第7話「器の違い」

「またえらい唐突ね」


 微苦笑びくしょうたたえながら掻頭そうとうした。先ほどの女性店員と目が合い、私に会釈する。


「初めて対局したオールアマ団体戦の日、僕は衝撃でした。前にも話したかもしれませんが、"あの布石"を打たれた時、『あぁ、勝つ気ないのかなぁ。それとも、なにか嫌なことでもあったのかなぁ』と思いました。でも、打ってみるとめちゃくちゃ強い。あの打ち方で自信を持って勝負できることに感動したんです」

「まあ、それでもあの碁は私が負けたわけだけど」

 序盤で小森の大石たいせきを取り込んだと思ったものの、予想外の妙手でその一団が復活し、かえってこちらが攻められることになった一局だった。


「いやいや、勝ち負けじゃないですよ。悦弥さんの一手一手を受けて、囲碁ってこんなにも自由なのかと感じました。そして、もっと囲碁を好きになれた。僕にとって悦弥さんは良きライバルでありながら、尊敬する碁打ちなんです」


 ライバル。盤上であれば確かにそれなりの勝負はできようが、盤外にいたってはまったくもって完敗だなと思う。

 浅井とは、何度か大学外でのデイトをした。街歩きをしたり、喫茶店でコーヒーを飲んだり、クラシックのコンサートを観に行ったりした。もちろん、囲碁を打ちに出掛けることもあった。大それた想いに突き動かされていたわけではなかったと思う。女性と二人きりでデイトをするなど、それまでの私には考えられないことであった。浅井とは、でも不思議と自然な形で行えていた。


 大学三年の夏に起きた囲碁部でのとある一件により、私は囲碁部と距離を置くようになった。浅井とも疎遠になっていたが、大学四年の夏ごろから再び顔を合わせるようになった。また以前のように碁を打ったり、あるいは先のようなデイトに繰り出すこともあった。

 彼女への恋心に気付いた時には、たぶんまだ勝機は残されていた。私の盤上での思い切りの良さは、しかし盤外にまで波及することはなかったのである。


「じゃあ、私に勝ったらいいよ。出ても」

「えっ?」

 今度は、小森が聞き返した。


 頭をひねらせた結果出た言葉がこれなのかと、私は内心で苦い笑いを浮かべる。

 最低だ。マンガやアニメでありがちな台詞だが、私が言っても面白くもなんともない。ただの嫌みか、もしくはねじ曲がった性根しょうねの象徴みたいだ。女性店員におしぼりの交換を依頼し、もう一度顔を拭きたくなった。


「なんてね、冗談。喜んで参加させていただきます」

 一瞬、脳が思考停止状態に陥りかけたが、私の口からは修復の言葉がつむぎ出されていた。関係性の浅い相手なら、ふざけんなと一喝いっかつして電話を切ってもおかしくはないが、小森は素直にありがとうと受け入れるだろうと思った。


「いえ。その勝負、受けて立ちます!  僕が負けたら違う方を探すか、今回の大会は諦めます!」

「いやいや、そんな。ジョークだからさ」

「いえ、今度の大会はめちゃくちゃレベル高いって聞いたので、悦弥さんに勝てるぐらいでないと厳しいと思いますから! よろしくお願いします!」


 なんて男だと、私はまた微苦笑した。私の浅はかで薄ら寒い冗談を受け流すどころか、それに真正面から応えてくるとは。彼のまっすぐな性格のおかげで、私のひねくれた一手が興味深いドラマの新展開を切りひらく契機のごとく化したではないか。私が彼なら、たぶん鼻白はなじろんで電話を切っていよう。これが浅井を手に入れた男と逃した男の器の違いなのかと、妙に納得してしまった。


「じゃあ、よろしくお願いします。いつが良いかな?」

「そうですねぇ。僕は、仕事柄わりと時間の融通が利くので、悦弥さんの都合を教えてもらえたほうが合わせやすいかもしれません」

「そうねぇ……じゃあ、今日はどうかな? さすがに急すぎ?」

 会話に終わりが見えてきたところで尿意が込み上げてきたので、スマートフォンを耳にあてたままトイレに入った。

「今日はこれから夕方まで子ども教室が入ってますが、夜七時ぐらいでも良ければ! その時間にラフォーレに来れますか?」


 "囲碁将棋喫茶 ラフォーレ"は、新橋にある行きつけの碁会所で、小森と再会した場所だ。かつてはよく訪れたが、もう久しく行っていない。

「うん、行けるよ。じゃあ、七時にラフォーレで」

 片手でズボンと下着をおろし、便座に腰かけてほっと胸をなでおろした。


「あっ、そういえば悦弥さん、ラフォーレの新店舗って行ったことなかったですかね?」

 三ヶ月ほど前に一度店を閉め、その一月後に場所を変えて再開したという情報は、Twitterにより知ってはいた。

「そういえば移転したんだってね。でも、住所見た限りだとそんな変わんないから、近くっぽいかな?」

「そうですね、以前よりも新橋駅寄りです。前の店舗に行くまでの道にベローチェがあると思うんですが、道路はさんでベローチェの向かいのビルです」

「ありがとう。じゃあ、また夜に」

「はい、ではまた後ほど!」


 スマートフォンをポケットにしまいながら、予想だにしないことになったなと思う。

 今日は、本来なら定時(十七時)を過ぎてから利用者のケース会議を行う予定だった。いつも無駄に長くかかるので、終わるのは早くても二十時だろう。

 通院や家庭の用事など適当な理由を付けてさっさと定時に上がることが多いが、さすがに正社員で毎回会議を放棄しては周りからの圧力が凄まじいものになる。直接難詰なんきつされずとも――されることもたまにあるが――、当人のいないところであれこれと不平不満を並べ立てたのち、現場で居合わせた際ににべもない態度をとるというのは、あの陰湿な職場では日常的に起こることだ。

 明日は公休なので、今日は我慢して会議にも出席するつもりでいた。それが、洗面所で父の整容グッズをぶちまけたためにこうも一日の予定が変わるとは、嗚呼人生とはどう転ぶかまことに分からぬものだと感慨に耽る。


 そんなことを考えながら、用も足し終えたので立ち上がろうと思った矢先、肛門に強い水圧を感じた。どうやらトイレの"流す"ボタンと間違えて、"おしり洗浄"のボタンを押したようだ。


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