第2話 城の住人たち

 ふたりから姉ちゃと呼ばれる童の名はふみといった。

「ふみって小っちゃいのに気が強いのね。虎の奴は――ああ、あんたに突っかかった侍が虎之介っていうんだけど、あいつああ見えて強いのよ。城下であいつに喧嘩売ろうなんてのはそういないから、爽快だったわ」

 広縁に三人を腰かけさせると多佳は、侍女に盥と手拭を申しつけ、自身は狭依の隣に座って咲みを見せた。

「でもこんな跳ねっ返りの子と一緒じゃたいへんね」

「慣れてるから平気。それに心強いこともあるのよ。姉ちゃがいなきゃ、あたしたちきっとここまで辿り着けなかった」

「ああ、また“姉ちゃ”って言ったね。なんでふみのこと姉ちゃって呼ぶの?」

 なにしろどう見ても、三人のなかではふみが最も幼い。

「だってあたしたちの姉ちゃだもの。兄ちゃもあたしも、姉ちゃに育て――」

「狭依」得意げに多佳に答えようとする狭依を遮って、ふみは肩をすくめた。「まあ複雑な事情でね。面白がってこの子らが姉ちゃって言うのさ」


 その複雑な事情とは…? と多佳が問おうとしたちょうどそのとき、本丸での評定を了え居館へ戻ってきた城主時久が櫓門に姿を現した。そのまま従兄弟の通久と大声で談笑しつつ庭を横切ったところで、軒先に多佳が見慣れない者どもと並んで座っているのに気づいた。

 乱世にあっては領主の館といえど豪奢なものではないが、南九州に覇を唱えつつある家門の一流として恥じないだけの風格は示す居館の佇まいにはおよそ似つかわしくない子供たち、と時久は眉をひそめた。継ぎはぎだらけの衣を着、この暑い盛りに山の民が着るような裘を羽織るふみたちのうすよごれた姿は慥かに、白木の匂う広縁や、庭に植わった常盤ときわの濃緑が夏の陽に清しいのとあまりに対照的だ。

 だが多佳の、気に入った者は流れ者だろうと下賤の者だろうと厚くもてなす気紛れに馴らされた時久は、軽くため息を吐くとただ淡い好奇心で娘の新しい客を眺めやった。


 多佳の隣に腰かける小娘と童はまだまだ幼く、時久が食指を動かすには足りない。それよりも目についたのは端に座った大柄な少年だった。女三人の話すのに退屈した無聊に、折しも庭に迷いこんだ猫を眺める眸があまりに無心で、それが狂人か痴呆のように見えた。あるいは梟雄の雛か? ……ふと心に浮かんだ直感に、時久は我ながらおどろいた。

「多佳や。その者たちは誰ぞ?」

「いま問うているところなのです父上。市庭で豊と虎がかまって怪我させたのですよ。虎の乱暴は大人になっても直りませんね」

 父から通久へと視線をうつして多佳が言った。苦笑いする通久は、虎之介の父である。

「はっは、またやりましたか。しかし多佳姫に叱られては虎之介も懲りたろう!」時久と目を合わせて笑い、「償いにあとで菓子でも届けさせるからお恕し下され多佳姫」露ほども悪いと思っていない陽気な声で言った。

「虎はあれで良いのだ。あれは、触れなば斬り散らさんほどの研がれた一口ひとふりの刀でなければならぬ。であればこそ戦場で物狂いの働きが出来るのだ……あれは良い侍だ」

「過分のお誉めを。しかし欲を云えば、あれの前でお言葉を頂きたいところだ」


 そこへようやく下女が盥に水を汲んできた。ひとりで担ぐには重かったと見え、用を申しつけに出かけた侍女の彌生が、年少の下女に手を貸している。頸筋に汗を光らせ覚束ない足どりでこちらへと歩んでくる姿は昼の陽の下ながらになまめかしい。

「通久さま」男ふたりの好色な視線を察して多佳が軽く注意するのに肩をすくめてふたりは歩きだしたが、立ち去り際に時久が多佳へ声をかけた。

豊相とよすけが怪我させたのなら、当家の責だな。しばらく泊めてやるがよい。長屋に空きの部屋があっただろう」

「え、良いのですか?」

 多佳が父の言葉におどろいたのは、時久は多佳の振る舞いを黙認はしても面白くは思っていない証拠に、常々決して多佳の交友に関わろうとはしなかったのが、今度に限っては邸内に泊めよとまで言ったためだ。思わず父の顔色を占おうとしたときには時久は梧桐の葉の陰に姿を消していた。


 彌生に伊吉の怪我を看させて、多佳は手拭に水を含ませるとふみの額を拭った。ふみが手でこすったのかところどころ指紋の痕になっている黒く乾いた血を拭うと、下からあらわれた額の傷口は塞がったと見え、新たな血が出る気配はない。

「思ったより浅かったのね。これなら痕も残らないわ」ふみの額を撫でて多佳がほっとした声で言う。


 百年つづいた動乱は日本国じゅうに及んで、北郷の城下町も無論その渦中にある。だが他の多くの国では生産力と武力とを直接掌握した在地の豪族が旧来の領主を放逐して次々と実権を握っていったのに対して、多佳の家門は遠く頼朝公以来の屈指の名門の旗を地に踏みにじらせることなく南九州に牙城を守っていた。

 宗家の嶋津から岐れて十代目に当たる時久は動乱の世にあって叛旗を翻すどころかますます宗家との連携を密にし、一門の覇業の走狗となると同時に自身の版図を旺んに広げてもいた。自然、城下は常にどこか戦の煙が漂う。その血と鉄との混じった匂いは、もとより武張った隼人の地の人びとに蟲毒として作用し、人の生命身体を軽んずるばかりかあたら自身の命さえ捨てることを美しとする風にひたされていた。


 その匂いの中心に住まう多佳が蟲毒から免れ得ないのは当然だが、多佳が他と一線を画するのは、武勇よりも智略に重きを置く点にあった。既に京に織田が傀儡将軍を立てていたこのとき、都のあたりでは特段珍しいことでなくとも、嶋津家中にあって多佳の思考を理解する者はまだ多くない。


「虎には気をつけなさいよ、本当に」ふみの額の傷口は洗うだけで十分と見て手当を切り上げると自身の手を盥に浸けて言った。

「今日は祭りで機嫌がよかったからいいけど、ちょっと虫の居所が悪いと人を斬りかねない奴だから」

「あれで機嫌がいいの?」

「そうよ、あんたたち運がよかったわ」

「普段だったらどんな反応するのかな。ちょっと見てみたいね」面白そうに言うふみに、

「止してよ。ほんとに血を見るわよ」それから伊吉を見て附け足した。「そうでなくても、伊吉なんか狙われちゃうわよ。虎を倒してしまったから」

「恨まれてる?」案ずる顔で多佳を見上げた狭依に、

「そんな曲がった男じゃないわ。ただ短気なのと、それと強さへの拘りが強すぎてね。自分が負けるってことが我慢ならないのよ。今日のことも、はじを雪ぐまでは薪の上にでも寝て気合を入れるんじゃないかしら」

 わらって言うと、父の許しを得て泊めることになった使用人の長屋へと案内するよう彌生に申しつけた。


 三人を案内する彌生は廿二にじゅうに歳、多佳より二つ齢上に当たる。拾四の春から多佳に仕えているが、まだほんの子供だったその頃から多佳の才気は周囲を圧して、八年経ったいまも彌生は心のどこかに多佳への畏れを消しきれなかった。それは領民の生殺をも左右できる主人の権力への畏れもあろうが、身分の違いより前に、考え方感じ方が違う異世界の人間を見る思いがするからだった。これは例えばお世継ぎの豊相や、城主の時久にさえ感じることのない類の畏れだった。

 とはいえ長年身近に仕えて多佳のやさしさ情の深さはよく知る彌生は、主人を好いてもいた。その主人が保護した客人に親近感をもつのも自然というもの。

「良かったわね、あんたたち。しばらくお城で骨休めしてくといいわ。分からないことあったらなんでも訊いてよ」

「城のなかに邸があるなんて、豪気だね。ひょっとして多佳って、いい身分の子?」無邪気に言うふみに、

「多佳さまはこのお城のお姫様ひいさまよ。お父君の時久さまは庄内一帯を治める殿様なのよ。この城下で、いちばん偉い女人といえば、多佳さまなんだから」知らなかったの? と彌生は呆れ顔をする。

「げ」ぽかんと口を開けふみは、一瞬絶句した。「むむむ。姫様に失礼な言い方しちゃったかな。だってあの子、ぜんぜんお姫様っぽくないんだもん」と言った後あわてて、「あ、これもまずいか。いまの内緒よ」

 彌生はけらけらと笑って言った。「大丈夫よ、うちの姫様はそんなこと気になさる方じゃないわ」

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