【書籍ver】銀狼の姫神子 天にあらがえ、ひとたびの恋／西嶋ひかり

２──花さそう 第一話

　上を下への大（おお）騒（さわ）ぎ、とは正しくこの状（じよう）況（きよう）のことであろう。

　真珠が婚姻を宣言したとたん、侍（じ）女（じよ）たちは宮を走り回った。

　宮中の全（すべ）てをひっくり返しかねない勢いで、彼女たちは百五十年前の記録を探した。基本的な手順はわかってはいるが、なにぶん婚姻の儀式を取り仕切った経験のある者が誰（だれ）一人として生きて存在しない。誰もが初めての大仕事に不安を抱（かか）えていた。

　天狼の姫に仕える女たちは、いずれもただの人間である。天狼の加護を受け永遠の肉体を得ている真珠以外は、普（ふ）通（つう）の人間のままに生きて死ぬ。生き証人などありえぬ年月がたっているのだから、基本的なこと以上のことを知りたければ酔（すい）狂（きよう）な誰かが残した書きつけの類（たぐい）を探すしかない。

　そんなわけで、宮は騒（そう）然（ぜん）としている。にもかかわらず、壁（かべ）を隔（へだ）てたこちら側。真珠の寝（しん）室（しつ）では逆に沈（ちん）黙（もく）しか存在していないのであった。

　床（ゆか）に頭をこすりつけて微（び）動（どう）だにしない琥珀を、真珠はただ無感動に見下ろしていた。

　無感動にもなろうというものだ。かれこれ一刻ほど、琥珀は真珠がどう言おうと姿勢を崩（くず）すことはなかったからだ。

「もういい」

　何度言ったかしれない許しの言葉を、一定間（かん）隔（かく）で口にしている。そして最初からそうであるように、琥珀は顔を上げようとはしない。

　放（ほう）っておけば冗（じよう）談（だん）でなく一晩でも頭を下げたままだろう。そうせざるを得ない琥珀の心情は察して余りあるが、だからと言ってこのままにしておくこともできない。それに、聞きたいこともある。

「これ以上は傷に障（さわ）る。お前は十分に役目を果たした」

「いいえ、このような望まぬ婚（こん）姻（いん）に導きましたのは僕の不徳の致（いた）すところ」

「そうではない。これは私の選んだことだ。それよりも、一つ聞きたいことがある。この最近の世の動きを教えてくれ。私は俗（ぞく）世（せ）のことを疎（おろそ）かにしすぎたようだ。通り一（いつ）遍（ぺん）のことでいいのだ」

「そうおっしゃると思い、調べてまいりました！」

　そうして琥珀が語りはじめた言葉は、暗く冷たい一族の話だった。

「先代の王、山（やま）城（しろ）正（まさ）嘉（よし）殿がお亡（な）くなりになったのは、いまから一年前のことでございます。病死と言われておりますが、巷（ちまた）ではそれこそ様々な噂（うわさ）が流（る）布（ふ）いたしました。そのひとつに嫡（ちやく）男（なん）である透輝様の手にかかったのではないか、というものも」

「馬（ば）鹿（か）な。嫡男であるならわざわざ実の父を討（う）つ必要がない」

「左様でございます。嫡男であれば」

「まさか」

「実際にはそうはなりませんでしたが、廃（はい）嫡（ちやく）の沙（さ）汰（た）が下ったと」

「それほど無能な男に見えなかったがな」

「僕も先ほどまで、なぜ廃嫡の沙汰が下ったのか疑問に思っておりましたが、合点がいきました。有能すぎたのでしょう。山城透輝は銀眼と異能を有しております」

　銀の瞳（ひとみ）に宿ると言われる異能。瘴（しよう）気（き）を退ける、人ならざる力。

「嫉（しつ）妬（と）、か」

　正嘉公がかつて熱心に宮を訪ねてきたことは真珠の記（き）憶（おく）に新しい。

　彼はなによりも銀狼になりたがっていたものだ。

　しかし、その素質は微（み）塵（じん）もなかった。天狼は彼に、異能をさずけなかったのだから。

「それだけではないでしょう。単純に恐（おそ）れたのやも」

「人はちがうものを恐れるからな」

「ともあれ、正嘉公と透輝殿に確（かく）執（しつ）があったことは確かです。そして正嘉公が亡くなった後、弟である惟月殿との確執が言われ始めました。正嘉公が真に家（か）督（とく）を譲（ゆず）りたがっていたのは山城惟月だから、というわけで」

「なるほど。つまらん内輪もめに巻き込まれたわけだな」

　考えれば考えるほど馬鹿らしい。ため息交じりに真珠は言った。

「おまけに、なぜかその内輪もめの原因が私だと思われているということか。迷（めい）惑（わく）千（せん）万（ばん）な」

「やはり、殺しましょう。この琥珀にお任せくださいませ！」

「物（ぶつ）騒（そう）なことを言うな。しかし、こうなっては、このしょうもない俗世の遊びにつきあってやるしかない」

「しかし、よりにもよってあの恐ろしい男」

　山城透輝。

　名前を、あの姿を思い浮（う）かべるだけで、心臓が摑（つか）まれたかのような衝（しよう）撃（げき）が真珠を襲（おそ）う。姉の面（おも）影（かげ）を残しているのはもちろんのこと、世界にたった一人と思われた我が身に似た力を有する人間がいる。

　その事実は強（きよう）烈（れつ）な喜びとともに、怖（おそ）れをも抱（いだ）かせた。世界が変わってしまうとの予感を抱いた、今朝の目覚めを思い起こさせる。揺（ゆ）れる内面での衝（しよう）動（どう）を押し隠して、微笑（ほほえ）む。

「散々な呼び名があるそうだな。世にも残（ざん）酷（こく）な不殺生（ころさず）の若君だとか」

「姫宮さまと同じ力、ですよね」

「正確には違（ちが）うな」

　真珠は立てた指をふらふらと左右に振（ふ）って見せた。

「私の力は鎮（しず）めるためのもの。しかし、あの男の力は根より断（た）つものだ。瘴気の伝（でん）播（ぱ）した魂（たましい）と肉体の緒（お）を斬（き）っているのだろう。なるほど、豪（ごう）儀（ぎ）な男だ」

「神の眷（けん）属（ぞく）たる我らよりも上級の技（わざ）を人の身でありながら使っている、ということですか」

　琥珀が山に攻（せ）め入った兵どもを外傷なく倒（たお）してみせたのは神気によるものだった。

　それゆえ、代（だい）償（しよう）なくして同等以上の技を使う透輝に解（げ）せぬ思いなのであろう。

　真珠は高らかに笑ってみせた。

「それが銀狼の御業なのだろうが」

　そして、それが人の限界とも言える。

　人はなにがしかを失わずには与（あた）えることはできない。だからこそ、透輝が人を斬れば気を失ったように倒れるばかりで、そこから意識が回復することはまずないだろう。真珠が魂を失わずに瘴気を浄（じよう）化（か）できるのは人の理外であるからに他（ほか）ならない。

「しかし、銀狼ねぇ」

　そうとしか説明のつかぬ力ではあるが、順番がちがう。

　姫宮が婚姻し、力の移行がなされてこその銀狼だ。もちろん、適性はある。それを示す力の発現はあるが、こうもはっきりとした完（かん）璧（ぺき）な形での現れ方は類をみない。

　ゆえに彼（か）の男も散々言われたのであろうとは察するに余りある。

　人は己（おのれ）の理解を超（こ）える力を持つ者を神ともあるいは化け物とも言う。敬うか恐れるか、方向性は違うにせよ、同じことだ。

　並の人間とは違う。

　その一点でのみ、簡単にわけ隔てをしてしまう生き物なのだ。

　だとすれば、それにこそ茶番をたやすく終わらせる糸口がある。

　一つの啓（けい）示（じ）を得て鼻歌さえ歌いだしそうな真珠に、琥珀は首を傾（かし）げた。

「なぁに、いけすかない男だと思ってはいたが、可（か）哀（わい）想（そう）なところをみつけてしまうとそれが途（と）端（たん）に可愛（かわい）げになるな。一つ、手を貸してやろう」

「なにをなさるおつもりですか？」

「昼の世界の者に相応（ふさわ）しい様にしてやるのさ。私の力でもってあの男の異能を封（ふう）じる。さすれば瑕（か）疵（し）のない不岐の王のできあがりだ。そして私はなんの憂（うれ）いもなく夜へと帰る。ただ一度の揺らぎすらない世界へ」

　小さな胸の痛みに素知らぬふりをして、真珠はそう嘯（うそぶ）いた。

　孤（こ）独（どく）に怖れを抱かぬうちに、あの男を遠ざけねばならないのだから。

　　　　●　●　●

「ずいぶんな歓（かん）迎（げい）の仕方があったものだな」

　透輝がそう言ってようやっと息をついたのは、案内された宮の一室であった。

　まるで汚（きたな）いものを見るかのように嫌（いや）がる侍（じ）女（じよ）が案内したのは、長年人の手が入っていなかったであろう光も入らぬ一室であった。開ければ埃（ほこり）が舞（ま）い、すえた臭（にお）いのする空気が透輝を出（で）迎（むか）えた。

　見（み）間（ま）違（ちが）いでなければ単なる物置ではないのか。

　本当にここに滞（たい）在（ざい）させる気じゃあないだろうなという抗（こう）議（ぎ）を含（ふく）めた視線で振り返れば、侍女は頭を下げたまま足早に去って行った。器用なことだ。

　後ろで舌打ちが止まらない瑠璃をなだめ、透輝は色あせた畳（たたみ）に座る。再び埃が舞うが今度は小さく肩（かた）を竦（すく）めただけだった。戦場での野営よりは随（ずい）分（ぶん）ましである。

　ここまで邪（じや）険（けん）にされればいっそ清（すが）々（すが）しい。

　存外潔（けつ）癖（ぺき）の気のある瑠璃はしばらく思いっきり眉（まゆ）をひそめていたが、透輝が座れと促（うなが）すと、とうとう唸（うな）り声で喉（のど）を鳴らしながら座った。

「あんたが言うんじゃなきゃ、俺は今すぐここを飛び出して火をつけているね」

　本当にやりそうだなと透輝はぼんやり思ったが、それにこたえることなく唐（とう）突（とつ）に問うた。

「どういう女だ、あれは」

　疑問の体（てい）で口にしたが、その実ただのつぶやきに近い。

　大した女だ、と感心するにはただ者ではなさ過ぎる、と透輝は思っている。

　なによりも透輝をぎょっとさせたのは、穢（けが）れを厭（いと）う姫でありながら戦いを微塵も躊（ちゆう）躇（ちよ）しなかったところだ。十中八九はったりだろうとみていたが、よもやと思わせるところもあった。それほどまでに、啖（たん）呵（か）の切りようが堂に入っている。

　彼女がいったいどういう道を歩んでかの地位についたかは知らない。それにしてもあのような静かな瞳でいられるはずがないのだ。

　鮮（せん）烈（れつ）な赤い瞳の美しき容姿に惑（まど）わされるが、年の頃（ころ）ならほんの十五ほどの少女である。透輝よりも五つも下の子供が、人の命を賭（か）けてどうして動（どう）揺（よう）の一つもしないでいられる。よほどの地（じ）獄（ごく）をみてきたのか、それともよほどの胆（たん）力（りよく）があるか、だ。

　後者であろう。

　同じ場にいた侍女たちはある者は悲鳴を上げ、ある者は声を発することなく気を失っていた。

　胆力に加えて、あのこちらを熱（ねつ）烈（れつ）ににらみつける瞳（ひとみ）。どう考えても婚（こん）姻（いん）を望む姫（ひめ）君（ぎみ）の甘やかな視線ではなかった。いっそ殺意さえ感じたほどだ。それも、天狼の姫という彼女の上辺でなく、その下に潜（ひそ）む真珠という少女の、純（じゆん）粋（すい）な殺意である。

「まぁ並の女ではありませんね」

　そんなことは承知している。

　毒にも薬にもならんような感想をききたいわけじゃない。もっとも、姫については瑠璃とて神話程度にしか話をしらないのだから他に言いようもないのではあるが。

　透輝の父である先代の王はずいぶんと熱心に寄進していた。それをくだらぬと取りやめてしまったのは他でもない透輝である。天狼の姫を知ろうともしていなかったわけであるが、それがまさかこんなところで祟（たた）ろうとは思ってもいなかった。

「よくわかりませんが、女であることには違いありませんから通り一（いつ）遍（ぺん）のことをやってご機（き）嫌（げん）をうかがうのが定石なんじゃないですかねぇ」

「姫に対する評価が正しいのであれば、そこいらの女と同じことをして機嫌を取ってやれば俺の命がとられかねんぞ」

「姫さんを獰（どう）猛（もう）な獣（けもの）かなにかと勘（かん）違（ちが）いしてやいませんか」

「獣どころか、だな」

「へぇ。んじゃ、あんたの見立ては？」

「俺の見立てが確かであれば」

　確かであれば。

　そういう言い方はしたが、実のところ、透輝は疑っていない。

　あの十五になろうかという風変わりな少女は自分と同じ種類の人間、いやそれどころか、もっと優（すぐ）れた勝負師というべきものなのかもしれないと思い始めている。

　少し目を合わせて話しただけで値（ね）踏（ぶ）みされたのがよくわかった。

　負けないためにどうすべきかではなく、勝とうとしていたのだ。あの状（じよう）況（きよう）で、あろうことか。

「俺の見立てが確かなら、あれは一種の化け物というべきやつだろうな。自分の目的のために、自分すら駒（こま）として見ることのできる唾（だ）棄（き）すべき才能を持っている」

　真珠とわずかばかりの言葉を交（か）わしてみて、これは惟月とは通じていないなとすぐにわかった。惟月と手を組み陰（かげ）でこそこそやるよりも、単（たん）騎（き）で透輝の首を狙（ねら）ってくるような女だ。すぐに疑いが晴れたと言ってやればよかったのだろうが、透輝はもう少し追い詰（つ）めて反応を見てみたかった。真珠は迷わず自らの身を差し出した。自己犠（ぎ）牲（せい）などというものでなく、思（おも）惑（わく）あって自分の身を担保にしたにすぎない。決断は瞬（しゆん）時（じ）に下されて迷う素（そ）振（ぶ）りはなかった。

　こういう判断の下し方は、自分にも覚えがあった。

「あんたと同じく？」

「そう、俺と同じくだ」

　揶（や）揄（ゆ）する瑠璃に迷いなく頷（うなず）いてみせた。が、不満であるらしい。

「買いかぶりすぎじゃないですか。というか、あんた姫（ひめ）さんのことめちゃくちゃ気に入ってますね？」

　どういう立場の女かわかっているのかと、こめかみを押さえる瑠璃である。一方、透輝はそんな瑠璃の心配を笑い飛ばした。

「あれが天狼の姫でなければ無理やり俺のそばにおくんだがな。惜（お）しい話だ」

「その言い様だと今のところは深入りしない、と？」

「今のところは。人として面（おも）白（しろ）いとは思うが、俺は父上のように信心深くない。変にあの手のものにかぶれたと思われるのも癪（しやく）な話だ」

「そのへんを飲みこんでこその政治なんでしょうが、俺はどうも苦手ですね。あとこういう抹（まつ）香（こう）臭（くさ）いところも。さっきから体がかゆくてしょうがない」

　刀で解決できぬことは自分の領分を越えているとばかりに瑠璃は天（てん）井（じよう）を仰（あお）いだ。

「政治、ねぇ」

　呟（つぶや）いて、透輝はため息をつく。

　天狼の姫との婚姻で透輝の地位が揺（ゆ）るぎないものとなるだろう。姫をめとって銀狼となったのだ。もはや異を唱える隙（すき）がない。

　いまだ、それがさほど重要なものとも思えないが。

　しかし、自らの正当性を示すために天狼の姫などという伝説をひっぱりだしてきたのは向こうだ。今にして思えば、その埃をかぶった伝説を示してやったのはあの父かもしれないな、とあたりをつける。

　だとしたら、最（さい）期（ご）の最期まで祟ってくれるじゃないか。

　透輝は内心でうんざりと舌を出した。

「これで惟月が打って出てくると思うか」

「どうだか。ここまで弟殿（どの）の姿が見えないですからね。そもそもいったいどういう話になってるんだか。打って出てくれれば話は早いんですがね。あとは斬（き）るだけだ」

　からからと笑う瑠璃の瞳はちっとも笑っていない。

　戦場をかけることを是（ぜ）としているこの男にしてみたら、今のようなよくわからない状況は耐（た）え難（がた）いのだろう。

「ま、なんにしてもこんな場所はごめんなんですがね。命がいくらあっても足りないってわかってます？　虎（こ）穴（けつ）に入らずんばなんとやらってやつですが、ここは俺にいわせりゃ鬼（おに）の巣（そう）窟（くつ）ですよ。どいつもこいつも得体が知れない。あの妙（みよう）な術をつかう犬っころも、結局なんのことだかわからなかったし」

　後半は恨（うら）み節のようになっているところをみると、よほど琥珀と名乗る山犬を制することができなかったのが悔（くや）しいとみえる。

　荒（あら）事（ごと）に絶対の自信を持つ瑠璃だからこそ、たかが山犬に引き分けたことが我（が）慢（まん）ならないのだろう。ずいぶんと手傷を負わせたとは聞いているが、瑠璃とて無傷ではいられなかったはずだ。透輝にはそうと言わないものの、時折胸を庇（かば）うような動きをしている。恨みはたっぷりとあるだろう。

　それにしても鬼とは、ずいぶん言葉がすぎるものだが。

「他（ほか）の女どもはいざ知らず、少なくともあの姫は俺の寝（ね）首（くび）を搔（か）いたりはしないだろうさ」

「なんでそんなことわかるんですか」

「堂々と、真昼間に俺の首を狙いに来るだろうというタマだからだ」

「ってちょっとまってよ。それって結局ここが悪（あつ）鬼（き）の巣であることには変わらないってことでしょ」

「ま、そうだな」

　とうとう瑠璃はがっくりと肩（かた）をおとした。

　透輝は笑いながら、あの姫と一戦交えるのもおもしろいと心の片（かた）隅（すみ）で思った。

　自分であるなら、相手を油断させ懐（ふところ）に入ってから笑（え）みを浮（う）かべて首を斬り落とすであろう。

　あの少女は必要であればそうできる部類の人間だ。

　悪くない。そういう人間は大好きだ。

　自然、口角が上がる自分を認（にん）識（しき）して、これだから薄（うす）気（き）味（み）悪（わる）がられるのだと自（じ）嘲（ちよう）したのだった。