六薬堂 四譚 寒幽夜話

松浦 由香

第1話 六薬堂 寒幽夜話

 お清は洗濯物が、夏の強い日差しにあっという間に乾く日も好きだったが、秋の風にはためいている今の時期が一番好きだった。

「さて、食事をしてから、昨日洗ったものを届けに行こかね」

 そういって囲炉裏端に置いていた茶碗に手を伸ばそうとして眉を顰める。

 茶碗は前夜洗って盆の上に伏して置いていた。なのにそれが上を向いている。箸も、盆の上に置かれたままだ。囲炉裏に掛けた鍋のふたを開ける。

「無い……なんで?」

 お清は唖然と空になった鍋を見つめた。



六薬堂 夜。

 秋の深まりを見せる、秋の長雨のある夜。詩乃は雨の音で目を覚ました。

正確には、目は閉じたままで意識が起きた状態だ。

 夏の雨のような激しさはなくなり、しとしとと落ちる音が耳に残る。手水に落ちる水音や、壁板に当たる音など、とにかく、静かににぎやかだ。


 ぴしゃりん


 詩乃は目を開けた。(あれは、なんの音だ?)。聞き覚えのない音に耳を澄ます。

 風が吹いている音がして、そして「ぴしゃりん」という音。まるで誰かが、濡れた手で戸を叩いているように聞こえる。

 裏戸の側には柳の木があった。長く伸びたその枝が邪魔だとは思ったが、切るような気の利いたことを

(なるほど、柳か)詩乃の頭の中で、外の柳に雨のしずくが付き、それが風に揺れて戸を叩いている風景が思い出された。


 ぴしゃりん


 そう思えば、大したことはないが、これを想像できなければ、幽霊が戸を叩いている。とでも思うのかもしれない。とうっすらと思った。

 昨今、人気な怪談本がある。寒くなるこの時期にと怪訝そうな人が多かったが、寒くなる時期だからこそ、余計に怖いと人気なのだという。

 早速読んだ番頭が要約するには、


 男主人公がある夜一夜の相手をした女がいた。名も顔も解らない女だったので、それきりになっていたのだが、ある雨に降る夜に、男の名を呼んで戸を叩くものがいる。

 男が少し雨戸をあけて外を見れば、あの時の女がいた。男はうれしくなって雨戸に手をやって、開け放とうとした。だが、その日の昼間、通りすがりの坊主に、

「お前さん、不気味なものにつかれているようだ。この札を差し上げる。もし、妙な輩が入ってきたならば、この札をそれに投げつけるがいい」

 といって「悪霊退散 浄定寺」と書かれた札を差し出した。男は言葉を思い出した。男はこの女に限ってと思いながらも、妙に動機が早くなり、汗が噴き出してくるので、ようく女を見れば、女が顔こそ女だが、体はタコのようだった。

 男はしりもちをついて転げるように倒れた。そして昼間もらったお札をタコ女に投げつけたならば、恨みごとを言ってタコ女は逃げて行った。

 噂によれば、浄定寺の住職が、タコ女に気に入られ、うっかりと戸を開けてしまい、まんまと食べられていたそうだ。

 男は背筋に冷たい水が下りるのを感じた。


 という、怪談というか、怪奇ものというか、番頭の要約力の無さが問題だともいえるが、それにしてもそれがなぜ流行るのか不思議でしようがなかったが、確かに、こんな雨の夜に、「ぴしゃり」と音が聞こえたら、あの本を読んでいれば背筋も凍るというものだろう。

 だが、詩乃は、音の正体がなんであるか悟ったので、再び目を閉じる。

 その時、鼻に刺すようなにおいが漂ってきた。

(……乾燥ができてない匂いだ……、失敗したなぁ……やっぱり、上手に乾燥させる人を探さないといけないなぁ)

 詩乃の意識が遠のいた。



お清の家 昼前

 秋風にいくつもの着物がはためく。

 最後の一枚を竿に通し、お清は腰を伸ばす。

 洗濯屋のお清は、この茅野が原のはずれの、身分不相応にも、元宿屋の一軒家を女だてらに借りれたのは、この地があまり人通りが来ず、かといって、せっかくの大きな屋敷を朽ちさせるのは惜しいという意向で、格安で借りれたのだ。

 亭主に先立たれ、洗濯屋を始めたお清。始めた当初は洗濯屋などと笑われたが、単身出稼ぎの多い大江戸で、徐々に顔が広がり、長屋の干場では賄えなくなってきていたので、この広い庭付き、雨の日でも、いくつもある部屋にいくらでも干しておけるというのは、お清にとって夢のような家だった。

 屋敷を管理している世話役も、この辺りが土地開発で発展するというので、この家を買ったようだが、なかなか発展しないし、かといって、まったく家ができないわけじゃなかったので、お互いにいい相手として、商談が決まったのだ。


 お清は空の鍋と、盆の上の茶碗と箸を見つめて呆けるしかなかった。

 昨日、散々家じゅうを、箒を持って探したのに、誰の姿もなかった。最初は動物か何かが食べたのかと思ったが、熱々の鍋の中のものを茶碗とはしを使って食べる動物などいない。

 物音など一切しないし、誰かの気配を感じないのに、食事が無くなる。

 お清は身震いを起こした。

 もしや、盗賊がいるのかとも思った。だが、命の危険は感じない―もし盗賊が隠れていれば、とっくに縄で縛られ、殺されているだろう―。ただただ、飯が無くなるだけだ……。

 誰かがいる―。と思うが、部屋のどこにも隠れる場所はないのだ。押し入れもすべて開けた。扉という扉を開けて、床を踏んで、音を出したのに、何もでないのだ。

「幽霊ってやつは、ご飯を食べるのかね?」

 言葉が震えていて、自分でもおかしいほどだった。だけど、そういわずにはいられなかった。こんなバカげた想像、病気かと思われてしまう。

 お清は、「作ったと思っただけで、やだねぇ、あたしったらぁさぁ」と、食事を作り直すことにした。その方がよほど気を病むより良かったからだ―。

 -だが、そんな楽天的思考も長くは続かなくなるのだった―。



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