バブルは崩壊してはじめてバブルとわかる 

「そういうわけで、色々と皆川に教えてやってくれ」

 吉見は朝、上原に会うなり頼まれ事をされた。

「断る権利は?」

「そんなのお前にないよ」

「やり方は?」

「任せる」

「じゃあ、はい。そういうことなら」

 というやりとりが会議がはじまる前、皆川の知らないところであった。

 会議終了後、吉見は、廊下で皆川のことを待っていたが、当の皆川がなかなか会議室から出てこない。部屋の中を覗いてみると、所轄の刑事と話しているところだった。ここからだと口がパクパクしているのが見えるだけで、内容までは伝わってこない。

 引き返すと、廊下の掲示板の丸まったポスターが目に留まった。吉見はそれを手アイロンで伸ばして、両端を画鋲で止める。アイドルが、「ダメ。絶対。」と、薬物防止を呼びかけていた。

「お待たせしました。行きましょうか」


「ご協力ありがとうございました」

 皆川のサポートに回った吉見は、後ろでメモを取りつつ、横から口を挟む形で聞き込みに参加する。皆川には事前に、「不審な人物を見ませんでしたか」なんて訊き方はしないでくれ。とだけ、忠告していた。

「怪しい人と聞くと、いかにもな感じの犯人を想像してしまうから。ですよね?」

「そういうこと。特別怪しくもなんともない普通の人となると、もはや話にも出てこなくなる。訊き方一つで、返ってくる応えが変わってくる」

「こちら側の訊き方一つで、相手方の応えを狭めてしまう」

「あとはそうだな……あとはその都度教える。とりあえず、あの人に声かけてみなよ」

 ダンボールを抱えた宅配業者に話を伺う。

「あそこの小道は人家がないので、そもそも通らないんですよね」

「では、範囲をその周辺に広げてみると、どうでしょうか?」

「自分、この辺り一帯を担当しているんですが、変わったことと言われましても……いや、職務質問をされましたね今みたいに、それも三回も。しかも、三回目は同じ人たちから。話の途中でさすがに気づきましたね」ダンボールを膝で持ち上げて抱え直す。「もう行っていいですか?」

 配達先に行く途中の足を止めさせたことを詫び、礼を言う。彼は近くのマンションに入っていった。

「芳しくないですね」

「目撃情報なんて、なかなか出てこないものだし、ましてや現場自体、それほど人通りのある場所じゃないみたいだし」

「だとしたら、いくら聞き込んだところで徒労に終わりかねませんね」

「聞き込みのほとんどは無駄骨だ。それでも何十人、何百人と訊いていけば、次第にタイムラインができる。あの日あの場所には誰がいたのか。そういった事件前後の情報は集まってくる」

「それと被害者の死亡推定時刻を突き合わせて」

「犯人を絞り込んでいく、的な」

「間接的に、外堀を埋めていくような感じになるんでしょうか?」

「今のところはな」

「それで、具体的な目撃情報が出てきたとしたら?」

「それはそれで、ちゃんと聞いておけ」

 雑居ビルの一階が空室になっている。テナント募集中の張り紙がガラス戸の内側に貼り出されている。

「素人の空き巣は、部屋を手当り次第に荒らして金目のものを探す」

「事件は盗みじゃなくて殺人ですよ」

「知ってる。対してその道のプロは、金目のものがありそうなところに当たりを付けて、ピンポイントに盗みを働く。家を出た時と同じ部屋の状態だから、住人は空き巣に入られたことにすら、しばらく気がつかなかったりする」

「…………」 

「読みが正確なら、早く済ませて素早く退散できるが、外れを引く回数が多いとその分長居することになる。そうなると、住人が帰ってきてしまったり、証拠を残してしまい易くもなる。だから素人はすぐ捕まる」

「あの……それがなにか?」

「それは、殺しでも同じことが言える」

「はい?」

「犯人は現場を下見していたのかな、なんて思ったり。とにかくあんな辺鄙な場所を犯行現場にするくらいだから、捕まる気なんてさらさらないんだろうよ」

「先にそれを言ってくれないと、なんの話やらこっちにはさっぱり。それは、現場を見て思ったことですか?」

「場所選びと状況だな。昨日の現場の様子からして、それなりに計画した上で、ことに及んだという印象を受けた」

「人のいない時間帯も把握していたり?」

「するかもしれない」

「だとすると、ますます聞き込みのモチベーションが下がりますよ。目撃情報が期待できないんですもの。鑑取りの方はどうなんですかね」

「こっちよりは可能性あるかもな」

 殺人事件の大半は親族、男女間、友人、職場の同僚など、顔見知りによるもの。被害者の人間関係を一人一人当たり、金銭トラブルの一つでもあれば話は早い。

「たしかに、犯行動機がわかれば犯人を特定できそうですが、ただそうなってくると、いよいよ私たちの出る幕がなくなりませんか?」

「俺達の役回りはどちらかというと、犯人を積極的に捕まえにいくというより、網を張って取り逃がさないことにある」

「薄々、そんな感じはしていましたよ」

「していましたか」

 T字路に突き当たる。目の前に横たわるあまりに長い棒は、低きを緩やかに流れる河川。コンクリートを打ちっぱなして護岸を固めている。

「そういえば昨日、通り魔がどうとかって皆川言っていたよな?」

「言った……ような気がしないでもないですね。それがどうかしました?」

「いや、言った言わないは、別にどちらでも構わないんだけどさ。被害者と関係のあった人物による犯行とそうではない事件てのは、まるで質が違うものだから、と思って」

「犯罪の性質として?」

「通り魔に対しては、まったくと言っていいほど鑑取りが通用しないんでね。現場に残されたわずかな手掛かりを足掛かりにして、ヘンゼルとグレーテルよろしく、落としていったパンくずを頼りに、犯人の足取りを辿る」

「でも、そのパンくずは鳥に食べられちゃうんですよ」

「…………」

「帰り道がわからなくなって、森の中で迷子になってしまった兄妹は、さまよった末にお菓子の家を見つけるんです」

 川に住宅地の下を通ってきた暗渠が合流する。水量が増して、その辺りだけ水の流れに勢いがある。

「そして、身の危険を感じた妹が、魔女をかまどに放り込んで焼き殺すんです」

「話を戻すぞ。それでもって通り魔の特徴はというと、無差別に対象を選んでいる。いわゆる誰でもよかったってやつ」

「はいはい。特定の誰かではなく」

「そうそう」

「かといって、本当に誰でもいいわけじゃないですよね?」

「う~ん、ある特徴を持った人間を標的にしている、という事例もあるが」

「だからこそ、被害者の身近な人間が犯人である場合がほとんどなんじゃ……あ、すいません。ちょっとお話いいですか?」

 リュックサックを背負った線の細い青年に出会ったので会話を中断する。

「事件の前に通りましたよ」

 イヤホンを取って応じてくれた。

「それは何時頃ですか」

「何時と言われても、時間見てなかったしなぁ。朝としか」

「なに聴いていたの?」吉見が口を挟む。

「今ですか?」

「昨日。あそこを通った時に」

「ああ。それなら、えっとたしか……」彼はポケットから音楽プレーヤーを取り出し、画面をスクロールする。「ヴェルヴェットアンダーグラウンドの一枚目のアルバムだったかと」

「知ってます?」

「バナナのだろ」

「そうです。多分ヘロインか、その前後」

「で、聞きはじめたのが?」

「家を出た時だから、だいたい……」

 アルバムに収録されている一曲目から七曲目のヘロインまでを足し合わせて、彼が現場を通ったとされるおおよその時刻を弾き出す。

「事件のことはネットニュースで知ったんですけど、少しでも通るのが遅かったら、僕が殺されていたかもしれないんですよね?」

「身に覚えでもあ——」

「ないですよ。そんなの」 

 食い気味に否定された。

「パトロールを強化していますが、なるべく人通りの多い道を通るようにして下さい」皆川がフォローを入れる。

「……わかりました」

「それと、そこを通る際、すれ違った人などはいませんでしたか?」

「どうだったかな……」うつむきながら、左手で口を覆う。「いや、見かけなかったと思います」

「そうですか。では、またなにか気づいたことがありましたら警察に連絡下さい。ご協力ありがとうございました」

 会釈をし、二人から離れていく。彼は歩きながら耳にイヤホンを入れた。

「今のが、さっき言っていたタイムラインができるってやつですか?」

「ん? ああ、そうだな。今の話だと、彼が通ったあとに事件が起きている」

「彼が犯人だという可能性は?」

「どうだろ? 名前くらい訊いときゃよかったか」

「そんなんで大丈夫なんですか」

「言い訳に聞こえるかもしれないが、犯罪者とそうでない者を分けるのは、犯罪を犯したか、犯していないか、ただそれだけ。もし仮に彼が犯人だったとしても、それを証明する証拠はなにもない」

 事件発生直後はまだまだ情報が少なく、なにもかもがはっきりしない。あらゆる可能性を考慮し、それでいて評価には踏み込まず、曖昧な状況を曖昧なままに捉えていく。早い段階で決めつけてしまうのは、犯人を見逃してしまうのと同様、よろしくない。

「わからなくもない言い分ですけど」

「もし犯人なら通っていないって嘘つくだろうし……なに聴いていたのって訊いて、七曲目のヘロインが出てきた。アドリブにしては、できすぎじゃないか?」

「それだって、今さっき聴いていた曲かもしれないじゃないですか」

「そこまで疑心暗鬼でいたら、もう誰もが犯罪者に見えてしょうがない。ある程度は割り切らないと」

「ふ~む、そういうことにしておきましょうか。ところで吉見さんは、犯人の動機はどういったものだと考えています?」

「俺は動機をあまり当てにしていないんだ」

「誰がなんのために、というのを問題にしないんですか?」

「動機がなんであれ結果は変わらんしな。むしゃくしゃしてやったじゃないけど、なんとでも言えるし」

「太陽が眩しかったから。でも?」

「そんな気の利いたこと言う犯人を見たことがない」    

「それがまかり通るんですか」

「通らないから不条理という」

「いや、そういうことじゃなくて、あのう、ですね……」

 なにか言い返そうと言葉を探しているが、皆川の様子を見る限り、しばらくはなにも出てこなさそうだった。

 ガードレールの袖ビームが歪み、青い擦過痕がある。風雨にさらされ皺の寄った週刊誌。アリの群れに運ばれていくモンシロチョウの死骸。打ち捨てられ錆び付いた自転車。カゴは空き缶入れに成り下がっている。 

「動機はバブルに似ている」

 皆川は小首を傾げ、「押し殺していた不満が溜まりに溜まって、ぱっつんぱっつんになって、で、破裂?」 

「バブルっていうのは、弾けてはじめてそれがバブルだったとわかる。バブルが弾けるその時までは経済が順調に成長しているものだと、誰もが思っている」

「ああ、経済の。で、それが動機とどう関係してくるんです?」

「とりあえず聞いとけ。そのうち繋がってくる」 

 年季が入っている歩道橋を上がる。手すりに幼児の靴が片一方、結んであった。

「人々の価値観がとある対象に一極集中すると、それがバブルになる」

「そこにお金が集まると、ってことですか? つまり土地だったり……チューリップバブルなんてのも昔ありましたよね」

「そんな変なこと、よく知っているな」

「よくは知らないです。知識として知っているだけで。なんでも、チューリップ一つで家が買えたとかいう」

 十七世紀オランダ黄金時代。富裕層の間で、チューリップを育てるのが流行っていた。一風変わった模様のチューリップを所有していることが彼らのステータスで、見たことないような花を咲かせると期待させる球根には、高値がついた。

「だけどそのうち、値段が高騰し過ぎて買い手がつかなくなったんだ。そして手元には、チューリップとそれを買うためにこしらえた借金が残った。価値を買い被り過ぎたんだな。自分は要らないけれど需要はあるし、ということで、商売の間に入った転売ヤーがバブルの原因だったんだけど、結局そいつらがババを引いた」

「自業自得っすね」

 適正価格を離れて商品に高値がつき、やがて耐え切れなくなって崩壊する現象をバブルと言う。実体が空気であるところの泡になぞらえているのだという。

 階段を降りている途中で皆川が、「そろそろ、動機とバブルのどこがどう似ているのか、教えてくれてもいい頃合いだと思うんですけど」

「チューリップでは転売ヤーが元凶だったわけだが、資本主義が複雑に入り組んだ現代においては、好況が経済成長によるものなのか、それともバブルなのか、バブルであればなにが膨らんでいるのか、弾けてみないことには、なんとも言えないんだそうだ」

「バブルの原因がなんなのか」

「そういうこと。バブルだったと、あとになってわかる。犯行の動機もそれと一緒。当人を抜きにして想像を膨らませたところで憶測にしかならない。知りたかったら、捕まえたあとで本人から直接訊けばいい」

「事件にしろバブルにしろ、事態の収束を見てようやく、ことの真相が明らかになる、と」

「そう言いたかったわけです」

 そろそろ雑談を切り上げて、人から情報を集めなければ、と思う吉見だったが、上原に頼まれた色々の範疇に、この雑談も含まれているのだと思い直した。

「意識高い系の人たちに言わせると今の時代は、不確実性の時代なのだそうです」

「未来予想が確実だった時代があったか?」

「さぁ、それを私に聞かないでください。ただそんな時代にあって、どんなリスクを許容して、あるいは回避するのかが、彼らの関心事のようです」

「ことビジネスにおいてはそうなんだろうけど、捜査で使われる時のリスクの意味は、下振れの意味合いしか持たないな」

「というと?」

「犯人が捕まらないリスク、犯行を重ねられるリスク、それから、冤罪のリスクなんかがそうだ」

「それらをクリアするには、真犯人を急ピッチで逮捕するしかなさそうですね」

「できることと言えば、頭数揃えて手分けするくらいで、リスク云々で言うところの分散がそれですか」

「分散というのはつまり、捜査手法の別ですか?」

「そうなるかな。一口に捜査とは言っても、色んなアプローチでもって犯人に迫る。その多様性が、警察が取り得るリスクヘッジなんだろうね」  

「ふ~ん。張れるだけの予防線を張っている、と。そういうことなんですね」

「結局のところ、どっかしらの網に獲物が引っかかれば、それでいいわけです」

 垣根の曲がり角で開かれていた主婦の井戸端会議に首を突っ込んだ。がしかし、ヤブヘビだった。情報番組で聞きかじったような推理を口々に披露した挙句、旦那の兄が元警察官で退職したのち、警備会社に再就職したとかいう、事件には全然関係のない話題に話が及んだので、吉見は半ば強引に話を打ち切り、逃げるようにその場から立ち去った。

「……パワフルでしたね」

「なんかすごい消耗した。どこかで休憩しようか」

「賛成です。あの、さっきリスクリスクと、自分でも言っていましたが、リスクってよく聞くわりに、わかるようなわからないような、いまいちピンとこない感じってありません?」

「俺はそれをどこか、ギャンブルで理解している。数ある選択肢の中から一つ選んでチップを賭ける。当たれば儲かるけれど、外れたらパー」

 と、人が説明しているそばから、ケータイで調べている。

「リスクの意味は……保険会社のサイトによると、岩礁の間を航行する。ですって。保険?」

「岩礁ねぇ……なるほど、そういう」

「なんでも、嵐に見舞われたりと、海の上の事故が多かったからみたいですね」

「航海は危険と隣り合わせだからだ。遭難したり、海賊に襲われたり、それこそ氷山にぶつかったり」

「タイタニックみたいに」

「そんな状況下で、どう舵を取るのか」

「沈みゆくディカプリオ……」

 吉見は無視して続ける。「そんな、もしもの時の安心を買っているわけだ」

「残された家族の、ですよね。昔はおそらく、死亡保険ばっかりだったんでしょうね」

「それにしても今の時代、もしもの時のためのもしもって、一体なにを指しているんだろな」

「不確実というのが、それじゃないかと」


 住宅地の外れに公園があったので、そこで一休みすることにした。Y字路の空間を利用していることから、名前は安易に三角公園。

「なんか飲むか? 奢るよ」

「ありがとうございます。じゃあ……炭酸がいいです」

 公園は、小さいなりに一通りの遊具が揃っている。砂場に滑り台、下部にバネのついたパンダの乗り物。吉見が自動販売機で飲み物を買って戻ると、皆川はブランコを漕いでいた。

 吉見はブランコを囲っている柵に腰掛ける。前方に振れてくる際、ともすればスカートの中が見えそうになる位置だが、幸い皆川はパンツルックなので、ことなきを得ている。

 前方に振り切れたところで、勢いよくブランコから飛び降りた。

 どっちがいい?。皆川に両手を差し出すと、コカコーラに手を伸ばしかけて、すんでのところでファンタオレンジを手に取った。

「頂きます」

 吉見は左手に残った方のリングプルを引き起こして、コーラを口にする。炭酸が口腔で細かく弾けた。

 皆川は一人でに揺れているブランコを片手で止めて、座り直した。「それにしても、吉見さんの話はよく脱線しますね」

「そいつは悪かった。物事が似ているというのは、それだけ共通点があるからでな。双方を比較検討しながら、考えを組み立てている」

 炭酸の飛沫が服にかからないよう皆川は、リングプルを向こうに回して、親指の腹で押し開ける。一口飲んで、缶から唇を離す。「上原さんの言っていたとおりでした」

「あ?」

「吉見さんの話は連想的だとか、たとえ話が多いとか言っていました」

 実際その通りだから、返す言葉もない。

「さっきの話で一つ気になったことがあるんですが、バブルが弾けるきっかけってなんなんですか?」

「先送りにしてきたツケを支払えなかった」

「ああ、それもそっか。お金を借りて投資していたんでしたっけ」

「捕らぬ狸の皮算用が破綻したとでも言うのか。借りていた側はもちろん、貸していた方の首も回らなくなる。借りた金に利子を付けて返すという前提で回っているのが経済だから、それが返ってこないとなると途端に、にっちもさっちもいかなくなる」

「そうですか……いえね、似ているというのであれば、逆にバブルの方から動機のヒントが掴めたりしないかなって、ちょっと思ったんですけど」

「さっきも言ったが、動機を探る気はさらさらないんだ」

「被疑者を絞り込むためではなくて、もっとこう一般的な……なにがして犯行に及ぶのかっていう心の動きというんですかね。それが知りたいんです」

「心理的な面か」

「そうです」

 動機を知りたいという気持ちはわからなくもない。しかし動機という大雑把で、かつ繊細な感情は、罪を犯した本人でさえうまく言葉にできないことも少なくない。仮にできたとしても、犯罪者が口にする動機とやらに吉見自身共感できたためしがなかった。そうしたこともあっていつからか、動機を蔑ろにしていた。

「別に俺も、そこまで考えてバブルを持ち出したわけじゃないから、こじつけにしかならないと思うけど」

「構わないです」

 最後の一滴まで飲み干そうと吉見は缶を持ち上げ、空を見上げる。旅客機が雲の端っこを引っ張って飛んでいく。

「まずもって金融経済というのは、将来に対する期待と不安が入り混じっている。期待できると思う人が多ければ株価は上がるし、不安に感じる人が多いと下がる。株価の示す波形は端的に、投資家の心の揺れを反映している」

「心電図みたいに」

「そこまで規則正しいものでもないけれど。毎日更新されるニュースをチェックしたり、色々な指標を参考にしつつも、しかし最終的には自分の直観に委ねている。ええいままよ、ってな具合に」

 取り引きに参加する全ての人々の思惑が交錯し、もはや誰の意思でもないキマイラな意思が相場を浮き沈みさせている。市場を取り巻く全体的な気分が景気の正体。そのために経済は、常に不安定な状態にある。

「だから予想がつかない」

「うん」吉見は、煙草をくわえて火を点ける。「無形の期待というのがある」

「芥川さんの言う、漠然とした不安の親戚ですかね」 

 煙草の先から出た煙は、まるで予測のつかない振る舞いを見せる。

「これ、と言えるほどはっきりしたものではないが、なにかしらの将来性に期待して人は投資をする。それの度が過ぎたのがバブル。このビッグウェーブに乗るしかないの精神で金銭を投じている」

「そうですか」

「というようなことをさバブルん時は、みんなが思っているわけでよ」

「価値の一極集中だ」

「そう。赤信号みんなで渡れば怖くない、てな具合に。それでもって、みんなで渡っているものだから、赤信号だということにも気づかない。でも、ま、そのうち車もバスもトラックも来るわけでさ、渡りきれなかった人たちは、それに轢かれるのですわ」

 空き缶を灰皿代わりにして灰を落とす。

「で、弾けたら弾けたで、いずれは実体経済にも影響が出てきて、庶民も景気の悪さを実感することとなる」

「会社が潰れたり、給料が減ったり、誰かさんの首が飛んだり。それに比べて私たち公務員は、景気に左右されないので安定していますよね」

「そうだな」

「お~いで」

 皆川は立ち上がり、サンダルをピーピー鳴らしながら近づいてきた男の子にブランコを譲る。

 皆川がブランコに座った男の子の背中を押していると、母親と思しき女性がやってきた。目が合った瞬間、顔に警戒の色が浮かんだのを見逃さなかった吉見は、すかさず手帳を提示した。

「お力になりたいのは山々なのですが、……すいません」

「いえ、そんなことはないです。ご協力ありがとうございます」と皆川。

 空き缶をクズかごに捨てる。親子に見送られながら、公園の敷地から出た。


「あんまし動機が絡んでこなかったですね」

「対象がマスだから、もとより無理があったかもしれんな」

「金が融けると書いて金融」 

「それちょっと面白いけど……金を融通する。で、金融」

「金融経済は大掴みだから、投資する個々人の心理は埋もれちゃうんですね」

「心理学ではないからな」

「経済は経済でも、消費経済ならどうです?」

「まだ続けるのか」

「まだ結論を聞いていませんので。それに消費は個人的なものですし、個人差が見られるんじゃないかと」

 他人事だと思って勝手なことを言う。自分から拡げた話題とはいえ吉見は、いい加減面倒くさくなってきていた。

「わかったよ。ならそうだな……皆川は、なにか欲しいものがあったりする?」

「ありますね。今はバッグが欲しいです。買ってくれるんですか?」

「誰が買うか。皆川がなにを欲しがろうと、俺の知ったことではないが」

「じゃあ、なんで訊いたんですか」

「皆川にとっては大事だったりする」

「え、うん。そうですよ」

「ちなみに、どんなのが欲しいとかあるわけ?」

「それは……吉見さんに言う必要、ないと思いますけど。どんなのだっていいじゃないですか、別に」

「たしかに。それなら、訊き方を変えよう。バッグが欲しいっていうその気持ちはどこから出てくる?」

「どこからと言われましても……感覚的なものでして、欲しくなったから欲しい。ただ、それだけですよ。この前ふらっと立ち寄ったお店で偶然見かけて、気づいたら気持ちが傾いていたんです」

「バッグなんて、どれも一緒だろ?」

「いやいやいやいや。たとえば赤い服一つ取っても、ブランドから、デザインから、なにからなにまで違います。それなのに十把一絡げに赤い服とするのは、どうなんでしょう」 

「じゃあ、皆川が選んだその赤い服、それでなければならない理由を俺に説明できるか?」

「まぁ、そうですね。なんて言うんだろう……一目見て直観的に、こう、フィーリングが合ったとでも言いますか、心惹かれたからでしょうね」

「曖昧だな」

「なんとでも。だいたい、言葉で説明つくようなものじゃないんですよ、洋服選びっていうのは。個人の好みの問題だから、吉見さんには関係のないことだと思いますけど」

「たしかに関係はないな」

「そうですよ」

「たとえばの話。ここに罪を犯した人間がいたとして、そいつに動機を訊ねるとする。そしたら、お前には関係のないことだと返してきた」

「それはまた違う話じゃないですか」

「関係ないと言われて、はい、そうですか、では調書が書けないから、引き下がるわけにはいかない。もう一度訊くが、皆川が選んだその服、それでなければならない理由を説明できるか?」

 細い目をした皆川に見つめられる。「……私をサンプルにしました?」

「皆川だって個人でしょ」

「そりゃあ、個人ですけども」

「意思決定というのは、その根拠を掘り下げれば、掘り下げるほど、色んな要因が心の奥底で絡み合っているものだから、簡単には解きほぐせない。自分でもよくわからなかったり、他人に伝わりづらかったりする」

「個人的過ぎるために」 

「感情やら感覚で処理しているために」

「共感というのがありますが」

「それだって、どこまで重なっているのか、確認のしようがないじゃない。実際には、すれ違っていたり、勘違いしたまま進んでいくものなんだろうし」

「元々どこ吹く他人だから、ですか?」

「……価値観は否めないんでしょうね。人はそれぞれに別個の存在だから、わからないものはわからないものとして、そういうものだと受け入れるしかない」

「人と人とがわかりあうのって、難しいんですね」

 ベビーカーに手をかけた女性が、信号の色が変わるのを待っていた。二人は雑談を切り上げ、話を伺うことにした。

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