インターチェンジ 

 吉見は、駅から少し歩いた場所にある高層ビルの自動ドアを通り抜ける。

 エントランスホールで顔馴染みの後輩と出くわした。すれ違いざまに、挨拶代わりに左手を上げる。

 エレベーターに乗り込み、目的の階のボタンを押す。一面がガラス張りなので、次第に地面が遠ざかり、道行く人々が小さくなっていくのが、目に見えてわかる。

 ……いっそ飛び下りてしまうか。

 飛び下りるには十分な高所で、日下の囁き声が耳に触れたような錯覚を覚える。ビルの屋上の縁に足の爪先を揃え、地上を覗いている日下が脳裏に浮かんだ。そんなネガティブに過ぎる想像を振り払って、吉見はエレベーターを降りる。

 所属するセクションへと続く廊下を進んでいると、ハンカチを手にした上原がトイレから出てきた。

「なんだお前、来たのか。休んでくれてよかったんだけどな」ハンカチの角と角とを合わせ、小さく折りたたんでポケットにしまう。

「案外早く終わったので。ほかにすることもないですし」

「そうか。なら、さっさと支度してこい」

「事件ですか?」

「ああ。それとだな、ダークスーツのようだから服装はそれで構わないが、さすがにネクタイは変えてこいよ」

 指摘を受けて自分の胸元を見てみると、黒いネクタイが下がっていた。

「車にいるぞ」


 サイドウィンドウに上原の横顔を見つけた吉見は反対側に周り、ドアを引き、後部座席に乗り込んだ。

「この道をこう行ってからの、こうですね。わかりました」皆川は地図をドアポケットにしまい、ライトを消して、カーナビに現場付近の住所を入力する。

 ウィンカーを点滅させ、一台二台とやり過ごし、車の流れが途絶えたところを見計らって右折する。

 静かな車内に時折、カーナビの指示が入る。それに従う皆川。窓の外には見飽きた景色。車に揺られているうちに、だんだんまぶたが重くなってきた吉見は、イルカがするように片方づつ目を閉じて、睡魔の訪れをやり過ごすことにした。

 料金所を抜けて、ランプを上り、合流してしまえば、あとはもうひた走るだけ。一般道でもわりとスムースに走っていたとはいえそれでも、赤信号で停まったり、左右へ折れたりなして、多少なりとも変化があった。しかし、平日昼間の閑散とした高速道路ともなると、走りはいよいよ単調になってくる。

 道路の両側は遮音壁に覆われており、もとより景観など望むべくもない。壁のいたるところが蔦に侵食されている。常時排気ガスに吹きさらされているために、茶色く枯れてしまっている箇所も少なくない。

 延々と変わらない景色にいい加減うんざりしてくる。目に映るかったるい現実から目を逸らし、吉見はぼんやり物思いに耽る。

 イルカは、生まれながらにして二重人格なのだそうだ。それはまるでジキル博士とハイド氏のように。隣り合っているとはいえ、右脳と左脳の間に連絡はないのだという。認識している世界も左右で違うものらしい。視神経はというと、目下走行中の高速道路とその下を通る一般道がそうであるように立体交差していて、それぞれ別々の経路を辿っている。右目の視界は左脳へ、左目の視界は右脳へとのみ続く一方通行。このことから、右目を閉じていれば左脳が、左目を閉じていれば右脳が眠っていると傍から知れる。左右の脳が代わる代わるに眠り、寝ている間に互いは入れ替わっている。

 そもそもイルカはその昔、陸上動物から派生した肺で呼吸する生き物なので、時折海中から浮上して息継ぎしないことには、どざえもんになりかねない。そういう次第で二つの脳、どちらか一方は常に起きている。それが海に出戻った哺乳類の取った生存戦略だった。

 そろそろイルカの真似事にも綻びが生じてきている。まぶたを持ち上げるだけの力が入らない。片一方づつの目を閉じて眠気をごまかそうなんていう浅はかな試みは、イルカではない吉見にとって、土台無理なことのようだった……。


 案内標識に目的地である地名が出てきた。皆川は車線変更しようと、ルームミラーに目をやり、後ろを確認する。鏡の片隅に腕組みをして、寝入っている吉見が映る。

「寝てますね」 

「みたいだな」   

「さっきまでウィンクしていたんですけど」

「ウィンク? まぁ、そうやって眠気をしのいでいたんでしょうよ。葬式帰りでそのまま来たんだと」 

「その足で?」

「その足で」  

「そうですか。あの……私、こっちに来て最初の事件になるんですけれど、どうしたらいいでしょうか?」 

 枝分かれしている道を、出口の方へとハンドルを傾ける。

「そうだったな。とりあえず、寝ているこいつの真似でもしておけ」

「真似といいますと」

「一挙手一投足、やることなすことを隣で真似する。そうすればこいつがなにを見ているのか、なにを気にしているのかがわかる。物事を観察するのは捜査の基本だが、漫然と眺めていたって仕方ないからな」

「わかりました。やってみます。……にしてもよく寝ていますね」

「どんな夢を見てんのかね」  

 話は変わりますが、と皆川が言いかけた時、信号の色が青に変わった。脇をすり抜けようとするバイク、自転車の存在を気にしながら左折する。

「話は変わりますが、吉見さんってどういう方なんですか?」

 はじめて会った日から今日まで、挨拶を交わすくらいの間柄で、そこから会話に発展することはなかった。

「それは、おいおいわかってくるだろう。ただまぁ、前もって言っておくとすればそうだな……こいつの話は連想的だな」

「飛んだり跳ねたりするってことですか?」

「単なる雑談なのかと思いきやそれは前置きで、いきなり本題に入ってきたりしてな。どこで仕入れてきた知識なのか知らんが、たとえ話も多い」

 サッカーボールを脇に抱えた少年たちが横断歩道を走って横切っていく。皆川は、その光景を微笑ましく思う。

「それは、話の筋を見失ってしまいそうですね」

「なんてことはない。適当に相槌を打って、適当に話を合わせておけばいいだけのこと。いつも皆川がしているみたいに」

「そう見えます?」

「ああ。どこか聞き分けがいいし、人の顔色を見て、空気読んで人の意見に同調するきらいがあるよな。そうやって、その場をやり過ごしていないか?」

「まだこっちにきて日も浅いですし、ようやく皆さんの顔と名前が一致してきた頃ですので、借りてきた猫状態になるのは仕方がないかと」

「俺、猫アレルギーなんだよね」

「知りませんよ」

 等間隔に植わった街路樹が車道に影を伸ばしている。木漏れ日がフロントガラスを透過してハンドルを握る皆川の手を、膝を、顔をまだらに染める。

 カーナビが目的地周辺に到着したことを告げて案内を終了した。

「この辺りだと言っているんですが」

「次の信号を右だな」

 上原に言われた通りにハンドルを回すと、路地に人集りができていた。皆川は路肩に車を停める。スイッチを押し込み、ハザードランプを明滅させた。 


 夢から覚めやらない頭で、覚束ない足取りで車を降りると、皆川が、適当なところに停めてきます。と言って、遠ざかっていった。報道関係者が近隣住民にマイクとカメラを向けている様子を見て吉見はようやく、現場に到着したのだとわかった。

 一端を車両通行止めの支柱に、もう一端はフェンスに結ばれた黄色い規制線を、吉見はまたいで、上原はかがんで内側へと足を踏み入れる。

「ちょっと、打ち合わせに行ってくる」上原は、現場指揮官をはじめとする階級の高い人らが集まっているところに小走りで向かう。途中、遺体のそばで歩みを緩めて一瞥して、そしてまた小走りをする。

 吉見は、作業中の鑑識の邪魔にならないところでしゃがみ込む。吉見のいる場所は木陰になっていて、遺体は陽にさらされている。鑑識が遺体周りを撮影している。立ち位置を変えたり接写したりなどして、必要以上にシャッターを切っている。

 被害者はうつ伏せの状態で、あらぬ方を向いて絶命していた。元々は白かったであろうシャツが赤く染まっている。血の飛び散り方からして、ほぼ間違いなく殺害現場もこの場所だろうと吉見は見当を付ける。

「凶器は?」近くの鑑識に訊ねる。

 手を動かしながら応える。「まだ見つかっていない」

 車を停めてきた皆川が吉見の隣にしゃがみ込んだ。吉見が距離を取ろうとすると、皆川はその距離を詰めてきた。

「ちょっと、そこ邪魔」

「あっ、と失礼」

 吉見が空けたスペースに鑑識が、皆川の空けたスペースに吉見が、もとから空いているスペースに皆川が、それぞれちょっとずつズレる。カメラを構えて、ファインダーを覗く。炊かれたフラッシュによって、視界の端が一瞬光った。 

 時折横顔に、皆川の視線を感じる。吉見が遺体の頭のてっぺんから足の爪先まで、ゆっくり舐めるようにして眺めると、同じように皆川の首も動いた。あくびをすると、ワンテンポ遅れて、皆川も大口を開けた。フェンスに止まっているカラスに目をやる。するとやはり、皆川もそちらへ視線を向けた。

 そうこうしているうちに、上原が戻ってきた。「なにかわかったか?」どちらにともなく訊く。

「ええ、鑑識さんはいつもながら、いい仕事をしていますね」

 そう吉見が応じると、皆川が、えっ? と、小さく声を上げ、鑑識の一人がこちらに顔を向けた。

「現場の状況に関してだってことくらい、わかるよな?」 

 上原のつれない言葉に鑑識は、自分が話題に上がったわけではないと知り、もとの作業に戻った。

「犯人はこの場で被害者を刃物で複数回刺して殺害。そして凶器を持って逃走中。といった感じですかね」

「そうだな。付近をパトロールさせているようだが、これといった情報はまだ入ってきていないそうだ」

「ただ」

「ただ?」

「血があちこち散っているわりに、踏んだ形跡が見られないなって」

「そう……か」

「身元はどうなんでしょう」

「財布には現金とカード、それに免許証も入っていたからな」

「腕時計もしたまんまですし、どうやら物取りではなさそうですね」

 皆川が口を挟む。「でしたら、通り魔でしょうか」

「その考えは、最後まで取っておけ」

 色味のない袋に納められた遺体は、大学の法医学教室に搬送される運びとなった。黙祷し、車を送り出す。片や霊柩車で火葬場に向かう遺体と、片や警察車両で解剖室に向かう遺体。短時間のうちに遭遇した二つの遺体の出発を吉見は、二重写しに見た。

 上司に呼び付けられた上原が、この場から立ち去る。

「お葬式の帰りなんだそうですね」

 と、視線を上原に向けたままの皆川。

「上原さんに聞いたのか」

「ええ、吉見さんが寝ている時に」

「なにか俺の悪口でも言ってた?」

「悪口は言っていないですけれど、アドバイスを貰いました」

「なんの?」

「仕事の」

「具体的には?」

「吉見さんの真似をしろって」

「それでか」横顔に感じた視線の正体に得心がいった。

「なんですか?」

「いや、こっちの話」

 おーい、行くぞぉ。遠くから呼ぶ声がする。

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