第19話 ルカ

 ユダの町々は山地に点在している。ガリラヤ湖周辺の地域はなだらかなところが多く、荒れてさえいなければ船での移動も可能だったが、エルサレムの周辺となるとそのほとんどが山上にあるため、行程の多くが坂道だった。

 とは言っても旅慣れたルカにとっては大した苦ではなかったが、雨が少ないことには閉口した。雨季を外れているだけあって、ガリラヤ湖よりも南に下り始めると、ほとんど雨を見ることがなかった。それ自体はちっとも構わないにせよ、乾燥しきった地面から立ち上る砂埃には息苦しさをさえ覚えた。しかし、ここで足を鈍らせているわけにはいかない。

 エルサレムからはじめて、一連のできごとの証言を集めて回っていた。ガリラヤからナザレへ。ナザレから、ベツレヘムへ。師の物語をさかのぼって自分の足でたどり、自分の耳で聞いた証言を記録し、確かなものとしてまとめ上げようとしていた。あともう一人。ユダの山地にいるはずの老夫婦に会えれば、この旅の目的は完遂できる。そうして一日も早くアンティオケアに戻りたかった。放っておけば今にも飛び出して行ってしまいそうなパウロのことを、案じていた。


 医師としての見聞を広めるため、旅をしていた。小アジアを回り、リステラという町に滞在していた時のことだった。ユダヤから来たらしい集団が、なにやら騒いでいた。関わり合いにならないようにしようと無視していたが、郊外に出て行った者たちが町に戻ってきて、一旦騒ぎが落ち着いたと思われたころに、遅れて数名が町に戻ってきた。その中心には、怪我をしていると思われる男が一人、いた。

 職業柄、怪我人をそのまま見過ごすことができなかったルカが近寄ってみると、全身に傷を負っており、特に額の付近の傷は相当深そうだった。開いていた傷のいくつかを急いで縫合し、応急的な手当てを済ませると、パウロと名乗ったその男は礼を言った後、そのまま立ち上がった。しばらく休んだ方がいいし、傷の経過もきちんと診なければと引き止めたのだが、

「そんな暇はないのだ」

 と聞く耳を持たず、歩き出してしまった。医師としての責任感や義務感だけでなく、なぜか惹きつけられるものを感じたルカは、傷の経過を看るため、という名目で、ついて行くことにした。

 それが出会いだった。やがてパウロが宣べ伝えようとしている教えを道すがら聞いて、自身もそれを受け入れてからは、彼が何故そんなにしてまで教えを宣べ伝えようとしているのかということについても、理解するようになった。

 きちんと治療を受けなかったからか、たとえ受けたとしてもどうしようもない傷だったからか、パウロはその後度々激しい頭痛に襲われるようになった。ルカは同信の者である以上に医師として、パウロの側を離れることができなくなった。

 それはルカ自身にとって不快なことではなく、むしろ共に旅することが楽しみにもなっていったが、二度目の宣教旅行の帰路で、一連の物語をきちんと調べて書き記してほしいという依頼を受けた。旅を共にする中でルカがそうしたことに相応しい能力を持っていると認められたのだろう。そうしてルカは、一旦パウロから離れ、彼らの信じる教えを説いた師の物語について、詳しく調べ、書き記すという事業に取りかかることになったのだった。


それは、驚くような体験の連続だった。パウロから理路整然と聞いた教えは、実際に師に出会い、その声を聞き、手を置かれて癒しを受けた人々の証言を通して揺るぎないものとなっていった。とりわけルカを驚かせたのは、師の母マリヤの証言だった。

「あの方こそ、神の子です」

 老境に入りつつある生みの母マリヤの、ためらいもてらいもないその告白は、紛れもなくそれが真実でしかあり得ないということを示していた。とは言え、母親として、我が子が鞭打たれ、釘でもって木に磔にされる様を見て、平気であったはずはない。いたましさを覚えながらも、記録者としてのルカはその心情について尋ねることを止められなかった。

「剣が私の心を刺し貫くだろう、と言われたことがありました。あの方がよみがえられた今となっても、確かにあの時の光景は耐え難い苦痛と共に、私の胸の中にあります」

「お察しします、と申し上げるべきなのでしょうか」

「私も一人では耐えられなかったかもしれません。親類のエリサベツに会いに行ったのです。ヘロデ王に首を刎ねられた、あのヨハネの母上です」

 受け止める術も持たずに悲痛な表情でいるルカに、マリヤは柔らかな眼差しを向けた。それは通ってきたガリラヤ湖の晴れた日の透き通った湖面の色であり、幾人かの証人たちの口から聴いていた、師の眼差しと同じ光をたたえているものと思われた。

ヨハネは師が宣教を始める前に悔い改めを説いた預言者で、ガリラヤ領主のアンティパスに捕えられていた。その宴の興のために、刎ねられた首を盆に乗せて見世物にされるという最期を遂げた人物だった。我が子の受難を見届けたという共通の痛みを持つ点で、確かにマリヤを慰め得る唯一の存在と言えるだろう。

「エリサベツは、私の顔を見るなり、何も言わずに私のことを抱きしめて、泣いてくれました。私も、あれほどに泣いたのは幼子の頃以来だったと思います」

 引き裂かれるわが子の姿を看取った救い主の母を、慰める代わりに抱きしめた老婦人。

 ルカは一連の旅を締めくくるために、砂埃の舞う上り坂をたどり始めた。

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