恋する乙女と父母の思い4

「ぶはぁ! はぁ……」

水面から顔だけ脱出させると空気を求めた肺が夢中で収縮しているのか、がむしゃらに呼吸を繰り返した。

服を着たまま泳ぐのは初めてですが想像以上に動きにくいものですね、それが生地の多いドレスともなれば尚更で、スカートを裂いていなかったら溺れていたかもしれない。

水から這い上ると白煉瓦で舗装された城の外周に出ました。

転落した先は城と外周の間に設けられた水路だったらしく、大きな怪我はしないですみました。

これなら直ぐにでも小父様を追いかけられそうです。

ドレスの裾を絞って少しでも水を逃すして身軽さを確保してから立ち上がり駆け出そうとした所へ、足下へ鋭い何かが突き刺さる。

氷で形成された矢が意味するのは彼女が無事であるという証拠です。

一層の事溺れてくれていればと思っていましたが、そう簡単にはいかないですか。

この矢も動くなとの警告のつもりかしら。

「こそこそ隠れず出てきてはどうですか、私が逃げも隠れもしないのは貴女もよくわかっているでしょう?」

「ええ知っていますよ、だけど生真面目なアイリスさんと違って目的の為に手段を選ばないのが私の流儀なので」

ふわりと風に乗るかの如く音を立てずに舞い降りたのは小父様を裏切ったあの女。

「不意打ちだろうとアイリスさんが倒れてくれるなら構いません、団長の下へ行かせるわけにはいきませんから」

アルテミシア・ノーラ・シルフール。

私が打ち倒さなくてはいけない騎士崩れです。

「てっきりアルテミシアも水路に落ちたとばかり思っていましたよ」

「残念、アイリスさんと違って包術の才にも溢れる私なら氷で足場を作るくらい造作もありませんの、見損なわないで下さる?」

どうりで一滴の水滴すら付いていないはずです。

それに見てみればアルテミシアも私と同様に落下の際に武器を放り投げてしまったみたいですね。

この距離なら相手が包術の祈訓を祈訓を唱えるか、私が体術で攻め入るか五分の可能性がある。

まだ勝機を捨てる必要はない。

だけど彼女を倒す前にどうしても聞いておきたいことがありました。

これだけは片付けなくては先に進めない重要な問題が……。

「……一つ聞かせて下さい」

ゆっくり大きく、問い詰める口調で疑問を口にする。

「アルテミシア、貴女が小父様を……ベルクリッド・ファン・ホーテン様を愛していたというのは嘘だったんですか?」

「……アイリスさんがそれを知ってどうすると言うのかしら?」

「質問しているのは私です、答えなさいアルテミシア!」

「愛していますよ」

隙が全く生まれない間隔でアルテミシアは即答してきた。

「尊敬し、魅了され、共に歩みたいと願い、彼の人の道を照らす光になれるのなら命すらも惜しくないと本気で思えるくらいにはお慕いしています」

恥ずかしげもなくツラツラと並べられた愛の言葉の数々。

「であるならどうしてあの人を裏切ったの!」

「こうする他に手段がないからですよ、ベルクリッド様が誠の意味で自由になるには……」

チリっと肌を刺したのが冷気であると気がつく頃には遅かった。

「ここで倒れてもらいますよ、アイリス・ヴァン・ツヴァイトーク!」

それがアルテミシアの包術によるものだと考えが至った頃には彼女の術は既に発動していたのですから。

「まさか、既に!」

私の前に現れた時には遅延式で発動するように術式が組まれていた、アルテミシアの腕前を鑑みれば容易く芸当だと言うのに考えが至らなかったのが失敗です。

吹き荒れて一呼吸もしないうちに冷気は風を帯びて勢いを増し猛烈な吹雪へと成長を遂げてしまった。

腕が、脚が、雪と突風に拘束されて自由を奪われる。

冷感がやがて痛みへと移り変わり悲鳴を上げそうだ。

だからって!

「私を舐めるなアルテミシア! 例え包術が使えなくても、剣が無くても私は戦える! 私の心を負かしたいと吠えるのならば逃げずにかかってきなさい!」

包術や剣を理由に負けられない戦いから背を背けるなんてあり得ない!

誇りと願いが湧き出る限り私は戦える!

「そうですね、私もアイリスさんを見くびっていました」

吹雪で視界を遮られていてもアルテミシアの声ははっきり聞き取れました。

「ですから私も手加減を抜きにしてアイリスさんを倒しましょう、ベルクリッド様から授かった騎士の真髄を持ってして貴女に勝利する……」

雪と氷が支配する空間で高らかに唱えられたのは包術の祈訓。

「奉り願う……」

そこから紡がれた願いは。

「気高き覇者よ降り立たん!」

バッと視界が開けると辺り一面は氷で埋め尽くされた氷雪の世界が広がっていました。

音という音が全て吸い尽くされて、静寂だけが存在するのを許された完璧な無音。

ありとあらゆる物が氷に閉ざされ屈服させられた世界の中で色を放つのは私ともう一人。

この世界を作り上げた張本人でした。

「アルテミシア……その姿は……」

氷青色をした薄く体に張り付くような服に法衣を包んだアルテミシア。

肩先から腕までは空気に晒され、スカートにおいても風に流されてしまうほど薄くとても身を守るには不十分にしか思えない。

氷の妖精。

それが今のアルテミシアを目にして真っ先に脳裏に浮かんだ印象でした。

ですが彼女の装いが決して祈りではなく、戦いのためのものだと理解出来たのはアルテミシアが携えた細剣がきっかけです。

氷柱を磨き鍛え上げ無ければ創り得ないであろう氷青のレイピア。

人の手には創造を許されない奇跡の一振りをアルテミシアが手に出来ている理由は包術を納める者なら自ずと答えに辿り着く。

「お披露目させて頂きます、この法衣と氷の一振り、これこそが私の心器『フヴェルゲルミルの雫』です」

心器。

術者の心の形を具現化し唯一無二の武装を創造する包術の奥義。

自身の心の奥底に眠る意識と対話し認められた者にのみ授けられる最強の武装であり、包術師の中でも一握りの人間だけが辿るつける究極の包術。

「そしてこの子も紹介しましょう、御出でなさいニーズヘッグ!」

アルテミシアがフヴェルゲルミルの牙を空へ向かい掲げると周囲に濃い霧が立ち込め始めた。

空に窓掛けが掛かったのではと思わされるくらいに光が遮られ辺りは青白い霜に包まれていく。

やがてアルテミシアの後ろにそれは姿を現してきた。

鱗の代わりに体表を分厚い氷で覆い尽くし、冷気を吐き出しながら雄々しく聳える神話の獣。

羽ばたく度に大気を揺るがす二対の翼を背に携える事から空を蹂躙するのは勿論、大地を踏み締める力強い足音と強靭な両腕を目にすれば自然界を牛耳るまごう事ない覇者であると認めざるを得ない。

「青氷に命を宿した巨龍、その名はニーズヘッグ、私の心が産み出した御神(ごしん)です」

御神。

それは魂を持ち得る者ならば必ず心に宿している、その者にとっての絶対なる守護者であり言わば自らの現し身。

そもそも包力とは『世界を包み込み力』を意味する力。

世界とは物理面だけを指すのではなく精神的な成り立ちも含んでいる。

即ち心を宿す存在は全て自分の心に『内なる世界』を有し、その世界を守護する神こそが御神なのです。

「まさか御神を具現化させるとは……」

素直に驚きが口を突いて出ていました。

「跪きなさい、私の御神に踏み抜かれるべく頭を垂れて……と言いたいところですが……」

アルテミシアはふぅ、と溜息を吐きました。

「私の御神は完全なる具象化には至ってはいません、 姿を現界させるのが限度で十全にこちらの空間へ干渉する力は持ち得ない、ですが……」

氷の妖精はフヴェルゲルミルの雫をピッと振り上げて……。

「アイリスさんとの決着には相応しい舞台となりました、誰の助力を得るのではなく私だけの才腕でもって屈服させてこそ意義があるのですから!」

縦に降り落ちたレイピアの軌跡が描く一線。

呼応し霧が騒めき始めるのと……。

「っ……!」

私の体から力が抜け落ちていくのは同時のタイミングでした。

「これ、は……」

呼吸の度に胸を内側から切り裂かされるような激痛が襲ってくる。

それも時間が経つ程に胸から腕、腰、脚、最後には頭まで容赦無く拡がりながら。

「フヴェルゲルミルとはニーズヘッグが住まう湖を指しています……」

ゆったりとした歩調でアルテミシアが距離を縮めてくる。

「かの龍が生まれ落ちた湖はその鏡の如く澄んだ姿と裏腹にあらゆる命が住まうのを許さない猛毒に満ちていました、そしてニーズヘッグも例外に漏れず毒の洗礼を受けてしまった、誕生の喜びを噛み締める余韻もなく生き延びる為に争わなくてはいけなかった、さてニーズヘッグはどのようにして猛毒を制したと思います?」

答える余裕などない、そんな事は承知の上でこの女は……。

「毒を制圧したのですよ、自らが携えた極寒の息吹で湖を凍てつかせ従えたのです」

私の数歩手前で歩みを止めたアルテミシアは更にご高説を続けました。

「やがてあの子の息吹にも毒は宿り、幻想体とは言え一度現界すれば私に楯突く者全てに容赦なく襲うのです、吸い込めば内側から侵食していき先ずは四肢の感覚、やがて意識を刈り取り、最後は命を氷で閉ざすでしょう」

アルテミシアは一歩、一歩と氷に侵された大地を踏みしめながら最後の間合いを埋めてきました。

青氷の細剣が私の喉元に突きつけられ、一押しさせすれば鮮血が飛び散るでしょう。

「卑怯とは言わせませんよ、御神を屈服し心器を勝ち取った時点で私とアイリスさんの間には歴然とした差が築かれている、貴女が命を散らすのはそれだけの事なのですから」

「……っ!」

この女はこちらが喋れないのを良いことにしゃあしゃあと!

「さようならアイリス・ヴァン・ツヴァイトーク、呆気ない最後でしたね」

「……なっ……」

音を立てずに喉へ迫りくるレイピア目掛けて……。

「な、め……」

痛みで痺れる左手を突き出し……。

「……る、なぁああぁあ!」

「なっ!」

鷲掴みにしてやる事で窮地を脱しました。

左手の平には氷が喰い込み血が吹き出しても構うものか!

好き勝手宣ってくれたお礼をしなくちゃ気が済まない!

空いている右手に目一杯に力を込めて。

「あぁああああああぁああああぁあああああ!」

遠慮無しに妖精の左頬へとぶち込んでやった。

「あぅ!」

鼻血を散らしながら氷へと倒れこむアルテミシアを見ると少し胸の内が空く感じがしました。

どうだ、ざまみろ!

「舐めるなと何度も言ったのを忘れましたか! 剣も包術も関係無い、私の心を負かしたいと吠えるなら、毒な、どに、た、よ、ら……」

意気がってみはしたものの、遂には現界が訪れたらしい。

膝から力が抜けて、空を仰ぎ見る形で倒れ込んでしまった。

(ここまで、ですか……)

吠えていたのは私の方だ。

包術が使えないのは私が己の心に向かい合えていないから。

だから世界は私の願いを聞き届けてくれない。

(心が折れなければ……戦える……)

そう、信じていた。

(でも私の弱さも心から滲み出たもの……吠えて誤魔化しても……自分すらも偽っていただけ……)

本物の願いと向き合えない臆病が邪魔するのを止めれなかったから、こうして最後を迎える羽目になってしまった。

(動いて!)

どうせ終わるなら、まだ争ってから!

(守られてばかりなんてもう嫌だ! 父様と母様に誓ったんだ、娘の誇り高い生き様を見ていて下さいって、貴族の誇りを……大切な人を守れなくて何が生き様なの!)

奮い立ち、鞭を打っても氷に体温が奪われるにつれて、いやが応にも意識は暗闇へと引き釣りこまれていく。

(ま、だ……)

自分の意図とは裏腹に……。

(終わ、れ、な……)

視界から光が完全に消え失せるのに時間は掛からなかった。

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