8.子犬とホームレス



 ある日、子犬を拾った。


 マルチーズだ。捨て犬らしい。段ボールの中、雨にさらされて弱り切っている。


 私には家もなければ、金もない。人びとは、私をホームレスと呼ぶ。


 しかし、見捨てる事は出来なかった。優しさや愛情も知らずに死なせるなど、あまりにも可哀想ではないか。



 濡れた子犬を抱きあげ、その不細工な顔を見つめる。



 何も知らない子犬は、物珍しそうに眼を見開いた。濡れた瞳で、じっと見つめ返してきた。



 自分と同じ名前をつけて、エベルと呼ぶとしよう。



 私には、毛布にくるんでやり、ひとかけらのパン、一杯のスープを分け与える事しか出来ない。



 だが、小さな体にはそれで十分だった。


 一週間後にはすっかり元気になり、夢中でテントの周りを走れるようになった。



 エベルは私がどこへ行くにしても、ついてきた。


 エベルとの間に、親子のような絆を感じた。それでも、自分の犯した罪からは目を背けられなかった。



 私のような者がこの子を飼うなど、飢えと寒さを与える事以外の何でもないではないか。


 私はこの子の未来を奪おうとしていたのだ。


 ホームレス。


 それは私にとって、孤独と後悔の奈落だ。一度落ちれば、出られる事はない。



 エベルを脇に抱え、裕福な家を一件一件訪ねる。



 だが、返事のかわりに返ってくるものは冷たい視線、あるいは鼻の先でドアを閉める音だ。


 

 心当たりのある家を尋ね尽くして、手遅れだと気付いた。



 私は無力な子犬をホームレスという名の呪いで縛ってしまったのだ。


 


 公園のベンチで、隣にちょこんと座ったエベルは、あまりにも無邪気だった。


 ただ一心に首をかしげ、濡れた瞳でじっと見つめ返してくる。


 


 数年がたった。


 


 偶然で結ばれた絆は、掛け替えの無いものになった。



 私はエベルを愛していた。エベルも知ってか知らずか、変わらずに汚れの無い瞳をクリクリと輝かせていた。私の行動を一つも見逃さない、といった態度だ。


 

 来る日も来る日も、ゆったりとした時の中、思い思いに互いを見つめた。


 

 魚を釣ったときには、その活きの良さにエベルが逃げ出した。それを見ると、私は豪快に笑うのだった。



 それなのに大きな犬に立ち向かう勇気に脅かされた事もある。別の日に木から降りられなくなった事も、私は思い出のアルバムとして、胸の奥にしまった。



 こんな日が永遠に続けばよいと思ったのは、生まれて初めての事だった。愛という物を教えてもらったのは、私の方であった。



 しかし、別れは近くまで忍び寄っていた。



 ある日突然意識を失った私は、次に目覚めた病院で医師に告げられた。 


 癌だという。



 入院するお金も無ければ、看病をしてくれる人もいない。



 終わりが来たみたいだ。



 とうの昔に死ぬ筈だった身だ。死を悟る事は苦しい事ではない。


 

 ただ一つ、エベルの事だけが気がかりだった。



 私が死んだら誰がそばにいてやる?

 


 私が死んだら誰が食べさせる?


 

 私がいなくて、誰がこの子に綺麗な景色を見せてやるのか?


 

 この数年が与えてくれた物。それは絆だった。友情よりも固く、親子愛ほどに単純で深い絆であった。



 数日が経って、私はすっかり痩せ衰えたが、またと無いチャンスが巡ってきた。


 エベルを飼いたいという少女が現れたのだ。


 人のものだ、諦めろという父親の胸にエベルを押し付けた。


 エベルは鳴いた。


 それは、裏切り者をそしる様な乱れた吠え声だったが、私にこれ以外の道はない。


 

 すぐにでも取り返したい、という衝動は耐えたが、溢れだす涙を止める事は諦めた。


 

 これでいい。


 これで私は安心して死ねる。


 

 数日がたち、数週間がたった。


 随分と衰えの速いものであった。食べ物が喉を通らない。喉が締め付けられる様だ。


 どうやら老いという物は、精神の若さが遅らせる物らしい。


 エベルを失って、私の心には空虚しか残らなかった。


 以前そこにあった物が、今は無い。傍にあの子が居ないというのは、どうも奇妙な事であった。


 家族を失う事が如何に胸を締め付けるのか、私は全く忘れていた。


 来る日も来る日も病は体力を奪い、冬の寒さは体温を奪った。


 そして、命がつきて眠ろうかという時、何かが頬に当たった。



 それは頬を滑り、口元に達し、無理やりに押し込められた。


 

 パンだ。



 私はむせて、眼を開けた。


 そこには、犬がいた。


 数年前の雨の日、ひとかけらのパンを与えたあの犬。


 紛れもなく、エベルだった。



 段ボールでこしらえた枕の隣にちょこんと座り、ただ一心に首をかしげ、こちらを見つめ返していた。


 

 心の底から、感嘆が湧き出た。それはあっという間に喉まで押し寄せ、涙となって目から零れ落ちた。


 

「可哀想に。お前も何も食べていないのだな」もはや声も出せないので、一心に眼で伝えた。


 

 哀れな曖犬は痩せこけ、その足は長い旅と雪の冷たさからか擦り切れていた。


 


 エベルは数年がたった今も、あの日の事を覚えていたのだ。一時も忘れた事は無かったのだろう。


 


 私は死の間際に悟った。


 


 濡れた瞳は、ずっと語っていたのだ。


 


「ありがとう」と。

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