【書籍ver】銀狼の姫神子 天にあらがえ、ひとたびの恋／西嶋ひかり

３──さても人は 第一話

「お姉様は恋（こい）をしたら姫宮ではなくなってしまうの？」

「なぁに、急に」

　お姉様が膝に座った私の髪を撫（な）でた。子（こ）猫（ねこ）が甘えるようにうっとりと眼（め）を閉じた。このまま眠ってしまえばとてもいい夢を見られそうだけれど、だめ。耐えなくては。

　胸に小さく宿る不安を打ち消す言葉をお姉様から聞いてからでないと、どんな幸せな夢も訪（おとず）れないもの。

「ねぇ、お姉様は私と一（いつ）緒（しよ）にずっとここにいるのよね。どこへもいかないのよね？」

　当たり前じゃない、真珠。

　そう笑うお姉様を期待していた私は、不意に髪から離れた体温に不（ふ）吉（きつ）を感じた。振（ふ）り返ると、お姉様は泣きだしそうな顔で微（び）笑（しよう）していた。

「恋をすれば天狼の姫たる資格は失うわ。神にささげるための心を奪（うば）われてしまうのだから。そしてそれは誰（だれ）にも止めることができない、恐（おそ）ろしく、美しい病」

「お姉様は、その病にはかからないのよね？　だって、お姉様は私と約束したもの。ずっと私とこの国を守っていくって。この宮で、ずっと、ずっとよ」

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「そうね、ずっとあなたとここにいると思っていた。でも、恋とはどうしようもなく我が身を奪われるもの。抗う術（すべ）なく、そして誰もあの方の代わりにはなれはしないわ」

　あの方？

　お姉様はもう恋（こ）い慕（した）う人がいるというの？　信じない。信じないわ！

　だって、お姉様のすべてはここに存在している。

　だから、そんなに迷っているのでしょう？　奪われてもなお、ここを捨てられずにいるから、まだ私のそばにいるのでしょう？

　迷わずに肯（こう）定（てい）して、私を。世界を。

　そう、お姉様は私を捨ててなんていけるはずがないもの！

　瞳の中に残る僅（わず）かな罪悪感に訴（うつた）えかけるように、私は見つめた。

「代わりになれないなんて、噓（うそ）でしょう？　私でも？　お姉様」

　案の定、少し困った顔をして、それでも私の望む答えはくれなかった。

「……真珠にも、きっと見つかるわ。あなただけの人が」

　ためらいながらもお姉様の綺（き）麗（れい）な唇（くちびる）からこぼれた言葉は、私にとっての死だった。

　本当の絶望は涙（なみだ）も出ないことを、はじめて私は知った。心で叫ぶ。

　いいえ、お姉様。

　私はお姉様以外いらないの。

　この世でたった一人、私の心の一等綺麗な場所にいるお姉様！

　私は、愛されたかった。

　あなたの、たった一人になりたかったのに。

　どうして。

　まどろみを拭（ぬぐ）い去る指が目（め）尻（じり）に触（ふ）れた時、涙を流していたことに気がついた。

　泣いていたのか、私が？

　涙を流すなど、永遠を生きる身になってから初めてのことだ。

　素（す）晴（ば）らしい目覚めとは、とてもじゃないが言えたものではない。

　恐ろしかった。

　人形のように生きることで永遠の孤（こ）独（どく）を耐（た）えてきたはずなのに、ここにきて心を取り戻（もど）しつつある。

　間（ま）違（ちが）いなく、透輝に出会ってからだ。

　光射（さ）さぬ塗（ぬり）籠（ごめ）の中で一人、身を起こした。

　だれもいない。悪夢の続きみたいじゃないか。

「……たすけて」

　思わずこぼれた泣きごとを拾うように、琥珀がすり寄ってくる。神の眷（けん）属（ぞく）たる琥珀にはこの世界の壁（かべ）という壁は何の意味もなさない。神である天狼が真珠を慈（いつく）しむのと同様に、琥珀は真珠を愛（め）でている。寂（さび）しさの匂いを嗅ぎとって、琥珀は音もなく現れたのだった。

　真珠は今さら、驚（おどろ）くこともなかった。この小さくそして歪（いびつ）な宮は、すべては真珠がただ姫宮として正常に機能するようにできている。温度のない柔らかな毛並みを抱いて、濡（ぬ）れた頰（ほお）をうずめた。

「あの男はだめです、姫宮さま」

「……琥珀」

　誰かに透輝を否定してほしいと思いながらも、いざ言われると反発心がわくことに真珠自身、戸（と）惑（まど）った。

　その戸惑いをなだめるように、琥珀は鼻先で真珠の耳元を撫でた。

「あの男は姫宮さまを不幸にします。ここにいればなにも変わらずに永遠に琥珀がお守りいたしますのに」

　きっと、その通りなのだろう。

　透輝は真珠の心を揺さぶりすぎる。姫宮として心を神以外の何かに囚（とら）われることはあってはならない。

　姫宮としてある己（おのれ）が最上の喜びであるのなら、確かに透輝は真珠を不幸にする男に違いない。

　けれども。

「しかし、それは幸せか」

「姫宮さま？」

　訝（いぶか）しげに名を呼ばれ、真珠は弾（はじ）かれたように琥珀の毛並みから身を離した。

「どうしたのです」

「いや、私は」

　いま、何と言ったのだ。

　混乱のさなかで真珠は叫（さけ）びだしたいような気持ちになった。

　このままを望んでいながら、心の奥底、人間である真珠自身はこの永遠をよしとしていない。人としての生を、望み始めている。

　あの男との、未来を？

「馬（ば）鹿（か）な」

「姫宮さま、やはりどこか痛むのでは」

「痛む？　いや別にどこも悪くはないが」

「いいえ、やはりあの小（こ）僧（ぞう）が無体を働いたのですね」

　誠（まこと）に遺（い）憾（かん）である、と顔面にでかでかと書いてあるかのようだ。琥珀は眉（み）間（けん）にしわを寄せて低く唸（うな）ってみせる。

「ん？」

　思わず硬（こう）直（ちよく）する真珠に構わずに、琥珀はぐるぐると落ちつかぬ様子で室内を歩き回りはじめた。

「あの下（げ）郎（ろう）は、やはり姫宮さまには相応（ふさわ）しくございません。口で言えぬほどの乱暴をおこなうなど！　それゆえ、姫宮さまは混乱しておられるにちがいありません」

「んん？」

　乱暴？　やはり、そういうことなのか。

　しかし、あの温かな腕（うで）に閉じ込められるのは嫌（いや）ではなかった……ってなにを思い出しているのだ！

　頭の中でぐるぐると言葉が回るが、さすがにそれをあけすけに言う気にはならなかった。

「夫（ふう）婦（ふ）の契（ちぎ）りを交（か）わすとあらばこそ、僕は遠（えん）慮（りよ）いたしましたのに！　やはり無理にでも乱入するべきでした」

　絶対に許さぬと燃える琥珀は、そうはいっても意味をよくわかっていなかった。

　琥珀は透輝の誰も立ち入るなという命を律（りち）儀（ぎ）に守ったらしかった。

　婚（こん）姻（いん）は聖なる儀（ぎ）式（しき）の一つだ。神の眷属としてそれを害することはできないのだろう。代わりに、一晩中戸の前で控（ひか）えていたらしかったが。

　それにしても、悪い方向に想像が逞（たくま）しくなりすぎている。かといって、否定しようにもしきれない部分もある。

「姫宮さま、山城に顎（あご）で使われるのはこの琥珀、業（ごう）腹（はら）ではございますが、今まで以上に耐えてみせましょう」

「琥珀、何の話だ」

「姫宮さまの幸せへの話でございます」

「幸せ、しあわせ、か」

　どこか虚（うつ）ろな口調で、真珠は言葉を弄（もてあそ）びながら琥珀の頭をなでた。

　そうだ、この永遠に閉（と）ざされた小さな世界こそが、真珠の幸せの全（すべ）てだ。そしてこれこそが、国の安（あん）寧（ねい）へと繫（つな）がる。

　神と二人ぼっちの世界こそが、国を守る礎（いしずえ）となるのだ。

　わかっていたことではないか。

「少し、外に出る」

「あまりご無理をなさっては。連日、浄（じよう）化（か）をして疲（つか）れているところへ、昨日は山城の相手をしてさらにお辛（つら）いでしょうに」

　その言葉で再び透輝の体温を思い出した。

　強く、しかし優（やさ）しく閉じ込められた腕の中は、意外なほど心（ここ）地（ち）よかった。それゆえ、深い眠（ねむ）りに陥（おちい）ってしまったのは不覚であった。

「姫宮さま。お顔が赤いですよ」

「いや、大事ない。気にするな」

　着（き）替（が）える。

　そう言い捨てて、琥珀を部屋から追い出した。

　そのくせ、しばらく呆（ぼう）然（ぜん）として何事も手につかない。どうにも、頰の熱さが堪（たま）らなかったからだ。

　　　　●　●　●

「舐（な）められたものだな」

　目の前に立つ男に、透輝は無論、見覚えはなかった。しかし、仄（ほの）かに香（かお）る異国めいた花の香りは二度目だ。好みの香りでなかったからよく覚えている。

　そして、いつだったか、真珠の美しい黒（くろ）髪（かみ）から香ったものと酷（こく）似（じ）している。

「死んでいただく」

　そう言った見知らぬ男は薄（うす）く笑（え）んだ。透輝は無表情を少しも崩（くず）すことなく言い放った。

「悪いが今の俺は機（き）嫌（げん）が悪い。お前ごときを捕（ほ）縛（ばく）するための骨折りなど、俺に期待するな」

　もはや是（ぜ）非（ひ）もなく斬（き）ると決めている。

　もっとも、透輝はただ斬るよりももっと残（ざん）酷（こく）な手法なのだが。

　さすがに透輝がどういう男であるかという情報はもっているらしい。男の顔がはっきりわかるほどに嫌（けん）悪（お）で歪（ゆが）んだ。

「不（ふ）吉（きつ）な王めっ」

「言われ慣れている」

　大きく跳（ちよう）躍（やく）した男に吐（は）き捨てたのと同時だった。

　抜（ぬ）き打ちに、透輝は男の肩（かた）から胴（どう）にかけて刃（やいば）を走らせた、はずだ。けれども血が飛び散るどころか、確かに肉を食（は）んだはずの刀傷さえない。

　噓（うそ）のように綺（き）麗（れい）なものだった。

　反して、男は眠るように横たわっている。薄くあいた瞳（ひとみ）には生も、感情もなにひとつ宿らない。人を人たらしめるもの、魂（たましい）が肉体から抜け落ちているようだった。

「……だから忠告したのだがな」

　倒（たお）れた男に透輝は言いながら、綺麗なままの刀身を振（ふ）った。

　がらんどうの肉の塊（かたまり）を見て、透輝はようやく少し冷静になった。そうして湧（わ）いてきたのは自己嫌悪だった。

　この男はどう考えても捕（と）らえたほうが得策だった。

　似た匂（にお）いがするという事実に、大いに頭に血が上っていたから、早々にその手段は捨ててしまったけれども。

　それもこれも、あの姫のせいだ、と内心でため息をついた。

　真珠のことに関してどうにも冷静になりきれない自分がいることを、透輝は自覚している。男は真珠と酷似した香りを纏（まと）っていた。最初に浮（う）かんだ可能性は真珠こそが男を差し向けた張本人である、ということだ。けれども、その思いつきはすぐに捨てた。

　簡単だ。匂いは、限りなく似ているがその実まったく違（ちが）う。

　男の香りに混じり気はなく、芯（しん）から花の香りがしていた。けれども真珠は、薄く花の香りを纏わせた奥に、彼女本来であろう澄（す）んだ緑の香りがしたのだ。であれば、真珠の場合はどこからか匂いがうつったと考えるのが妥（だ）当（とう）だろう。人ならざる技（わざ）を使う者たちは、どこかに痕（こん）跡（せき）を残す。香りもその一つだ。しかし、彼女本来のものでないとすれば、何らかの関（かか）わりがあったにせよ、彼女自身が男を操（あやつ）っているというわけではなさそうだ。

　いずれにしろ、この匂いは不快なものに違いないが。

　そういえば、昨夜抱（だ）いて眠った時は深い森に沈（しず）みこむような心地で妙（みよう）によく眠れたなと思いだして、頭を抱（かか）える。

　昨夜。

　翻（ほん）弄（ろう）された夜が脳（のう）裏（り）をしっかりとよぎった。人並みに女を抱いたことのある透輝であるが、それがまさかあんなうっかり寝（ね）こけてしまうとは思わなかった。

　もちろん無体なことをするつもりはなかったが、あんなに美しい女を目の前にして色気のない話じゃないか。瑠璃あたりに知られれば不能じゃないかと茶（ちや）化（か）されるのは目に見えているなとうんざりしつつ、それでも眠る真珠の邪（じや）魔（ま）をしないようにそっと自室に戻（もど）れば、刺（し）客（かく）がお出（で）迎（むか）えである。

　機嫌が悪いのも道理じゃないか。

「今日という今日は呆（あき）れましたよ」

　噂（うわさ）をすれば影（かげ）。

　唐（とう）突（とつ）に、今一番聞きたくない声が聞こえた。透輝はげんなりしつつ振り向く。

「瑠璃」

「はいはい、あんたの忠実で有能な臣下、槙島瑠璃ですよ。ったく、城の連中がきいたら目を丸くするでしょうね」

　瑠璃が大（おお）袈（げ）裟（さ）に肩を竦（すく）めるのを見て、透輝は眉（まゆ）根（ね）を寄せた。

「あんた、姫さんを抱かなかったんですって？　据（す）え膳（ぜん）食わぬは男の恥（はじ）ですよ」

「どこからきいたんだ、というか、それ以外に何か言うことはあるだろう」

「前者ならあんたのしょっぱい顔みたらわかります。後者ならご苦労様でしたってとこですかね？」

「そのよく回る口を縫（ぬ）いつけてやる前に、いいわけを聞いてやる俺の寛（かん）大（だい）さに感謝するべきなんじゃないか。あろうことかお前が討（う）ちもらした賊（ぞく）の始末を主（あるじ）たる俺がしたわけだが？」

　男の頭を蹴（け）り飛ばして言う透輝に、瑠璃は眉（まゆ）をひそめて「死者は丁（てい）寧（ねい）に扱（あつか）わないとだめですよ」と説教してくるのが腹立たしい。

　山の中で同じことをした男が言えた義理ではない上に、そもそも男は死んでいないというのは些（さ）細（さい）すぎる問題なのだろうか。

　まったく悪びれた様子のない瑠璃はやれやれと肩を竦めた。

「討ちもらした、なんて人聞きが悪いですね。こいつらが誰（だれ）を狙（ねら）っているのかを明らかにしようとわざと泳がせたんですよ」

「必要あるか、それ。この宮において首を狙われるのは俺以外ないだろう」

「でもほら、姫さんを狙う可能性も無きにしも非（あら）ずなわけですし。あの山犬にそう言われて、あんたなら丈（じよう）夫（ぶ）だし、まぁいっか～っていう。あ、姫さんの方は山犬と侍（じ）女（じよ）たちがしっかり守りを固めていたので問題ないですよ」

「お前は一度、誰が主かをしっかり頭にたたき込んだ方がいいようだな」

「それはともかく」

「全然ともかくじゃないんだが」

「あんた、ほんとのほんとに姫さんを抱かなかったんですねぇ。わりと勘（かん）で言ったんですけど」

　くそっ。

　思わず馬（ば）鹿（か）正直に舌打ちをしてしまったことを、瑠璃にけらけらと笑われてしまう。

「とはいえ、俺は心配してるんですよ、あんたが思ったよりも姫（ひめ）さんに溺（おぼ）れているから。いずれ手放すとき、困りもんでしょうに」

「まぁ、そうだな」

　瑠璃の言いざまを曖（あい）昧（まい）に肯（こう）定（てい）しながらも、自分の返答にどこか納（なつ）得（とく）できないで透輝は小首を傾（かし）げた。

　いずれ手放す、という言葉がしっくりこない。

　理性ではなく、感情で、だ。

　真珠とはなりゆきの婚（こん）姻（いん）だった。惟月を牽（けん）制（せい）するための、そしてなによりも真珠に自由を与（あた）えないためのものだ。妙な娘（むすめ）だと思いはしたものの、特別な感情を抱いていたつもりはなかったし、この内乱の落とし前をつけてしまえば、真珠が望むようにその身を解放してやることにあの時点では何の異論もなかった。

　もとより天狼の姫とやらに特別な執（しゆう）着（ちやく）はないのだから、それが道理だ。

　わかっていたはずなのに、瑠璃に言われるまで真珠が自身の傍（そば）から離（はな）れる未来を考えなかった自分に驚（おどろ）く。

　変わってしまったのはいつだ。

　まさか、あの美しい紅（あか）の双（そう）眸（ぼう）に覗（のぞ）きこまれた昨夜からか。

　俺の瞳を見つめて、美しいなどと！

　記（き）憶（おく）を反（はん）芻（すう）したとたん、熱がせり上がってくるのがわかった。心臓から飛び出した熱さは一気に頭へ上り、思考が煮（に）えてしまいそうだった。冷静さとは無（む）縁（えん）の境地だ。

　なんだ、これは。

「透輝、どうした」

　瑠璃に顔を覗きこまれ、透輝はようやく我にかえった。昨夜の甘い残（ざん）滓（し）を振り払（はら）うために、大きく咳（せき）払（ばら）いをする。

「惟月のことだが」

「なんだか急な話題転（てん）換（かん）のような気がしなくもないような」

「やかましい」

　不吉と罵（ののし）られる銀の瞳で睨（にら）みつけたところで、心安い乳（ち）兄（きよう）弟（だい）にはなにほどでもない。上（じよう）機（き）嫌（げん）さながらに口の端（はし）を上げさえした。

　諦（あきら）めの息を吐いて、透輝は事態への違（い）和（わ）感（かん）を口にする。

「惟月は、本当にたった一人で簒（さん）奪（だつ）を企（たくら）んでいると思うか」

「まだあの坊（ぼつ）ちゃんを信じているんですか。それとも、あれだけご執（しゆう）心（しん）なくせに姫さんの疑いは晴れていないとか？　そりゃなかなか意地が悪いと思うけど」

「混ぜっ返すな。お前ももうわかっているだろう。惟月は女を抱きこんで暗（あん）躍（やく）する小悪党には向かない気質だ。真珠にいたっては惟月を転がして簒奪を企むなどという姑（こ）息（そく）さを最も嫌（きら）うだろうな。あの女が俺の首を本当に欲しければ、直接狙ってくるだろうさ。そういう闘（とう）志（し）がある」

「姫さんの方は確かに、あんたに決（けつ）闘（とう）でも申し込みそうなところはありますね。惟月の坊ちゃんは馬鹿がつくくらいの律（りち）儀（ぎ）者ですが、人の心の底まではわからないものですよ、人間ってやつは奥が深いですからねぇ」

「心の底か、そうかもな。このやりようは、小悪党のそれじゃない。惟月は俺をよほど恨（うら）んでいるらしい」

　唐突にしゃがんだ透輝に訝（いぶか）しげな顔をした瑠璃だが、あっと息を吞（の）む。透輝が剝（は）いだ男の首元に、奇（き）妙（みよう）な文様があったからだ。

　それはまるで、紺（こん）青（じよう）に輝（かがや）く竜（りゆう）の鱗（うろこ）だった。

　瑠璃が小さく、そして呆（ぼう）然（ぜん）と正体を口にした。

「……荒雲」

「前に天狼の姫が欲しいとぬかしたことがあったな、あの男が」

「荒雲の王にして呪（じゆ）術（じゆつ）師（し）の頂点にたつ左海藍が一枚嚙（か）んでいるなら、確かに納得の、最悪の展開ですね」

　揶（や）揄（ゆ）する口調でありながら、瑠璃の顔は苦り切っていた。そうして、一つの事実を明らかにした。

「殿（でん）下（か）は、異能を欲（ほつ）していた。それも異常ともいえる熱心さで」

「惟月が？　初耳だぞ」

「あんたに言えますか、んなこと。異能によって父君からの寵（ちよう）愛（あい）を失って、不当な扱いを受け続けたあんたに！」

「瑠璃、お前」

「俺があの小（こ）僧（ぞう）を嫌いぬいているのはそこだよ！　透輝の苦（く）悩（のう）も知らないで、のうのうと過ぎた力を欲しがるなんて馬鹿の極（きわ）みだ。やれできた令息よと褒（ほ）めそやす周りも大（おお）馬（ば）鹿（か）者だ！　あいつはただの、欲しがるだけの我が儘（まま）な子どもだ」

　喚（わめ）いて、そうして瑠璃は大きく息をついた。俯（うつむ）いてこちらを見ようともしない。

　意外だと思うのはいささか向けられた忠義に対して冷（れい）淡（たん）過ぎるか。いや、それでも透輝には軽（けい）薄（はく）極まる目の前の男が、乳兄弟とはいえここまで優（やさ）しく真綿でくるむように自身の心を案じていたということが不思議な喜びであった。

　とはいえ、いまさら素（す）直（なお）に礼を言うのも癪（しやく）に障（さわ）る。

「そこまで俺にご執心だったとは知らなかったな、瑠璃？」

「うるせーですよ、ほんと」

　まったくの失言だと思っているのだろう。家臣とは思えぬ悪態とは裏腹に耳は赤く染まっていた。

　これ以上のからかいは武士の情けで勘（かん）弁（べん）してやるべきなんだろうな、と笑いをかみ殺して、透輝は残（ざん）酷（こく）な現実に向き合った。

「ともあれ、これで一つはっきりしたな。惟月は簒奪者で売（ばい）国（こく）奴（ど）だ」

「どういう経路で荒雲にわたりをつけたのかは謎（なぞ）ですね。そこに姫さんが嚙んでいるって説は？」

「ないな」

「即（そく）答（とう）ですか。根（こん）拠（きよ）はあるんでしょうね」

　根拠。

　言われて、透輝は面（めん）食（く）らった。

　理路整然とした理由があるわけではない。どうにもこれは感情的なものらしいとわかった。

　感情、か。

　いつだって自儘に振（ふ）る舞（ま）ってきたように思えて、その実、透輝は心より何かを成したことはなかった。あるのは義務と、それに付（ふ）随（ずい）する野望だけだった。それらはすべて、この国のためであり、王としての責務だった。

　ただ一人の人間として、というのはとうの昔に捨て去っていたものと思っていたのだが、あの赤に見つめられた瞬（しゆん）間（かん）に、かつての捨てられた子どものような自分が目を覚ました。

　たった一人のだれかをこの手にしたいという、異形の自分が望むべくもない望み。

　あぁ、そうか。これがきっと、恋（こい）というものか。

　潔（いさぎよ）く認めてしまえば笑えるほど世界は単純なものに思えた。しがらみも何もかも捨てて、あとはこの手にするだけだ。

　ためらう理由は、なにもない。

　自然、透輝は笑っていた。

　根拠なぞ、

「俺がみそめた女がそんなことをするわけがないからだ」

「げっ！　ここにきて覚（かく）悟（ご）きまっちゃってんだもんなぁ！」

「付き合ってられないくらいのことは言ってもいいんだぞ？」

　王としてではない。

　ただ一人の男として言っていることだ。そこまで目の前の忠臣を道連れにしようとはさすがの透輝も思わない。

「今さら、あんたにそんなこと言うわけないでしょうが」

　金属の触（ふ）れる甲（かん）高（だか）い音が響（ひび）く。瑠璃が頭をかいた拍（ひよう）子（し）に揺（ゆ）れた耳（みみ）飾（かざ）りが奏（かな）でた音だが、まるでそうだそうだと囃（はや）したてるように聞こえるのは気のせいか。

「それに、めんどくせぇですけど、あんたがそんなこと言うのはわりと悪くないと思ってるんですよ」

「ほぉ？」

「誰（だれ）を愛し愛されたっていいじゃないですか。人間ですよ、あんたも、姫（ひめ）さんも、みんな」

　父に厭（いと）われ、死んだ母を恋しいと泣いたころを透輝は思い出した。

　誰にも見つからないように城を抜（ぬ）け出した夜の隅（すみ）で、見つけてくれたのはこの乳兄弟だけだった。泣きもせず笑いもせず、ただ朝までそばにいた瑠璃はあのときから今もなにを考えているのか、透輝にはさっぱりわからない。

　だが、得（え）難（がた）い友であることは間（ま）違（ちが）いない。

「言ってくれる。では、悪いが地（じ）獄（ごく）まで付き合ってもらうぞ」

「かしこまりまして。あんたがそうと決めたのなら、俺はついていってただ好き勝手に暴れるだけですからね。ここまできたら、麗（うるわ）しの姫さんも国も、総取りと参りましょうよ」

「総取りに異論はないが、お前にあんまり好き勝手されるのも困りものだな」

　悪（あつ）鬼（き）とあだ名されるだけあって、瑠璃の暴れ方は堂に入ったものだ。いままでの傍（ぼう）若（じやく）無人ぶりが透輝の脳（のう）裏（り）によぎるが、まぁいいかと思い直す。

　どうせ、これからめちゃくちゃにしてやるのだ。

　神も世界も、真珠を縛（しば）りつけるものは壊（こわ）して、そうして奪（うば）わねばならない。ことのついでに荒雲も、惟月も、すべて地に這（は）いつくばらせてやる。

「しかし、荒雲か。俺の国ではしゃいでくれるじゃないか」

　目にもの見せてくれる。

　笑う透輝の瞳（ひとみ）が、滾（たぎ）る血で鋭（するど）い銀に光った。