名無しの異世界喫茶店

深崎藍一

 一章 異世界喫茶店マスターと店員兼生徒編

第1話 異世界喫茶店へようこそ

 僕はある日、夢を見ていた。夢だと分かったのは、僕が見慣れない場所で、慣れない格好に身を包んでいたから。


 黒いスラックス、白いシャツの上に黒いエプロン。これは見まごうことなき喫茶店の制服だ。

 一番上までボタンが留められたシャツに息苦しさを感じながら、周りを見渡す。そして、ようやく自分のこの格好に納得がいく。


 僕が立ち尽くしているのは、カウンターの内側だ。綺麗にガラスコップやコーヒーカップ、お皿などがが陳列された棚を背に、ふと見下ろした手元にはコーヒーミルやドリッパー、コーヒーサーバー、ケトルなどのコーヒーを淹れる為の器具が置かれている。

 

 さらに店内を見渡すと、壁には本棚が置かれており所狭しと本が並べられている。そして、一際目を引くのが壁際に設置された純白のアップライトピアノ。

 ただそこにある、それだけだと言わんばかりの黒と白の二色で構成されたその空間に吸い込まれるように近づく。


 割れ物にでも触れるように、ゆっくりと鍵盤を叩いた。静寂が支配していた空間に軽快な音が一音響いた。

 ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド。音が一巡するまで人差し指で、赤子が遊ぶように鍵盤を叩いた。

 その度に、静寂に割って入った音が弾んで、夢の中だというのに夢心地になった。


 カウンター席が約十席に、四人がけのテーブル席三つに、二人がけのテーブル五つ。

 清潔に整っていて、文字と、音と、コーヒーの匂いだけが支配する空間。うん、僕が描いていた理想の喫茶店そのものだ。

 さすがは夢だね。


 そんなことを考えながら、もう一度カウンターに戻ると、視界に入ったふとした違和感に気づく。

 違和感の正体は、カウンター内側から見て正面。入り口に、張り紙が貼ってあるのだ。

 

「え?」

 

 先ほどはなかったと確信できる、突如とした変化。そして、その違和感に書かれた文字を目で追い切った時、無意識に喉から乾いた疑問符が飛び出していた。

 なぜならそこにはこう書かれていたからだ。


『気に入ってくれたならよかった。じゃ、後のことはお願いするね』


「どういうこと…」


 だ。と言い終わる前に、変化が始まる。


 ただ黒が広がっていたはずのドアの向こうや、ガラス張りの窓から、光が徐々に差し込んでくる。

 そして、よくわからない張り紙が徐々に形を変えていく。


「……」


 発する言葉が見つかる前に、その変化は如実なものとなった。


 ただ闇に塗りつぶされていたはずの、ドアの外にはレンガが敷き詰められている。そして、そこを踏む締めて歩く、人がいる。

 そして、張り紙は形を変え木製のプレートと化し、僕の視界に「open」という文字を映している。

 

 ああ、よかった。こちら側から「open」という文字が見えているということは、まだ「close」なんだなという場違いな感想が、呆然とした頭の中に浮かんだ。


*****************************************



 僕はあの日、急にこの店を手に入れ、元の居場所に生きる権利を失った。


 どうやらこの店がある場所は、俗に言う「異世界」と呼ばれる場所らしい。だって、店の外見上げたらめっちゃでかい木あるし、なんならビルなんて一つもないし。


 僕はあの日、まず一旦ベタに頬をつねった。そして、夢でないことを確認してとりあえず頭を抱えた。

 まさか人生で本当に頭を抱える、という仕草をすることがあると思わなかった。


 そして、たっぷり飽きるまで頭を抱えた後とりあえず、現状把握。そして、今後どうするのかを割とマジで考えた。

 そして、僕が把握した置かれたは以下の通りである。


 まず、僕の現状として持っているものはこの店。そして、当面の間の生活、そして運用資金だけだった。(当面の生活、運用資金は棚の奥に「これで当分の間は大丈夫!」という腹立たしい置き手紙とともに置いてあった。無論その置き手紙は引きちぎった)

 そして、僕の置かれた状況としては、この世界のことを何も知らない、そして生きていく術もない、知恵もないという状況。


 そんな時、店のドアに取り付けられたベルが来客を告げた。何事かと思って振り向くと、人の良さそうな笑みを浮かべた、体格のいい青年が木箱を抱えて入ってきたところだった。


「あの…何か?」


「ん?注文してくれた品を届けに来ただけだぞ。住所も間違いないはずだが…」


 その言葉と、青年が抱えた木箱の中身を見た瞬間、なぜだか僕は悟った。「ああ、僕はここで店を開くしかないのだな」と。

 夢で思った、喫茶店を。

 木箱の中身は、色とりどりの食材とコーヒー豆だった。こちらにコーヒー豆があってよかったな。そんなぼんやりした感想が、僕の頭を過ぎ去っていった。


*****************************************


「いらっしゃいませ」


 カランカラン、と来店を知らせるベルが鳴る。それに呼応して来店を歓迎する言葉を発しながら、コップの整理を中断し振り向く。


 あれから半年。結局僕は、この店のカウンターの中に立っている。怖いからなるべく外には出たくなかったし、この喫茶店という店舗形態は慣れないこの世界の情報を集めるにはもってこいだった。


 まあ、正直今でも慣れないことばかりだ。様々な人に助けられながら生きていってる感じだ。

 なんでこんなことになったのかとか、僕は帰れるのか、とかそんな疑問は今でも僕の中に燻っている。(まあ、諸事情から正直帰りたくはないのだけれど)


 でも、最初の頃はそんなことを考えてる暇はないくらい必死だったし、慣れてきた今でも目の前のお客さんに美味しいコーヒーを淹れることで精一杯だ。

 色々、不思議なことも、嫌なことも、嬉しいことも抱えながら今日も僕の喫茶店は元気に営業中ということになる。


「ナギーーーーコーヒーおかわりーーー」


 そう、本当に元気に営業中なのだ。元気すぎる気もするけれど。


 あ、そうだ。今の呼び声で思い出した。自己紹介がまだだった。僕は天沢凪。この喫茶店。いまだに名前のない名無しの喫茶店のマスターだ。


「ナギーーまだーーー!?」


 どうやらまだマスターと呼ばれる威厳はないようだけれど。


 これから少しの間、僕とこの店に起こる普通かつ時々厄介な日常を、紹介する。美味しいコーヒーを淹れるからそれでも飲みながら、ゆっくりと聞いてくれると助かる。


 

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