第 肆 輪【それでも月は空にある】

 柔らかな感覚が背中にあり、天井を向く桜色の瞳を、覗き込む様に顔を近づける女性がいた。


 その人は笑いながらも両手で胸に抱え、背中を優しくさすってくれている。


「あらあら……またぐずっちゃって――どうしたの?」


 桜香は、自らを呼ぶがどこか懐かしくて。


 それでいて聞き覚えのある気がして思わず泣いてしまった。


 それを聞いたのか、奥から力強くてが強そうな、もう1つの声がする。


「こらっ!! 大事な娘を泣かしてどうする!? どれどれ、儂が抱いてやろう」


 その人の顔はみたいで、正直怖い――目を合わしたら食われるかもしれない。そっとらしておこう。


「あら嫌だ、この子、お祖父ちゃん……嫌いみたいよ?」


「大事に育てた娘に嫌われ、孫娘にも好かれず……そうだ。いっそ死ぬかっ!!」


「死ぬかっ!!」


 と言った途端。


 庭にある大木にあった輪っか状の紐に、首を入れぶら下がろうとした。


 しかし、日頃から使い過ぎていたのか直ぐに切れていた。


 負けじと隣にある同じ大木の紐に、首を入れては切れるを、繰り返していた。


 笑いながら呆れているその女性は、私にこう言った。


「お祖父ちゃん、やってるね。気を引きたいみたいだけど、あの頑固な父が途中で物事を投げ出した所、正直見たことないんだよね~」


 その光景を横目で見たが、悔しいけど笑ってしまう桜香。


 手を叩いて笑っているのを見てか、感動して近付く髭面の鬼――こと、祖父の雅流風。


 首に数本の紐を付けながら、嬉しそうに走って近付いてきた。


「やはり、名の通りでやると良く笑うわい!!のぉ?おう……かっ!!」


 興奮して話途中だった〝髭面の鬼〟は、何故か地に伏していた。


 原因は、あまりの速さで残像さえ見えた手刀を放つ三月ははだった。


「ちょっと、お父さん!? それ不謹慎だよ?」


 その声は、後頭部を強打された雅流風そふの耳に届く事はなかった。


 気が強く、それでいて優しい母の姿に、また泣きそうになりながらも、短くて小さな手を必死に伸ばす桜香。


 もう、こうやって甘えられないかも知れない――そんな考えが体を突き動かしていたのだ。


(やっと会えたね……これが私のお母さんの顔だ!! 良く見えないなぁ、もう少し近くにっ――)


 髪の毛よりも淡い桜色の瞳は、純粋で真っ直ぐに自らの母をとらえる。


 時折、顔がくしゃくしゃになるほどの笑顔を愛嬌たっぷりに見せる桜香。


 それを見て三月は、とても幸せそうな表情を浮かべて笑顔で返す。


「あらあら、いきなり手をいっぱい伸ばして、桜香おうかちゃんどうしたの?」


 先程の般若に酷似した顔から一転して、優しく微笑みながら、覗き込む様に顔を近づける。


 すると三月ははの吐息が、桜香むすめの頬を優しく撫でた。


 (懐かしいな――この声も、顔も、どんな人でさえあまり記憶にないけど、この香りだけは、頭ではっきりと覚えている)


 甘く優しいその香りは鼻腔をくすぐり、心が洗われていくようなそんな感覚だ。

 

 確かに母はここに存在して、まだ見ぬ父との恋が実り、二人の愛で私が産まれたのかな?。


 赤子の小さな手で、母の両頬を撫でるように叩く。


 まだ記憶が不明瞭ふめいりょうで、うっすらでぼんやりとした感覚がある。


 意識をしっかり持つと顔の輪郭が徐々に見えてきた。


 桜色の桜香と違い、紅色の長い髪が吹き抜ける風で揺らいでいた。


 内心、興奮と未知の期待感で心が踊っており、幸福感で満たされている気がした。


(あともう少しで顔が見えるっ!! 私の――お母さんの顔がっ!!)


 目一杯に瞳を大きくこれでもかと見開いたが、それでもボヤけていて良く見えずにいた。


 庭の桜の木が風でなびく度に、艶のある髪が揺れて輪郭を意地悪に隠す。


 そして、胸を膨らます期待を裏切る様に母の仲間が現れた。


 死角で見えない上に声も聞こえづらく、用件だけ伝えて忽然こつぜんと消えていった。


「あら……もう、任務に行く時間ね。桜香ちゃんはお祖父ちゃんと一緒に、大人しく待っててね」


 と言って、意識朦朧いしきもうろうの祖父に抱かれた私は、届かぬ母に手を伸ばしながら泣きじゃくった。


(あぁっ、行っちゃ嫌だよ!! えぇっと……瞳は白くて顔は、凄く私に似てる? 違うっ、私が似てるんだった!!)


 もう一度見たい。触れたい。感じたい。必死に小さな手を伸ばしてくうを掴む――


 という所で突如、視界が暗転し、天地も分からぬ無音の空間へ、桜香の精神は投げ出される。

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