陛下って、上の世界から降りてきた神様なんだ」


 神様に神様がいると聞いて、人間の女は思いっきり聞き返した。


「はぁ? 普通こうじゃないの? 私たち人間がいて、幽霊がいて、神様が一番上の世界にいる。それで終わり」

「お前、少しは世界のこと学んだほうがいいぞ。神様の上には神様がいて、その上にはまた神様がいてって、ずっと無限に上につながってるんだ」

「そんなに世界は広かったの?」


 昨日よりはまだ、青い空が残っている夕焼けを見上げ、女はさらに遠くへと意識を傾けた。


「陛下はずっと上から降りてきた神様だったんだ」

「何だかすごい人――じゃなくて、神様だね」


 言い直した女の前で、コウは両腕を組んで、偉そうに微笑んだ。


「そうだろう?」

「うん、いい話聞かせてもらった。ありがとう」


 細々こまごまとした靴下をかき集めて、女は家事にいそしもうとしたが、コウは慌てて止めた。


「まだ話終わってないぞ。洗濯物はあとでもいいだろう?」

「そうね。今日は昨日の残り物で夕食だから、作る必要なし」


 冷蔵庫の中に入っているタッパーと思い浮かべ、洗濯物を床にポンと投げ置いた。くりっとした赤と青の瞳は、どこかずれてているクルミ色のそれに、まるで謎かけのように問いかける。


「悪が生まれた理由って知ってるか?」

「人の心に巣食うからとかじゃないよね?」


 コウの小さな人差し指は顔の近くで左右に振られた。


「ちちちち! それは悪が生まれてからの話だろう? できた時の理由だよ!」

「人の成長を神様が願うから? とか」


 ありきたりな答えを聞いて、コウはこの人間の女に、神様の御心みこころを説いてやった。


「そんなのはいらない。だって、向上心があればいいんだろう?」


 もっとよくなろう。それの気持ちがあれば、つまずかなくたって発展する。答えは簡単だった。女は珍しく微笑む。


「そうだね。じゃあ、何?」

「神様の実験だったんだって。怠惰で自分のことばかり考えて、ネガティブな考え方をする心を作ったら、世界はどうなるかって」


 誰が悪いわけでも何でもなかった。しかし、世界の点として生きている人間には大問題で、女は両手を床について、盛大にため息をついた。


「はぁ〜。それで世の中が大変なことになってるのか……」


 コウは神様らしく、女に懺悔ざんげを促した。


「バカだな。人間は神様には逆らえないんだぞ。そこに何か意味を見出すのが、悪じゃなくてだろ?」

じゃなくて?」


 三十年近くしか生きていない人間の間違いを、子供の姿になっている神が指摘する。


って言葉は昔はなかったんだ、邪神界ができるまでは。だから、普通なんだよ。神対応じゃなくて、普通対応なの」

「普通か」


 女は心が軽くなった気がした。おごり高ぶるという道へ行くことも防いでくれる素晴らしい考え方だと。


「人間は普通になるために、地球で一番厳しい修業をしてるんだ」

「うむ、確かに厳しい!」


 女は思わずうなった。思い通りにならない。毎日同じ日々が繰り返されて、夢ははかなく消え去った。シンガーソングライターになる夢は、自分の臆病風に吹かれて。再び挑戦する気持ちすら出てこない。不完全燃焼の日々。それでも、そこに何か幸せを見つけては、すぐに飽きてのリピートばかり。


 ぼんやりしている間に、コウの子供の声が突如響き渡った。


「早く洗濯物たたんで、厳しい現実に生きろよ〜! 俺はちょっと忙しいから、もう行くぞ」

「は〜い」


 女が気がつくと、コウの姿はどこにもなかった。一人きりのマンションの部屋で、さっきよりオレンジ色を濃くした夕暮れを眺めて、唯一の幸せを味わう。


「はぁ。こうさ、夕焼けを見ながら、洗濯物たたむ時が一日で一番いい時間だよね。幸せだなって思う。平和に一日終わったなって」


 邪神界消滅の話を思い出して、女がプルプルと頭を振ると、ブラウンの長い髪が左右に揺れた。


「いやいや、世界は平和じゃなかった、昨日までは。でも、今日から本当に平和だ」


 新しい幕開けというものは、まずは神様の世界にやって来る。次は幽霊が住む霊界へと降りて来る。


 そうして最後に人間界へとやって来る。この順番はいつでも変わらない。女に直接影響が現れるのは、まだだいぶあとのことだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る