イマジナリーアルバム――もうひとつの音色

山根利広



「お嬢さん、このスイートピーはいかがかな」


 郊外にある花屋を通り過ぎようとしたとき、腰の曲がった店主らしきおじいさんが、わたしに語り掛けてきた。


「スイートピーの花言葉は、再会、だ。お嬢さん、会いたい人がいるのじゃろ」


 わたしの足が止まった。忘れようとしていた記憶が蘇る。ついさっき営まれた桐生ノエルの葬儀、それから、彼と過ごした日々。おじいさんは、ひとつ咳ばらいをした。


「ちょうどひと鉢、売れ残っておる。お代はいらないから、お嬢さん、このスイートピーを持っていきなさい。これはね、魔法のスイートピーじゃよ。まだ蕾をつけておるが、この紫色の花がひらいている間は、思い出のなかに戻れるのじゃ」


 わたしはおじいさんが話しているあいだ、そのスイートピーを食い入るように見ていた。

 小さな蕾が、花ひらくときを待つように、いまにも咲かんとばかりに、わたしを待っているように思えたからだ。


「持っていきなさい。やるといったものは、もらっておくもんだ」


 おじいさんはよぼよぼと鉢に手を伸ばして、それを持ち上げようとした。握りこぶしひとつ分の鉢だったが、おじいさんはわずかにそれを台からずらすことしかできなかった。わたしは慌てて鉢を受け取った。


「……ありがとうございます」


 わたしはようやく、おじいさんの顔を見た。おじいさんはにっと笑うと、


「素敵な思い出になるといいのう」


 と言って、ひとつ頷いた。




*




 難病だと診断されたとき、ノエルに残された時間はもう長くなかった。それはつまり、わたしたちはもうすぐ、不可逆的に破局を迎えてしまうことを意味していた。


 2007年の4月。右脚が硬化して動かなくなったノエルの車椅子を押しながら、わたしたちは川沿いの桜並木を歩いた。

 一斉に咲いたソメイヨシノの花弁が、風が吹くたびに、宙を泳ぎながら地に落ちた。コンクリートで舗装された歩道には、押し花のような淡い白が散らばっていた。


「おれの脚が動いていれば、カリンを自転車の後ろに乗っけたんだけどな」


「いいの。ノエルとここにいることが、わたしは嬉しいの」


「ははは。……でも、ちょっと怖いな。こないだまでふつうに動いてた脚が、突然固まるなんて。そのうち手も麻痺するのかな」


 わたしの足はぴたりと止まってしまった。ノエルは冗談めかして言ったのだろうけれど、その台詞は現実味を帯びている。ノエルはややあって、


「いやいや。でも、もし身体が動かなくなっても、カリンがいてくれたら心配ないか」


 と、場を取り繕った。


 そのとき、強い風が吹いた。花吹雪が縦横無尽に吹き荒れた。映画のラストシーンみたいに。

 わたしは頬に落ちてくる涙をできるだけノエルに見せないようにして、車椅子のハンドルを強く握って、走り出した。


 車椅子はだんだん加速して、ノエルはごとごと揺れた。


「あはは。おいおい、カリン、早すぎるって」


「ちょっとは自転車っぽいよね、これ!」


 平日の閑散とした遊歩道を、笑い声とともに車椅子が走り抜けていく。それは一種異様だろう。けれどわたしは全力だった。


「カリン、楽しいな!」


「まだまだだよ!」


 息を切らしながら、わたしはまた涙を流した。





*





「カリンといると、あっという間に人生が終わりそうで怖いなあ」


 放課後のグランドの片隅。制服のブレザーを脱いでカッターシャツ姿のノエルと、柔らかめのサッカーボールをパスしているわたし。

 その日は、ノエルが抱えていた病気が見つかる少し前だった。


「でも、長生きしてよ。わたしより先に死んだら、ぜったい許さないよ」


 わたしはボールを強めに蹴った。大きくバウンドしたボールは、ノエルを飛び越えていった――かと思うと、ノエルがゴールキーパーよろしく、跳ねて両手でキャッチした。


「すごい! ノエル、やるじゃーん!」


 着地したノエルはしかし、その反動で上体のバランスを崩し、転倒してしまった。ボールはころころと場外へ転がっていった。


 わたしは笑いを堪えきれず、ノエルを指さして、膝を叩きながら、


「やっるじゃーん!」


 と、叫んでやった。のろのろと立ち上がるノエル。


「カリン、お前なあ」


 小走りでノエルがわたしの方に駆けてくる。それから、両腕でがっちりわたしを捕縛した。痛いぐらいに締め付けられた。


「あーちょっと、痛い痛い、離せってノエルー!」


 わたしは首をぶんぶん振った。そのとき、グランドの土と汗の匂いに混じって、ノエルの匂いが強く感じられた。

 




*




 ノエルと手を繋いでいると、理由はないが安心する。ずっと昔、どこかでノエルと一緒にいた気がする。いったいいつだろう。

 そんなことをゆっくり考える余地もないほど、ノエルの匂いは、先験的な安堵をわたしにくれる。


 陽はとうに落ちた。誰もいない教室で、ノエルとふたりきり。なんだか、胸がざわめく。なにかが起きそうな予感がする。


 そのときふっと、ノエルはわたしの手を放した。それはこれから先の未来を予感させるような行為でもあった。


 でも、未来になにが待ち受けているのか、わたしには分からない。今のわたしにはどうしても思い出せない。


 未来から、ノエルのいる今に、時間を遡ってやってきた。それだけは確かだ。これは夢? でも、ここにある感触は、確かなものだ。


 ノエルはわたしの後ろに立ちこんでいた。わたしは彼に身を預けるように凭れた。彼は両腕でゆっくり、わたしの身体を包み込んだ。そして彼の頭部が、わたしの髪の中に埋まる。

 ノエルがなにを欲しているか、理解するにはそう時間がかからなかった。わたしは彼の腕のなかで小鳥のように身を翻した。そして、彼の顔とこれ以上ないぐらいに近接したわたしの顔。彼の息が唇にかかっているのを感じた。


 わたしも、それを欲していた。彼の息を、そっと閉じるように、唇を重ねた。目をつぶって、はじめての柔らかな触感に、意識を集中させた。


 そのあと、わたしはノエルの前で一糸まとわぬ姿になって、愛を交わした。ノエルもわたしも、その時がはじめてだった。





*





 この時間は、過去へ向かい続けている。わたしがそう認識したとき、もう既に、残された物語は長くなかった。過去へ向かい続けるのなら、ノエルが消える瞬間が訪れるのだ。


 薄暮の側道。彼は自転車をこぎ、わたしはその荷台に腰を下ろして、彼に寄りかかっていた。涼風が、ノエルの匂いを際立たせていた。

 たしかにノエルはここにいる。わたしにとって、もっとも嬉しかった日のことだ。けれど、今のわたしにとっては、名状しがたいほど苛酷な日だった。


 すこし通学路を離れたところで、わたしたちは自転車をとめた。春には桜の綺麗な遊歩道だ。


「なあ、カリン」


 彼は期待を胸いっぱいにしている。その静かな緊張が、空気を伝わってわたしの胸に伝わる。それはしかし、凶兆のざわめきを伴ってわたしのなかに響いた。


「いつもおれ、下の名前で呼んでるけどさあ、……カリンは、どう思う」


 それにわたしは、あの日そうしたように、こう答える。


「わたしは、嬉しいよ。仲良くしてくれてるんだなって」


 ノエルは静かに微笑んだ。いつもの豪快な笑いとは異種の、張りつめた心情から生まれる笑み。


「だったらこう言っても、怒らない?」


 わたしは、ノエルの顔を見られない。心の水面が大きく波打つ。


「カリンのこと、好きだ。おれと、付き合ってくれ」


 わたしのなかの何かがが爆発しそうになる。嬉しさと、恐怖と、希望と、絶望と。

 けれど、色とりどりの感情を一切なぎ払うように、わたしはノエルに向き合った。



「わたしでよければ、付き合って」



 思い出の中にあった、あの日と同じ台詞を口にした。


 両目に湛えた涙が、瞳からこぼれ落ちそうになった。

 ノエルはそれを察してか、わたしに静かに歩み寄って、あの日と同じように、わたしを包み込んだ。


「よかった。嫌われたらどうしようかと思ったよ。カリンのこと、好きでよかった」


 わたしはノエルに泣いているのを隠すように、彼の背に手を回し、涙を彼の服に押し付けた。


 それが、彼との最後の思い出になった。




*




 飛び起きた。自室のベッドの上だった。デジタル時計は、2007年5月7日の午前6時をさしていた。


 わたしは、また頬を濡らしてしまった。どうすることもできない運命に身じろぎするように、次々に涙が溢れ出ていく。


 ――こうなることは分かっていたんだ。けれど、なんでこんなに悲しいんだろう。


 ふと、時計の横に置いたままのスイートピーが目に入った。紫色の花びらが、ところどころ萎びて、変色していた。枯れかかっているのだろうか。


 ――素敵な思い出になるとええのう。


 スイートピーをわたしに譲ってくれたおじいさんの台詞が、脳裏によみがえる。


 ――素敵な思い出、か……。


 わたしはその日、こう思うことに決めた。ノエルとの日々は、思い出だった。思い出の日々は、わたしの胸のなかだけに存在するのだ。


 忘れてしまおう。このスイートピーは、たしかにわたしにいい「思い出」を見せてくれた。けれども、それを「思い出」として受容するように言っているのだ。あれは過去じゃないんだ、ノエルと過ごした日々は、わたしの人生とは関係ない、夢のような「思い出」なのだ、と。


 わたしはそれで、すこし前進できたように思えた。



 枯れたスイートピーは、ひっそり庭に捨てた。









 ***



 2020年5月の街中は、オリンピック目前のにぎわいを見せていた。けれどわたしの店は、街から少し外れた公園の近くにあるので、あまり人通りもない。郊外にひっそりと息づく、ちっぽけな花屋だ。


 それでも、近くには学校や会社もあり、朝方は道行く人とよくあいさつを交わす。


 きょうは、なんだか雲行きが怪しかった。今にも雨が降りそうな、不穏な空。

 わたしの予感は正しかったらしく、夕方、大粒の雨が雷を伴って一気に降りだした。

 ちょうど高校の下校時間と重なっているらしく、生徒たちがひとかたまりになって、逃げるようにアスファルトを駆けて行った。


 そのとき、幽霊のように、雨の中をふらふらと歩む女子生徒を見つけた。


 わたしは思わずその子を呼び止めた。なんだか、覚えがあるようないで立ちだったからだ。


「お嬢ちゃん、風邪ひくよ、こっちに入ったら」


 少女を中に入れて、バスタオルを渡した。すると雨に濡れた頭部を服より先に、目元をおさえて嗚咽をもらした。


「ごめんなさい、あたし、悲しくて……」


「なにがあったの?」


 少女は、両目に強くタオルを押し当てた。苦しげな嗚咽が、いっそう彼女の不憫さを際立させた。彼女の身に辛いことがあったことを察するのは容易かった。


 少女の肩に、やさしく手を添える。


「きっと、耐えがたいことがあったんだね。わたしも昔、お嬢ちゃんみたいに、とても悲しいことがあったの。悲しいことは、お嬢ちゃんの頭からとうぶん離れない。何年もの間、あなたを苦しめることになるかもしれない。でもね、どれだけ思い出が辛くても、それを忘れなくたっていいんだよ。いまは忘れたいほど辛い記憶でも、あなたを強くしてくれるからね」


 ――きっと少女は、大切なものを無くしたのだ。


 そう感づいたわたしは、紫色のスイートピーを持ってこようと思った。蕾をつけた鉢植えが、店先に出ている。それをひとつ、少女に譲るつもりだった。



 今度のスイートピーは、どんな思い出を結ぶだろうか。きっと、忘れられない軌跡をつくるはずだ。


 思い出を思い出として、しかと認めたとき、信じられないような瞬間が訪れるのだ。たとえば、13年前、庭に埋めたスイートピーが、ふたたび芽吹いたように。






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