私はあなたにしか見えません。さあ、あなたは私をどうしますか?

天崎澄

第1話 新年度が始まって数日目の夜、可愛い後輩に脅迫されることになるなんて誰が予想出来るのだろうか。

 歌が聞こえた。


 闇と光の丁度狭間で、透き通るような声が、確かに鼓膜を突き刺した。


 それまで聞こえていたはずの喧騒や電車の音、巨大なディスプレイから流れる聞きなれないメロディーに紛れていたその微かな声は、意識のフィルターによって濾過されたようにそれだけが鮮明に鼓膜を、そして魂を揺さぶった。


 1年前、行き場を失くし、その果てにどこかへ捨ててしまっていた想いが当たり前のように甦ってきて、胸の奥に発熱を感じる。春風がその火照りを冷ますことはない。


 その声を頼りに姿を探す。


 だがしかし、探すまでもなかった。


 彼女はすぐ近くに立っていた。



 太陽はとうに沈んでいる。人通りの多い開けた空間で、星の見えない夜空に向かい、高らかに声を奏でていた。


 懐かしくなんてない。


 ただどうしようもなく、その声が、その姿が、その存在が尊く、また朝焼けのように眩しくて、奪われたままの目を細める。

 それと同時に、一年ぶりに体温と同じ温度の水滴が、頬を伝った。


 そんな神々しさを彼女は確かに持っていたのだが、しかし不思議と、足を止めているのは自分以外に居なかった。



 * * *



 人は何故働かなくてはならないのか。


 そんないくら考えようとも答えの出てこない問題を頭の中でかれこれ2時間くらいこねくり回している。


 生きるため、と言えばそうなのだろうが、仮にそう結論付けると『じゃあ何のために生きるのか』という新たな問題が浮上してくる。厄介なことこの上ない。


 しかしそれに関しても、俺は既にテンプレートの答えを用意している。当然だ、もう数えきれないほどこの問題と日々格闘して、おそらくはもう一年近くになるのだから、少しは俺の短絡的な思考にも深みが増してくるというものだ。


 俺の作業デスクに置かれた、誰かが何時間か前に淹れてくれて冷めきっているコーヒーの味よりかは、きっと深く、苦味もある。


 何のために生きるのか、というある種哲学的であり、そしてある程度の年数生きた人間であれば大多数が思考したことのありそうなこの問題は、言ってしまえば明確な答えがない。


 別に答えをぼやかしているわけではなく、『明確な答えがない』というのが明確な答えだ。


 何を訳のわからないことを言っているんだと思われそうなので噛み砕いて言うと、そもそも人間には生きる理由など与えられていないということから言わなきゃいけない。

 あるいは多少オカルト的になるのを恐れずに言うと、人間の生きる理由は人間の認知できない高位の存在によって定義されているのかもしれないが、しかしそれを人間の身で知ることは不可能と言える。


 だからつまり、人間である以上、人間の存在理由には触れることが出来ない。観賞用の熱帯魚が、自分が水槽に居る理由を知らないのと同じようなものだ。


 と、そこまで分かってるのに何故人間が幾度となくその解けない問題に取り掛かるのかといえば、それも単純な思考だ。


 人は、生きる理由を欲している。

 だから考えても仕方のないことを延々と考え続けてしまうのだ。


 それは当然のことだと思う。

 当たり前だと思う。


 ただ生きるだけなんて、そんな辛いことがあるか。せっかく生きているのだから、何か理由が欲しいと思うのは、人間の三大欲求以前の欲求ではないだろうか。


 だからおそらく、この問題を思考しない人間は、自分なりに生きる理由を定義しているのだろう。


 逆説的に言えば、俺は生きる理由を見つけられないでいる。つまりはそういうことだ。

 だが俺にも、一年前までは生きる理由があった。意味も価値も、希望もあった。だが、それは一瞬にして失われた。


 その理由こそははっきりしている。あの時の何とも言えない感情は、一年経った今でも鮮明に思い出せる。思い出すだけで悲しくなってくるが。



「せんぱーい」



 鬱々とした思考を繰り広げながらパソコンに向かい、キーボードを指で叩きつけていた俺に、気の抜けた声が掛かる。その声の主こそ、俺のように不毛な思考をしない勝ち組の人種だろう。そう思うといささかテンションが下がる。もともと低いというのに。

 その声音がむさ苦しい男のものじゃないのはせめてもの救いだが、いくら可愛らしい女子の声でも頭の中が迷宮状態だとそれが救いにはならない。どうしようもなく不味いラーメンにガムシロップを垂らしたようなものだ。


 反応するのも億劫に感じたのでいつも通り無視を決め込んでいると、まだ俺の視界には入らず背後で気配を振り撒いているその女子は、さらに自慢の声(と以前本人が言っていた気がする)を浴びせてくる。



「高園さーん」



 それは俺が生まれたときから付き合ってきた苗字だ。とはいえ、生まれたばかりの時は当然自覚はなかったわけだが。

 しかし、普段呼ばれない呼び方をされるというのは存外気持ち悪いものだ。



「春樹くーん」



 まだ無視を続けていると可愛い声の女子はさらに畳み掛けてくる。今度は俺の下の名前を呼んでくる。これはもう、気持ち悪いとかではない、単純にイラッとする。

 先輩に対して名前呼びの“くん付け”なんてあっていいことではない。某有名男性アイドルグループだって苗字に“くん付け”で留まっているというのに。


 と、内心で怒りながらもなお無反応でいると、可愛い声の後輩は早くも痺れを切らしたようで、俺の頭に後ろから抱きついてくる。

 最初に感じたのはマシュマロのような甘やかな香りだった。

 そしてそれに気を取られている間に、後頭部に胸が当たる。この声の可愛い女子はいわゆる巨乳なので相変わらずすごい弾力だが、それで動揺する俺ではない。



「おい後輩、仕事中の先輩の頭におっぱいを押し当てるな。さすがに少しだけドキッとする」



 そう、ほんの少しだけ心臓が鼓動を早めるだけで、それ以外の変化は特にない。つまり平常運転だ。とはいえ、この体勢は仕事に支障をきたす。

 というわけで文句を言いながら天井の方に目を向けると、くりくりとした目と左目の下の泣きぼくろが俺を見下ろしていて、更にストレートの茶髪が顔に降ってきている。

 視線が合う。ついでにおっぱいに俺の頭がめり込んだがそれは不可抗力だ。



「うーん、私としては先輩に発狂して欲しいんですけどねえ。駆け出して会社飛び出してスクランブル交差点で車三台くらいにはねられて欲しいんですけどねえ」



「お前は俺に死んで欲しいのか!?」



 と、会社で大声を出すのは大人のすることではないが、しかし今、この広いいかにもオフィスといった感じのフロアに居るのは残念ながら俺とこいつだけなので、別にそれほど気にすることでもない。まあ同僚が居る日中であれば何が何でもクールぶってみせるが、定時の17時を過ぎた今、働き方改革の影響で残業時間が削減されているので好んで残業するやつはほとんど居ない。

気づけば窓の外は暗くなっている。最後に見たときはまだオレンジの光が射していたというのに、どうやら仕事と無駄な思考に没頭しすぎていたようだ。



「嫌だなあ、そんなわけないじゃないですか。手足の自由が利かなくなるくらいでいいんですよ。そうしたら私が身寄りのない先輩のお世話をしてあげられるじゃないですか。つまりは愛です」



得意げに言ってはいるが。



「そんな歪んだ愛情はいらん。大体、そうなったらさすがに実家の母さんを呼ぶに決まってるだろ」



「おお! ではお母様と初めての共同作業が出来ますね!」



「何から突っ込んだらいいか分からないボケをするな」



「私はボケたつもりはないんですけどね。まあ、先輩のそのつれないところ、私結構好きですよ?」



「はいはい」



「“はい”は一回です!」



「何様だ、おっぱい揉むぞ?」



「え、いいんですか!?」



「喜ぶんじゃない」



 コンプライアンス委員会に訴えられれば、俺はすぐに何かしらの処分を受けさせられるくらいの案件だと思うのだが、こいつはどこか感性がおかしいのでその危険性は一切ない。とはいえだからといって女子社員にセクハラのようなことをしていいわけではないが、しかしこの声が可愛く巨乳で、そのうえ容姿もそれなりに整っているハイスペックな後輩はどこか俺からそういった発言を引き出そうとしているところがある。

 もしかしたら次第に俺の感覚を麻痺させていって、いつかとんでもない発言をさせてから裁判に持ち込むということを目論んでいる可能性もあるので、油断は出来ない。

 やはり社会人として、相手が誰であってもしっかりとした対応を心がけなくてはいけないな。

 そう決意を新たにしていると、さっきまで騒いでいた後輩、永濱遠子は急に真面目な顔になった。



「しかし先輩、今日も残業ですか? あまり働きすぎは関心しませんねえ」



 急に真面目ぶったことを言う。永濱は人事部に所属しているので、社員の勤務時間の管理もその職務の内だ。とはいえ、俺の勤務時間は別に法律にも社内法規にも違反していないので、とやかく言われる筋合いはない。



「ていうか、お前だって残業してるんじゃないか。人のこと言えないだろ」



「いえいえ、私は先輩みたいな不良社員をちゃんと帰宅させるのが仕事なので仕方ないんですよ」



「誰が不良だ。会社の為にあくせく働いてるんだから、むしろ優良、いや善良だろ」



「いけませんね。その考えから正さなくては。先輩、働き者が偉い時代は終わったんです。今はもうキリギリスの時代なんです、ウサギの時代なんですよ!」


「キリギリスは分かるけど、ウサギとカメのウサギはサボったというよりは気を抜いたという感じでは?」



「細かいことはいいんです、そんなことより……ていっ」


 言いながら5つの車輪で駆動する我が愛椅子を俺の身体ごと作業デスクから引き剥がし、可愛い掛け声と共に遊園地のコーヒーカップのように回した。といっても半回転で止まり、すると俺と永濱は目線さえ違えど向き合うことになった。

 驚いた俺が後輩の暴挙を糾弾する暇もなく、永濱は俺の腰に跨がって座る。重そうな胸をしているにも関わらず、永濱の身体は驚くほど軽い。そしてその表情はとても楽しそうだった。



「おい、パンツ見えるぞ」



 俺がチラ見した先では永濱が無理に脚を開くから履いているタイトなスカートがずり上がってしまっている。少し動いたら永濱の下着が俺の目に晒されることになるが、永濱は俺の指摘など気にしている様子がない。



「ふふ、見せようとしてるって、分かりません?」



 悪戯に笑う永濱は、端的に言ってとても可愛い。大抵の男ならこの行為を誘惑と捉えてしまうだろうし、簡単にこいつに恋をしてしまうのかもしれない。

 だが俺にとっては、ただの可愛い後輩に過ぎない。とはいえ俺も男だしそれなりに性欲はあるので、相手が永濱とかそういう問題ではなく、単純に女子の身体がここまで接近すると多少の反応はしてしまう。パンツが見えそうなら尚更だ。



「あのなぁ、永濱。お前が俺のことを信頼しているのか、はたまた女子に手出し出来ないチキン野郎と思っているのかは分からないが、相手がお前でも俺は多少なりとも欲情してしまうんだ。それは俺が男である限り仕方のないことだ。その上ここには今俺とお前しかいない。それがどういうことか分かるか?」



 あくまで冷静に諭すように、先輩の威厳を損なうことなく問いかけると。



「なるほど。つまり私にとってチャンスということですね」



 こいつの思考回路を死んでいるのだろうか。



「まあ、『ピンチはチャンス』というよく言われていることを真に受ければそうかもしれないが……」



 ただ俺の個人的な意見ではその格言の信憑性はあまり高くない。

 実際問題直面してみると、ピンチはやっぱりピンチだし、チャンスはそのままチャンスだと思う。ピンチをチャンスと捉えられるのは凄まじくポジティブな人間か、真性のドMじゃないだろうか。永濱はどっちの分類だろう。


 しかしある意味、今の状況は俺にとってチャンスでありピンチでもあるのは確かだ。

 それはピンチがチャンス、ということではなく。ピンチとチャンスが同時に訪れている、ということだ。



 この場合のピンチは、永濱の誘惑に乗ることで俺の社会的地位が脅かされかねないということだ。

 コンプライアンス云々うんぬんが世情に飛び交う昨今では、後輩の女子社員に対するセクハラやそれに類する行為は一発でレッドカードの対象だ。会社に残れる可能性もあるが、少なくとも部署は異動になるだろう。

 3年間働いてようやくなれてきた仕事を水の泡にするような真似は、出来ることならしたくない。別に働きたくて働いているわけではないが、どうせ働かなければならないのなら、慣れた作業を繰り返すほうが楽だ。ゼロからのスタートなんて、何度も経験したいようなものじゃない。



 という考えのもと、俺は普段から永濱には出来るだけ冷たくするようにしている。とはいえ別に無視したりはしないが、特別仲良くするようなことは控えている。永濱はそれはまあ可愛い女の子だし嫌いではないが、社内に変な噂が立つようなことは極力避けたかった。

 俺はなるべく会社で目立ちたくはないのだ。

 だからこの状況は非常にまずい。

 今俺の居る部署には誰も居ないからいいが、しかし他の部署にはまだ俺と同じように残業してる人も居るだろう。

 基本、社内のオフィスの壁はほとんどがガラス板なので、もちろん通路から丸見えだ。



 永濱に乗られているのを誰かに見られたらと思うとぞっとする。



「とにかく降りてくれ」



「いえ、先輩が帰ると言うまで降りません」



「犯されたいのか?」



「このタイミングで積極的に望んではないですが、それもアリかなとは思ってます」



「お前なあ……」



 本当にこいつは、俺という男に警戒心がなさすぎる。誰にでもこうだったら心配になるが、幸か不幸か、永濱がこんな風にちょっかいを掛けるのは俺くらいのようだ。



「ねえ先輩」



 仕事が出来ずに永濱と向き合い続けるしかない状況に嘆息する俺に、改まった雰囲気で永濱が声を掛けてくる。やはり普段から呼ばれ慣れている呼称は違和感がなくていい。



「なんだ後輩」



「今日の仕事、まだ終わらないんですか?」



「いや、今日のは終わってる。今は明日の準備をしてるんだ」



「明日の仕事は明日やりましょうよ」



「いや、明日の仕事を今日やっておけば、明日には明後日の仕事が出来るだろ?」



「明後日の仕事は明後日やるんです! ていうか、なんでいつもそんな熱心に仕事してるんですか?」



「熱心、俺が」



 永濱に言われた言葉が肌に馴染まず気持ち悪くて、つい反芻してしまったが、しかしやはりその違和感は拭えない。



「熱心でしょう? 誰よりも早く会社に来て、誰よりも遅く仕事しているんですから。違いますか?」



「違う」



 その言葉はほとんど反射的に口から滑り出た。



「俺が、熱心なわけがないだろう。俺はこの仕事が特別好きじゃない。他の大多数の人と同じように嫌々仕方なく生きるために働いているんだ」



「でも」



 永濱は全然納得していない。口よりも先に目が、その中の瞳が、それを熾烈に訴え掛けてくる。



「先輩は望んで人よりも、働いてるように見えますけど」



「それは、そうかもしれない。だが仕事が好きでやっているわけじゃない。仕事よりも、何もない私生活が嫌だから、俺は仕事に逃げてるんだよ」



 仕事に逃げてる。

 その言葉は声に出してみるとこれ以上ないほどに腑に落ちた。そう、プライベートに俺は絶望している。だったら仕事をしていた方がマシだと、俺は思っているのだろう。



「ふーむ、なるほどなるほど」



 納得したような口振りだが、永濱の表情はそれに矛盾するように悩ましげだ。珍しく頭を使っているようですらある。何を考えているのだろう。



「先輩、良いこと考えました!」



 賭けてもいい。絶対にろくなことではない。



「私とご飯、行きませんか?」



 ほらね。

 いや、後輩の女子と食事に行くというのは社会人的にはそれなりに意義のある時間の使い方なのかもしれないが、しかしそれは俺が普通の男性社員だったらの話だ。

 別に自分を異常者だと思っているわけではないが、しかしそういう男女関係の価値観において言えば、多分俺のような考え方は世間的に見て少数派だろう。


 そんな少数派の俺は、永濱の提案に魅力を感じることが出来ない。それはとても残念なことだ。

 永濱遠子は若い男性社員には人気のある女子社員なのだから、俺などをからかっていないで他の男でも引っ掛ければいいのに。永濱に誘われて即答でOKしない男は俺以外では多分居ないだろう。



「まあ、今度な」



 いつもの逃げ口上で今回もやり過ごそうと思ったのだが。



「いえいえ、今日です、今です、すぐにです」



「やめろ、言葉を畳み掛けながら顔を近付けるな!」



 永濱がキスでもしてきそうな勢いで近付いてくるので、俺は反射的にのけ反って声を荒げた。だが永濱は身も心も微動だにもせず、じっと俺の目を見つめてくる。



「ねえいいでしょ、先輩。私が先輩のプライベートを楽しくしてあげますから」



 自信はすごいが、何を根拠にしてるのだろうか。俺にとっての“楽しい”を、こいつが理解しているとは到底思えない。


 俺は往生際が悪いので、まだ逃げ道を探している。何て言えばこの場で永濱を退けることが出来るだろうか。



「あー、いや……実はこの後約束があってな……」



 もちろん嘘だが。



「嘘ですね」



 そしてもちろんバレる。



「友達が居ない先輩が、人と約束なんてするわけないじゃないですか」



「お前、なんで俺に友達が居ないことを!?」



「んー? 人を見れば大体分かりません? この人は友達多そうだな、とか、この人はぼっちなんだろうな、とか」



「ぼっちで悪かったな!」



「怒らないでください。先輩はぼっちじゃありませんよ。私が居ます」



「いや望んでないから」



 努めて感情を動かさず、ドライアイスのように言葉を吐き出してみるが、しかしこれで永濱がめげないということももう分かっている。



「それじゃあ仕方ないですね」



 やっぱり。

 永濱はまだ何かしらの手段を用いて俺を攻略する気らしい。しかし、今の俺は上田城よりも難攻不落だ。意思を固く持って、永濱の策を捩じ伏せてやる。



「実は私今、おしっこしたいんですよ」



「おしっこ!?」



 単語で簡単に動揺を誘われる。いけない、これでは永濱の思うつぼだ。現に永濱は、尿意を催しているとは思えないほど楽しそうな笑みで俺を見下している。きっとハッタリだ。騙されてはいけない。



「なんですけど、先輩が私からの誘いに乗ってくれないと、私ここから動けないんですよ」



「それお前が一人で勝手に決めたルールだけどな!」



「私意思が固いので、自分で決めたことは曲げたくないんです」



「それは結構なことだが、他人を巻き込むのは良くないと思うけどなあ、俺は」



「あ、それは大丈夫です。先輩は私にとってもはや身内ですから」



「いつからだよ!?」



 それに、身内であろうが血縁であろうが、自分以外であれば他人と俺は定義しているのだが、どうやら永濱と俺とでは価値観が違うらしい。他人なのだから当たり前だが。



「先輩、もう私我慢出来そうにありません。すごい、身体が熱くなっちゃって……。いいですか、このまましちゃっても……」



「いいわけがあるか! 落ち着け、ここは俺のデスクでお前は今俺に乗っている! お前がここでおしっこをしたら椅子も床も俺のスーツにも染みる! お前は帰ってシャワー浴びてる間に洗濯すればいい話だが、俺は違う! 明日椅子と床を見た社員達が何を考えるのか手に取るように分かるぞ!」



「うわー、高園のやつ、残業中にお漏らししちゃったよ! キモw」



「お前も分かってんじゃねーか!」



「ていうか先輩が心配するのそこなんですね。正直私の意図とは違いました」



「え、そうなの?」



 それはまさかの言葉だ。なら永濱はどういう意図でこの場で排泄しようというのだろうか。いや、どんな意図があったところで共用のオフィスでお漏らしすることに正統性は生まれないが。



「ふふふ、残念でしたね先輩。私は少し嬉しかったですよ、先輩が私のおしっこに濡れることよりも、他人の目を嫌がってくれて」



 なんてことだ。

 言われて初めて気づく。

 確かに俺は、永濱のおしっこに自分の下腹部が濡れることを一切リスクとして考えなかった。普通であれば真っ先に考えるべきことのはずだ。

 それを考えなかったということは、もうその時点で永濱のおしっこを俺は受け入れていたことになる。嘘だ。嘘だと思いたい。

 だって、それってもう――。



「先輩って結構、変態なんですね♪」



「言うんじゃない!」



「それと私の目的としては、わんこみたいに先輩にマーキングする意味もあったりします」



「普通に言ってるけどお前の方がよっぽど変態だぞ!?」



「酷いですね、女の子に向かって変態だなんて。まあそんなことはいいんです」



 俺が自分で言っておいてなんだが、そんなこと、で済ませていいのか?

 永濱遠子という少女と呼ぶには少し大人びた顔つきと身体つきの女子の価値観には、よくよく驚かされる。どういう風に育ったらこんな不思議な人間になるのだろうか。



「さ、どうするんですか、先輩。私とご飯に行きますか? それとも私の便器になりますか?」



 恐ろしい台詞だった。

 だがしかし、俺の答えはもうとっくに決まっている。それは夕飯をご飯類にするか麺類にするか悩むよりも簡単な問題だ。



「たまには外で飯でも食うか、永濱」


 

 水攻めにあっけなく屈した俺は、珍しく先輩らしく永濱遠子を夕飯に誘った。



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