第10話 ホセア

 部屋とは言っても、幕を垂らしただけの、小さな空間に過ぎなかった。寝台を除けばほとんど一人が歩くほどの余地しかない。それとて、自分の思う様にではなく、自分を買った客たちの望むままに振る舞うことを求められていた。

 ゴメルは、さきほどまでそのような客の相手をさせられていて、ようやく解放されたばかりだった。呆然とその寝台を見つめながら、考えていた。何故、こんなことになってしまったのだろうか。


 少女の頃、母親の紅をこっそりつけ、ゴメルなりに着飾って、町を歩いてみたところ、男から声をかけられた。ずいぶん年上に見えたが、年齢差が開いているのはそう珍しいことでもなかったし、女性として優しく扱われたことで有頂天になったゴメルは、その男に誘われるままに、穀物倉までついて行った。人目がなくなったとたんに豹変した男に強引に奪われ、去り際に投げられた銅貨を見て、遊女と間違えられたのだと悟った。その後にも、幾人もの男たちから優しく扱われたが、皆、自分の肉体が目当てだということを思い知っただけだった。


 ずいぶん久しぶりの再会だったが、幼い頃のままの下がり眉ですぐにホセアだということは分かった。

「神が君を愛するように、と命じられたんだ」

 なんと無粋な求愛だと思ったが、その当時のゴメルにはどうでもよかった。荒れすさんだ生活の中で、このままではいけないと漠然と思っていたところだった。それで、何も考えずに結婚の申し出を受けた。投げやりなゴメルを宥めるようにしてホセアが用意した婚礼の宴会には、結局誰も訪れなかった。閑散とした家の中で、ホセアの下がり眉はますます下がってしまって、困ったような顔になっていた。

 

 ホセアとの結婚生活は決して贅沢なものではなかったが、それまで経験したことのない、穏やかなものだった。子供も授かったのだが、誰の子だか分かったものではない、とうわさされていることが耳に入り、いたたまれなくなった。

 気がつけば、ゴメルはホセアの元を逃げ出していた。挙げ句、いつの間にか騙されて、借財のために、娼家に囚われてしまっていた。所詮、それが自分に相応しい場所だとうそぶいたゴメルは、ホセアとの暮らしを一切投げ捨てていた。


 水の入った革袋が差し出された。ホセアはアモスの手からそれを受け取り、飲んだ。飲み始めると、止まらなかった。

「よほど渇いていたんだな」

 アモスが苦笑しながらその様子を見ている。

「ありがとう、すまない。きみの大切な水をほとんど飲んでしまった」

ホセアは口をぬぐって、友人である羊飼いに革袋を返し、丁寧に礼を言った。サマリヤの町からほとんど駆け通しだったので、汗と泥にまみれている。

「で、何をそんなにあわてていたんだい」

「神が、ゴメルを再び迎えに行け、と命じられたんだ」

 アモスは天を仰ぐようにして大きくため息をついた。

「ホセア、君はやさしい男だ。それはよく分かっている。しかし、ゴメルはやめておけ。初めに結婚すると言ったときにも、あれほど僕は反対しただろう。案の定、元の生活に戻ってしまったじゃないか。どう考えても、君にふさわしい女じゃない。君があんな女に関わって振り回されるのを見たくはないんだ」

 旧い友人だった。お互いに人付き合いが得意ではない上、生まれ育った環境からして接点も共通点もなかったが、なぜか昔から気が合った。一緒にいると、心が満たされるような気分になれる。しかしアモスは、その正義感の故にゴメルとの結婚には断固として反対した。まして家庭を捨てて逃げ出したゴメルを再び連れ戻しに行くことに、いまさら賛成するわけがなかった。

「きみの言いたいことはよく分かっているよ。賛成してもらえるとも、思っていない。でもね、わたしはゴメルとの関係を通して、神がどんなにイスラエルを愛しておられるのか、そして、神に背を向け続けるイスラエルのことをどんなに哀しんでおられるのかということを学ぶことができたのだ。だからわたしはこれからゴメルのところにもう一度行く。そして、神がイスラエルをあわれんで胸が熱くなっておられるということを、伝えようと思っている。それが、わたしに与えられた神のことばなんだ」

 力強く言い切るホセアの目は、アモスの心を強くとらえていた。


 ゴメルは、ホセアとの暮らしのことを思い出していた。二度と戻ることはできない。ならばせめて、ホセアの手で、石打ちにでもしてもらえないだろうか。そんなことを考えているとうち、部屋の幕が揺れた。また、次の客が来たらしい。

 何の喜びも感じられない、ひと時がまた始まる。絶望の眼差しを、部屋の入口に向けると、そこに現れた男の顔を見て、ゴメルは動けなくなった。

 立っていたのはホセアだった。相変わらず困ったような下がり眉で、ゴメルのことを見つめていた。

「神がきみのことを、もう一度愛せよ、と命じられたんだ」

相変わらず、下がり眉の困ったような顔で、ゴメルのことを見つめていた。

「でもわたしは……」

 ここから抜け出すことはできない。それをうまく言葉にすることはできなかった。するとホセアは少しはにかみながら、懐から銀貨を取り出して見せた。

「大丈夫だから」

 ゴメルは、その下がり眉を見つめたまま、いつまでも立ち尽くしていた。(十)

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