第20話 オリガとニジェン
南の海の果てに、古の言葉で“火を噴く島”を意味する、ユープー国がある。
陸を追われた一族が、
しかし、彼らには敵がいた。
街を襲う大嵐だ。風は、毎年国中に爪痕を残していった。それに加え、数年前には、山が火を噴いた。土地の傷も癒えないうちに、集落には疫病が流行り、閉ざされた社会は一気に衰退した。
海上での栄華も、度重なる災害のせいで、すっかり廃れてしまったのだ。
そんな時代において、国王のラルゴはある決意を固めた。
「わたくし達の兄上は、国を救うため、敵同士だったバンサ国と手を結ぶことにしたのです。交易し、互いの文化や知識を分け与え、血をも交わらせようとした。まあ、結局は失敗したのですけども」
ユープー国の歴史を聞かされていたコチュンは、急に身近な話題に戻ったせいで、ハッと目を瞬いた。
ヒン叔母さんと並んで座る食卓に、華やかで美しいニジェンが座っている。その滑稽さと言ったら、目の錯覚を疑うほどに不釣り合いだった。ヒン叔母さんなんか、起きたまま気絶しているみたいに、呆然としている。
コチュンは自分を落ち着かせるためにも、深く息を吸い込んだ。
「すみません、まだ頭の整理が追いついていないんです。まさか、オリガとは別に、本物のニジェン様がいるとは思わなくて」
コチュンの中では、ニジェン皇后とオリガはずっと同一人物だった。ところが、急に二人は別人だと判明したせいで、コチュンの言葉から、オリガへの敬称が吹っ飛んでしまっていた。
それほどまでに、コチュンの脳みそは激しく揺さぶられてたのだ。
「オリガとわたくしは、双子の姉弟なのです。先代のユープー国王も、兄のラルゴ王も、わたくしたちを見分けるのが苦手でした」
穏やかに笑うニジェンは、オリガと瓜二つの顔をしていた。男女の双子なのに、顔の輪郭や目鼻の位置がほとんど同じ。
強いて言うならば、オリガの方が身体が大きくて、優しい目をしている気がする。
コチュンはオリガの笑顔を思い出して、ニジェンから目を逸らした。
「オリガは、ずっとニジェン様のことを話しませんでした。ユープー国王が、血の繋がっているお兄さんであることも、黙っていました。なので、急に色々言われても、簡単に受け入れられないんです」
「余計な気苦労をかけて、申し訳ありませんね」
ニジェンの言い草から、本当に気の毒がられているのが、ひしひしと伝わってきた。コチュンには、なんだかそれが窮屈に思えて、居心地悪さをぶつけてしまった。
「申し訳ないなんて言わないでください。オリガは、自分は牛飼いだって言って、うちの家畜の世話をしてくれていたんです」
「牛飼い? それは面白い冗談ですね」
コチュンの話に、ニジェンは大きな声で笑いだした。
「昔からオリガは変な子どもでした。どんな勉学も卒なくこなす癖に、いつも城の家畜小屋に篭っては、臭い草に
「わたしには、闘牛の牛を育てていたと……」
「へえ、あの牛は闘牛用だったのですね。丸々太らせて食べるのかと思いました」
「ニジェン様はオリガと双子の姉弟なのに、何をしてたのか知らないんですか?」
コチュンが不思議に思って尋ねると、ニジェンはコチュンの遠慮も吹き飛ばすように、肩をすくめてみせた。
「そんなことを知って何になりますか? わたくしには、ユープー国の未来と、国への奉仕のほうがずっと大切です」
堅苦しい言葉で固められたニジェンの言葉に、コチュンは辟易して、椅子の背にもたれてしまった。
目の前にいる本物のニジェン姫は、オリガが扮していたニジェン皇后よりも、遥かに理知的で、遥かに一辺倒だ。
しかし、新たな疑問が首をもたげる。こんな確固たる自信と使命感を持った彼女が、国の未来を左右する政略結婚に、なぜ双子の弟を影武者として送り込んだのだろうか。
コチュンが問いかけようとしたとき、ウミタカの衆に囲まれて、オリガが姿を現した。その出で立ちは、荘厳な飾りで彩られた、ユープー国の衣装に変わっていた。
黄金色の朝日のような眩しさだった。初めて見るオリガの姿に、コチュンは言葉を失ってしまった。
「ああ、やっぱりその服の方が、お前には似合っているわ。少しは故郷を思い出せるでしょう」
ニジェンが声を弾ませると、オリガは歯がゆそうに微笑んだ。
「微かに潮の香りがします。珊瑚のボタンも、こんなに軽かったのかと驚いています。……でも、こんな雪山で、祖国の服を着たいとは思えません」
オリガはそう告げるなり、ユープー国の羽織を脱ぎ去り、椅子の背もたれに引っかかっていたラムチェに袖を通した。たちまちニジェンの顔つきが変わり、派手な音を立てて立ち上がった。
「祖国の服より、敵国の服の方が良いと言うのですかっ?」
「当たり前でしょう。バンサ国には、もっと遥かに暖かい服があるのです。わざわざ
オリガが嫌味の報復に出ると、ニジェンは目つきを鋭くさせて怒鳴った。
「お前がそんな体たらくだから、わたくしがこんな国に乗り込まざるを得なかったのですよ! それなのに、お前と来たら……」
「姉上が凝り固まった偏見にしがみついているから、おれがこんな目にあう羽目になったんだろう!」
オリガが怒鳴り返した。食卓の上の、水の入ったコップがビリリと震えるほどの剣幕だった。
ヒン叔母さんがハッと息を飲んで身震いした。どうやら、本当に気絶していたのかもしれない。オリガは、身を縮こませて震えている家主の二人に目を向けた。
「コチュン、ヒン、驚かせてしまってすまない。おれの家族には、いろいろ問題があって、静かに会話することができないんだ。少し時間をくれ、こいつらとは外で話してくるよ」
「オリガ、話を逸らさないでください。わたくしは、お前を迎えに来たのです。さっさとこんな国を出て、我がユープー国に帰りましょう」
ニジェンは怒りの覇気を引っ込めて、嘘のように穏やかな口調で語りかけた。しかし、その言葉にいち早く反応したのは、オリガではなくコチュンだった。
「オリガ様、国に帰るんですか?」
「だって、政略結婚は失敗したでしょう? 今は一刻も早く、この
ニジェンがサラリと答えた途端、オリガが目を剥いてニジェンを睨んだ。
「ただで帰れるはずがない。おれは、バンサとユープーの条約を欺いた大罪人だぞ」
「でもバンサ国王は、お前の正体が、ユープー国の第二王子だとは明かしていません。あくまで、影武者の女を嫁がされたという被害を、でっち上げるつもりでしょう」
オリガは、そこで息を飲んだ。
「待て、どうして姉上が、バンサ国の内情を知っているんだ。しかも王宮内部の情報なんて、探りようがないだろう」
「だからオリガは木偶の坊なのですよ。バンサ国宮殿には、とっくに内通者を忍ばせています。必要な情報は逐一仕入れていました。闘牛場での大事故も、晩餐会での事件も、全て知っています」
ニジェンは不敵に微笑んで、自分に瓜二つの弟の顔を舐めるように見た。
「もちろん、オリガがどこに逃げたのかも、すぐに察しがつきました」
「このこと、
「さあ、どうでしょう。それは帰ってから聞いてごらんなさい」
「待ってくれ姉上。これは難しい問題なんだ、軽率に
オリガが反論をぶつけようとすると、黙って聞いていたコチュンが、被せるように声をあげた。
「よかった、オリガ様、無事に国に帰れるんですね!」
コチュンの言葉には、安堵したような、弾けるような喜びが滲んでいた。それを聞き取ったオリガは、言いかけた言葉を飲み込んで、花がしぼむように視線を落とした。
「……姉上、詳しくは、後でじっくり話そう。今は少し、こいつらと話す時間をくれないか」
オリガがしおらしく許可を求めると、ニジェンは怒りで目元をピクリと震わせたが、口の橋を釣り上げて微笑んだ。
「いいでしょう。でも、悠長にしている時間はありませんよ。さっさと済ませなさい」
なんということだろう。笑い方までそっくりだ。コチュンは、ニジェンを見て驚いた。二人の笑顔の、その意味するところはまるで違う。ニジェンのその笑い方には、他人への嘲りや見下しが、色に見えるほど滲んでいたのだ。
コチュンとオリガは、当然のように牛小屋に篭った。ヒン叔母さんは、心臓がドキドキして苦しいというので、休んでもらっている。二人の間を取り持ってくれる人物が抜けてしまい、コチュンは、何から話していいのか迷っていた。
「すまないな、いろいろと迷惑をかけて」
最初に口を開いたのは、オリガだった。
「迷惑だとは思っていません。でも、どうして、牛飼いなんて嘘をついたんですか。本当は王子様なのに」
コチュンが責めるように言い返すと、オリガはしばらく無言になり、ポツリと言葉をこぼした。
「自分では、嘘をついているつもりはなかった。
実際はどうであれ、オリガは心の底から自分を牛飼いだと信じていたのだ。
「だから、コチュンの家で過ごした日々には、一切の嘘がなかった。今までの人生で、一番楽しかった」
「……わたしも、そう思います。ここに来て初めて、オリガを普通の男の子だと思いました」
「だろ。おれも、今が一番、嘘がない」
オリガは口の端を釣り上げて微笑んだ。
自分を皮肉に笑い飛ばしているわけではない、今までの気苦労を笑っているのだ。コチュンはオリガの素直な笑顔を見上げて、頬を緩ませた。
「それにしても、オリガとニジェン姫は双子なのに、全然違う人なんですね。もし本当に嫁がれたのがニジェン姫様だったら、王宮はもっとピリピリしていたでしょうね」
「
オリガが乾いた笑い声をあげた。しかし、コチュンは何も言えなかった。
そんな理由で、性別も名前も、それまでの人生も捨てられ、偽物の姫として異国に引き渡されるなんて。コチュンは、改めてオリガの境遇に胸を痛めたのだ。
「わたし、オリガにずっと側にいてほしい。だけど、あなたの身の危険を考えると……」
コチュンは、オリガの大きな掌をとって話しかけた。
ところがそのとき、二人のいる牛小屋の外から、慌ただしい足音が駆け込んできた。
息を切らせたトギが、顔を真っ赤にして帰ってきたのだ。
「大変だ、戦争が始まるぞ! ユープー国の軍隊が、船でバンサに向かってるってよ!」
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