第62話 狭依と道士

 宜阿弥の舞から一夜明けた。男どもの大半が城を空けた梅雨の日を女たちは退屈に過ごしていた。朝から城下は篠つく雨に降り罩められて、誰もが外へ出るのを諦めている。

 ひとり長屋から雨の庭を眺めていたふみに、すぐ来るようにと多佳からの遣いが来たのは午も過ぎた頃だった。


「どうしたのよ、そんなあわてちゃってさ?」

 庭の紫陽花から目を移して訊くふみを、彌生は問答無用で長屋から連れ出した。雨に濡れ、裾に泥が撥ねるまま母屋に辿り着くと、多佳と千鶴が立ったまま待っている。


「ふみ、狭依が」言いながら多佳は巻紙をふみに渡した。

「狭依がどうしたってのよ?」

 ただごとでない空気を、なにも考えないようにと努めながらもふみは、気が急くまま追いたてられるように文字を追った。見る見るふみの顔が凍りつく。

「うそだ」感情のない小さな声で呟いて、すぐ顔を上げると稲妻のような剣幕で多佳に噛みついた。

「誰が持ってきたの、これ⁉いつ届いたの?」

「つい先刻よ、誰だかは知らないわ」

「許さない…許さない!あたし行くわ!どこ行きゃいいの⁉」

 紙をぐしゃぐしゃっと丸めるふみの手をとって、

「落ち着いて、ふみ。妾も従いてく、大丈夫よ」



 その文には、道士たちが狭依を捕らえたこと、その身柄はふみと交換で返されるべきことが記されていた。


 城下に遣いした狭依に道士が近づいてきたのは、唐人町にあるなおしの屋敷の目の前だった。

「お前がふみちゃんの妹だね?ふみちゃんがこの先の辻で呼んでるよ、荷物抱えて難儀してるから来ておくれって」

「姉ちゃが?」ふみは城に居るはずと思いながらも狭依は、ひとを疑うことを知らないひなの心根のままに、素直に道士に従いて行った。

 やがて辻を曲がり人目が絶えたところで、前から駕籠がやって来るのが見えた。こんなところに駕籠が?と不思議に思った狭依の口を、突然に道士が押さえて手足を縛ると、そのまま駕籠のなかへ押し込み町の外へと連れ出したのだった。



 文には、母智丘もちおの中腹にある祠が交換の場所と指されていた。多佳たちに囲まれながら母屋を出ると、ふみは天を睨んだ。

 ふみの出立を邪魔するのを憚るように、朝から降りつづいた雨はあたかもこのとき小止みになったが、皐月の空はまだ雨模様で霧のような小雨が身に纏わりつく。露を受けて庭の茶ノ木の若葉が緑に萌えるなかをふみは、ほとんど走るように進んだ。


 長屋へは戻らずそのまま橋を渡って本丸を通り、二ノ丸を抜ける。伊吉たちが日頃修練に励む二ノ丸では、盛りを過ぎた躑躅つつじが雨に散る前の花を真っ赤に燃やしている。

 大手門を出てしばらく進むと彌生は一行と別れ、なおしの屋敷へ助勢を請いに奔った。ふみには多佳と龍太が附き添う。懐妊の兆しを見せていた千鶴は城に残った。


 急ぐふみに従いて速足になりながら、多佳は狭依を救い出す算段を頭に描いた。

「豊も伊吉も虎も、みんな戦に出て留守なのが痛いわね」

「留守を狙ったんだろうね」

「早く行かなきゃ。あの子きっと泣いてる。狭依になにかあったらあたし――」

「大丈夫よふみ、酷いことなんてしやしないわ、大事な人質だもの」



 多佳の言葉の通り、丘の中腹の祠に連れ込まれた狭依は窮屈な思いはしていたものの、手荒な扱いを受けることなく、むしろ歓待されているとも云えるほど、老人たちの和やかな笑顔に囲まれていた。

 百年もの年輪をその皺に刻んだような道士たちは揃って豊かな白髯を揺らして、狭依に背を向けるとなにやら相談を始めた。互いに漢語で話す彼らがなにを話しているのか、狭依には分からない。


「その娘に妙なことするなよ、仙女の機嫌を損ねては厄介だ」

「娘を攫った時点で敵対してるようなものじゃがな」

「まあまだ話しようはあるさ」

「来るかのう?」

「来るさ、えらい可愛がりようじゃったぞ」

「なんだって卑しい人間の子なぞを」

「いや待て、只の人間じゃないかも知れんぞ?」

「慥かに。しかも十年以上も共に暮らしておれば、少しは霊力を身に帯びたやも知れぬな」

「……試してみるか?」

「どうやって?」

「なに、ちょいと躯の一部を切って、もしさっと癒えればそれこそ仙女の力のしるし

 そう言うと揃って振り向き狭依を見た。七人もの老人が一斉にこちらを見るのに狭依は心持ち気圧され、一歩後退あとずさる。


「怖がることはないぞ、ちょっと手を借りたいだけじゃ」

「手?」

 自分の手と目の前の老人の皺だらけの手とを見比べた。

「そう、ちょいと手を前に出しておくれ」

 人の好さそうな笑顔につられて狭依も脣をほころばせた。誘われるまま右手を前に差し出す。と、その手をぱっと横から掴まれた。いつの間にかひとりの老人が小刀を握っている。


「なにするの?」と引こうとした手の甲に小刀が触れ、一条ひとすじの線が走って忽ち血の雫が泛んだ。

「痛いじゃない」

 愬える狭依を無視して道士たちはきずの様子を一心に見る。だが狭依の創口は鮮やかに赤い血を流しつづけ、塞がる気配はなかった。

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