言伝は時計にのせて

蒸奇都市倶楽部

言伝は時計にのせて

第1話「言伝は時計にのせて」

1節

 私は仕事場を目指して北部市を歩いていた。

 一日限りの仕事先となる平岩ひらいわ伯爵邸は、北部市幸町さいわいまちの停車場より徒歩で三十分ほどの位置にある。付近はバスや街鉄がいてつ(帝都市街鉄道)の路線から外れており、私のような公共交通機関に頼るものにとっては不便な一帯であった。もっともこの一帯に住む人々は不便をかこってはいない。北部市では自家用車が日常の足として用いられているからだ。

 とはいえ、いまは通勤時間帯を過ぎたぐらいの時間帯とあって車の往来さえほとんどない。北部市は停車場の近くに広がる店舗を除けば、おおよそどこも閑静な住宅街となっている。


 五件目の塀が尽きた。停車場からたっぷり十五分は歩いている。

 行く手には六件目の土塀が行く手に長々と伸びている。高さ七尺ほどの薄茶色の塀のあちこちには補修の後がうかがえる。頻繁に修繕が行われているのは、屋敷の住人が外へも目を向けていると外部へ示す証だ。

 土塀の屋敷を抜けるあたりで背広を着た二人の男とすれ違う。こんな時間に車にも乗らずどこへ行くのだろう。疑問に思い振り返ると、はたして向こうも同じことを思ったか、こちらをじっと見ており、目と目があう。さっと射るような視線を受けて、なんとなく気まずい思いがした。

 ちょっと会釈してすぐに目を逸らして少し足早になる。

 それから少しして、七件目の屋敷の門扉にたどり着くよりも先に、前方からまた男がやってくる。ここは北部市の住宅街の一角だ。種々雑多な店舗や事務所、社屋が尽きず建ち並ぶ東部市ではない。こうも立て続けに勤め人と行き会うのは珍しい。

 今度の男は真正面から私めがけてやってくるなり、

「ちょっと君、いいか?」

 避けようとする私に向かって、おもむろに懐から黒いものを抜いた。

 表面に国章と〈I.S.P〉の金箔が押捺おうなつされた黒革手帳だ。

〈Imperial Special Police〉――特別高度警察隊。

 それだけで十分なのに、ご丁寧というか、自慢げというか、中まで開いて見せてくれる。男は何某なにがしだかそれがしだか、自分の名を名乗って、

特高とっこうだ。このあたりを怪しい者が出回っている可能性があるので警邏けいらしている。……ところで君はこの界隈で見ない顔だな。話を聞かせてもらっていいかな」

 手帳を錦の御旗のように掲げる男は遠慮も会釈もしなかった。かえって揚々としているほどである。

 怪しい者がいるという話を先に出したうえで、相手に同意を求める形で話を聞かせろと言うのがなんともいやらしい。あなたを疑っていますよと言っているに等しいではないか。こちらに一方的に不快さを与えておきながら、しかしこちらが拒否しにくい状態に持ちこんでいる。こちらが断れば心象を悪くしてしまうのだろう。かといって一般市民にすぎないこちらが特高相手に拒絶の意を示すのは心理的に不安な気にさせられる。

 付き合っても何の得にもならないが、付き合わなければこちらの不利になりかねない。

 そういう点がまことにいやらしかった。

 特高に入隊した先輩に言わせれば、腹が痛くないのなら大人しく協力しておけ、ということらしい。なんとおも親切な白旗の勧めである。

「ええと、私は仕事でこちらに来ております」

 曖昧あいまいに答えてちらりと後ろを盗み見る。さっきすれ違った二人組の男が、ちょっと離れた位置からこちらをうかがっている。そのとき初めて気づいた。彼らも特高の捜査官なのだ。

 北部市は大きな敷地面積をほこる邸宅同士が隣接しあって区画を作っているので、せせこましい小道や入り組んだ路地裏といったものがほとんどない。挟み撃ちが効果を発揮する。あの二人はもともと私を後ろから見張るため先にすれ違ったのだ。

 といっても、私にはやましい点は何ひとつないので、逃げようという気はない。

「いったいなんの仕事だ? 盗人ぬすびとは窃盗を仕事というぞ」

「平岩伯爵邸へ修理をしにいくのです。機関調律師の下積みをしていまして」

 そういって工具一式の入ったかばんを強調してみせる。

「中をご覧になりますか?」

「ああ、当然だ」

 男は鞄をひったくるようにして手に取る。これではどちらが盗人だかわからない。相手が中身をあらためている間に私はおもむろに学生証と学生手帳を取り出す。

「こちらが私の身分です。もしこの学生証をもお疑いになるのでしたら、学生課か大学の工学棟に勤める事務員に問い合わせてみてください。それで大学側が、『そのような生徒は在籍していない』というのでしたら、私が大学から切り捨てられたか、あなたが大学の回答をねじ曲げているかのどちらです」

 苛立ちを隠さず長口上を述べる。男は手にした鞄の存在を忘れたかのように私の手帳に食い入る。その視線の先にも国章が金箔で押捺されている。特高と違うのは、その横に『帝大』の図案が入っていることか。

 私にはこれで大丈夫だという確信があった。

 特高こと特別高度警察隊の上級官庁にあたる特別高度警察庁には、当然ながら我が九重ここのえ帝都大学の卒業生がひしめいている。上層部の子息が帝大の法学科に通っているのもよくある話。

 もしこの捜査官が大学当局に、

『怪しい人間がうろついているという情報をもとに北部市を巡回していた捜査官が、近くを歩いていた男を疑って職質を行いましたところ、貴校の生徒だといって学生証を出しました。しかし偽造の疑いもあるので照会をお願いします。もちろんその生徒が犯人だと決まっているわけではありませんが……』

 など問い合わせようものならば、即座に大学から特高本部へ、

『我が校の生徒を犯人と決まったわけでもないのに質問するとはなんたることだ』

 と抗議が飛ぶだろう。そうなれば帝大卒の上層部から管理職へ、管理職から目の前の男の直属の上司へ、直属の上司からこの男へ、と稟議のごとく順繰じゅんぐりに叱られていく羽目になる。

 普段は人に自らの手帳を見せびらかしてふんぞり返っているであろう特高の捜査官が、人の手帳をまじまじと見つめるのはなかなか珍しい光景といえるかもしれない。不快な質問を投げかけられていた私は、そんな底意地の悪い思いをいだく。

 捜査官はしばらく学生証と手帳を交互に見つめていたが、ようやく得心がいったらしく、

「ナント、帝大さんでしたか。これはとんだご無礼をおかけしまして……」

 先ほどの態度はどこへ吹き飛んだのやら、一転して深々と頭を下げた。

 私は鞄を取り戻し、男には構わずそのまま横を通り過ぎる。本来ならばこうやって知らぬ顔をして行き違うだけだった関係なのを、あらぬ疑いを向けられ余分な時間を食ってしまった。もともと痛くもない腹を探られていたのが元の状態に戻っただけだ。勝ち誇ってもなんの価値もない。

 十一件目の塀――ようやく目的の平岩伯爵邸へとたどりついた。

 伯爵邸は周りの屋敷に比べればいささか小ぢんまりとしているが、それでも他市の住宅などとは比べるまでもない大きさである。邸宅といってさしつかえないだろう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る