第7話 牛相撲に、恋をした。

 バンサ国の娯楽といえば、牛相撲うしずもうである。

 広々した土俵の上で、各地から選抜された牛が、角で押し合い、力量を競うのだ。牛には勢子せごと呼ばれる飼い主が付き添い、声を張り上げ戦意を焚きつける。人々は牛の迫力に圧倒され、牛と人との絆に熱狂するのだ。

 コチュンが牛相撲の説明をすると、ニジェンは飛び上がって喜んだ。

祖国ユープーでは、同じものを闘牛と呼んでいた! まさか同じ文化があるとは思わなかったぞ!」

 こんなに高揚したニジェンは初めてだ。コチュンが驚く横で、ドゥンまでもが意表を突かれていた。

「どうやら、お前を牛相撲に誘う提案は、正解らしいな」

「闘牛を見に行けるのかっ?」

 降って湧いた計画に、ニジェンは雷に打たれたようにはしゃぎだした。


 牛相撲を観戦する当日になっても、ニジェンは落ち着きがない。

「くれぐれも、腕を振り上げてガッツポーズしたり、汚い言葉で罵ったりしないでくださいよ」

 コチュンが警告すると、ニジェンは得意げに皇后の顔を作って答えた。

「わたくしはいたって、冷静です」

 ところが、はやる気持ちは、皇后の仮面にも抑えきれなかったらしい。ニジェンは馬車に乗り込もうとして足を踏み外してしまったのだ。ドゥンがニジェンの背中を抱きとめ、ことなきを得たが。コチュンとドゥンは、苦笑いを浮かべずにはいられなかった。

「王宮では、ニジェンのあんな姿は見られなかっただろう。団子、おまえが進言してくれたおかげだ」

 コチュンははにかんで、遠慮がちに頭を下げた。


 牛相撲の観戦は、ニジェンを外に連れ出すためにコチュンが提案したのだ。

 どこにも出ず、四季の景色や娯楽を楽しむ余暇もないなんて、牢獄の罪人みたいだと訴えた。ドゥンは、コチュンの提案に賛同し、牛相撲観戦を、宮中行事として公表したのだ。

 おかげで、国王夫妻の観戦がすぐにピンザオ市内に知れ渡り、牛相撲の会場となる闘技場は、皇帝夫妻を一目見ようと押しかけた市民で、超満員だと知らせが届いている。

 だが、ニジェンはそんな話などまるで聞いていないようだ。ずっと笑みが溢れ続けている。

「あぁ、早く観たいなあ、こんなに気持ちが高ぶったのは、久しぶりだ。こういうとき、女はどんな風にはしゃげばいい?」

 つまり、皇后の姿のまま自然にはしゃぐことができれば、男だとバレずに済むというわけだ。コチュンはしばらく悩んだ末に、身ぶりを交えて答えた。

「嬉しいときや興奮したときには、高い声を上げて拍手したり、飛び跳ねたり、隣の人と両手を握り合ったりします」

 コチュンの脳裏には、トギに祝ってもらった居酒屋での小さなパーティーが思い出されていた。すると、ニジェンはぴょんぴょん飛び跳ねるコチュンを見てから、無遠慮に告げた。

「バカみたいな仕草をしろって言うのか?」

「なら、ドゥン様に教えてもらったらどうですか?」

 照れ笑いから一変、コチュンは声を尖らせて、笑っているだけのドゥンを矢面に出した。少年みたいな皇后と、涼しい顔をした皇帝。そして、般若のような顔をした女中を乗せて、馬車は市内を走り始めた。



 闘技場は立ち見席まで満杯で、嵐の山のようにザワザワと騒がしい。

 皇帝夫妻の観覧席は、土俵の際に建てられたやぐらにある。土俵を真上から見下ろせる特等席で、他の客席からは隔絶されており、許された者しか入れない。もし、ニジェンが雄叫びをあげたとしても、その醜態は公の前には晒されないだろう。

 だが、土俵に牛が入場するやいなや、ニジェンは立ち上がった。

「健闘を祈りますっ!」

 その途端、櫓の下にいた観客たちが、一斉にニジェンを振り返った。皇后が大声を張り上げて応援する姿に、興味津々なのだ。

 たちまち闘技場には、牛ではなく皇后への声援が溢れ出した。ニジェンは、バツが悪そうにドゥンを振り返った。

「うっかり大声をあげてしまった」

「だが民衆には受けが良いらしい。やりすぎない程度に応援してやれ」

 ドゥンは満足げに笑い返した。真剣に応援する皇后の姿が、好意的に受け止められたらしい。

 今回の牛相撲は、ニジェンの気晴らしだけでなく、皇帝夫妻の参拝行事としても、うまく機能している。これで、バンサ国に蔓延する、ユープー国への嫌悪感情も薄れてくれれば、言うことはない。



 同じ頃、コチュンは闘技場の外に並んだ屋台村に足を運んでいた。すでに両手は、皇帝と皇后のための惣菜でいっぱいだ。この食べ物をニジェンとドゥンに届ければ、コチュンも心置きなく牛相撲を楽しめる。コチュンも牛相撲が大好きなのだ。足取りも、自然と軽やかになってくる。

 そのとき、コチュンの肩に、誰かの手が置かれた。

「トギ! びっくりするじゃないっ」

 コチュンを呼び止めたのは、幼馴染のトギだった。串に刺さった焼き鳥を、美味そうに頬張っている。仕事が休みで、彼も観戦に来ていたらしい。

「ニジェン様が観戦に来るって聞いたから、コチュンのことを探してたんだ」

「あたしは仕事で来てるんだからね。今も雑用で走らさせられてたんだよ」

 コチュンは、両手に抱えた食べ物をこれ見よがしに持ち上げた。トギは困ったように笑ってから、自分のまだ口をつけていない焼き鳥を、コチュンに差し出した。

「頑張ってるコチュンが見られて良かった、お疲れさん」

 コチュンが焼き鳥を受け取ると、トギの背後から見慣れない女性が近づいてきた。若い女の子が、飲み物を持ってトギに手を振っている。コチュンは、目をぱちくりさせて尋ねた。

「あの人、トギの知り合い?」

「職場の後輩なんだ。あの子が今日の牛相撲に誘ってくれたんだよ」

「可愛い人だね」

 コチュンは独り言のように呟いてから、連れの女性に向かって会釈した。だが、トギは急によそよそしく振舞って、コチュンの耳元で言った。

「違う、そういう意味の人じゃない、断じて違うからなっ」

「何照れてんのよ。休日に後輩の女の子とデートなんて、最高じゃない。あーあ、羨ましいなあ。仕事で来てる自分が恨めしい」

「だから、違うって!」

 コチュンはトギを茶化しながら、別れを告げて、足早に歩き始めた。デートの邪魔をしたら、彼女に申し訳ない。


 ところがそのとき、コチュンは目の前に飛び出してきた人物と、真正面からぶつかってしまった。コチュンは咄嗟に叫んだ。トギから貰った焼き鳥が、ぶつかった相手の服についてしまったのだ。

「ごめんなさい! わたしがよそ見していたせいで、服に染みが……っ」

 だが、コチュンが謝るよりも先に、ぶつかった相手が踵を返して走り去ってしまった。残されたコチュンは立ち尽くし、折れ曲がった焼き鳥の残骸を見つめた。



「お団子、遅いではないですか。心配して捜索隊を派遣するところでしたよ」

 皇帝夫妻の元へ戻るやいなや、皇后の嫌味に出迎えられて、コチュンは口を尖らせた。

「申し訳ないです。ものすごい人が多くて、行って戻るだけでも大変で」

「牛相撲はもう始まっていますよ」

 ニジェンは椅子に踏ん反り返って座り、コチュンが買ってきた焼豚を一口齧った。対照的に、ドゥンはコチュンに労いの言葉を伝え、ゆっくり牛相撲を見るように告げた。

 コチュンは、待ってましたと言わんばかりに、胸の前で手を組んで返事をした。

「ありがとうございます!」


 待ちに待った牛相撲は、ここ数年で一番と言えるほどの名勝負ばかりだった。体重別に階級が分かれており、軽い階級から、重たい階級へと試合が進んでいく。太陽が傾いていくのと並行するように、土俵に伸びる牛たちの影も大きさを増していった。

 特に、今日の大トリを飾る、最も大きく重たい階級の試合は、闘技場全体が揺れるほどの熱狂ぶりだった。

 西部から選抜された黒毛の大牛と、東部から選抜された赤毛の大牛の相撲である。用心して睨み合ったかと思えば、角を右から左に振りながら、突進し合って力を競う。ジリジリと押し合い、ぐるぐると土俵の上を周り、その度に土煙が舞い上がった。

 牛の尻尾が、祭壇の鈴緒のように揺れた。その直後、赤毛の牛が猛突進した。

 その瞬間、勝負が決した。西の黒牛が踵を返して、尻を向けたのだ。牛相撲は、先に逃げた方が負ける。東の赤牛は、黒毛牛の尻を追いかけ、勝ち誇るように嘶いた。

「やったぁ、東が勝ったぁ!」

 思わず立ち上がって声をあげたコチュンは、隣を見てハッとした。ニジェンまでもが、同じように立ち上がって飛び跳ねていたのだ。

「最高の試合だったな!」

 ニジェンは声を弾ませると、コチュンの両手をガシッと掴んで、ブンブン振り回した。満面の笑みに押されて、コチュンも何度も頷いてしまった。

「はいっ、感動しましたっ。満身創痍なはずなのによく踏ん張りましたよねっ」

「西の黒毛もよく頑張ったな!」

 コチュンとニジェンは、手を繋いで踊るように飛び跳ねた。だが、急に我に帰ると、二人は手を離してはにかみあった。

「すまん、つい調子に乗ってしまった」

「こちらこそ、ご無礼を」

 コチュンは視線を逸らして頭を下げた。仮にも相手はこの国の皇后なのに、まるで友人のように一緒にはしゃいでしまった。それが、急に申し訳なく感じてしまったのだ。

 微妙な空気が漂い始めた二人の間に、ドゥンが咳をしながら割って入ってきた。

「わたしはこれから、皇帝として勝者の牛に勲章を授けることになっている。すまないが席を外すぞ」

「ニジェン様はご一緒に行かないのですか?」

「土俵に上がれるのは、男だけと決まりがあるだろう」

 ニジェンは寂しそうに答え、ドゥンに手を振って見送った。後に残された二人は、ぎこちなく笑いあった。コチュンは、このまま沈黙を続かせないために、言葉を絞り出した。

「ニジェン様も、本当は牛のそばに行きたかったですよね。へんな決まりですよね、女は土俵に上がれないなんて」

「今日は、闘牛を観られただけで満足だ」

 ニジェンはそう告げると、櫓の縁に寄りかかり、盛り上がる観衆を見渡しながら続けた。

「ドゥンから聞いた。今回の牛相撲は、団子が提案してくれたんだろう。本当に、今日は最高だった。こんなに晴れ晴れした気持ちは、久しぶりだ」

 ニジェンはコチュンを振り返り、ふわりと微笑んだ。

「おれを、案じてくれてありがとう」

 赤くなりかけた日差しを受けて、ニジェンの顔は、男でも女でもないような、不思議な美しさを帯びていた。コチュンはその姿に思わず見とれ、言葉よりも先に、手がモジモジと動き出した。

 なにか返事をしなければ。コチュンが急いで口を動かそうとした、その瞬間だ。

 二人の足元から、不穏な音が鳴り響いた。

「何の音だ」

 ニジェンが、下を覗き込んだ直後、櫓全体がぐらりと揺れて、二人の立っている床が斜めに傾き出した。皇帝夫妻のための特等席が、崩壊したのだ。

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