第4話 帰り道

帰りの電車は、朝のようにみんな一緒というわけでもない。

一時間に一本走っているから、その日の都合によって十六時から十八時台の電車を選ぶ。

十六時を過ぎたばかりの駅は、まばらに人影があるだけで、改札横で駅員が所在無げに立っていた。

美澄が手を洗う仕草をする。

「なんだ、トイレか」

ポカポカと俺を叩いてからトイレに入る。

小さい頃は一緒に野ションすらしたことがあるのに、今さらトイレくらいで恥ずかしがられてもと思うが、そういう年頃になったのだとも思う。

現に俺も、美澄を可愛いと思ったり、ドキッとすることが増えた。

ただ、その「ドキッ」に痛みを伴うことは無い。

──あ。

視野の隅に、葉月の姿を捉える。

ちくしょう、ちくりとしたじゃねーか。

何でかなぁ。

毎朝同じ電車に乗って、毎日同じ教室で授業を受けてるというのに。

「おい葉月」

俺の方など見向きもしないで通り過ぎようとするから、つい呼び止める。

「何よ」

あれ? 無視されると思ったのに、立ち止まって返事までしてもらえるとは!

呼ばれたから返事をするという、人として当たり前の対応が、平伏ひれふしてしまいたいくらいに嬉しい。

「元気か」

俺の会話のセンスは絶望的だった。

「ええ」

あれ? なんか優しい!

これがもし布団の上なら、俺は足をバタバタさせているだろうし、机があったらドンドン叩いているはずだ。

しかし冷静に考えると、葉月は「ええ」と言っただけである。

「あなたは?」

……コイツも会話のセンスが無いようだ。

「まあ」

「……」

「……」

会話が終わってしまった。

「美澄は、トイレ?」

まだ続いた!

「あ、ああ」

葉月はスマホを取り出す。

終わった……。

でも、待ってくれるのだろうか?

どっちにしても同じ電車に乗ることになるのだけど、俺らに合わせるという態度を取るのは珍しい。

「う……はづ……ゃん」

美澄がトイレから出てきた。

周りに人がいないときは、美澄も少しは声を出す。

葉月は、俺には決して見せない優しい笑顔で美澄を迎える。

トイレから出てきたところなのに、葉月に笑顔を向けてもらえるのは羨ましい。

俺の場合なら、そうはいかない。

「俺もトイレに行ってくるわ」

ほら、案の定、汚い物でも見るような顔をされた……。


葉月に合わせて、運転席の後ろに立つ。

「座ればいいのに」

俺も美澄も首を振る。

朝は同じ電車に乗り合わせてるだけ、という気がするが、今は一緒に帰っているのだと思える。

もっとも、帰りもいつも同じ電車ではあるのだ。

こんな田舎だから、葉月は有名人でもある。

地元は当然のことながら、高校のある町でも葉月の美貌は知れ渡っているし、電車の中でも葉月に向けられる視線は多い。

もし声を掛けてくる男がいたら──

葉月の性格を考えると、トラブルの心配は尽きない。

だからまあ、帰る方向は一緒なのだし、同じ電車に乗ることはストーカーでも何でもない。

たとえ葉月が学校の用事で遅くなって、俺が駅のホームで二本の電車を見送ったとしてもだ。

葉月との距離は一メートル弱。

慣性の法則に逆らわなければ、一気にゼロまで詰められる距離だ。

こんなに近寄れたのは久し振りかも知れない。

いつものような警戒心を、今は解いているのだろうか。

電車の揺れに合わせて、さりげなく一歩踏み出してみる。

あからさまに二歩下がられた。

「葉月」

「何よ」

「海が綺麗だ」

何言ってんだ、俺。

でも、見慣れた海が、ごく稀に、とんでもなく綺麗に見えることがあって、まさに今がそうだった。

優しくたわむれてきたり、恐ろし気に牙を剥き出してきたり、俺の中にある感情みたいに激しく移ろうのに、こんな風に俺の中に無い綺麗さを見せてくれる。

「そうね」

葉月はぽつりと答えた。

ほんの少し口許をほころばせた横顔は、一緒に遊んでいた頃と同じに見えた。

葉月に触れたのは、いつが最後だっただろう。

昔から触れられるのは嫌がっていたけれど、あの事件、というか事故があるまでは、からかうようにタッチしたりしていた。

葉月も心から嫌がっていたわけじゃなくて、もう! なんて言いながら、追いかけてきたりした。

あの時、もし葉月が服を脱いでいなければ、もし俺が葉月の裸を見ていなければ、もしかしたら次の日からも同じように過ごせたのかも知れない。

今となれば、こんな綺麗なものに触れていたのか、なんて思う。

俺は葉月に向かって手を差し出した。

「?」

「現国のノート、貸してくれ」

あの授業中、俺はノートを取っていなかった。

それに、葉月に触れることは出来なくても、葉月の触れたものに触れたかった。

「嫌よ」

「……」

やはり拒絶か。

「美澄の声にうっとりしていたのが悪いんでしょう?」

あれ? 拒絶とはちょっと違う?

「……はづ……ゃん、や……もち?」

「何で私がこんな薄汚──」

トンネルに入る。

が、薄汚いまでは聞こえたぞ。

──トンネルに入っちゃったね。

美澄が手での会話に切り替える。

右手の人差し指と親指で輪っかを作り、左手の人差し指をそこに差し入れる。

色々と問題があるから、トンネルをそんな風に表現するのはヤメロ。

前方の白い点が輝きを増して、トンネルの出口が近付いてくる。

美澄は「もうすぐ出るよ」と伝えたいのか、人差し指を激しく出し入れした。

俺はダメだ。

美澄は無邪気な顔で話し掛けているだけなのに、ずっぽずっぽという擬音が脳内で再生されてしまう。

それだけじゃなく、葉月の唇や、その胸元に目を向けてしまった。

綺麗だけど、それだけで納まらない感覚を連れてきてしまう。

出た。

いや、トンネルからだ。

「確かに、俺は薄汚いな……」

また窓の外に広がった海を見て、俺は自己嫌悪におちいる。

「ちょ、そんな真剣に受け取らないでよ」

「いや、葉月の言葉でそう思ったわけじゃ無いんだ」

「……?」

「いいんだ」

俺は賢者モードになってしまった。

また子供の頃に戻りたいなんて思うのは、ただ純粋に綺麗だと思って葉月を見ていた、あの頃の瞳を取り戻したいからだ。

「海は、綺麗だな」

そう呟くと、葉月と美澄が顔を見合わせて、少し困ったような顔をした。


電車を降り、無人の改札を出る。

葉月が鞄からノートを取り出し、俺の頭を叩くようにしてそれを寄越す。

「じゃ」

途中まで同じ道のりなのに、葉月は先に歩いて行ってしまう。

また胸がちくりとした。

いや、きりきりと痛い。

俺は受け取ったノートを、丁寧に鞄に仕舞った。

美澄があまりにも柔らかな笑顔を向けてくれるものだから、また俺は綺麗になりたいと強く思って、何故かうつむいて歩いた。

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