第31話 追撃の湖
空間のすべてを、青が支配している。はるか地平の彼方まで、目にうつるのは深く冴えた青色だった。上下のどちらを見ても、そこに広がるのは空だ。方向の感覚が否応なしに乱される。
ヒウノとリトの前に姿を現した、ふたつめの自然の障壁。それは、果ての見えない、海と言ってもよいほどに巨大な湖だった。
「リト、降りるよ」
少年はそう言って、手に持った光る石をすばやく投げた。ふたりの体が石の方へ引き寄せられる。少女には、自分が空に向かって落下しているのではないかと感じられた。
浮遊と落下。相反する感覚に戸惑う。けれど、目前に迫る害意を逸するような少女ではない。少年の体を強く抱き、空へ向けて足を突き出す。力いっぱい風を蹴った。ふたりの頭上を銀色の閃きがかすめる。体より遅れたリトの毛先がわずかに散った。刃の姿がはっきりと見えた。
『ふん。鋭いじゃないか』
若さと老いの重なった声があざけり笑う。続けざまに長い刀身が縦に振り下ろされた。少女は覚悟した。全身に怖気が走り体が硬直する。「今度はかわせない」
だが、刃は空を切った。少女の口から短くうめき声があがる。強い力がかかり、彼女の華奢な体を大地に引き寄せたのだ。ついで、矢のごとき光が湖面すれすれの高さを水平に走る。激しいしぶきが立った。
「ごめん、リト。強く引きすぎた」
「ううん、いいの。平気よ」
大量の水滴が雨となって視界を塞ぐ。追っ手の動きが見えなくなった。
あたりの空気が張り詰める。
ふたりが何かに気づき、まばたきをしたすぐあとのことだった。不可視の風の塊がヒウノとリトのいる場所を直撃した。湖面に巨大な穴が穿たれる。
ふたりは同時に危険を察知し、行動にうつっていた。リトは上方からやってきた風の圧に逆らわず、自らの力で受け流した。ふたりの体が綿毛のようにふわりと宙を舞う。ヒウノがすかさず琥珀色の石を放ち、少女とともに中空へと飛び立つ。
『
ふたりを取り逃してはいるものの、女性は別段いらだってはいなかった。にやりと笑みを浮かべ、「さて、どうしてやろうか」とこぼす。
女性のややつりあがった瞳が、
『ふん。そういえば、ここはやつらの縄張りだったか』
やれやれと面倒くさそうに言うと、女性はひらりと飛び上がった。ついで、水面に次々と飛末が立ち彼女を追う。銃弾だった。
小型の飛行機械が女性とすれ違うように飛び去った。やや高度を上げると、船尾からぱらぱらと球状のものを撒く。大きな破裂音がしたかと思うと、灰色の煙があたり一面に広がった。
視界を塞がれた女性が、ふんと鼻を鳴らして、ロウソクの火を消すかのように短く息を吹く。すると突風が起こり、充満していた煙がまたたく間に晴れる。
『じじいが、やってくれるじゃないか。まあ、そういうあたしはすっかりばばあだけどね』
小型の飛行機械が遠く離れてゆく。女性に向けて手を振っているのが見えた。すでに、追っていた少女の姿はかろうじて見えるほどに小さくなっていた。
「まったく、しようのない連中だ。自分たちが何をしているのかわかっているのかねぇ。もう少しだけ、つかの間の旅を楽しむといいさ。雪が振り止むまでに、また会いに行ってやるよ」
老婆の声が吐き捨てるように言った。
水面にひとつ波紋を残して、女性の姿は消えてなくなった。
人のいなくなった湖は、いつしか静けさを取り戻すのだった。
第31話 終
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