第一章

 朝五時半。ヒヤマ・リョーはベッド上で、自分の左手のひらを見つめていた。手のひらの表面には、小さなホログラムディスプレイが投影されている。投写元は左手首に巻かれている腕時計のバックルだ。


 ぼんやりと浮かび上がっている映像を、リョーは右手人差し指で、上へ弾いた。投影されているディスプレイの内容がスクロールし、今朝までに届いたメールが、眠気をたたえたナッツ色の瞳に飛び込んでくる。スパムメールの中に、知った差出人のメールがあったので開封した。


 『リョー。カクイだ。直ちに木星の、僕のオフィスに来い。検診を受けるんだ。肺の七割を失ったんだぞ? どうせタバコで真っ黒になった肺がまるごと新品になって、一石二鳥とでも思ってるんだろうがな。それと書きたくなかったが、妹さんが心配して、僕に電話してきた。太陽系外に出ずっぱりの君とコンタクトが取れるのは僕だけだからな。いいか? 太陽系標準時の六月十二日、午後八時までなら僕は木星のターミナルにいる。絶対に来い。――――カクイ・ボルストラップ』


「ケッ。偉そうに」


 そう悪態をつくとリョーは手のひらをグッと握った。投影されていたホログラムは手の動きに連動して消滅する。彼は起き上がり、ベッドの上であぐらをかいて大きく伸びをした。ボサボサの黒髪は寝癖でさらに跳ね返っている。その様子を反映するかのように、彼の居室は狭く家具も少なく、殺風景だった。リョー自身が無頓着なのもあるが、彼ら星々を巡る傭兵達が短期賃貸アパートを好んで借りるのもあった。明日には別の星へ異動するよう辞令がおりることも珍しくない。持ち物は最低限度にし、常に身軽なのだ。彼の今の部屋も、数日前に家主が殉職したから借りられたのだ。


 リョーはベッドサイドの灯りを点ける。ランプが彼の二の腕の浅黒い肌と絞り込まれた筋肉を一瞬照らし出す。枕元に置いてある灰皿に手を伸ばし、起き抜けに火を点けたタバコを口へ運んだ。


 軽くふかし、口の中へ紫煙を送り込む。そしてゆっくりと鼻孔と、唇の隙間から漏らしていく。蜂蜜の香りがタールと共にべっとりと口中に張り付く。眠気が霧散し、脳が起動してきたのを実感する。


「仕事か……」


 リョーはシャツの胸元をさすった。半年前に行った、肺移植術の傷痕が残っている。今時手術痕が残るなぞ到底ありえないのだが、安い闇医者にはありえた。


 ベッドを離れ、口先から灰をボロボロ落としながら冷蔵庫へ向かう。開けると、中には皮が真っ黒くなって変わり果てたバナナが一本。リョーはそれをひっつかみ、べろりと皮をむいた。中は真っ白だった。


「おお、ラッキー」


 何か良いことありそうな予感がした。今日は復帰後初の任務であるから、適当に一日目は流そうと思っていた。だが、瑞兆を見てから不思議とやる気が出てきた。


 口の中にタールと蜂蜜の香り。そしてバナナの甘さが混交する。普通なら食い合わせに辟易するところだったが、バナナが本来持つカロリー以上のエネルギーを錯覚した。



「よお。リョーじゃねえか」


 現場で、リョーは背後から声をかけられた。五年、共に任地を巡っている馴染みの仲間である、ジャイルズだった。


「おう。生きてたか」

「お前こそ。元気そうじゃん。大丈夫だったのかよ」

「見りゃわかんだろ」


 そう言ってリョーは、胸の辺りを軽く叩いて見せた。防弾チョッキのセラミックプレートがコツコツと鳴った。


「病み上がりだからって、サボるなよ。今日はもめそうだ」

「いつだってそうだろ」


 今回の任務は、固体窒素採掘施設閉鎖説明会の警備である。労働者相手のこの手の説明会には悶着はつきものだ。働き口がなくなるだけでも大ごとなのに、経営側が余計な事を告知して火に油を注ぐのは目に見えていた。だからこそ、リョー達傭兵を擁する民間警備組織を雇ったのだ。労働組合にとって、喉元に刃物を突きつけられた気分だろう。


 施設の催事用大ホールで行われた説明会は予想通りの流れだった。経営側は固体窒素のシェアで他社に負けた事、鉱区開拓によって価格を抑えようにも割に合わない事などを説明。その他諸々、彼らの都合で資産と事業の整理をするというのだ。


「労働者の寮はどうなるんだ」


 作業者の一人が声を上げた。


「寮も会社の資産であり、施設の付随設備である。よってしかる期限を設けるから、立ち退いて欲しい」


「健康保険や、年金はどうなるんだ」


「福利厚生制度は現地法人の総務課独自の仕組みなので、我々は関知していない。今のところ、現地法人は整理のため解体される。我々はその法人に委託しているだけなので、支払い義務はない」


「そんな馬鹿な!」


 端から見ていて、リョーは虚しい気持ちになった。彼ら鉱夫の親世代は、血と汗でこの鉱区を掘り進んだ。その努力や未来が、目の前で潰えようとしているのだ。リョーも所詮は傭兵。争いやいがみ合いが絶えないとはいえ、半年前のように体がどこか壊れれば用済みだ。たとえこの場で死んでも、雀の涙ほどの保険金しかおりない。


 経営側への労働者の罵詈雑言は止まらなかった。壇上のスポークスマンは暗澹たる感情を表面に出していたが、それは彼の仕事だった。後ろに控える『現地法人』の社長や親会社からの幹部らは涼しい顔をしている。


「…………」


 ホールが怒声に包まれるにつれ、リョーは心臓の鼓動が高まるのを感じた。決して彼らに同情し、義憤に駆られたからではない。鼓動は次第に早まり、若干の不快感を伴いだした。


「どうした? リョー」

「……ヤニが切れてきた」


 リョーは自分で言った言葉を頭の中で否定した。確かにニコチンが切れて落ち着きを失う事は今までもあった。だがそこはプロの傭兵として、同僚に気遣われるほど表情に出すような事はなかった。今までは。


「ほれ」


 そう言ってジャイルズから渡されたのはニコチンガムだった。


「いるかこんなクソまずいモノ。お前禁煙してるのか?」

「室内だぞ。吸えるかよ」

「俺は吸うね」


 リョーは胸ポケットをまさぐり、金属製のシガレットケースを取り出した。が、蓋を開けると、血みどろになったタバコが、ぐしゃぐしゃになって入っていた。


「……半年前のまんまか? いよいよだらしねえな」

「クソッ」


 血だらけのタバコは半年も忘れ去られ、紙にはカビが生えて腐っていた。彼は下唇を噛み、足先をカツカツと踏みならし始めた。


「お前、そこまでニコチン中毒だったか?」

「違う。なんか……おかしい」

「おい? 大・じ・・ょ・・・う・・・・ぶ・・・・・か・・・・・・」

「大丈夫? 大丈夫っていったか……?」


 聞こえる音が全て、くぐもってゆっくりに聞こえはじめた。リョーを向いて喋るジャイルズの口元が、ゆっくりと動く。


「…………! ……ッィィィィィィィン――」


 何故そんなにゆっくりと喋っているのか? 気がつけば声に変わって耳鳴りがしていた。


その耳鳴りも、次第に感知出来なくなっていく。心臓の拍動だけが、それを覆う胸骨を伝って頭蓋に響く感覚だけ。その振動も、まるで長距離を全速で行軍したときのように激しい。


 これはまずい、とリョーが直感したその時。心配そうに顔をのぞき込むジャイルズの背後で、何かが弾けた。


 閃光と、それに追随する衝撃波が大気を震わせるのを認識する。至近距離で何かが爆発するのを見るのは初めてだ。リョーは殺気を帯びた金属片がゆっくりと近づくのを凝視した。


 この感覚が走馬灯なのか。半年前、胸に被弾したときは熱く苦しく、口から鼻から血を噴くばかりだった。今し方目の前に迫る、あの破片が頭を直撃すれば、そんな思いもせずに済むだろう……そう考えた。


 冗談じゃない!


 リョーの脳裏を生存本能がかすめた。こんなところでくたばってたまるものか。理性は死ぬ気かもしれないが、元々リョーの理性なんぞはニコチンで使い物にならなくなっている。一度は死にかけたことで弱気になり、突然理性が理性らしい仕事をやり始めたことに、彼の野性は憤慨した。


 リョーは再び破片を凝視した。目測十メートルまでにせまっている。爆速が秒速八キロと仮定したリョーの戦闘経験は、顔面までの到達時間を千分の一秒とざっくり算定した。彼は自問した。千分の一秒って、動けるのか? と。


 動いた。指が普通に動いた。グーチョキパーと、今この瞬間にも一人でジャンケンが出来るほど滑らかに指が動く。それを確認したリョーは、体を思いっきり横へ蹴り出してみた。信じられないことに、死の淵に立っていない平時と変わらぬ動きがとれた。あまりのことに彼はそのままバランスを崩し、床へもんどり打って転げた。衝撃波がやってくるのを思いだし、彼はヘルメットの気密ボタンを引っぱたいた。ヘルメットは直ちに頭部を保護しようと起動する。衝撃波が見える。ヘルメットのシールドが展開するのが異常にゆっくりに感じられる。この機構の展開速度のカタログスペックはいくつだったか? そんなことを思い出せるわけなかった。なぜなら、誰も『爆発した後に対応してシールドを展開しよう』などと考えないからだ。


 衝撃波と破片が辺りを蹂躙する様を、リョーはヘルメットの中から直視してしまった。ジャイルズの体が切り刻まれ、先ほどまで自分がいた場所へと吹き飛ばされている。衝撃波は近場の肉体を次々と破壊する。一平方センチあたり四、五キロの加重が瞬間的にかかるのだ。目や鼓膜のような軟組織は簡単に潰滅する。


 リョーの体をついに爆轟が包んだ。体が見えない金床に叩きつけられたような感覚に陥る。ヘルメットのシールドを展開して、頭部を外気と隔離していなかったら、眼球が破裂していただろう。


 体の転倒が落ち着いた頃、リョーはゆっくりと顔を上げた。

 舞い上がる粉塵と、阿鼻叫喚の形相で駆け出そうとしている労働者達が目に入った。皆血みどろだった。


 いまだ、リョーの頭は走馬灯に浸っているようだった。全てがゆっくりに感じ、音は心臓の拍動する轟きだけ。自分の理性ながら、なんて臆病なんだと、彼の野性はまた憤慨した。


 周囲に降り注ぐ金属片やガラス片が、光を反射してギラギラと輝く。気のせいか、その輝き一つ一つが異常に眩しく感じる。次いで、視野までが狭まってきた。ライフルのグリップを握る手にも力が入らない。震えているようだ。そして――。


「嘘だろお前……」


 リョーは失禁していた。任務用のアーマースーツは容易に着脱が出来ないため高分子ポリマーを詰めた簡易トイレが装備されているが、まさか戦闘中に漏らすとは思っていなかった。


 明らかに気が動転している。百戦錬磨だったハズの自分を信じていたが、この現状からハッキリ言えるのは、ビビってチビっている。それだけだった。

 もう起こったことは仕方がなかった。とにかく、今もこうしているうちに狭まる視野と、激震する心臓をなだめなければならなかった。いつもこういう時はどうしているのか。


 股間のトイレパックから感じられる尿の温もりが集中力を削ぐ。

 リョーは先ほどポケットに押し込んだ、腐れタバコを取り出した。一緒に入っていたオイル式のライターも血でカピカピになっていたが、問題なく役目を果たした。一息に吸い込んだ紫煙の味は、生ゴミを口に含んだような味だった。


「――ィィィィィィィン!」


 耳鳴りと共に、聴覚が回復する。次から次へとイヤーピースを通して無線が、先ほどまでくたばっていた鼓膜をたこ殴りにしてくる。それと共に心臓の拍動がとんでもない事を改めて自覚した。


「――! ヒィーッ! ひっ……」


 肺に空気が無かった。どうやら、今まで呼吸をしていなかったらしい。タバコを吸ったのも、ただ吸っただけで、吸い込んではいなかった。


「か、勘弁してくれ……っ」


 リョーは爆発の煙収まらぬ床を這いつくばり、呼吸をしては一服し、匍匐前進しながら遮蔽物を探した。


「二時方向! 敵二! 応射!」

「VIPを守れ!」

「メーデーメーデーメーデー! テロ発生! 現在交戦中、応援頼む!」


 部隊無線の内容が理解出来るほどに、リョーは回復してきていた。彼は体を起こし、ライフルの状態を確かめた。弾丸を装填し、問題ない事を確認すると、安全装置を外した。


 テロ勢力はホール天井から撃ち下ろすかたちでいる。低所にいるリョー達は、遮蔽物もなく不利だった。


 リョーはスコープをのぞき込み、ホール屋根の採光窓から身を乗り出す人影を見つけるや、即座に発砲する。不意打ちすら抜け出せて撃ちあいに持ち込めたなら、返り討ちにできる自信をリョーは持っていた。


 午前十時。十分後に応援が到着するまで、走馬灯も回っていないのに時間がゆっくりに感じられた。

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