第10話 ただ甘いだけの

「かんちゃーん、帰ってるのー?」

 その日は久しぶりに、学校を出たところでそんな声が追いかけてきた。

 昔から変わらない、ちょっと舌っ足らずな高い声。こちらへ駆けてくる、小走りの足音。


  振り返ると、少し息を切らした七海がいて

「走るなよ、危ない」

「大丈夫だよー、ちょっとぐらい。今日は体調良いし」

 あっけらかんと笑う七海の背後に、俺は思わず視線を走らせていた。

 季帆の姿は見えない。

「どうかした?」

「ああ、いや。……樋渡は?」

「生徒会のお仕事。遅くなりそうだから、先帰っててって」

「生徒会なら、七海もじゃないの?」

「わたしは下っ端だけど、卓くんは書記だから。わたしより忙しいんだ」

 もしかして、それで季帆はいないのだろうか。七海のいない今、チャンスとばかりに樋渡に接近しているのかもしれない。


「……待っとかなくていいのか、樋渡」

「いいよ。どうせ帰る方向も違うし。それにわたし、今日病院の日だから」

 もちろんそんなこと知る由もない七海は、なんの危機感もない笑顔で

「かんちゃんといっしょに帰るの、久しぶりだね」

「そりゃ、お前が生徒会なんて入ったから」

 返す声に、思わず恨めしげな色がにじむ。


「……なあ、大丈夫なのか?」

「へ、なにが?」

「生徒会。相当忙しそうだけど。身体きつくない?」

 大丈夫、と七海は明るく笑って

「むしろ最近、すごく調子いいの。元気いっぱい。今日ね、体育にもちゃんと参加できたんだ。はじめてバスケしたよ」

「バスケ?」

 うれしそうにそんなことを告げる七海に、俺はぎょっとして聞き返す。ちょっと走っただけで倒れたこともあるくせに、バスケって。


「やめろよ。また倒れたらどうすんの。体育は見学しろって言われてんだろ」

「体調が悪いときは、だよ。今日はなんともなかったもん。元気なのに見学するのも変でしょ」

「いいじゃん。見学していいって許可もらってんだから」

 俺はため息をついてから、イライラと頭を掻いた。

 このやり取りも、もう何度目になるかわからない。

 七海は自分の身体を過信しがちだ。ちょっと体調が良いとなんでもできる気になって、すぐ調子に乗る。そのせいで何度体育の授業中に体調を崩したことか。

 そんな彼女を、何度背負って保健室へ連れていっただろう。


「大丈夫だよ。元気なときは体育したいもん、わたしだって」

「それで無理して倒れたらどうしようもないだろ」

「無理はしてないよ。わたしの身体のことは自分でわかるし」

「わかってないから倒れるんだろ」

 だいたい、七海の言う「大丈夫」ほど信用できないものもない。登校中に倒れたあの日だって、七海は倒れる直前まで「大丈夫」と言い張っていた。

「いいから、体育はちゃんと見学しろよ。これから」

「えー」

「えーじゃない」

 語気を強めると、七海は不満げに唇をとがらせて

「なんかかんちゃんて、お父さんみたい」

 なんて言われて、憮然とした。

 お父さん、と呆けたように繰り返す。

「……せめてお兄ちゃんだろ」

「いやー、この口うるささはお兄ちゃんっていうよりお父さんだよ」

 口うるさい、と俺はまたバカみたいに繰り返す。

 以前から何度か向けられてきたはずのそんな言葉が、今は妙に胸に刺さった。


 樋渡は言わないのだろうか。こういうこと。

 言わないんだろうな。「優しい」らしいから。

 七海が体育がしたいのだと言えば、もちろんなにも反論なんてせず、笑顔で頷くのだろう。そんな、甘いだけの優しさをくれるのだろう。

 だってたぶん、樋渡はなにも知らないから。

 昔から“みんなといっしょ”にこだわって、自分の身体の弱さを見て見ぬ振りしようとする七海も。そうやって無理したあと、何日も寝込むことになる七海も。そんな彼女を、何年間も傍で見てこなかったから。だからただ、彼女に甘いだけの優しさをあげられるのだ。無頓着に。


 そんな不公平さを噛みしめて、俺がつい黙り込んでいたら

「あ、そういえば模試の結果出てたね。あいかわらずすごかったねー、かんちゃん」

 思い出したように七海が言った。にこにこと無邪気な笑顔がこちらを向く。

「ほんと頭良いよねー。すごいな」

「すごくない。二位だったし」

 せっかく忘れていたことを思い出して、俺が苦々しく呟くと

「え、すごいよ。一位も二位も変わらないよ」

「いや変わるだろ、一位と二位は」

「わたしからしたらどっちもいっしょだよ。どっちもすごすぎだもん」

 子どもっぽい笑顔で、そんな子どもっぽいことを言う。

 ふいに喉の奥から苦いものがこみ上げてきて、俺は七海の顔から目を逸らした。

 そりゃ、お前にとってはそうなんだろうけど。

 心の中でだけ吐き捨てる。


 そもそも、成績が上位なのは当たり前なのだ。本来俺が行ける高校より、だいぶレベルを落とした高校に通っているのだから。だからべつに、俺の成績なんて全国偏差値で見ればたいしたことはない。この高校にいる他のやつらの成績が悪いだけ。

 本当にそこでいいの、と。受験のときには、担任の先生にも両親にもしつこく確認された。そのたび俺は、迷うことなく頷いていた。あなたの成績ならもっと上の高校に行けるのに、とか、何度言われても、そんなことはどうでもよかった。あの頃の俺は、七海と同じ高校に行くことしか頭になかった。

 今思えばバカみたいだ。

 なんで俺、こんなレベルの低い高校に通っているんだろう。なんのために。



 ――ああ、俺も転校したい。

 ふいにそんなことを思う。

 あいつみたいに年度途中の編入を、なんてちらっと考えてみて、だけどすぐに、面倒くさそうだな、と思って考えるのをやめた。

 編入の仕方なんて知らないけれど、とにかく相当面倒な手続きが必要なことぐらいはわかる。試験もあるだろうし、お金もかかるだろうし。


  だけどあいつは、そんな面倒なことをしたらしい。

 俺と同じ高校に通う、ただそれだけのために。


 今更そんなことを実感して、また少し、薄ら寒くなった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る