第2話 モーセ

 モーセの天幕は、粗末なものだった。大きさだけはそれなりのものだったが、特に金銀の類もなければ、何の装飾も施されてはいない。それは、民の上に立って裁きを行う者としての誇りだった。

 かつて、エジプトのファラオの子として育てられた。その頃は、自身の寝室として与えられていた部屋だけで、今の天幕のいく倍もの広さがあった。天蓋付きの広い寝台は毎夜しわ一つなく整えられ、壁は美しい織物で飾られていた。夜通しいくつもの灯火が闇を追い払い、目覚めるとすぐ隣室にある専用の浴槽で沐浴をする。しかも衣服の着脱さえ全て、影のようにかしずいている奴隷たちが行っていた。

 今のモーセにとって自分の天幕とは、神に祈り、神のことばを静かに思い返すためだけにあった。


「先生、入ってもよろしいでしょうか」

 ヨシュアの声がした。ベニヤミン族の若者で、何故かモーセを先生と呼び、慕っていた。かつて民族をあげてエジプトから脱出する際、ぬかるみに足を取られて難渋していたモーセを見つけて、手を引いて葦の海を渡った。それ以来、モーセの従者のように、そばにいる。

「ヨシュアか。待っておったよ。入りなさい」

 舅のイテロのもとに、妻と一緒に二人の息子を残してきたモーセにとって、ヨシュアは息子のような存在になっていた。

「アロンから、先生がお呼びだと……」

 入口の垂れ幕を開いたヨシュアは、頭を差し入れたところで思わず言葉に詰まってしまった。移動の都度、荷物をまとめるために幾度となく訪れてはいたが、そもそもほとんど物が無くて、いつもガランとしていた。ところが今は、そこら中に広げられた羊皮紙やら石板やらで、まさに足の踏み場もない状態になっている。

「これは……一体どうしたのですか」

「見ての通りだ。ちと散らかし過ぎてな。済まないが、手伝ってもらえないかね」

 モーセは、いたずらを見つかった子どものようにばつの悪そうな顔で、こめかみの辺りを掻きながら言った。

「全部、先生が書かれたものですか」

 モーセは、神のことばや民の行いを、折に触れて書き記していた。文字にしておくと、自分がいなくなった後にも神が言われたことや、自分たちがどのようにしてエジプトから脱出し得たのかといったことについて、知ることができる。そう言って、かなり詳細な記録を残していた。

「借りてきたものもある。それに、お前が書いたものもある」

 モーセはヨシュアの足もと近くに重ねられている羊皮紙を指しながら言った。モーセの言葉を聞き取ってヨシュアが書き記したものだ。特に、モーセがミデヤンの荒野に逃れていた間のことなどは誰も知らない。しかし、どのように神がモーセに現れ、遣わされたのかということについてはこの後民がモーセに従っていくためにも是非とも記録を残しておく必要がある。だからヨシュアの方がモーセを説き伏せて聞き出し、書き記したのだった。ヨシュアは散乱した部屋の中に、見覚えのあるものを発見した。

「そうですね。このために私は、先生から文字を教わりました。でもこんなにたくさんの書き物は初めて見ました」

 奴隷として生まれ育ったヨシュアに文字を学ぶ術はなかった。モーセはヨシュアの手を取って、一画ずつ、丁寧に教えたのだ。

「それにしても、この量は」

「私は、書き残さなければならないと思って書いてきた。お前も知っているようにね。しかし、この民が神に従って生きるためには、何かが足りないと思ったのだよ」

「足りない、のですか」

 ヨシュアは少し怪訝な顔で問い返した。モーセは書き残さなければならないと言った神の教えについて、幾通りも書いてきた。ヨシュアの目には、充分であるように見えた。この上、何を書こうというのだろうか。

「充分ではないかと思うのだろう。確かに、折に触れて神の教えを語り、それらを書き留めてきた。だから神の教えそのものについては、もう十分だと思う。シナイ山で語られたこと、祭礼にまつわることをそれぞれ語り、書き留めもした。人口調査の結果をまとめた時にも、そしてつい最近にはカナンの攻略を前にして、神の教えを再確認し、それに従うと誓わせた。しかし、民は従わない。それはお前もよく分かっているだろう」

「何度同じことをするのだろう、とは思いますが」

 民がそうして神の教えからそれてしまうことを、この若者は時にモーセよりも激しく憤ってきた。

「これからカナンに入り、異教の町に住めばきっと道からそれ、他の神々にひかれていくだろう」

 モーセにはその様が目に見えるようで、残念でならない。

「では、先生は何が足りないと考えておられるのですか」

「ヨシュアよ。お前は何故、神に従うのだ。そもそも何故神は、我々を導かれるのだ。エジプトの民や、カナンの住民たちは何故他の神々しか知らないのだ」

「それは……」

 考えたこともなかった。モーセという偉大な指導者がいて、彼に従うというだけで精一杯だったし、充分だった。ヨシュアは、ファラオに逆らい、荒野で民を導くという考えられないほどの重荷を40年もの間負ってきてなお、なすべきことを考え続け、実行せんとしている目の前の老人の膨大な熱量に圧倒された。

「神は突然現れて、私を遣わしたわけではない。我々の民族の歴史の初めから与えられていた長い約束の、時が来たということだ。それを全ての民に明らかにすることが必要ではないだろうか」

「ではこの書き物は」

「アロンに頼んで、集めてもらったのだ。民の中で語り継がれてきたことを記したものだ。私自身はずっとイスラエル人の中で育ってきたというわけではないからな。これらを一つにまとめるのだ」

 とてつもない仕事になる。しかし、モーセが言う通り、民にとって自分たちが何者で、何故神に選ばれたのかを知ることは、神の教えに従うための重要な動機になるだろう。

「まずは、整理するところからですかね」

 カナン攻略の前に大仕事ができた。しかし、重要な意味を持つ仕事で、なんとしても仕上げてしまわなければならないことだと、ヨシュアは知った。

「それで、先生はこれらすべてに目を通されたのですか」

「大体はな。もちろん食い違うところもたくさんあるが、読み比べていくと大体のことは分かってくる。まず、神が天と地を創造された。すべてが、そこからはじまるのだ」

 モーセの最後の大仕事は、そうしてはじめられた。

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