第五話

そこは淫靡な空間だった。

薄暗い割に、しっかりと赤を主張する照明。

劣情を催す音楽が控えめに響き、男女の声がそのリズムに乗っている。

脳を直接掻き回すくらいに、甘ったるい匂い。それに酒の香りが混じる。

座るだけならば無用なサイズのソファと、やはり不釣り合いな大きさのテーブル。


「此方が、選ばれた方々のみお通ししているフロアで御座居ます」

「これは壮観⋯⋯と言っても良いのかな?少々圧倒されてしまうな」


掛け値無しの本音。

其処彼処で男女の営みが行われているんだからな。

抱き合いながら、ソファで愛を交わす男女。

女性を床に組み敷く、太った男。

テーブルに手をつかせ、立たせて楽しむ男性。

かと思えば、筋肉質の男性に跨り罵る女性。

狂ったとしか思えない光景があり、また、その中に間違い無く入り込んでいるんだ、俺は。

卑猥な音と、呻きとも喜びともとれる声が彼方此方から聞こえてくる。

大体は仮面を付けているのだが、一部素顔を曝け出している男女すら居る。って、良いのかよ。

此方の頭がおかしくなりそうだ。多分、立ち込める甘い匂いは軽い媚薬なんだろうな。

軽く頭を振って自分を取り戻そうと試みる。

いやあ、胸糞悪いし、それなのに興奮しちまうし、だ。良く無いよな、こりゃ。

まあ、薬の影響と考えたら楽だしな。

意識を自分から切り離して、上空から空間を把握するように切り替える。

自分という人形を操っている感覚。

より広い範囲を認識出来る、戦場では必須技術だと親父に教わったんだよな。実際には、訓練すれば誰でも出来るワケじゃ無いみたいなんだが。

これで、薬の影響は逃れられる。身体への効果は仕方が無いが、精神面では無効化したと言っても良いんじゃないかな?


「左様ですな。確かに壮観であります。中には仮面なんか、と外してしまう方もいらっしゃいますし、当店のスタッフは元々素顔で接客させて頂いております」

「接客、ね」


男の声も、自分の声すらも遠い。

それでも、しっかり状況は解るし、対応も可能なんだよなあ。凄い技術だわ、こりゃ。

もしかしたら『裏』の連中なんかも持っているのかね。親父を筆頭に、何人かの軍人が使えるのは知っているけど。

認識範囲が広がったからか、フロアの隅の集団が気になる。えらく若い連中が集まっているな。


「気になりますかな?あれは貴族様の子弟の方々ですよ」

「ふむ。一人二人年配者が居るが、基本は未成年者ばかりかな?」

「はい、良くお解りで。貴族様とも成れば、しがらみも多く、男女共に純潔を保ったままに快楽を求める方も多いのですよ」

「確かに⋯⋯結婚したら経験者でした、は問題が起きそうだな」

「ええ。ですので、お互いに綺麗なままで居たい者同士で、という集まりですかな。また、全く経験が無いのも不安、という方も貴族様の関係者には多く、学びの場にもなっています。年配者は、教える側ですよ。当店のスタッフか、経験豊富なお客様が善意で御協力を申し出てくれたり、ですな」

「善意、ね」


さっきから、男の言葉に似た様な返答をする俺。半ば意識を切り離しているから、でもあるが、それ以上になるべく話をしたく無いからな。

本当に不快だよ、これは。

親父が我慢出来なくなる、と言ってたのが解るわ。


若人達の集いは、座学だけではなく、実技も行われているみたいだ。気持ちの伝え方から、肩に腕を回す方法などのボディタッチの実践やら。

勿論、行為の上での注意点やら何やらをも教えているみたいだな。


これはこれで、教育の側面も有る、ってのは言い訳に過ぎないよな。実際に目の前で行われているが、どう見ても、あれは性欲に溺れているだけだからな。善意とやらで関わっている年寄りだって、ただ若い奴を相手にしたいだけだ。

単に、需要と供給が釣り合った結果に過ぎないよな。

善意(笑)って言うべきだろうよ。


「どうなのかな?スタッフは無理矢理働かせてはいないのか?騙したり、だ」

「はは、御客様は御優しいのですな。まあ、中には借金返済の為に働いている者も居りますがね。このフロアの従業員達は皆、納得して勤めて居りますよ」

「このフロアの、ね」

「まあ、綺麗事だけでは世の中は渡り切れませんのでね⋯⋯。おっと、御客様に申し上げる事柄ではありませんでしたな」


少しずつ店の裏側を晒してくれるなあ。

まあ、このフロアに案内した時点で味方に引き込むか、弱味を握るか、消すしか無いもんな。

リオンなら「怖いねー」とか緊張感無く言いそうだな。

ルシードなら⋯⋯黙って『裏』を動かすか、自分で片付けるか。まあ、今回は泳がせていたみたいだけどな。

シュバルツ殿下は激昂しそうだな。若いもんなあ。一つしか違わないけど。


「真っ直ぐなだけでは変化に対応し切れず、固いだけでは脆い。一応は理解しているさ。だが、説明も無しに薬を嗅がせるのは礼儀に反していると思っただけさ。ふっ」

「これはこれは⋯⋯。失礼ながら御客様は、私が考えている以上に世間というものを認識しておられるのですな」


俺の嘲りの「ふっ」に、驚きつつも、小さな尊敬と、それなりの失望、焦りといった感情を表に出す給仕長。

恐らくは故意に見せた変化。一瞬動きを止めたり、視線を外したり、微かに心拍数が上がったり。自分の意思で起こせる差異に過ぎない。何の判断材料にもしない方が良いかな。

これがルシードなら、しっかりと相手の精神状態を把握し、 責めるだろう。リオンなら絶対に騙されたフリをして、逆に嵌めるくらいは、する。絶対にだ。

ちなみに、今回の「ふっ」は嘲りの意味が強く込められているので、自己嫌悪は酷くない。

⋯⋯全く無いワケじゃないけどな。


「しかしながら、薬と知り、吸っておられるのに、平然となさっておられる⋯⋯見事なものですな。もしや、その仮面に秘密が?」

「そう簡単に手の内を知らせると思うか?」

「⋯⋯失礼致しました。ですが、それならば下のフロアでも安心ですかな」

「ほう。見せてくれるのか」

「はい。御客様とは良い関係を築きたいですからな」


何か色々ごめん。

仮面に秘密なんて無いから。単なるドレスコード兼、嫌味だから。

しかも、良い関係とか嫌だから。俺らは、絶対的に敵対するしか無いから。

とゆーか、敵対しかしたく無い。もう既に暴れたいから。そりゃあもう、全力で。


「このフロアまでは、まあ合法ですよ。決して褒められた場所ではありませんが、薬も違法な物ではありませんからな。御客様方も、従業員達も、理解し、納得しておりますからな」


必要悪なのですよ、と男は呟いて更に奥へと歩みを進める。

疲れ切った様な、諦めた雰囲気を一瞬だけ漂わせる。

こいつも色々あるのかもしれないが、それだって演技の可能性があるしなあ。

まあ、俺は気にせず、判断もしない。

自分の分を超える事はしない。それが一番だ。

正直、この店の闇が何処まで深いのか見当もつかないもんな。下手な事をして、証拠やら証人やらが失われても困る。

だったら最初から暴れなきゃ良いじゃん、とか思ったけど。わざわざ親父が指示するくらいだし、手は打ってると信じるか。

半ば独立して、勝手に動く俺の身体と会話をしつつ、男は俺を奥へ奥へと誘う。

次のフロアへの入口は、意外にも隠されていなかった。普通に道なりに進むと階段があった。

違うのは、此方は従業員が、見張りが居るくらいかな。こんな無警戒で良いのかね。


「驚かれたかもしれませんが、フロアに満ちる媚薬と乱行に当てられ、わざわざ奥に向かう者は居ませんよ。始めから、此処が目的でも無ければ、ですが」

「確かにそうか。そもそも、この階層に入れる人間を選別しているのだしな。大半は満足してしまうのかな」

「大半、ではありません。全員が、です。そうやって、このフロアにどっぷり浸かり、満足出来なくなった方々が案内されるのですよ」

「人の欲には限りが無いのかな」

「人の身には解りかねます」


つまらない答えにも聞こえるが、中々含蓄のある言葉だな。こんな返答が即座に出来る大人に成りてぇなあ。

長い下り階段の先には、重々しい鉄扉が待ち構えて居た。この店の雰囲気には似つかわしく無い存在だった。

隠れ家的な品の良い飲食店といった趣の上層部とも。

退廃的な淫らさに満ち満ちた地下とも。


これは、牢獄だ。


直感的に、そんな言葉が頭に浮かぶ。

そんな自分を、第三者の視点で見ているんだが、一瞬意識が身体に戻っちまったな。

流石に完全に習得した技じゃないから、ボロが出そうだなあ。

余程動揺したり、大怪我したりしなきゃ大丈夫だとは思うけどな。

⋯⋯。「フラグかな?」「フラグ建築士ですね」とかいうリオンとキキョウさんの幻聴が聞こえた気がするが、無視する。


肉体にゆっくりと深呼吸させ、鉄扉に正対する。

そんな俺と牢獄の入口の間に給仕長が割り入り、世界の境をゆっくりと開く。


別世界への扉が開き、俺が感じたもの。

それは⋯⋯。

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