けして泣いてはならぬ

久里 琳

第1話 水無月、市庭で童女が侍と諍う

 六月燈ろっがっどうの祭りに浮かれる市庭いちばで騒ぎがもち上がったとき、ちょうど多佳たかは小姓と侍女を従えて、城下を漫ろに歩いているところだった。


 霧島山麓の庄内盆地に長く根を張り今しも勢威壮んな北郷ほんごう家当主の長女である多佳は、幼い頃から軽やかに城下を散歩しては周囲をあわてさせていたのだが、時を経て美しく成長した多佳の散歩姿はいまや城下の者どもに日常の光景となっていた。


 梅雨が明けたばかりの快晴の日だった。夏の盛りの市庭に天頂から陽が人びとを灼くなか、城のすぐ裏を流れる大淀河からの風が涼しい。その風は古来幾度もの洪水を経て平らになった田畠の上をなにものにも邪魔されることなく吹きすぎ、あたりを睥睨する大鳥居をくぐって一ノ宮にまで至る。一ノ宮と城のちょうど真んなかあたりに市庭は位置していた。


 市庭で侍たちを相手に悶着を起こしていたのは遠目にもみすぼらしい身なりの三人連れだった。女ふたりはまだ子供と呼ぶべきだろう。ふたりを守るように長身の男がうしろに立って、周囲をにらむ。しかしよく見ると、男の貌つきは意外なほどに幼い。とすれば戦乱の世に親を亡くして子供三人、どこぞから流れてきたのか。三人の身の上を推しながら多佳は野次馬の人垣を押し分け前へ出た。


 見ると往来の真んなかで色鮮やかな直垂姿の若武者どもを相手に啖呵を切るのは、三人のなかでも最も幼い童。齢は拾歳じっさいかそこらだろう。

狭依さよりにちょっかい出すんじゃないよ、ばか! 侍なんかにくれてやるつもりはないんだ!」

 童の傍らでは狭依と呼ばれた娘が顔をすっかり朱らめて全身を固くしている。


 軽いいたずら心で狭依へからかいの手を伸ばした若武者五人連れは、もとよりうすぎたない衣を身にまとう小娘に執着あるわけではないが、往来で下賤の童女に罵られたとあっては捨て措くわけにいかない。短気なひとりが思わず腰の刀に手をかけるのを隣に立っていた侍があわてて制し、

「言葉には気をつけろ。童とて容赦すると思うなよ、次は斬るぞ」脅しつけるように言った。「さあ詫びれば赦してやる、赦してやるからとっとと詫びろ」

「詫びろだってえ?」

 恐いもの知らずの童がまだなにか毒づこうとするのを狭依がうしろから両手を伸ばし口を塞ぐ。

「姉ちゃ、もう止して、この町に居れなくなってしまう。あたしもう歩けないよ」

「でも狭依、口惜しいじゃないか、お前が遊びかなんかみたいに扱われるなんてさ。お前の心はこんなきれいだってのに」

 まだ半ば口を押えられたまま狭依を見上げて童が言う。狭依は齢の頃拾四五じゅうしごというところか、まだ娘になりきれていない躯は線が細いものの手足は伸びきって、幼い童よりは頭ひとつ分背が高い。


「謝っとこうぜ姉ちゃ、それで済むってんだから」うしろの大柄な少年が言うのを振り返って、

「あ、こら伊吉、お前までそんなこと! 姉ちゃがこんな口惜しいってのに、お前は狭依が辱められて平気なのかい?」

「ちょっと頬を触っただけだろ、辱めるってのは大袈裟なんじゃないか? そんないけないことかな?」

「ああいけないね! 狭依の肌はそこらの男が簡単に触れていいもんじゃないんだ。それをこんな」童は地団駄踏んで口惜しさを全身に表す。

「それをこんな、なんだ?」

 さっき刀に手をかけた侍が一歩前に出た。負けじと胸を反って前に出る童をうしろから狭依が押さえて、

「ごめんなさいお侍さん、ほらこの通りだから恕してちょうだい」

 童の頭をむりやり下げさせ、自分も腰を折って深く頭を下げる。つられて伊吉もうしろで頭を下げた。

 それを見てひときわ鮮やかな青の直垂に身をつつんだ侍が一歩前へ出、短気の侍の肩を叩いた。

「これでいいだろう? 餓鬼どもにこれ以上かかずらってもしょうがないぞ。さっさと遊びに行こうぜ」


 だが肩を叩かれた側の侍は怒りをまだ収めきれないらしい。盛夏の暑さに濃藍の直垂を着崩し胸をはだけ、赫い貌に目を怒らせた様は山門の仁王を思わせた。大きく見開いた眼で童の顔を睨むと、ふいとその無骨な貌を横へ背ける。気がすまない様子なのを、別の侍も宥めにかかった。

「恕してやろうぜ、祝いの日を血で穢すと通久さまに叱られてしまうぞ。それは虎もいやだろう?」


 侍同士で話すのを、下げた頭から狭依がちらと目を上げ覗くと、間に立った青の直垂の若侍と目が合った。さかんな戦乱に磨かれた、若く猛った貌のなかに強く光る眸にうたれて、狭依はあわてて目を伏せた。

 夏の陽を照り返す明るい土の上に、若武者五人の腰から下だけが目に映る。各人各色の袴が鮮やかに映えるなかにも青の直垂はひときわ衣の折り目が美しい。


 虎と呼ばれた侍は、連れに宥められると宙を睨んで、

「ふん、こいつに免じて赦してやる」深く息を吐いて傍らの青の侍の胸を叩くと、もう童たちの方へは顔も向けない。さっさと先頭に立って歩き始めた。

「以後、気をつけろ。赦すのは今回りだからな」

 宥めた侍はそう言うと童たちに背を向け虎のあとを追う。多佳はほっと気を緩めた。そこで初めて多佳は、幼いなりに似合わず威勢よく啖呵切る童女にいつの間にか肩入れしていたことに気づいた。

 周りの野次馬たちも半ばはほっとし、あとの半ばは流血もなく済んだ幕切れに無責任にも物足りなさを感じながら散ろうとしていたところで、幕かと思われた悶着に最後のひとやまがあった。

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