恋に堕ちて……

落合孝介

第1話 ありふれた恋愛

 夫婦のようだ、と彼女と彼の関係を知る者は語る。毎朝二人でキャンパスへと向かい、二人で帰る。部屋も二人で一つ……つまりは同棲をしていて、招かれた者はその仲睦まじい姿に微笑みを向ける。あるいは、その中には二人を妬み、奪おうと下心を抱く者もいたが、二人の関係に割って入ることが出来た例は、存在しなかった。

 幼い頃からの、腐れ縁、と本人達が呼ぶ関係で、幼なじみと呼ばれる関係が恋人へと発展していた。


「しょーま! ねぇしょーまってば!」

「なに? 今忙しいんだけど」

「ゲームしてるだけじゃん」

「ゲームしてるから忙しいっつってんだけど」


 しょーま、と呼ばれた男は、スマホの画面から目を離さずに言葉を返す。彼、潮見将真しおみしょうまのそんな反応に恋人である星ヶ丘奈津子ほしがおかなつこは頬を膨らませた。周囲に人がいれば、そのような態度は取らない。外面が良く社交的な奈津子は、将真相手には妙にわがままになるのだった。


「あたしよりゲームのが大事だってゆうんだ?」

「は?」

「冷たいよ、構ってよ」

「……別に今じゃなくても、帰ってからでも――」

「ヤダ」


 ため息ひとつ。幸せが逃げると言われるソレを吐き出した。大学三年……つまりこの関係、を始めてから三年経つが、奈津子のわがままは大人しくなるどころか酷くなっていく一方だった。

 ――とは言え、恋人である以上、将真も奈津子を誰よりも大切に想っているという自負はある。故にスマホの画面を黒色に変え、パーカーの腹にあるポケットに滑り込ませた。


「ナツ、今日は帰ろうか」

「え? まだ四限」

「一回くらいいいだろ、それともそのまま四限受ける?」

「……んー、むり」


 了承されてしまい、三限を空きコマにしたのは間違いだったな、と頭を掻き、再びスマホの画面に色を取り戻し、将真が友人にメッセージを送った。

 休むこと、後で礼をするから代返をよろしく、の二つ。マメな友人からはすぐに返信が返ってきた。


航平こうへいくん、なんて?」

「……文句」

「あたしから謝っとこうか?」

「無視でいい」


 奈津子はふーん、と言いながら将真の腕に自分の手をかける。そのリアクションに、将真はまたため息をついた。染めた茶色でクセのある髪を後ろで纏めて、肩や足といった部位がやや露出した服装からもわかるように、ノリが軽く、真面目過ぎないところは彼女のいいところだが、嫉妬しやすいのに男女関わらずフレンドリーに接するところが、彼がいつもモヤモヤとしてしまう原因だった。女性相手なら別に構わないが、男性とも同じように接する姿は、恋人としてどうしても不満は感じてしまう。それを奈津子は、浮気はしてないじゃん、と笑い飛ばして、将真はまた不満を感じる。


「……だからワンチャンとか言って迫ってくるヤツがいるんだよ」

「んー? なんか言った?」

「なんでもねぇ」


 対する将真は、人付き合いはいいがそこそこ。奈津子の交友関係で知らない男友達もいる。酒の席で迫られたこともあることを、将真は知っていた。

 そんな薄暗い気持ちが噴き出した時、将真は奈津子にベッドの上で羞恥心を煽る言葉を紡ぎ続ける。

 本来は四限を受ける一時間半を使って、恋人である奈津子を、独占欲に任せて、のしかかり、自分だけのものだと味わい尽くす。


「……しょーま」

「ん?」

「すき……恥ずかしいけど……あたしはしょーまのカノジョなんだって思えるから……すきだよ」

「……ナツ」

「だから……悲しそうな顔は、やだな」


 自己嫌悪も当然あるが、甘え声で囁き目を閉じる奈津子にいつも救われていた。

 恋人になるきっかけは決して綺麗な感情ではなかった。将真も、そして奈津子も。だからこそ二人はいつもこうしてお互いに悪い所をぶつけ合う。ぶつけ合って、吐き出して、だからこその恋人同士だった。

 だからこその、今の関係だった。


「……ナツ、今日バイトは?」

「……あ! え!? 今何時!?」

「六時」

「やっば、七時からだよ!」

「はい、下着」

「ありが――ってぐしょぐしょじゃん!」


 何故かノリツッコミをした奈津子に体液で濡れたショーツを投げつけられ、将真は嫌そうに顔を顰めた。行為中にはなんとも思わないどころか、糸引くその液体が愛おしいとさえ思える将真も、今はただ排泄されたものだとしか認識できなかった。


「ナツの量が多いから仕方ない」

「多いとかゆーな!」


 顔を真っ赤にしながら怒る奈津子は替えの下着を探し、着替えながらブツブツと文句を繰り返す。

 そんな姿に乱れてる時は素直なんだけどな、と内心残念がっている将真をよそにシャツのボタンを留めながら奈津子は第一、と指を将真に向けた。


「しょーまってあたし以外の女のコ知らないじゃん! 多いとか少ないとか」

「……そうだな。奈津子もだけど」

「あたしは、しょーま一筋だもん!」

「はいはい」

「流すな!」

「遅刻するぞ」

「バーカ! バーカバーカ! ハゲー!」


 小学生のような罵りも、もう慣れっこだとばかりに将真も服を着替え始める。その後ろ姿に、奈津子はほんの少しだけ、不安を抱えた。

 ――行先は、本当は訊かなくてもわかる。この時間から出る時は、大概同じ場所なのだから。けれど、訊かずにはいられなかった。


「どこ行くの?」

「図書館」

「……だよね」


 大学併設の図書館は夜八時まで学生のために開かれている。彼はそこで趣味の分野の専門書を読み漁っているのだった。奈津子の帰りを独りで待つのは嫌だから、という言葉と、彼女自身、嫉妬深く、また束縛癖のある自分があまり好きではない、という罪悪感からここにいてほしい、とは言えなかった。


「バイト……辞めようかな」

「ネガティブ禁止。俺はどこにも行かないって」

「嘘だよ」

「……大体お金貯めるんだろ? そのために俺もナツもバイトしてるんだから」

「しょーくん……」


 子どもの頃の呼び名を使うのは甘えたい時の最上級だったな、と苦笑いをして出かける前に将真は奈津子の唇に自分の唇を重ねた。誓いを立てるように優しく、不安を吸い取るように、熱く。


「……行ってきます」

「あたしが帰ってくる頃にはいてくれなきゃヤだよ?」

「わかってるよ」


 そうして二人はアパートを出て反対方向へ歩いていく。奈津子は駅の方へ、将真は大学の方へと。

 奈津子の不安を奪った唇をなぞって、将真は嘆息した。彼女のことが本当に愛おしいと。

 ――同時にこのカラダに絡まる彼女からの愛と欲が重すぎると。


「求めるものが多いから、そうなるんだろうな……俺が、奈津子を認め過ぎたから」


 表向きには社交的で中学生の頃から成績が抜群に良く、将真では手が届かない高校へと進学した、そのくらいに成績優秀、更にはスポーツもそれなりにできてスタイルも良い。家事も人並み以上にこなす奈津子の裏の顔を知り過ぎたことが、将真が今の関係を辿る原型なのだから。

 なにより星ヶ丘奈津子には、潮見将真という存在をあまりに重く見過ぎている。いなくなったら、死んでしまうのではないかというくらいに、その他者から与えられる理由のない生への重責が、将真にはとても耐えきれるものではなかった。


「……あ」

「悪い、待たせたみたいだな」


 だからその重責から逃れるために、将真は間違いを犯す。大きくて、かけがえのない間違いを、彼は犯していたのだった。

 図書館の三階、専門的な図書を扱う誰もいない場所に座る女性に話しかけ、隣に座る。見た目の印象から奈津子とは正反対にうつむきがちで、しっとりとしたストレートの黒髪に、おしとやかさのある、ゴシックな服装、おおよそ、ヒトと関わることが苦手そうな女性に、彼はフレンドリーに、ともすれば慣れ慣れしく声を掛けた。


「いいえ……本を、読んでいましたから……」

「遠慮しなくていいんだけどな、紗枝。文句なら受け付けてるし」

「いえ……本当に、遠慮とか、そんなんじゃ、なくて」


 途切れ途切れに息継ぎをするような話し方、会話そのものを苦手とする話し方をする紗枝、と呼んだ彼女に、将真はそれじゃあ、とまるで当たり前であるかのように、立てば膝丈程あるスカートから伸びる黒のタイツに、手を這わせ、太腿へと侵入させた。


「んっ……」

「文句が言えたら、紗枝の期待に応えてあげる、って言ったら?」

「……っ、きたい、なんて……あ」

「してない? 嘘吐いたらそのまま帰るけど?」


 紗枝は、将真を見上げ、それから受付の方をチラリと見た。

 ――将真で隠れてるとは言え、バレてしまうかもしれない。けれど将真にこのまま放置されてしまうのは、困る。紗枝の考えが手に取るようにわかった将真は、彼女の黒い髪をかき上げ、耳許で囁いた。


「……先に本、戻してこようか」

「はい……」


 促されるまま、、紗枝は

 背伸びをしてギリギリ届くその棚に本を戻し……振り返る間もなく、紗枝は将真の欲に絡めとられた。


「や……せん、ぱい……っ」

「それで、さっきの続きは?」


 カンタンに包み込まれてしまうような身長差のある将真に、コンプレックスでもあるたわわな胸を弄ばれ、紗枝はカラダを震わせ……跳ねさせた。

 誰にも見られない彼と自分だけの空間、そうなってしまっては、紗枝はもう情欲に流されるまま口を開くしかなかった。


「今日は……来てくれないと、思いました……四限、休んだん……ですよね?」

「サボったね」

「……だから、もう、今日は……星ヶ丘先輩と、ずっと一緒なのかなって……約束したのにって……」


 噴き出す不満、期待をしていた分の落胆、そんな感情に将真はますます欲情していく。ひたすらに求める、無心する奈津子とは違った、求められたいと認めてほしいと啼く、愛らしい後輩に……契約をした、浮気相手に。


「……ふふ、紗枝はかわいいな。そんなに期待してたんだ?」

「……はい」


 臆病で、引っ込み思案な彼女から放たれた爛れた感情を肯定する言葉に、将真は唇を三日月に割った。

 そうなってしまってはもう、紗枝と将真の瞳に理性の光は宿ってなかった。ただお互いを満たすためだけの口づけ、触れる熱に、それでも紗枝は溶けるような安心感を抱いていた。


「せんぱい……ん、わたしの部屋、行きましょう……?」

「……そうだな。あそこなら……紗枝の好きなこと、できるしな」

「はい……わたしを、使ってください……


 潮見将真は嘘を吐く。奈津子のために、奈津子が望む、幸せな時間のために。彼女を護るために。

 そして、そのための装置として矢作紗枝は存在していた。誰よりも紗枝自身が望んだ、将真への献身が、紗枝の全てであり、今ここに生きている意味でもあった。


「紗枝……紗枝……」

「はい、将真くん……わたしはここにいます。将真くんの、傍に……」


 生きる意味を与えたものと生きる意味を与えられたもの。欲と打算に塗れた関係を続けて、既にもう三年の時が経とうとしていた。

 星ヶ丘奈津子が潮見将真に縋ってから、矢作紗枝が潮見将真を許してから、潮見将真が二人の女性と関係を持ってから。


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