15節

「直りましたか?」

 福寿さんは裏庭の縁台に腰かけて私を待っていた。

「原因らしきものは見つかりました。ただ、確認のためもう一度お部屋にお邪魔してみなければなりません」

「部屋に原因があるのですか?」

 何でもないように言ったつもりだが、福寿さんは不安げに返した。

「それを確認するんです」

 私はことさら大事おおごとではないと示したくて鷹揚に構える。

「それよりずっと待っていらっしゃったんですか?」

「じっとしていたわけではありませんよ。花木に水をやっていました」

 庭を春風が軽やかにいた。じめじめとした場所から出たばかりの身に心地よいが、身体を動かしていればぽかぽかしそうな陽気だ。風は細いナンテンの葉をさわさわと揺らしてすぐに止んだ。そのナンテンの他に露地植えの木はない。水をやってもすぐに終わりそうだと見回すと、縁台や敷石の上に、多くの鉢が置かれている。ざっと見ただけで二十ばかりはあるだろう。鉢に植わっているのは、スミレ、アヤメ、……様々な種類の花々だった。いまが盛りのものもあればそうでないものもあるし、私が知らない花もある。なにも植わってない鉢も多い。

 ちょっとした植木屋のようだ。

「それが〇鉢屋の由来ですよ。正確にはわたしたちの由来と言えるかもしれませんが」

 いまひとつ意を汲みきれず、鉢と福寿さんを見比べる。

「そこにある草花は全て、〇鉢屋に籍を置く女の名前の由来なのです」

「福寿さんのも?」

 由来があるのならば、彼女の場合は福寿草だろう。

「ええ」と傍らのなにも植わっていない鉢を引き寄せる。

「もう季節は去ってしまいましたから、いまは引き抜かれて空っぽですけれど……、次の冬に仕入れるまであのままです」

 鉢植えの花。彼女の言葉が鮮烈によみがえる。鉢に植わっている花が彼女の名前の由来となっているのならば、動けやしない鉢の花、とはそのままの意を示していたのだ。鋼索通信や手紙でしかやり取りを許されず、鉢という店から外へは出られない境遇を。その場でしか咲かない花を動けない我が身にたとえて。

「鉢の花が咲くと、その名を由来に持つ女に持たせて、たとえばわたしならば福寿草ですね――一夜に興を添える趣向なんですよ。ずっと前からの〇鉢屋の慣わしだそうです」

 私がそうした彼女たちの姿を目にする機会はないだろう。客ではないというのもあるし、これから先も、私はそういった世界とはとんと接点を持たずに生きていくだろうから。それもあって福寿さんを、妓楼の女という色眼鏡で見ていたわけではなかった。

 が、いまの説明と鉢の存在が、私と彼女との間に絶対の懸隔があるのだという事実を、否応にでも突きつけてきた。あるいはもっと広く対象を取って、世間一般と花街との間の隔たりを見せられた、というべきかもしれない。

「どうかなされましたか?」

「なんでもありません。部屋に戻って修理を続けます」

 私は機関調律師として店に出入りしているが、所詮は部外者。なにも言うべきではないだろう。


 福寿さんの部屋に戻った私は、くぼみを抜けて台座の上に屈みこみ、下から押し上げた二つの異物を探し出す。漆塗りらしい小さな破片はすぐに見つかった。

 また、床の縁の木枠に引っいたような痕がいくつもあるのにも気づいた。この異物を巻きこんだ際に生じたきずだろうか。数が多いから別の要因でついたものかもしれない。しかし――。

 ここで悩んでいてもらちが明かない。先に三つ目の破片を取り除こう。

 一尺五寸の針金を二、三本取りだして、U字型に曲げて束ねた即席の道具を作る。これを台座と床との隙間に差しこんで、U字の底の部分に異物を引っかけ、両端を持って引きずり抜く算段だ。福寿さんはなにも言わずに、くぼみの向こう側からこちらを興味深そうに見ている。

 台座の上で踏ん張りやすいのもあって、異物は針金の束と私の表情を少しゆがめた程度で引き抜かれた。

 出てきた異物を虫眼鏡で観察してみると、こちらの破片は漆塗りではなく鼈甲べっこうのようだ。隙間にがっちり嵌まっていただけあって他二つより大きい。木の枠についた痕に当ててみると、その中の一つとぴたりと一致した。他二つの破片に合う痕も見つかった。少なくとも三つは異物を巻きこんだ際にできた新しい疵なのだ。他の疵もこの三つの痕よりも以前に、同じような状況でついたものと考えていいのではないだろうか。

 福寿さんに心当たりがないか聞こうとして、はっと大きな閃きを得た。

 点検通路の中で浮かんだ疑念と結びついたのだ。今それははっきり掴める形となった。

 私は部屋を飛び出して、また裏庭へ回って点検通路へと駆けだしていた。

 それらは柱のそばに落ちていた。携帯灯に照らされたものを拾い上げる。

 点検中に発した疑いと閃きが明確な実を結んだ。

 しかしそれをどう扱うべきか。

 薄暗い中で少し悩んで決を下し、私は表へ出た。

 そこへちょうど福寿さんが追いついてくる。

「いきなり出ていって、いったいどうされたんですか?」

「修理ですよ。いま終わりました」

「あなたはいつも容易たやすく直してしまいますね」

「それですっかり直ったかどうかは怪しいのですが……」

 福寿さんは顔をしかめた。

「根治はしていないというのですか?」

 この人は理解が速い。だからもう原因も解っているだろう。

「数か月おきに何度も軽い故障を繰り返して、そのつどに直しているでしょう。私を医者にたとえれば、風邪をひいた患者のもとへ往診して治しているようなものです。ですがしばらくすると、治った患者はまた風邪を再発させてしまう。症状は異なりますが、いずれにせよ再発の度に医者が呼ばれる」

 福寿さんがわずかに目を逸らせる。

「なぜ患者は再発するのでしょうか。わざと風邪をひかされているからです。だから医者が治しても、またすぐに出向かなければならなくなってしまいます」

 言い終えてしばらく待っても福寿さんは黙っていた。頭ごなしの否定や、言っている意味が理解できないという返答でないのは、私の発言を吟味しているからだろう。私も言うべきことは言ったと、それ以上は口にしない。あとは彼女が受けるか拒むか流すかだ。

 お互いに沈黙している間中、弱い春風が裏庭に迷い込んでは消えを繰り返す。ナンテンや鉢の草花を揺らして力尽きる風は、行き場を失くした者の最期に似ている。

 それからなおしばらくして、「解っていたんですね」と福寿さんがつぶやいた。

 彼女は受けたようだ。自分が今回の故障を引き起こした原因だと見られているのを。さらにはそれ以前の故障に関しても、全てではないが、そのいくつかについては同じように自分が原因だと疑われているということさえも。

「本当のところはわかりませんよ。ですが福寿さんに強い疑いが残るのは事実なんです」

 私は通路で拾った大きな破片――漆塗りと鼈甲細工の、折れた三本の簪を福寿さんに見せる。

 鋼索通信の稼働中、彼女は台座がせりあがって生じた、台座があった空間に三本の簪を伸ばした。空間に突き出された簪は、搬器を送り出して元の位置に降りてくる台座の下部に巻きこまれる。床と台座に挟まれる形となった簪は、台座が下がる力に巻きこまれてへし折られてしまう。簪は三つに折れる。その一部は点検通路の中へ落ちていき、一部は床と台座の隙間に挟まり、残った一部は木枠に疵をつけて二階に残る。二階の破片だけ回収して捨てるなり隠すなりして、あとは故障したとでも申し出ればいい。店の方では鋼索通信の部屋の主が申告しさえすれば、本当に故障しているのかの確認もせずに電報を打つのだから。

 何本の簪を用意したのかまで裏は取っていないが、複数本用意して、三本の他は彼女が言った通り、鋼索通信で向かいの店の子に贈ったのだろう。それ自体は他意がない贈答だと踏んでいる。

 しかし私はこうしたことを長々と開陳しなかった。折れた簪をただ見せることによってのみ、福寿さんがそうしたのだろうと見ている旨を伝えたつもりだ。なんのことを言っているのかわからない、と彼女が白を切るのならば、こちらもそれ以上の追及はできない。

 破片を見つめる福寿さんは、「そうですね」と答えた。

 私はそれを素直な肯定と取った。意図的に簪を巻きこませたのを認めたのだと。

 その態度から、もう一件も否定はしないだろうと見こんで、正面からぶつけてみる気になった。

「僕にとって最初の故障――弁がずれたのはあなたと関係がないのはわかっています」

 炭屋の運びこんだ俵がたまたまぶつかったのは先輩が確認した通りだ。

「しかし二回目の搬器の蓋が閉じきられていなかった件については、あなたは十中八九原因を知っていて故障と伝えたと見ています。あの時が初めてではないからです。前にも同じ〝故障〟があったと、真砂先輩から聞いています」

 彼女がどれだけの頻度で鋼索通信を介して贈答しているのかは知らない。しかし蓋が閉じない大きさのものを鋼索通信で贈ろうと試みたのは、まさかあれが初めてではないだろう。私に代わってからのたった二か月ほど後に初めて反物を贈ろうとした、というのは不自然だ。おそらくそれ以前にも同じ試みをしていたはずだ。

「自分で考えい」という先輩の言葉。あの言いぶりからすれば、先輩も福寿さんが怪しいのには気づいていたとみられる。あの人も機関に対する違和感があれば事実を追及するだろう。

「なぜ真砂先輩は何も言わなかったのか、それはわかりませんが」

「わたしもわかりませんよ。共謀していたわけではありませんもの」

 彼女の言い分は間接的に、いくらかの故障の原因が自分であるのを認めていた。それに気づかない人ではないだろう。半ば自認していると見てもいい。

「ただ、あの人は面倒臭がりでしょう。簡単な修理でお金をもらえるのを良しとしていたのでは、と憶測しています」

「あるいは私も先輩にならうべきだったのかもしれません――」

 あとは自分で考えい、とまで言われながら、徹底的に調べ上げずに追及したのは、私の正義感の暴走ともいえる。なぜわざと〝故障〟させたのか。先輩はなぜ推知しながらも黙っていたのか。原因はわかっても動機がわからない。

 私はただ、機械を〝故障〟に導く彼女の行動を予見したうえで黙っていられなかった。

「福寿さんがどうしてこんなことをしたのか、私は聞かずにはいられませんでした」

 言ってから、正義感の暴走ではなくて、好奇心の独走といったほうが近いかもしれないと感じた。どうして機械を故障させたのか、という義憤よりも、どうしてそんな行動に出たのだろうか、というほうに興味の軸足があったからだ。

「真砂と違って誠実ですね」

 ふっと笑う福寿さんの顔には嘲笑の色も非難のかげりもない。バカ正直ではない、ということだろうか。

 風がまた吹き込む。

「じっとしているとまだ少し肌寒いですね。部屋で話しましょう」

 彼女はそう言って、福寿草が植わっていたという空っぽの鉢を指先で小突いた。

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