この世に永遠は存在しない

蚊帳ノ外心子

1.グウェツェフト学園

「はぁ・・・・・・! はぁ・・・・・・! はぁ・・・・・・!」



 石畳の道路をペタペタと裸足で走る少女が一人。


 色素の無い長髪をなびかせて前と後ろに布をあてがって紐で結んだだけの、服とは呼べない格好で少女は後ろを気にしながら走った。




 既に帳が下りて幾時間。


 街灯の灯りが連なる静寂の街にて男三人はようやくその少女を探し出し、後は捕まえるだけとなっていた。


 少女が角を曲がった。



「あっ」



 そこは建物の間、ゴミの散乱する細い路地裏で大人一人が通れる狭さだった。



「ん?」



 そしてそこには既に先客がいた。あまり身なりがいいとは言えない男だった。


 しかし少女はその男を一見しただけではあったが、男の後ろに隠れるように回った。



「!? 殺せ」



 三人の男は曲がった先に見えた男とその後ろに隠れる少女を一瞥するとすぐさま一人が命令を下し、もう一人の男が懐からナイフを取り出す。


 そして「殺せ」と命令した男が顎を使ってもう一人を路地裏の反対側に回らせる。




 男は動かない。


 ただナイフを持つ男をジッと見る。


 ナイフの男もタイミングを見計らいおおよそ素人ではない速さで抱きつくように刺しきった。



「!?」



 しっかり刺したはずだった。皮膚に食い込む感覚も得ていた。しかし手応えがない。


 驚いて手元を見るとナイフの切っ先がまだあるのだ。


 慌てて間合いを取るもその男の右腕が振りかぶっていた。


 左のこめかみに拳が入り、その拳の惰性で頭ごとレンガ造りの壁を壊してめり込んだ。



「!? チッ――」



 後ろの男も驚くがそれよりも早く拳銃を抜いて彼に向ける。



 パン! パン! パン!



 乾いた銃声が静寂の街に響いた。





「な、なんだ貴様は!?」



 両手を組み、大きく上方に振りかぶった腕はあまりの出来事に後ずさりするしかない拳銃の男の頭頂部に勢いよく振り下ろされ、頭が地面に叩きつけられると反動で首から下が浮いた。




「あ、あのっ!」



 後ろを振り返ると既に逃げ去ったと思っていた少女がまだいた。



「あ、ありがとう・・・・・・・・・ございます・・・・・・・・・・・・・・・」



 聞き取れないほどの小声でしかも俯いて感謝を述べる少女。



 タッタッタッタッ



 反対側から足音が聞こえる。



「クソッ――うぅッ!?」



 反対に回った最後の一人は男の生存と仲間の死亡を一瞥するとすぐさま拳銃を抜いて男に向けるもすぐに苦しみだした。



「うぅ・・・・・・・・・あぁッ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ああ・・・・・・・・・!!」



 首を絞めつける何かを振り払おうと手を首元に当てるもそこには何もない。


 やがて男が苦しむこともなく、だらんと腕を垂らすと力なく地面に伏した。



「やれやれ、お前さんがこの件に首を突っ込むとはな」



 男にとってはつい昼間に聞いた老人の声。



「ミア!!」



「ステフ!!」



 そしてその老人の隣、茶髪の女性が現れると少女はすぐさま駆け寄った。



「ごめんねミア。私が至らないばかりに・・・・・・・」



 抱擁を交わす二人を尻目に老人は男に近づく。



「借りが出来たね」



 ニッコリと白髪の老人は歯を見せて笑う。






 翌日。



「はぁ・・・・・・・・・昨日の事、忘れてくれる?」



 足元を見せないための板が貼られた机といかにも高級と思わせる椅子。


 執務をするためのその机に座るのは白髪の老人。


 顎にはたっぷりと蓄えた髭が胸の辺りまで伸びている。


 背後には大きな窓とその先の芝生ではしゃぐ子どもたち。


 両脇にはこれでもかと本棚が並び、そこにぎっしり隙間なく埋まっている本の数々。


 本棚の上にはほこりを被った動物の頭蓋や何かの薬品、異文化の品もあったりした。



「無理でしょうね」



 身だしなみが整っていない男はそう返した。


 「はぁ」とため息を零す老人はゆっくりと立ち上がり、その藍色のコートをひるがえして男に近寄る。



「じゃあ、黙っててくれる代わりに、ここで働いていいよ」



 昨日、ここで言われたこととは正反対だった。


 男の名はケイジ。


 身なりからしてあまりいい出の者ではないのは誰から見ても分かる。


 そんな者が昨日、ここグウェツェフト学園の教師になりたいと言ってきた。


 当然、学園長である白髪の老人、ヴェルター学園長は一瞥しただけで追い返した。


 が、しかしその晩にてケイジは見てはいけないモノに触れてしまった。



「じゃ、仕事の内容はステフくんから聞いてもらって。ステフくん!」



「はい!」



 観音開きの扉がギギギと開いて女性が入ってくる。



「ではこちらに」



 昨晩、少女と抱き合っていた女性だ。




 グウェツェフト学園。


 創立五百年は優に越える。数多の貴族がこの学園で学び、卒業していった。


 そう、ここは俗にいう名門学校なのだ。


 帝王学、地政学を六歳の幼少より教え込み、十三年掛けて立派な跡継ぎに育て上げる。


 しかし、ここグウェツェフト学園最大の強みはそこではない。


 最高位の〝魔導〟を思う存分学べる所だ。


 事、魔導に関しては天性の才を持つ者が優位に立てる世界。


 そのため古代より魔導もとい魔導師は生まれながらにして決まるものと思われてきた。


 しかし初代学園長リーリヤ・ゴルゴノヴァにより、幼少より魔導に触れ、学ぶことでその差を埋めることに成功させたのだ。


 その後五百年、数多の貴族と数多の著名な魔導師を輩出し続けた。



「そして近年では貴族のみならず平民の出でさえも魔導に才がある可能性がある子なら入学を許可するようになりました。これは史上初です! そのためにも、ケイジさんには充分、じゅ~ぶん! 品格のある立ち居振る舞いをしてもらい、貴族と対等に、平民からは模範となるように行動してください」



「え? あ、はい」



 前を歩く、カールの効いた茶髪の女性――ステファニー・ファン・デ・マクスマフ――はその適当な返答に立ち止まって踵を返し、メガネの奥から彼を睨む。



「とにかく、まずはその服を替えます」



 呆れ顔のステフは学園長の部屋がある棟の隣、学生寮と思しき建物に入ってすぐ右にある扉を開けた。



「ここがあなたの部屋です。と言っても仮眠室を寝泊まりする場所に変えただけです。そして今日からはこの服を着てください」



 学生の部屋にしては広く、置いてある家具もそのスペースを存分に使っているようで大きな物が多い。


 中央に机、そこに四脚の椅子を配し、奥には台所が居座っている。


 反対を見れば書類がぎっしりつまった棚とその隣にカーテンで仕切られた空間は仮眠室だろう。廊下との間に窓口となるガラスの仕切りまである。



「ここは寮長の監督室となっています。ケイジさんにはここに居候する形をとってもらいます」



 机に置かれた真新しい服を彼女が手に取り、ケイジに渡す。



「この服に着替えてください。あ、違います! これから仕事に就いてもらうのでこっちの服です!」



 その高級なシャツとスーツとコートはすぐさま戻され、机にもう一つあった服を渡す。



「最初のお仕事は便所掃除です!」



 そうにこやかに渡されたのは年季の入った作業着だった。




 時刻は昼。


 学生は廊下に食堂に外にと時間の決められた中で一日で一番長い休憩を満喫していた。


 そんな中、ある廊下にあるトイレの前に看板が立っていた。



「なんだよ・・・・・・ここ掃除中かよ・・・・・・・・・」



 そうボヤく声が廊下から漏れる中、シャカシャカと渡された道具を使って床に壁に便器にと掃除に勤しむ男がいる。


 マスクを着け、年季の入った作業着を着てトイレの隅々までゴシゴシと洗って回る。



「あら、貧民がこんなところで何をしているの? 下見でもしていたの? 盗みの」



「チッ、マクスタの高飛車嬢か」



 何やら廊下が騒がしくなった。



「それを止めろと何度言えばわかるのだッ! ルーファス・バーレイ!」



 貧民と蔑んだ先頭の女子、その隣に付いていた黒髪を纏めた女子は高らかにそう叫ぶも、先頭に立っている金髪の女子は腕を出して制した。



「イルメラ、あれは貧民の挨拶なのです。貴族である私達も、貧民の礼儀作法は弁えなければなりません。ごきげんよう、どぶねずみ」



 スカートをたくし上げて頭を垂れ、その艶で輝く長い金髪から覗かせる顔は最高の軽蔑。もちろんそれに呼応するように相手方の男子達は一斉に懐にあった杖を取り出す。



「おいっ! ここでやりあってもいいんだぞッ!」



「さあみなさん、殺鼠剤の準備はできて?」



 双方杖を相手に向け、いつの間にか集まった野次も含め、廊下は大賑わい。カメラがパチパチと鳴る中、どちらが先に動くかで一時の静寂に入った。



 ダン!!



 しかしその静寂はトイレから響く道具を片付ける音で途切れた。


 男は《掃除中》と書かれた看板を持ち、目の前で今まさに繰り広げられる派閥闘争のど真ん中を通って言う。



「掃除終わりましたんで、どうぞ」




「ちょっと、そこの方」



「あ、俺ですか?」



「ええ、そこの便所掃除の方」



 立ち止まった彼に近づくのは金髪の女子。


 眼の前まで来るとその色白の肌で持つ薄茶色の杖をクイッと振る。



 ガクッ



 まるで上からなにかで押しつぶされた様にケイジは四つん這いを強要させられた。



「まったく、まさかこれほど大きいどぶねずみが巣食っているとは思いませんでした。あなた、貧民の分際でよくのうのうと私達の前を横切れますわね。ここは由緒正しいグウェツェフト学園! 便所掃除をするなら私達のいない時になさいッ!」



「・・・・・・・・・」



 罵詈雑言を浴びせられて尚、彼は四つん這いのまま何も言わない。



「・・・・・・・・・舐めなさい」



 そういって右足を彼の前に差し出す。


 ピカピカに磨かれた黒い靴は未だ新品と遜色なく、しかし磨き込まれているその黒は新品よりも輝いていた。


 ケイジは差し出された右足になんの躊躇いもなく唇を近づけようとした。



 バスッ



「汚らわしいっ」



 勢いよくその右足を蹴り上げ、まさしくケイジの顔面にクリーンヒットするも本当に当たったのかと思うほどケイジは微動だにすることなく、気持ち悪いと見下す彼女の視線が刺さる中、足早に歩いていった。



「・・・・・・・・・行こう」



 相手方だった男子達も気味が悪いと眉間にしわを寄せて反対の方へと歩いていく。


 野次も、カメラマンもその表情は同じ。


 散り散りに盛り上がりも見せずその場の喧騒はなくなった。


 そしてその渦中にいたケイジも、日常を取り戻し始めた廊下で四つん這いから立ち上がる。



「あなた」



 だがまだ彼に話しかける女子が一人。彼女はケイジが振り向くと続けた。



「何者なの?」



 黒髪のツインテール。低身長のおかげか、その髪型に違和感はなかった。



「・・・・・・・・・」



 しかしケイジは何も答えなかった。


 彼女もそれを返答と感じたのか、何も言わずに踵を返して歩いていった。






「困るよぉ・・・・・・・・・」



 うなだれる学園長は大きなため息をこれで十六回は吐いた。


 ケイジが学園長の部屋に招かれて早四十分。会話という会話はほとんどなく、学園長のため息と時計の針の音が耳に入る。



「なんで学生と喧嘩なんてしたの?」



「あれは喧嘩といえるんですかね?」



 それに十七回目のため息を吐いてヴェルター学園長は椅子に深く腰掛けた。



「まあ、便所は今までにないほど磨かれてたからいいとして・・・・・・・・・」



 学園長は今度憂いた表情を持って語りかける。



「貴族、見るの初めて?」



「いえ」



 十八回目のため息。



「休暇あげるからその間にステフちゃんから色々教わってね」



 問題事は起こさないでくれ。と裏に秘めた懇願がそのかすれた声に宿っていた。






「はぁ・・・・・・・・・」



 ステフは大きなため息を吐く。



「ただでさえ、寮長で忙しいのになんで大人の世話なんて・・・・・・・・・ッ」



「聞こえてますよ」



「知ってます! わざとです!!」



 監督室でそう叫ぶもその悲痛は誰にも届かない。



「あの、ケイジさんのご出身はどこなんですか?」



「今で言うゴルルゴートですよ」



「今で言うって――あそこ五百年前からゴルルゴートって国ですよ」



 ため息の止まないステフであったが、机に置いてある教科書を渋々持ち、ページを開く。



「仕方ないです。これからケイジさんには貴族に対する立ち居振る舞いを学んでもらいます」



 時刻は既に夕方。


 校舎で学んでいた学生は寮へと移り、勉学に励んだ身体を癒やすように少しばかり羽目を外していた。


 そんな寮内の喧騒で頭に教え込む人と、頭を使う人とが監督室でこれより数日間、格闘を続けた。






 木漏れ日の降り注ぐ穏やかな天気。


 屋外にあるテーブルと椅子。そしてテーブルにあるティースタンドにはサンドイッチやスコーンが並べられ、黒髪を纏めた女子が紅茶を差し出す。



「ありがとう」



 それを手に取り、一口含むのは艶やかに輝く金色の長髪の持ち主。


 他には先程の黒髪の女子。そして残り二人の女子達がテーブルを囲む。



「リシェンヌ様、少しお耳に入れたいことが」



「新聞部かしら?」



「はい」



 大方予想は付いていると言わんばかりの言い方に黒髪の女子――イルメラ――は手に持っていた新聞を自分の膝に据える。



「先日の事が記事になっていまして、リシェンヌ様の事もあまりいいように書かれておりません。新聞部に対して発刊を止めるように言い渡そうと思っております」



「捨て置きなさい」



「! しかし――」



「俗物に一々神経を使っていては疲れるだけよ。イルメラ、紅茶が冷めてしまうわ」



 新聞は昨日の喧嘩を一面ででかでかと載せていた。


 しかし肝心の内容はというと大の大人に靴を舐めさせるというサディスティックなリシェンヌの話ばかり。


 そしてそれに続く言葉はその大人が以下に気持ち悪いかで終始。


 はっきり言って悪口だ。



「まぁ、わたくしも少々頭に血が上りすぎていました。と、言っても、あの便所掃除の方には敵いませんけどね」



 クスクスとそのリシェンヌの言葉に空気を読んだ様に嘲笑がテーブルから溢れる。



「さ、午後の授業と参りましょう」



 リシェンヌが先に立ち、遅れて周りも立ち上がる。


 気品と優雅が辺りを満たすアフタヌーンティーは残り香を彼女達に纏わせた。




 リシェンヌ・ジルベント・ラングラン


 隣国、ファスランの一地方マクスタを治める家の長女。


 幼い頃より魔導の才を発揮し、三歳の頃には杖を使っての魔導を習得する。


 勉学に関しても頭一つ抜き出ており、天才という言葉は彼女のために存在すると言ってもいい。


 気品溢れる立ち居振る舞い、決して崩さないその笑顔。


 正に貴族という肩書を完璧にこなしている。


 そして世界随一の魔導学校、グウェツェフト学園でもその才は遺憾なく発揮された。


 文武に於いて常に成績上位。


 貴族然とした立ち居振る舞いは更に磨きがかかり、他の貴族から一目置かれた。



「ごきげんよう」



「ごきげんよう」



 彼女が廊下を歩く。


 ただその行為一つであるにも関わらず、彼女の気品を一目見ようと人が群がる。


 もちろん、リシェンヌに続く取り巻きのイルメラ達もリシェンヌの気品に引けを取らない。


 同じ空間であるはずの廊下。しかし彼女が通る空間だけはまったく違った。


 時間がゆっくり流れ、動作一つ一つが艶かしくも美しい。


 しかし――



「チッ」



 その一つの舌打ちが空間を変えた。



「あなたの挨拶は舌打ちなのですか? どぶねずみ」



「高飛車嬢が通行の邪魔なんだよ」



「あら、てっきりあなた達は側溝が廊下だと思っていましたわ」



 ここグウェツェフト学園は最近になって魔導に才があると認められた平民の入学を受け入れている。


 その影響で庶民的な部活も増え、堅苦しい空気だった校内が快活で奔放としたものになりつつあった。


 しかし、それと同時に貴族に対する漠然とした不満を直接向ける者が増えた。



「てめぇらがそうやって追いやってるんだろ!」



 ルーファス・バーレイ。彼もその一人だ。


 パン屋の息子として生まれ、その家柄としては何不自由なく育った。


 そして物心ついた時から魔導の片鱗を垣間見せており、それが性格に大きく関わった。



「貴族には貴族の立場。貧民には貧民の立場というのがありましてよ」



「なんだと・・・・・・俺達は一生貧民でいれってのか!?」



 彼の激昂と共に廊下を衝撃波が走り、それは真っ直ぐリシェンヌの元に向かった。



 パンッ!



「下衆ですね・・・・・・・・・大人の真似事をしていい気になるのも大概になさい!」



 リシェンヌはその〝魔導〟を見逃さず、瞬時に懐から杖を取り出してその衝撃波を弾いた。


 ルーファス・バーレイの魔導は感情に左右されやすい。


 それは五歳を超えた辺りから強くなり、周囲に影響を与えるまでになった。


 自身もその力を自覚し、近所の子供達をその力で屈服させ、束ねた。


 言うところのガキ大将である。


 そしてそれは歳を重ねるごとにある変化を誘った。


 力による屈服は自身を過信させ、服従させることは彼を自惚れさせた。


 そしてその態度は巨視的になっていく。



「たかが貴族の分際で説教してんじゃねぇ!」



 そう、貴族に対する反骨心だ。


 彼自身、貴族に対して恨むような事は一切なく、ましてや貴族と接触するなどというのは今までなかった。


 だが、魔導が誘うその反骨心は貴族というプライドの高い者達に向かった。



「魔導も制御できない矮小な脳を持っていて、よく言えますわね」



 もちろん、そのような反骨心を貴族であるリシェンヌが認めるはずもなく、傷つけに来るそれにプライドが許さなかった。



「てっめぇッ!」



 収まりきらない感情は拳に力を入れ、膨大な怒りはエネルギーに変換されて魔導になる。



「おい、ルーファス。やりすぎだ」



 取り巻きの男子の忠告は既に彼の耳には届かない。


 彼の周囲に火の粉が舞い始め、それは次第に炎として彼を包み込む。



 ダン!!



「掃除終わりましたんで、どうぞ」



「何しゃしゃり出てんだクソ野郎ッ!」



 バシュウウウウウウウウウウ・・・・・・・・・・・・



 炎に包まれ、我を忘れたルーファスはトイレ掃除の終わったケイジに襲いかかろうとするも、バケツに入った水を頭からぶっ掛けられた。



「一応、ここ屋内なんで」



 そう一言、全身ずぶ濡れで意気消沈したように呆然となっているルーファスに言う。



「ちょっと」



「はい」



「廊下が水浸しよ。どうにかなさい」



「かしこまりました」



 その返答にリシェンヌは表情を変えた。



「あら、ちょっとは礼儀を覚えたのね。それじゃあ、次いでにそこのどぶねずみの掃除もお願いできるかしら」



 どぶねずみ、と蔑称されたルーファスであったが、当の本人は膝を落として今にも昏倒しそうなほど体をグラつかせていた。



「えー・・・・・・・・・申し訳ないのですが、わたくしの仕事には――」



「お黙り」



 覚束ない返答を即座に遮り、ケイジにこれ以上口を開かせなかった。



「ふふ、暴走させた挙げ句、返事もできないほど衰弱するなんて――滑稽ね」



 見下すとはこのことを言うのだろう。


 膝の落ちたルーファスを下卑た瞳で見下ろし、その脇を歩いていく。


 ルーファスの取り巻きも何も言えず、ルーファスの肩に手を回して相手を睨むことしかできない。



「あなた」



 水浸しになった廊下をモップで掛けていると声を掛けてきたのは昨日と同じ子。



「最近来たの?」



「ええ」



「ご出身は?」



「ゴルルゴート」



「ふーん、大分東の方ね。ところで白髪の少女とはお知り合い?」



 白髪の少女。


 ケイジがこの学園に入れた理由であり、この学園がひた隠しにしている何か。


 それとケイジを結びつけたこの子にケイジは無言を貫いた。



「ごめんなさい。詮索が過ぎたわ。忘れて」



 無言のケイジを気遣ったのか、あちらから話を止めてくれた。



「ところで――」



 しかし彼女はまだ続ける。腹の底まで探られる感覚にケイジは子供相手に少し構えた。



「この後空いているかしら? もしよかったら少しお茶でもと思って」



 たかだか一日二日の関係をいきなり詰めてきた。


 しかも見知らぬ大人。ましてや教師でもない便所掃除の職員にだ。


 どう答えるか。そう刹那に思ってしまうも、そもそも話すことなど何もないと改まって返事をする。



「あなた、たしか上等部寮の監督室で生活していたわよね? 私、ステフ寮長とはちょっと仲がいいの。もしよかったらそこでお話してもいいわ」



 しかし先に口を開いたのはツインテールの子。


 しかも彼の内情まで知っている。既に彼の腹の底は掴まれていた。



「あ、ごめんなさい。まだ名乗っていなかったわね」



 思い出したように彼女は一歩下がるとスカートを摘んでお辞儀をする。



「リリーナ・ニコラエヴナ・カタリニコヴァ。ソロヴィイの貴族よ」



「ケイジ、です」



 北の大地との異名を持つ大国。大陸の四分の一を統治し、ケイジの出身であるゴルルゴートとも国境を接している。


 過酷な環境のせいか、魔導師が多くかつ質も高い。


 そのため、歴史上の魔導師の半分はソロヴィイ出身という話は有名だ。


 故にソロヴィイ出身の魔導師は敬意と畏怖を込めて《北の魔女》と呼ばれている。


 そんな国の出身である彼女も例に漏れないのだろう。



「それじゃ、私は四時に授業が終わるから、それまでにあなたもお掃除終わらせなさいよ」



「え? いやっ」



 ケイジの返答を待つことなく彼女はスタスタと歩いていってしまった。


 あまりの強引さにケイジはどうすることもできず片手にモップを持ったまま立ち竦んだ。

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