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「《ミッツ》さーん」

 マンションの前まで来た時、頭上から声をかけられた。三雲は顔を上げる。マンションの2階。ちょうど三雲の部屋の前あたりに男が立っている。白い包みを右手に掲げている。三雲が知った顔だった。

 犬飼恭介・三等空尉。第201飛行隊の同僚だった。

「助かったよ。晩飯はカップ麺だと覚悟してたんだ」

 三雲は嬉しそうに言った。握り飯にかぶりついた。

 犬飼が白い包みに持ってきたのはタッパーウェアに入れたおでんとアルミホイルに包んだ握り飯が3つ。独り暮らしをする息子のために犬飼の母親がしょっちゅうアパートに訪れて料理を作っては実家に帰るのだという。

「すまんな」

「よしてくださいよ。いつも一人で食べきれないぐらい作ってくんですから」

「本当においしいな」

 いったん帰宅した犬飼はトレーナーにスウェットパンツという格好だった。三雲はまだ階級章やエンブレムを付けたフライトスーツを着ている。

「おでん、温め直したらどうです?もう冷めてますよ」犬飼はそう勧めた。

「腹が減ってるからいい」三雲はさっそく食べ始める。

 犬飼は三雲の部屋に上がった。三雲とテーブルを挟んで向かい合うが、無心に食事をしている三雲を眼の前にして会話を切り出すことが出来ない。犬飼は三雲から視線を外して部屋の中を見回す。

《相変わらず、きれいにしているな》犬飼は胸の裡に呟いた。

 初めて三雲の部屋を訪れた時、犬飼は部屋のあまりのきれいさに驚いた。しょっちゅう彼女が出入りしているのではないか。そう思ったぐらいだった。いつかの宴席でその件を聞いたが、三雲はそっけなく「自分で掃除している」と答えた。掃除、洗濯、整理整頓は全て基地に帰還できなかった日のための準備だという。

 この人はいつも死を身近に感じている。犬飼はそう思った。どうしてだろう。

 三雲は食事を終えた。差し入れの礼代わりに、今日のシミュレーション訓練について話し始めた。本来なら犬飼が三雲の僚機として訓練飛行しているはずだった。

 離陸。演習空域までの進出。Su-27との2対1ツー・バイ・ワンの空戦ミッション。上空から逆落としにかかってくるSu-27。とっさの機転で繰り出した《プガチョフ・コブラ》で躱したくだり。

「《ミッツ》さんが乗ってたの、《イーグル》ですよね?あれで《フランカー》の機動が出来るんすか?」

「もう1回やれって言われてもできる気がしない」

「何すか、それ・・・」

 犬飼は脳裡に思い出す光景があった。半年前に千歳基地に配属されて間もない頃、第201飛行隊で犬飼の歓迎会を開いた時だった。飛行隊の訓練幹部が隊員たちの空中機動ACMについて評した言葉があった。訓練幹部は飛行隊の中でも技量を認められたベテランパイロットが就く役職である。次期か、その次に飛行班長になるケースが多い。

 篠崎は機動を1つ取ってもセンスがあり、気が付いたら追い詰められている。三雲は反射神経の良さで対処する。それがハマった時の強さは大きい。だいぶ酔いが回っていた訓練幹部の評定を聞いた当の本人たちは褒められたのか貶されたのか分からないような、鈍い顔つきだった。

 歓迎会は日付が変わる頃まで続いた。閉店間際まで、居酒屋に残っていた飛行隊のパイロットたちは眼をとろんとさせている。飛行班長の堀井がぼそりと口にしたのは、篠崎のタックネームだった。あまり酒に強くない篠崎はすでに帰った後だった。

「やっぱり腕は《シン》が一番じゃないかな。あの腕だったらアグレッサーでも」

「隊長が今度の戦競(戦技競技会)で使うって」訓練幹部が言った。

 戦技競技会は全国の戦闘機飛行隊を一堂に会して、戦闘機パイロットの任務遂行に必要な技術を競う大会である。その選抜メンバーに選ばれるのは、単に名誉だけではない。飛行隊の名誉をかけて戦うだけに、空中戦の訓練時間や射撃訓練用の実弾などが優先的に割り当てられる。実力を一気に伸ばすチャンスでもある。

「いま考えても《シン》のACMで分からんところがある」堀井は言った。「どうやったんだろうなって」

「あれか?」訓練幹部が言った。「《ミッツ》が初めて飛行隊の訓練に参加した時か」

 堀井がうなづいた。

「俺も報告書を読んだけど、サッパリだった。《シン》が上に逃げて、《セイント》たちが切り返して」

「《シン》が上に逃げた時点でヤバいなと思ってた」堀井が言った。「こっちが切り返したとしても《シン》はとっくにこっちに機首を向けてるだろうから、態勢としては不利だ」

「それで?」

編隊僚機ウィングマンに《ミッツ》が載ってたんだが、とにかくウィングマンと距離を取って大きく開いた」

「一度に撃墜キルされないように」

 堀井はうなづいた。

「ところが《シン》はどんどん上昇してる。もう5万フィートくらいまで昇ってたんじゃないか。一瞬、《シン》が何を考えてるのかと思った」

「でも、それ以上にチャンスだと思ったわけだ?」

「《シン》を撃墜キルできるチャンスって、そんなに多くはない。だからアフターバーナーを入れて、スティックを引いた。《ミッツ》はスッと俺の後ろでカバーの位置についた。それでフォックス・ツーで仕留めようとしたんだが」

「《シン》の狙いは・・・?」

「バラけてた自分らの編隊を束ねることだったんです」三雲は言った。「一撃でやっつけられるように。訓練後にそう言ってましたよ」

「まさか、あんな方法があるとは思わんからなあ」

 訓練幹部が身を乗り出してくる。

「実際はどうだったんだ?」

「いま思い返してみても何が起こったのか、よく分からん。《シン》は太陽に向かって上昇してたから、こっちのミサイルのシーカーを騙そうとしてるなと思った。こっちはちょっと針路を変えてやれば、すぐにロックオンできるはずだった」

「それで、針路を変えたんだろ?」

 堀井はうなづいた。

「少し右に滑らせた。だが、その時はもう《シン》の機体をロストしてた。次の瞬間、下から突き上げられてフォックス・ツーを食らった」

「全然分からんな。《シン》の《イーグル》は普通の《イーグル》なんだろ?」

 三雲は首を捻った。

「あの日、《シン》が載ってたのは897号機」三雲は言った。「その前日は自分がそれを飛ばしてたんです。別に他の《イーグル》と変わったところはありません」

「どうやったのかな」

 訓練幹部は手で顎を擦る。犬飼は居酒屋に残ったパイロットたちの様子を眺めてひっそりと苦笑する。今日は自分の歓迎会だというのに、皆は篠崎が取った機動にすっかり心を奪われている様子だった。

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