第8話 優しい命令

駅から少し下って海べりの道を歩く。

入り江の奥なので波はほとんど無くて、タプタプと海面の揺らぐ音だけが聞こえてくる。

コンクリートで護岸されているが、覗き込むと熱帯魚みたいに鮮やかな青色の小魚が群れている。

ソラスズメダイという魚で、子供の頃によく捕まえた。

風は無く、潮の香りはあまりしない。

もう夕方と言っていい時間なのに、気温も下がらず湿度も高い。

嫌だなぁ……。

路の前で立ち止まる。

呼吸を整え、汗をかかないようにゆっくりと歩き出す。

真っ直ぐ進めば俺の家だが、左の坂道を選んだ。

緑濃い斜面が近付いてきて、振り返ると入り江が見渡せる。

民家の密集した辺りに俺の家の屋根も見える。

俺はデオドラント用品で汗を拭き、除菌ウェットティッシュで手をぬぐった。


坂道を上りきった先にある大きな建物は、葉月の家が営む旅館だ。

葉月の住まいは、その隣に付随物のようにあるが、それだって俺の家よりずっと大きい。

旅館の方を訪ねるべきか、家の方を訪ねるべきか迷う。

汗をかいたから、葉月本人には会いたくない気がする。

そもそも風邪で休んだのだから、本人は出てこない可能性が高いが、一目見たい気もする。

いや、気もするなんてあやふやなものじゃなくて、会いたい。

でも、出来れば両親には会いたくない。

当然というか、あの事件以来、葉月の両親は俺や哲也を快くは思っていない。

そりゃそうだろう、娘が泣きながら上半身裸で帰ってきたのだから、どんな悪さをされたのかと激怒するところだ。

勿論、俺と哲也は謝りに訪れた。

葉月から理由は聞いていたらしく、変な誤解こそされなかったがぶん殴られた。

子供心に植え付けられた怖いお父さんという印象は、高校生になっても拭えないもので、旅館を目の前にすると少し足がすくむ。

旅館の従業員さんに渡すのが、いちばん無難なのだが。

俺は鞄の中の、現国のノートと今日の授業のコピーを見た。

……。

別に今日でなくても、明日、学校で渡せばいいのにここへ来たってことは、つまり、そういうことだ。

俺は葉月の家の方へ足を向けた。


呼び鈴を押してからの十数秒が長い。

また手のひらが汗ばんできたように思えたので、ウェットティッシュで拭う。

引き戸のガラス越しに小さな影が見えて、俺は大きく安堵あんどの息を吐いた。

葉月のお婆ちゃんだ。

「ああ、和君、久しぶりだねぇ」

柔和な笑み、親しげな口調。

葉月のお婆ちゃんは、子供の頃から可愛がってくれた。

「葉月の見舞いに来てくれたの?」

「いえ、あの、これ、今日のノートです」

いつの間にか、子供の頃と同じ口調では話せなくなってしまったけれど。

「あらあらわざわざ。上がっていきなさい」

お婆ちゃんは変わらない。

昔みたいに、当たり前のように迎え入れてくれる。

「いえ、もう夕食時なので」

「じゃあちょっと待っててね。葉月―、葉月―!」

いや、ちょっと待って! 緊張が解けたところだったから心の準備が!

「なぁにー、おばあちゃ──」

玄関奥の階段から、寝間着姿の葉月が降りてきた。

あと数段というところで固まってしまったから、その可愛らしい姿を凝視してしまう。

「ちょっ、何であなたがいるのよ!」

葉月は身を隠そうとでもするように、その場でしゃがみ込んだ。

ちくりとドキドキとぽわーんが同時に訪れて、何故だか駆け出したくなる。

「あの、今日のノートのコピーと、借りてた現国のノート……」

「もう、そこに置いといて!」

いつもの冷ややかな表情が影をひそめて、子供の頃の葉月が顔を覗かせる。

夏の陽射しと海風と、真っ白なワンピースと青い海。

「葉月! お、俺……」

あれ? 何を言おうとしてるんだ?

思考が停止して言葉に詰まる。

高まった感情が胸をふさいで、呼吸すら止まってしまいそう。

「なに?」

葉月は、少し優しくなった口調で言い、小首を傾げた。

「いや、その、ノートありがとう。じゃ!」

駈け出そうとする。

でも──

「待ちなさい」

優しく命令された。

その声に、俺は絶対に逆らえない。

あらがうどころか、喜びでしかない。

俺は振り返った。

葉月が目の前にいた。

「えい」

「わぷっ」

顔面に噴射された霧状の液体。

下駄箱の上に置かれていた、除菌アルコールスプレーであることは直ぐに判った。

食用にも使えるものだけど、吸い込んでしまったのでき込む。

「こらっ、葉月!」

お婆ちゃんのしかる声。

「気を付けて帰るのよ」

そしてまた、優しい命令口調。

君はいつもそうだった。

遊び疲れた夕凪ゆうなぎの静けさの中で、お姉さん風を吹かせて、たおやかな笑みを浮かべて言っていたのだ。

──和くん、気を付けて帰るのよ──

ああ……。

失くしてしまった宝物を見つけたみたいに僕は子供に帰る。

でも子供にはなりきれずに、せたフリを続けて目尻が濡れるのを誤魔化した。


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