嘘つき皇后様は波乱の始まり

淡 湊世花

第1話 皇后様はついている

 コチュンは、王宮勤めを始めて、まだ一年も満たない新米女中である。歳は十四、全寮制の女学院を卒業したばかり。おまけに、生まれは地方の貧乏貴族で、流行り病で早くに両親を亡くしている。

 恋もまだなら一目惚れも無し。まして異性の裸なんて、生まれてこのかた、ほとんど見たことがない。

 なのに今、コチュンは大理石の浴室に座り込み、長身痩躯の裸の男と向き合っていた。柔らかい湯けむりに目を凝らせば、得体の知れない何かが、目の前の裸体にぶら下がっている。

「ぎっ、ぎゃああああっ!」

 コチュンは仰け反り、大理石の床で大袈裟に滑った。こんなことになるとは全く想像していなかった。なぜなら、コチュンが今いるこの場所は、皇后陛下の浴室なのだから。



 全ては、時を遡ること一刻前。女中仲間のテュシが、コチュンに泣きついてきたことに始まる。

「どうしようコチュンっ、裁縫道具を片付けていたら、針が一本足りなかったの!」

 コチュンは、親友の血の気の引いた顔を見上げた。

 テュシは、コチュンと同じ時期に働き始めた同僚だ。背が高く、サラサラの黒髪をキュっと結んでいて、とても大人っぽい。

 コチュンはチビだし、髪を二つのお団子に結っているし、テュシとはいつも正反対。黄色い女中着だって、テュシのほうが断然似合っている。

 だけど、いつも仕事で騒ぎを起こすのは、テュシと決まっていた。

「テュシは大袈裟だよ。針が一本無くなったって困らないじゃない」

 コチュンは雑巾を絞りながら、そっけなく答えた。なにしろ、片付けなければならない仕事が山積みだ。


 先月、バンサ国の若き皇帝ドゥン様に、海を隔てたユープー国から一人の皇女が嫁いできた。それが、美しい新皇后のニジェン様だ。

 今夜は、ドゥン陛下の姉夫妻が主催する、新皇后のための晩餐会がある。コチュンのような下っ端女中たちは、それまでに宮殿内の掃除を終わらせなければならない。掃除道具を荷車に載せて、引越し業者みたいに王宮中を掃除して回るのだ。

 当然、テュシもそのことは知っているはず。それなのに、コチュンの雑巾を取り上げてまでも、テュシには騒がなければならない事情があった。

「針を探してもどこにも落ちてなかったのよ! きっと、仕立て直していた服に、刺しっぱなしになってるの!」

 切羽詰った様子のテュシに、ようやくコチュンもことの重大さに気がついた。雑巾は返してもらったが、もう拭き掃除に戻る気にはなれなかった。

「その、仕立て直していた服、っていうのは……?」

「ニジェン様の晩餐会用の衣装なのよ!」

 新皇后の、これからお召しになる服に、針が刺しっぱなしとは。いよいよテュシは泣き崩れてしまった。

「どうしようコチュン、もし針がニジェン様のお体に刺さったら、あたしきっと解雇されちゃうわ!」

 解雇で済めば、まだ良い方だ。刑罰を受けても、おかしくない。そんな予感がコチュンの脳裏を横切ったが、さすがに口には出せなかった。もし言葉にしたら、テュシが窓から飛び降りかねない。かといって、このままうやむやにもできない。


 そのとき、コチュンはハッと閃いた。

「……なら、皇后様がお衣装を身につける前に、針を抜いちゃえば良いのよ」

「ど、どうやって?」

 コチュンの提案に、テュシが泣き止んで鼻をすすった。

「もうすぐ晩餐会が始まるでしょ。皇后様はその前に湯浴みをされるはずだから、今ならまだ衣装を持ち出せるかも」

「そんなことできる? あたしたちみたいな下っ端は、国王夫妻の居室には入れないし。もしキラン女中長に頼んだとしても……」

 コチュンとテュシは同時に固唾を飲み込んだ。二人の上司のキラン女中長は、若いがとても厳しい女性である。こんな事情が知れた日には、二人は世にも恐ろしい“お仕置き”を与えられてしまうだろう。

「なんとかして、あたしたちだけで針を抜きに行くの」

「無理だよコチュン。あたしが一人でキラン様に言いにいくよ。今ならきっと間に合うし、お仕置きもそんなに痛くないかも知れないし」

 コチュンはテュシの言葉を置き去りにして、バルコニーに通じる出窓に向かった。ピカピカに磨き終わった出窓から外に出ると、からりと晴れた空が広がっていた。王宮の外壁には、婚礼を祝うための旗が何本も掲げられ、湖のように広いお堀には、咲き終えた桜の花びらが、春色の絨毯を広げたみたいになびいていた。

 その中に、王宮から桟橋で繋がった水上屋敷が建っている。ユープー国からの妻を迎えるために、ドゥン皇帝が建てられた蓮華宮れんげぐうだ。皇帝夫妻は、あそこで生活されている。

「今、皇后様は蓮華宮にいるはず」

 コチュンはバルコニーから身を乗り出して、桟橋の付け根を覗き込んだ。

 蓮華宮は、堀の中に島のように作られた小さな宮殿だ。蓮華宮に入るには、あの橋を渡る必要がある。

 コチュンは目分量で、バルコニーから桟橋までの距離を確かめていた。テュシもコチュンと並んで、桟橋を眺めた。

「ドゥン様は結婚されてから、急に王宮内の警備を緩くしたよね。桟橋にも寝所にも衛兵がいないみたい」

「なら、蓮華宮に行くのも難しくないね」

 コチュンがバルコニーの淵によじ登りはじめたので、テュシは困惑した表情を向けた。

「い、行くって、どうするつもり?」

「あの旗を伝っていけば、桟橋まで簡単に移れるよ」

「嘘でしょ、そんな猫みたいなことできっこないわ」

「テュシは都会っ子ね。こんなの、木登りより簡単だよ」

 コチュンは腕を伸ばして旗の柄を掴むと、ひょいっと飛び移った。テュシは、そんなコチュンをおっかなびっくり目で追いかけ、そわそわと落ち着かない。いくら下がお堀の溜め池とはいえ、落ちたら大変だ。テュシはバルコニーから乗り出して訴えた。

「コチュン危ないよ、そこまでしなくてもいいよ」

「親友のためなら平気だよ」

 コチュンは力強く言い切って、小さな臆病風を吹き飛ばした。腕を伸ばして、二本目の旗にひょいっと飛び移ると、胸を張ってテュシを振り返った。

「ほらね、大丈夫でしょ。テュシは誰にも見られないように、後ろ見張ってて」

 コチュンは勢いをつけると、次の旗の柄に腕を伸ばした。子猫になったつもりで中途なく進み、ものの数分で桟橋の足組を掴んだ。後ろで見守っていたテュシも、小さく飛び跳ねた。


 コチュンは桟橋に這い上がり、そおっと駆け出した。蓮華宮はあまりにも無防備で、まるで大手を広げて、コチュンを待ち構えているようにすら見える。

 だが、コチュンが扉に手をかけると、ガタンと音がした。

「鍵がかかってる。さすがに、ここまで無用心じゃないか」

 コチュンは肩を落とすと、後ろを振り返った。バルコニーに残ったテュシが、控えめに手を振り返した。親友のために、すごすごと引き返すわけにはいかない。コチュンはもう一度、扉が空くかどうかを確かめた。


 そのとき、床下から滝のような音が轟いた。屋敷から、湯気と一緒に水が流れ出しているではないか。

 きっと、浴室からの排水だ。

 コチュンは排水溝の上を確かめると、靴を脱ぎ、太い梁の上を歩きはじめた。排水溝のちょうど真上に、湯気がモヤモヤと漏れる小窓がある。コチュンはそれに狙いを定めた。

 窓の日よけを押し返すと、コチュンの小さな体は、窓枠をスルリと抜けた。

 素足が、ヒンヤリした感触を踏みしめた。乳白色の大理石の床。部屋は細長く、薄い垂れ幕で区切られていた。その裏から、湯の流れる音がする。どうやらコチュンは、浴室内の脱衣所に降りたらしい。

 足元には、脱ぎ捨てられた衣装がグチャっと丸まっていたが、奥の棚は整頓されていた。

 その中に、皇后様が晩餐会でお召しになる衣装が置かれていた。

「きっとあの服だ」

 コチュンは棚まで忍び寄ると、美しい絹の織物を、両手ですくうように持ち上げた。新芽色の美しい布地に、川の流れのような刺繍が幾重にも施されていて、ため息が出るほど美しい衣装だ。

 コチュンはすっかり見惚れていたが、指先にチクリとした痛みを感じて、身を硬くした。

 手繰り寄せてみると、仕立て用のまち針が布に引っかかっているではないか。

 テュシの案じた通りだったんだ。

 コチュンは、衣装を痛めないように針を抜くと、自分の女中服の外側に刺し直した。その指に血が滲んでしまったが、皇后様のお体に刺さらずに済んだと思えば、なんてことはない。


 さて、無事に針は抜けた。あとはここから出ていけば良いだけだ。コチュンは入ってきたときと同じ手口で、窓に戻ろうと振り返った。

 ところが、そのときだ。

「ドゥン、そこにいるのか?」

 垂れ幕で隔てられた浴室から、声が飛んできた。コチュンは息を殺して、垂れ幕の向こうを見た。

 白い湯気がもくもくと立ちこめ、目を凝らしてもよくは見えない。だが、声は淀みなく透き通る。

「火急の知らせでもあるのか?」

 重厚感のある落ち着いた声。皇后ニジェン様のお声だ。

 コチュンが身をひそめる暇もなく、浴室を隔てた垂れ幕が、雲が切れるように開かれた。

 たちまち充満な湯気が脱衣所に流れ込み、その中から、スラリとした足が現れた。褐色の肌に黄金色の長い髪、切れ長の青い瞳がキラリと光った。新皇后のニジェン様が、脱衣所に上がってこられてしまったのだ。

 コチュンは息を止めて、絶世の美女と揶揄される皇后の顔を見た。

 その瞬間、ニジェンの美しい顔が、ギョッと引きつった。

「お前、こんなところで何をしているっ」

 チビで間抜けな新米女中が、許可なく脱衣所に現れたら、皇后様が驚かれるのも仕方がない。

 コチュンは大慌てで膝をつき、ひれ伏した。

「ご無礼をお許しください、これには訳がありまして……」

 コチュンは、ことのあらましを説明しようと、ニジェン様を仰ぎ見た。


 だが、その目線の先に、あってはならないものが飛び込んできた。

 絶世の美女で、この国の新皇后で、ドゥン皇帝陛下の妻であるニジェン様のお体に、男性のシンボルがぶら下がっていたのだ。

「えっ?」

 コチュンは言葉を失った。

 脳裏には、幼い頃に死に別れた父親と、一緒に風呂に入った思い出が、走馬灯のように駆け抜けた。

 今、目の前の皇后陛下に、父の体と同じものが付いている。

「ぎっ、ぎゃああああああ!」

 コチュンは盛大に叫んで仰け反り、足を滑らせて大理石の床に頭を打ち付けてしまった。

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