逆順番で恋に落ちて

 学校へ行って家に帰ってきては、調べ物をする毎日が数週間すぎた。城と勘違いするような、豪華な自室。パソコンやら小説やら本やらを、あちこちに広げて見ていたが、光命は答えをとうとう探し出した。


「……恋?」


 あの感情を表す言葉は、どうやらこれらしい。十二歳の少年に芽生えた心情。情報が何もない出来事に出会ってしまって、光命は言動を決める手立てがなかった。


 両肘を机の上について、一人きりの部屋で視線を落ち着きなくあちこちに向けながらボソボソと言う。


「夕霧も同じだろうか? 聞いてみたらわかるかもしれない」


    *


 服装自由な中等部の教室。人間以外の生徒が笑い声を上げて話している中を、光命の靴は進んでゆき、窓から外を眺めている夕霧命に問いかけた。


「僕のそばに来ると、ドキドキしたり、嬉しいと思うかい?」

「急に何の話だ?」


 はしばみ色の瞳から青空は消えて、従兄弟の冷静な水色の目がふたつ映った。疑問形に疑問形で返してきた夕霧命に、光命は理論をぶつける。


「僕の質問に君は答えていない。ルール違反だ」

「嬉しいとは思うが、ドキドキはしない」


 正反対の性格である夕霧命は真っ直ぐ素直に答えた。光命はいつもと違って少し返事が鈍かったが、すぐに立ち去ってゆく。


「そうか。ありがとう」

「何だ? 最近、光の様子がおかしい」


 どんな時も一緒にいたから、ちょっとした変化に気づいてしまうもので、紺の長い髪が揺れて、廊下へ出て消え去ったのを、夕霧命は見送ったままだった。


 従兄弟のふたりが仲がいいことなど、他の生徒はよく知っていて、変化が起きていると誰も気づかなかった。


 従兄弟の前に今立ったが、やはり同じように感情が揺れてしまったのを、デジタルに脳に記録しながら、光命は足早に廊下を歩いてゆく


(ドキドキはしない。夕霧は恋をしていないのか? 僕だけなのだろうか?)


 十二歳の少年に、自分と従兄弟の違いが、どこからどうやって生まれてくるのか知る由もなく、ドキドキしない理由がわからなかった。


    *


 学校で調整されたクラスである以上、光命と夕霧命が別のクラスになることはなかった。朝のホームルームが始まる前に、いつもリムジンで登校する夕霧命は、狼のクラスメイトが従兄弟に話しかけたのを廊下を歩きながら見ていた。


「光くん?」

「やあ」


 CDを手渡しながら、ふたりで楽しそうに話している。


「この間のこれ、ありがとう。とても興味深かったよ」

「そうか。そう思ってくれたら、貸した甲斐もある」


 光命は柔らかく微笑むと、担任教師の龍が教室へ入ってきた。光命は瞬発力を発して、一番最初に頭を下げる。


「先生、おはようございます」

「おはよう。今日もいい挨拶をするな。早秋津はやあきつは」

「ありがとうございます」

「学級委員長を初等部からしているだけあるな」


 優等生はいつもクールで、優雅で貴族的。小さい頃から基本的なところは変わらないが、大きくなるたびに失敗することが減ってゆく。


 いつもいつも、はしばみ色をした無感情、無動の瞳には、青の王子という名を持ち始めた光命が映っていた。


 先生が教卓に立つと、朝のホームルームが始まった。夕霧命は窓から朝のさわやかな空気を吸い込む。


(気づくといつも光を目で追っている。そうか、俺は光が好きだ――)


 教室にいる生徒たちと先生の誰にも、夕霧命の恋心は気づかれなかった。廊下の端の席に座って、後毛を神経質な指先で耳にかけている従兄弟。


(光もおそらく俺に対してそうだ。様子がおかしかったのは、このせいだったのか)


 ふたりの違いは、恋という名の大嵐での立ち位置だ。光命は荒れ狂う海。夕霧命は揺るぎない防波堤。正反対の性格だからこそ、同じ物事に出会っても、対処が変わってしまったのだ。


    *


 光命は誰にも気づかれないように細心の注意を払い、恋の情報を集め続けて、今日で二年の月日が流れた。


 十四歳、やり直しが終わるまであと、四年。


 将来はピアニストとして曲を作ろうと決めていて、今からも書きためておこうとしているが、どうやっても、光命の神経質な指先は止まってしまうのだった。


「あちこち調べた。他の人の話も可能性を導き出す材料として聞いてきた」


 地上ではなく、神世であるがために、光命は大きな壁にぶつかってしまい、鍵盤から手を力なく離した。


「でも、どこにも男性が男性を好きになったなんて話はなかった。地球という場所ではあるらしいけど……。それは肉体の不具合が原因だって」


 たった0.01のズレが許せない性格。彼の若さが自分の心を鎖で拘束してゆく。


「ルールはルールだ。だから、僕が夕霧を好きなのは何かの間違いだ」


 思春期の少年は一番してはいけない、自身を否定し始めた。


 授業もあまり身が入らず、記録はするが可能性を導き出すまでにはほとんどいかない。あごに手を当てて両腕を組み、どんな時でも考え込むようになった光命は、部活動で活気のある校庭のすぐ近くを歩いていた。


「それとも、僕は自分勝手になって、神のご意志にそむいているのだろうか?」


 説教ではそんな話もあった。自分を律した先に、他人を優先させて、自身が幸せを感じられることがあるのだと。


「とにかく僕はルール違反をしている。だから、彼への想いは忘れるべきだ」


 様々な動物たちが二足歩行で、サッカーをしているグラウンドの隣を、光命は一人ボソボソ言いながら通り抜けてゆく。


「忘れることができる可能性の高いものを探さないといけない」


 愛に出会えば、それが真実であり、永遠に続いてゆく世界。片思いの相談はたくさん載っているが、最後のオチは必ず、相手も好きだったという両思いの話ばかり。


 はっきり言ってバカップルだらけの神界。別れというものはない。終わらせ方もない。


「人を好きになったことを取り消すなんて情報はどこにもない。片思いが両思いになったや、付き合っていたが結婚したしか事例がない。僕の今までの情報から可能性を導き出すしかない」


 どこでどうやって、恋に出会ってしまったのかと、光命は全てを記憶する頭脳を正常に稼働させようとしたが、白と黒の大きなボールが勢いよく向かってきて、


「夕霧がそばにいることで、ドキドキするようになったのは、五年前の――っ!」


 光命の頭に、サッカーボールが直撃して、ぶつかるという危険を予測できなかった、優等生はそのまま地面に仰向けに倒れた。


 サッカー部の生徒たちが慌てて走り寄ってきた。


「大丈夫か?」

「ごめん、ボール間違って飛んでいっちゃって」


 目を閉じたまま、動かない光命。死がない怪我がない病気がない世界で、生徒たちは線の細い体を揺すぶってみた。


「光くん?」

「眠った?」

「どうした?」


 光命をあの日からずっと目で追いかけてきた夕霧命が走ってやってきた。危機感がない生徒たちは、無感情、無動の瞳を見上げて首を傾げる。


「あぁ、夕霧くん。光くん、目を閉じたまま動かないんだけど、どうしたのかな?」

「光? 光? 俺が運ぶ」


 従兄弟の様子がおかしい。学校で倒れて、目を開けないなんて、そんな生徒は今までいなかった。夕霧命は光命をお姫様抱っこして、保健室へと向かった。


    *


 利用者が滅多にいない保健室に、明かりがついていた。学校から連絡を受けた両親はびっくりして、リムジンで来ることもせず、瞬間移動でやって来た。


 光命はすぐに目を覚ましたが、ベットに腰掛けて、夕霧命と見守っていた。先生の話がさっきからリピートし続けていることを。


 カンガルーの保険医が両親に、あきらめずにもう何度したのかわからない説明をする。


「気絶というものです」

「どういうものですか?」

「我々、魂で存在するものには起こることは滅多にないんですが、肉体というものにはよく起こります。意識がなくなるんです」

「それは眠っているのではないんですか?」

「そうではなく、自分の意思に関係なく、意識がなくなるんです」


 急に眠くなることだってある。両親は何度聞いてもやはりわからず、ため息まじりにうなずくしかもう方法がなかった。


「はぁ……」


 ガラス細工のような儚さを持つ光命を、カンガルーが見つめると、紺の長い髪がサラサラと窓からの風に揺れた。


「物が当たったぐらいではならないのですが、息子さんは繊細な性格なのかもしれませんね。また倒れるようなことがあれば、病院を訪れるといいですよ」

「はい、ありがとうございました」


 この事件は氷山の一角だと、まだ誰も気づいていなかった。


    *


 十五歳、高校二年生。腰の重い従兄弟に転機が訪れた。学校の中庭にあるベンチで、深緑の短髪の背後から、光命が顔をのぞかせた。


「何を見てるんだい?」

「武術を習いに行くことにしたんだが、道場の候補を絞ろうと、動画を見ていた」


 大会の応援にこれで行けるという可能性が出てきて、光命は夕霧命の横へ座った。


「淡々と物事をこなす君にはいい習い事かもしれない。動画を見せてくれるかい?」

「構わない」


 渡された携帯電話の画面には、袴姿の男ともう一人映っていたが、光命は以外というように言った。


「猫……?」

「そのまま見ていろ」


 触れてもいないのに、相手が倒れるという武術だったが、ちょっとした隙に、真っ白な毛皮に覆われていた猫は、小さなおじいさんに変わってしまった。


「……いや、人間に変わった。魔法という可能性もあるけど……」


 夕霧命は珍しく目を細めながら、首を横に振った。


「魔法ではない、武術の技だ。道場は数あれど、姿形を変えて教える人間はこの人だけだ」


 原理が知りたい。理論的に物事を捉えたい。あごに手を当て考え始めた光命。


「どうやって変えているんだろうな? やはり姿形は魂が強く関係するから、心を変えるという可能性が高いだろうか?」

「お前が考えてできるくらいなら、世に中、達人だらけになっている」


 もっともな意見を真っ直ぐぶつけられた光命は、デジタルに記憶を持ってきた。


「これは剣を使っていないから、去年話してくれた無住心剣流むじゅうしんけんりゅうとは違うってことかい?」

「そうだ。これは合気あいきだ」


 争い事のない神世。武道は完全に芸術の域へと上がっていた。音楽家を目指している光命は興味をそそられる。


「どういう武術なんだい?」

「柔術の内でもテコの原理と気の流れを使ってかけるものだ」

「最小限の力で最大限の効果を発するという、物理の授業でやった。柔術とは?」

「柔道という武器を使わず戦う武道がある。その元となったものだ」

「気の流れとは何だ?」

「その人間や物の性質を形作っている、目に見えないエネルギーの流れだ。俺とお前はまったく違う」

「どこがどう違うんだい?」


 そうして、お互いに恋心を抱いているのに、ドキドキしたりしないかの違いが生まれている理由が武道を通して、高校生ふたりに共有される。


「光には頭の冷静さと感情を司る気の流れがある」

「俺にはそれはなく、お前が持っていない落ち着きのある気の流れが腹にある」

「君には感情がないってことかい?」

「そうだ、お前のようにはない」

「人の性格にまで関係するんだな」

「俺とお前が持っていない重要なものがある。それは正中線せいちゅうせんだ。これが武術を極めるためには絶対条件になる」

「じゃあ、君はそれを体得することが当面の目標だな」

「この気の流れを使えば、相手や物の重さの体感を軽くすることもできる。そうすれば、通常よりも簡単に投げ飛ばすことができる」


 理論がある武術。音楽にも理論はあり、似ているのにまったく違うのだった。光命は純粋に、今までの自分たちのルールが守られていて嬉しくなった。


「僕ができないことを君はする。夕霧らしいいい選択だと僕は思う」

「お前のピアノの指遣いにも通じそうな気の流れと、体の使い方を見つけた。きちんとできるようになったら、お前のために教える」


 従兄弟の優しさが胸をキュンとさせる。しかし、それを懸命に打ち消して、光命は優雅に微笑んだ。


「ありがとう。でも、君がまずは楽しんでほしい」

「お前はいつでも、相手のことが優先だ」


 光命は晴れ渡る空を見上げて、自分に言い聞かせるように言葉を口にする。


「僕はそれが幸せなんだ。誰かが幸せになるために、何かをしたいって思うのが普通だろう?」

「確かにそうだ」


 いつもと変わらない従兄弟の隣で、夕霧命は目を細めて微笑んだ。


    *


 病院の診察室で、光命は記憶を懸命にたどっていた。気絶をして記憶が途切れる。全てを記憶する頭脳を持つ彼には致命的だった。可能性の導き出し方が数段難しくなってしまっている。


 それでも、寸前の記憶をデジタルに取り出す。それはボールに当たったわけでもなく、何でもなく、そのあと急に暗くなって途切れていた。原因が見当たらない、気絶。


 病気も怪我もない世界での病院は患者がほとんどおらず、医師の声が建物に響き渡っていた。


「人間には限界があります。小さな子供などはその限界を知らず、高熱で倒れることがあります。ですが、あなたの場合は症状が少し違っている」


 紺の長い髪がサラッと肩から落ちた。目の前にいる将来有望な高校生を、先生はしっかりと見つめた。


「そうなると、他の原因が考えられます。しかし、倒れる人が滅多にいませんから、研究所でも事例がなく研究はあまり進んでいません。ですが、あきらめずに気絶しない方法を一丸となって考えてゆきましょう」


 人と違う――。そんなことがここにも出てしまった。それでも、光命はデジタルに感情を切り捨てて、椅子から立ち上がり丁寧に頭を下げた。


「先生、ありがとうございました」

「とにかく無理をしないことですな」


 マフラーとコート抱え、診察室のドアまで行くと、振り返って、


「失礼いたします」


 人のほとんどない病院の廊下を、光命は歩いてゆく。いつも通りに、あごに手を当て思案しながら。


「どうしたら、倒れる回数を減らせるんだろうか? もう一度法則性がないかを今までの出来事から探してみよう。最初に倒れたのは――」

「ぼっちゃま、どちらへ行かれるんですか?」


 運転手の呼び止める声が響き、光命が我に返ると、正面玄関を通り過ぎそうになっていた。


「あっ! すまない。考えごとをしていた」


 ぼっちゃまは瞬発力を発して、きびすを返し、リムジンへと乗り込んだ。


    *


 十七歳なると同時に高校を卒業し、やり直しは残すところ、あと一年もない。しかし、記憶を失くされた人々は終わりが来ることなど知らずに、懸命に生きていた。


 いつの間にか閉じていたまぶたを開けると、病院の天井が広がっていた。


「……ん?」


 これはいつも通り。そうして、深緑の短髪と無感情、無動のはしばみ色をした瞳を持つ従兄弟が顔をのぞかせた。


「気がついたか?」


 これもいつも通り。


「……夕霧」


 光命は戻ったばかりの意識で、ベッドから起き上がろうとしたが、夕霧命の節々のはっきりした大きな手で押さえられた。


「まだ起きてはいかん」


 今日はひとつ違っていることが起きた。光命の頭脳にデジタルに記録されてゆく。


「なぜ、話し方を変えたんだい?」

「師匠に少しでも追いつきたくて、言葉遣いを一緒にした」

「そうか」


 横になったままのベッドで、光命は優雅に微笑んだ。従兄弟のやりたいことは見つかり、その一歩を確実に進んでゆく。その姿がそばで見られる日が来て、良かったと心の底から思った。


「僕たちはまだ若いから、長い間生きている人たちに追いつくのは大変だ。だからこそ、少しでもって考えたんだな」

「そうだ」


 死がないからこそ、老いがないからこそ、向上心を誰でも持っているからこそ、若い彼らは、年配者にはすぐに追いつけないのだ。同じ歳になった時に、追い越しているかどうかを比べるのが賢い方法だ。


 それと比べて、光命は自分の情けなさに少し気を落とした。


「また気絶して、君が運んでくれたんだな」

「そうだ」

「すまない。幼い頃からずっと、君に迷惑をかけてばかりで……」


 いつだって、どんな時だってそばにいて、自分が気づかないようなことを教えてくれて、夕霧命のために何かをしたいと願っているのに、現実は残酷なほど裏目に出てばかり。


「構わん、俺はお前のために生きている――」


 数々の恋愛物語やSNSで聞いてきた愛の言葉だった。自分と違って真っ直ぐな性格の夕霧命が嘘で言うはずがない。そうなると、光命は言葉に詰まるのだった。


「あり……がとう……」


 布団の中で、シーツをきつく握りしめる。


(その言葉を言わないでくれ。ルールはルール。順番は順番だ。だから、守らなくてはいけない。それなのに、僕はできない。男女が出会って、恋をして結婚するがルールだ。これを破ってはいけない)


 ぐるぐると目が回って、横になったままでも意識が遠のきそうになる。


(だけど、僕は気づいた時には君に恋をしていた。ルールと違う。僕は神の御心みこころに背いている。だから、君を忘れる努力を怠ってはいけない。嘘が相手にバレない可能性が高い方法……)


 うまく言えなかった言葉を、光命はもう一度夕霧命に伝えた。


「ありがとうございます――」

(丁寧語で話すことが、成功する可能性が高い)


 少年ではなく、青年に変わった光命を、夕霧命は不思議そうに見下ろした。


「なぜ、言葉遣いを変えた?」

「丁寧語を使うと罠が成功する可能性が八十二パーセントを越したからです」

「そうか。俺はどっちでもいい。お前はお前だ。変わらん」


 恋心はすれ違ったまま時は過ぎ、十八歳の誕生日を迎えて、先に生まれた光命から、元の世界へ戻ってきた――


 扉を出たと同時に、全ての記憶が戻った。生まれてすぐに大きくなり、大人の夕霧命と話し、彼の結婚式の帰りに、出会った女と生涯を共にすると心に決めたことも、何もかもが順番を逆にして、戻ってしまった。


(私は、何を!)


 表情をあらわにしない光命も、珍しく冷静な水色の瞳が焦りを見せた。勝手に頬を流れてゆく涙を、誰にも知られないように指先で拭いとる。


(……夕霧はもうすでに結婚しているではありませんか――)


 光命の神へご意志に反する罪の意識はさらに増した。可能性を導き出すよりも早く、五百倍で流れている時の中から、三日遅れで生まれた夕霧命が後ろから出てきた。


 躾隊に入隊したあの日、女王陛下の侍女と目が合って、あっという間に恋に落ちて結婚をして、子供を作ろうと約束していたことが今頃戻ってきた。


「っ!」


 思わず息を詰まらせ、前に立つ紺の長い髪を持つ従兄弟の背中をじっと見つめた。


(思い出した。俺は結婚しとった。光には彼女がいる)


 冷静な水色の瞳が振り返り、無感情、無動のはしばみ色の瞳を出会うと、ふたりの心の中で同じ言葉が重なった。


(やり直しをして、記憶を失ったばかりに、全てが狂ってしまった……)


 他の人たちも続々と擬似体験を終えて、施設は賑わい始め、入る前は知人でもなんでもなかった人たちが、無二の親友になって肩を組み合い、生まれた子供を抱いて配偶者と出てくる人たちもいた。


 その中で、光命は夕霧命を見つめたまま、ただ立ち尽くした。


(私には共に人生を歩もうと心に決めた女性がいる。彼女を愛している気持ちは変わりません。ですが、なぜ私は夕霧を愛したのでしょう? やはり間違いだった)


 夕霧命は自分を見つめたまま、中性的な唇を動かさない光命の気持ちが痛いほどわかっていた。


(人は人だ。俺は俺だ。愛しているのは変わらん。しかし、光は気にする。だから、俺からは言わん。お前が困った時に手を貸せる場所にいつでもいる。ただ見守るだけでいい。それが俺のお前への愛だ――)


 ふたりきりの世界は、係の人の声で打ち破られた。


「それでは、こちらがご家族や友人の記憶でございます」


 五百倍の早さはあっという間で、陛下からのご命令であるやり直しを終わらせ、擬似体験の部屋は扉が全て閉まり、もうあの十八年間は人々の心だけの産物となっていた。


 綺麗な箱にリボンがかけられたものを、係員から間違いなく渡され、光命と夕霧命は我に返って頭を下げた。


「ありがとうございます」

「すまん」


 お祭りムードみたいに盛り上がっている会場。みんなは入る前よりも幸せをいくつも増やして戻ってきた、十八年間のやり直し。


 ふたりの恋心は見落とされ、それでもデジタルに感情を切り捨て、光命は夕霧命に向かって優雅に微笑んだ。


「今度もよろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いする」


 お互いが共有する記憶を持って、従兄弟ふたりは元の生活へと戻っていった。


    *


 そうして、一ヶ月も経たないある日。


 光命がやり直しの中で訪れていた夕霧命の家とは違う、独立した彼の自宅に招待されていた。


 たくさんの花束と電報。赤ちゃんのおもちゃがそこら辺に幸せと一緒にあふれる部屋。ベビーベッドですやすやと眠る黒い髪の子供を見下ろして、光命はあきれた顔をした。


「自身の子供に同じ名前をつけるとは、それほど望んでいたのですか?」

「そうだ。子供が欲しかった」


 夕霧命の子供の名前は、夕霧童子だった。男の子には全員、童子がつき、女の子には全員姫がつくのが正式な名前。それが神界の常識。それほど珍しいことでもなかった。


 光命は少しだけため息まじりにうなずいた。


「そうですか……」


 夕霧命とその妻のどっちも受け継いだような子供。やり直し前の自分と比べてしまい、物思いにふける。


(今までは素直に喜べたのに喜べない。どのようにすれば、私はあなたを忘れることができるのでしょう?)


 ずっと一緒に大きくなってきた光命の心境など、夕霧命には手に取るようにわかった。


(お前に言わないこともできたが、それではお前の心に気づいていると言っていることと同じだ。お前は俺に知られたくない。そうなると、お前に家庭を持つ俺として、接するしかできない)


 ぐるぐると同じところで思案しているのではないかと思い、夕霧命はさりげなく助け舟を出した。


「中庭を見ながら、酒でも飲むか?」

「えぇ、構いませんよ」


 叶えてやれない想いなら、家庭が広がる部屋より、ベランダへ出たほうがいいという夕霧命から、光命へのささやかな愛だった。


 妻と彼女は男ふたりが完全に家の外へ出たのを見計らって、リビングへ戻ってきた。祝いの料理や酒がまだ残っていて、それぞれの席へまた座り直す。


 夕霧命の妻――覚師かくしはカーテンも閉めていない夜色が広がる庭を見つめて、意味ありげに話し出した。


「男ふたりで出ていって、何をする気なのか?」

「――手をつなぐかもしれません」


 光命の彼女――知礼しるれはしれっと言い放った。従兄弟同士で仲がいいからこそ、よく顔を合わせる女ふたり。覚師は色っぽく微笑む。


「あんた、やっぱり気づいてたか?」


 知礼はしっかりうなずいて、愛する男の変化をこう語った。


「はい。やり直しから帰ってきたあとの、光さんの夕霧さんを見る目は、事件の香りが思いっきりしてました」

「うちのは真っ直ぐだからさ。あの日から話すことと言ったら、ずっと光のことばっかりだよ。光に惚れて帰ってきたって、気づかないほうがどうかしてるよ」


 やはり若さはどうにもならなかった。十八歳は十八歳で、しかも他の人よりも短い年月しか生きておらず、知恵と経験が圧倒的に足りないのだ。


「隠してると思ってるのは、ふたりだけです」


 妻と彼女にはバレバレだった。しかも、全然気にしていない女たち。覚師は箸をつかんで、サラダの菜っ葉を取り上げる。


「お互い好き合ってんだから、言えばいいだけだろう? 何で言わないのかね?」

「それは、光さんがルールはルール、順番は順番という考えの人だからですよ」

「それって、あたしたちに気を使ってるってことかい?」

「おそらくそうです」


 覚師はあきれた顔をして、残っていたビールを一気飲みした。


「バカだね〜、男って。惚れた男が誰かを好きになったら、叶えてやりたいってのが女の気持ちだろう?」

「はい、そうです」


 さすが神様だった。永遠の愛を築き上げられるとは、この時点で方向性が違うのだ。箸を持った手で、覚師は知礼を指した。


「いいね、あんた、話が早くてさ」


 いい感じの会話流れだったのに、次で崩壊させられた。


ですか?」


 さすが天然ボケを極めている母親と同じ人を彼女に選んだだけあって、知礼の話はめちゃくちゃだった。しかし、夫の従兄弟でその彼女。何度も会ったことがある覚師は慣れたもんで、


だよ。じゃないよ。どうやってそこにたどり着いたんだい?」


 最初の二文字しかあっておらず、文字数も違っている、トンチンカンなことを平気でしてくる、よく家に来る女。


 知礼は何事もなかったように、脱線した話を元へ戻した。


「あぁ、そういうことですか。はい、女ふたりで話すのも楽しいです」


 何をどうするか細かいことはどうでもいいのだ。感覚の女にとっては。しかし、ゴールは見えているのだ。覚師は空いた皿を適当にまとめて、台所へ運び出した。


「どの道、いつかは好きって言うんだろう? だったら、あたしたちだけでも先に、仲良くなっておかないかい?」

「いいですね。親睦を深めましょう!」


 知礼も皿を持って覚師に近づき、鏡のように見えるガラス窓に女ふたりの長身――百八十センチ越えが映る。


「とっておきの酒があるんだよ。今日こそ、空ける日だね」

「どんなのですか?」


 覚師はしゃがみ込んで、棚の奥のほうに手を伸ばした。


「うちの親が送ってきてさ、邪神界ができる前から貯蔵されてた酒が見つかったって」


 五千年以上前の酒。


「貴重ですね。私たちよりも年齢が上です」

「そうさね〜」


 ささっとお猪口ちょこ徳利とっくりを慣れた感じで用意して、女ふたりはダイニングテーブルへ戻ってきた。並々と酒を注いで、男ふたりはとりあえず置いておいて、女たちの宴が始まる。


「じゃあ、カンパ〜イ!」


 カツンとグラスが鳴り、それぞれの口に酒が運ばれ、魅惑のそれを飲み込むと、覚師と知礼は噛み締めるように言った。


「く〜! やっぱり違うね〜」

「はい。おいしいです〜」


 まだまだ残っているつまみに、女たちはそれぞれ箸を伸ばし始めた。


「あのふたりの青い春はいつ終わるのかね?」

「一生続くんじゃないですか?」


 そばで一生やられるのかと思うと、覚師はイライラするのだった。


「ヤキモキするね〜」

「そうですか? 私たちと同じ二千年も生きれば、考えも変わりますよ」


 正反対にのんびりとしている知礼のとぼけた顔を見て、覚師は誰かと面影を重ねる。


「あんた、うちの旦那に似てるよね、そういう落ち着きがあるとこさ」

「ありがとうございます」


 そうして、永遠の世界で生きる女の悩みが披露された。


「それから、年齢四桁は嬉しくないね」

「それは、私も一緒です」

「あんた、今いくつにしてんの?」

「光さんと同じ十八歳です」

「いいね〜。やっぱりさ、二桁でもかなり最初のほうが女にとっちゃ嬉しいよね」


 同僚ともよく話す話題だが、十代か二十代がいいという女以外に会ったことがないと、覚師は思った。


 未婚の女から既婚の女へ質問が飛ぶ。


「結婚って、魂を入れ替える儀式をするから、体よりも深く交わって、年齢が変わるって聞きましたけど、変わりましたか?」

「あたしは変わってないね。背も伸びたりするって話だけど、あたしはそっちも変わらなかったね」


 本当にあるらしい話で、年齢に関してはデフォルトが変わるそうだった。刺身のつまを醤油につけて、ワサビの辛味を味わいながら、知礼は旦那さんのことを聞く。


「夕霧さんは?」

「変わってないさ。だから、あの男ふたり、身長一緒ってことだよ」

「素晴らしいです!」


 百九十八センチの旦那と恋人。しかも、思いっきり疑惑がある男ふたり。それに加えて、うまい酒のお陰で、女たちは大盛り上がり。


「そうそう。振り返ったところに、ちょうど相手の顔がある!」

「ぶつかりそうになって、目をそらす。まさしく、青春です! 時代の最先端です!」


 皇帝陛下と女王陛下の写真が飾られた棚を、ふたりで見つめた。写真に写る人物はふたりきりではなく数名いる。


 未婚の女に、覚師は興味を示した。


「あんたと光が結婚したら、変わるのかね?」

「どちらでもいいです。私は光さんについてゆくまでですから……」


 愛する恋人と永遠にという話はできるのに、一メートルほど飛び上がる驚き方をする知礼に、覚師はあきれた顔をする。


「あんた、普通に話せるのに、どうして、光の罠にはまって悲鳴上げるかね〜?」

「いつそんなことがありましたっけ?」


 罠である以上、本人が気づいているはずがなかった。覚師は色っぽく微笑みながら、お猪口をクイっと傾けた。


「あんたのそういうところに、惚れたってことだね」

「え……?」


 せっかくいい感じで話が続いていたが、知礼がまぶたを激しくパチパチさせた。


「あんた、今度何を聞き間違ったんだい?」


 覚師は盛大にため息をつき、このボケている女――知礼と親睦を深めてゆく。


    *


 彼女とふたりふたりで従兄弟の家へ、出産祝いに行った息子のいない家で、父と母は談話室のそれぞれの椅子に座っていたが、妻はふと手を止めた。


「あなた?」

「何だい?」


 光命の幼い頃の写真が飾られた暖炉の上を、妻は見つめた。


「人を愛するのに、性別や人数は関係するんですか?」

「お前も気づいていたか」


 ブランデーを傾けていた夫に、妻の視線は少し悲しげに向けられた。


「えぇ、息子のことですからね」


 『光』という名のとおり、輝いてほしいと父は願う。


「人を愛することは、性別に関係なく尊いものだ。あのやり直しをする機関は、百次元も上から下ろしてきたものだ。神の領域で作られたのだから、何人もの人を愛することも、神様のお導きなのだろう」


 やはり自分が愛した夫は息子も愛していた。妻は間違いはなかったと思ったが、


「それは、光にはお伝えにならなのですか?」

「光が自分でルールを作っているのだから、自身でそれを書き換えるしかない。いつか自身で気づき、変えることがあの子の糧になる」


 自分で隠してしまったものは、自分で表に出すしかないのだ。この世界は永遠だ。だからこそ、どんなに時間をかけても、大人である以上、自分で乗り越えるのだ。


 妻は星空を見上げ、神がいるであろう彼方かなたを感じながら目をそっと閉じた。


「そうですわね。私たちはあの子が乗り越えられるように祈り、静かに待ち続けましょう」

「親である私たちは、息子を受け入れるだけだ」


 どんな変化を遂げようとも、愛している息子だ。それを受け入れ、時には厳しく、時には優しくする。


 光命が住む屋敷に隣接する城。息子は応用できないでいるのだ。陛下のお宅はハーレムだということを――。

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