第21話「決定的な相違点」

 三十七度三分。

 取り出した体温計を確認し、私は苦い笑いを浮かべる。予測値を示す四角いマークが画面の右上隅みぎうわすみに表示されていないため、この値は実測値だ。

 今朝、家を出る前に測った時は予測で三十七度五分、実測で三十七度二分だった。とすれば、今回の予測値は三十七度台後半に突入していたかもしれない。


 光蟲みつむしなら笑うだろうか。

 風邪で病院に行くことなどなく、むしろ熱を出した時ほど酒が美味くなるとわけのわからない持論を展開していた彼なら、わざわざこんなところに体温計を持参してこそこそと検温する私にいつもの半笑いを見せるかもしれない。私の人生において初めてできた友人で、かつ自分にとってたったひとりの生涯の友人である光蟲なら。


 私は、でも彼のような豪宕ごうとうさを持ち合わせてはいない。あるとすれば盤上でのみだ。

 仮病を繰り返して欠勤を重ねたり、出勤しても常に終業後のことだけを考えて最低限の仕事のみこなし、非常勤職員でさえも出席している会議には適当な理由――歯科通院とか家庭都合とか――をつけて欠席したりという振る舞いも豪宕と言えなくもないが、それらは不真面目や怠惰という表現のほうが似合いであろう。

 仮に同じことを光蟲がしたとすれば、光蟲らしいねのひと言でポジティヴな見方ができるかもしれない。私がやるから駄目なのだ。昔からたいした賢さもユーモアのセンスも持ち合わせず、暗記力だけが取り柄で賢いふりをしてきた私がしても、それは単に痛々しかったり空気が読めなかったりするだけである。

 多少でも下がっていれば気持ちが楽になるだろうと考えて行った検温は、しかし愁色しゅうしょくのみをもたらした。瑣末でくだらないことを理由に、私はしばしば憂鬱になる。


 小森に誘われて参加することになったものの、団体戦という形式で出場する意味が果たしてあるのだろうかとふと思った。というより、団体戦という大会形式そのものの存在に対する疑問と言ったほうが適切だった。

 試合が始まれば、みな自分の対局に傾注してチームメイトのことを思う余裕などない。加えて、チームとしていくつ勝ったか負けたかということよりも、選手は個人の成績――勝ち越しできたか、負け越してしまうかなど――のほうが関心が強い。それはなにも私に限ったことではなく大半の選手がそうであることを、大学時代に四年間団体戦に出場して感じ取った。

 団体戦と個人戦の違いは、大会が終わった後に参加したくもない食事会などに仕方なく行く羽目になる可能性があるかないかという程度の違いしか――少なくとも私には――なく、囲碁の大会はすべて個人戦にしてもなんら問題はないと思うのである。


 いや、ひとつ決定的な違いがある。

 その重要性に気付き、私は半笑いを浮かべた。坂井泉水さかいいずみの透き通るような歌声が両耳に響く。

 団体戦は、人間関係に亀裂を生じさせる可能性をはらんでいる。


 昨晩のベッドでも考えたが、団体戦は欠席しづらい。今回のように補欠のいない大会であれば、欠席すれば自動的にチームにひとつ黒星をもたらす。残された二名に与える損害の大きさは言うに及ばない。

 また、仮に補欠登録が認められており人員にゆとりのある場合でも好ましくない。あいつは約束をしても当日現れないかもしれない、またすっぽかされて迷惑を被ることになるかもしれない、といったネガティヴな印象を関係者たちに抱かせてしまい、その結果距離を置かれてしまうかもしれない。あるいは、クレームのひとつふたつ頂戴するかもしれない。

 仮病や虚偽で仕事を放棄し、職場でイメージが悪くなろうが信頼をなくそうがさしたる問題ではないが――稼ぐためだと割り切って開き直れはよいし、いざとなれば転職という選択肢もある――、プライヴェートの付き合いでむやみにマイナスイメージを量産すべきではないと思う程度には、私は平穏や調和に価値を置いていた。


 欠席しても運営側に面倒をかけるだけの個人戦ならば、本日も躊躇なく休んだ。明日から物憂ものうい連勤とあればなおさらである。この前小森に気持ち良く勝利し、それにより再び囲碁への情熱がじわじわと込み上げてきたことは確かだが、なにも体調が優れない時に出場することはない。


「かったりいな」


 鈴木英俊すずきひでとしによるご機嫌なギターソロを聴き終えてから、ひとりごちた。

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